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2007.03.31

最も恐ろしいこと

「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」という映画で好きなシーンがある。
美しい乙女だが幽霊であるスーシンと純朴な青年ツァイサンが、一緒に書を書くシーンだ。
幽霊であるスーシンはすぐに消えることになる。
スーシンは「これが私がこの世にいた証し」と言う。

死んでも、自分がこの世にいた証しを残すことはできる。それを望む者は多く、お金や権力のある者は、できるだけ長く人々の記憶に残ろうとする。
世界最高の富豪ビル・ゲイツが長くこの世に名を残すには、大学を作れば良いという意見もある。スタンフォードのようにだ。
新庄が「記録よりも記憶に残る選手になりたい」と言ったが、通常は驚異的な成績を残した選手が記憶に残る。
オリンピックで何度も銀メダルや銅メダルを取った選手が、なおさら金メダルに執着するのは、銀メダリストの印象は金メダリストの1/100でしかないからだ。
人は、かくも自分の存在証明を願うものである。

一方、自己の存在自体が消えるというテーマのお話も実に多い。
「バック・ツー・ザ・フューチャー」では、マーティー少年は過去の世界に来て自分の母親に逢うが、若き日の母親はマーティーに恋してしまい、マーティーの父親への愛情が芽生えず、あわやマーティーは消えるというものがあった。
アニメ「ぴたテン」では、悪魔の少女である紫亜は、天使のような心を持つがゆえに悪魔失格となり、定めに従って消滅しようとする。彼女を慕う人間の子供達は泣き叫んでそれを止めようとするが、紫亜が消えてしまうと、彼女のことをすっかり忘れてしまう。
アニメ「灼眼のシャナ」では、異界の化け物に食われた人間は存在を失い、存在を失った人間は、もともとこの世にいなかったことになり、どんなに親しい親や友人でも、その者のことを憶えていない(というか、「知った」事実がなくなる)。

存在を失うことは、死ぬことよりも恐ろしいような気がするかもしれない。
自分の親や妻や夫、子供、親友が自分のことを全く知らないのである。ありうるはずがないが、もしそうであれば、これほど悲しく絶望的なことはない。
(落ちぶれたスターが、この悲哀をいくらか味わうかもしれない)
だが、そうであろうか?
私なら、無であることに耐える勇気がある。
私はもともと何でもない。私はすでに死んでいるともいえるし、決して生まれてこなかったとも言える。その事実を見えなくするのが心である。心(自我)は幻想を作って、自分が「あれ」とか「これ」であると思い込む。
フロイトは、壊れている人間の本能を補完するために、自我は幻想を作ったとし、岸田秀氏の「唯幻論」もこれを基にしているのだろう。
しかし、すでに死んでいる私はフロイトも唯幻論も超えてしまったのである(笑)。

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2007.03.29

ニュートンの真意

アイザック・ニュートンの、

私は浜辺で遊ぶ子供だった。
時々、滑らかな小石や綺麗な貝殻を拾い上げて楽しんでいたが、真理の大海は手付かずのまま、私の前に広がっていた。

という有名な言葉がある。
これは、一般的には、ニュートンの科学の探求における冷静さや謙虚さを示すものとされていると思う。あのニュートンですら、この世のほんのわずかなことした知ることができなかったと言っていると。
丁度、ソクラテスが「私は自分が何も知らないことを知っているだけだ」と言ったようなものであると。
近代以降であれば、一般的な(我々が普通に知覚できる)範囲ではニュートン力学で十分だが、極微、極大な世界ではそれは崩れ、量子力学や相対論が必要になることが知られたことから、「なるほど。さすがニュートンだ」と感じられるかもしれない。
しかし、そうではないのだ。量子力学や相対性理論すら、滑らかな小石や綺麗な貝殻に過ぎない。
真理の大海と、小石や貝殻はまるで異質なものである。ニュートンは本当はそう言ったのだ。
ニュートンは、小石や貝殻を捨てて、真理の大海に飛び込みたかったのかもしれない。そして、それにトライすることを諦めたのではないかと思う。
ニュートンは、生涯、高い地位を保った。しかし、精神的な障害に悩まされた。彼は一生、小石や貝殻から解放されなかったのだ。

これが、学校も偉い先生も教えてくれなかった真実である。

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2007.03.28

引きこもりの掟

私は、深刻なタイプの引きこもりが増えたのは、ゲーム、インターネット、携帯電話、DVDなど各種AV機器の普及が大きな原因であることは間違いないと思う。
詩人で思想家である吉本隆明氏は、引きこもり自体は絶対的に悪いことではなく、むしろ、自己について徹底的に考えるなど、極めて良い部分もあると言う。同じ意味ではないが、私も引きこもり自体が悪いとは思っていない・・・と引きこもり気質の強い私も思う(笑)。
ところが、引きこもりの方々の多くが、多くの時間をTVゲームやDVDの鑑賞に使っていては何の意味もない。
やることがないなら、何もしなくても良いと思う。
むしろ、何もしないことの良い部分は大きい。ほとんどの人間の活動は、破滅的とまでは言わないが、やらない方が良いものである。
ところで、ゲーテは、「この世で最低のことでも、何もしないよりはマシである」と言っているが、そのこと自体は私も賛成なのである(笑)。だが、悪いがこのことは少し放っておく。
良い活動といったものはない。悪いことをしなければ自然に良いことをやるものである。
同じく、本物を見つけるなんて不可能だ。偽者を拒否することで本物に行き当たるのだ。
人間に愛は理解できない。できるのは、憎むことをやめることだけだ。
行為の問題に戻るが、清らかな心で行う行為が良い行為である。そして、清らかな心とは静かな心である。
清らかでない心が行う行為は作為である。荘子は、一切の作為をするなと言った。そして、無為であれと言ったが、作為を離れた無為は優れた行為である。これを荘子は無為の為と言ったが、やや解説が足りなかったようだ。

引きこもるなら、真面目に引きこもれと言いたい。引きこもり自体は良いことだと、本人も家族も知ることになると思う。

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2007.03.27

生命の輝き

美人は写真に撮っても、その輝きまでは写せない。
それはちょうど、ロウソクを写真に撮っても、灯りにはならないようなものだ。
・・・うまいこと言うなあ(笑)。

写真と本物との違いは何だろうか?
ここで当たり前に、写真画像の被写界深度(ピントの合う奥行きの範囲)、コトラストの精妙さや連続性、ブレあるいは過度の停止、解像度やインクの発色といった話をしてもあまり面白くない。

写真と本物との違いを1つの考え方で言えば、「存在の影響力」である。
本物のロウソクが存在すれば闇を照らすし、本物の美人がいれば、男共は下品な振る舞いをしない。偉大な聖者が居れば、心が安らぐこともあるかもしれない。
「モナ・リザ」ほどの名画なら、生きた本物の美人ほどの影響を与えるであろうか?

ところで、こんな話がある。
ロマン・ゲイリの「天国の根っこ」という小説で、ドイツ軍の捕虜になったフランス兵が、時が経つにつれ人間性が堕落してくる。そこで、フランス兵の隊長は、奇妙な遊戯を提案する。フランス兵を閉じ込めた兵舎に、少女が1人いると想像するだけのゲームだ。おそらくは、理想的な可愛い少女を思い浮かべるはずだ。すると、これだけのことで、フランス兵はみるみる規律とモラルを回復する。仲間と話す話題に注意し、シャワーに行く際にも身体をタオルで隠すようになった。

想像上の少女が本物の少女と同じ、あるいはそれ以上の影響力を持ったのである。
さらに続きがある。
フランス兵の変化に驚き、彼らの遊戯に気付いたドイツ軍将校は、フランス兵に少女の引渡しを要求する。フランス兵は断り、彼らの隊長は独房に入れられる。二度と生きては戻れぬような独房であったが、隊長は生きて戻ってくる。少女との遊戯で得た想像力の使い方は、彼の生命をもつなぎ止めた。
(以上の話は、コリン・ウィルソン「至高体験」からの引用)

実際には、この想像の力の意味はさほど単純ではない。
本来であれば、少女である必要はなかったが、状況から言って、理解しやすく好ましいものが都合良かったのであろう。
また、独房の隊長が想像したのは、地鳴りを起こして走って移動する象の大群であった。
いずれにせよ、女房ではなかったようだ(笑)。

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2007.03.25

その愛は本物か?

初めて恋が叶ったような時は、その愛は本物だと思うかもしれない。しかし、くっついたり別れたりを繰り返すと(笑)、現在の恋人(あるいは夫婦)の間の愛を「本物だろうか?」と疑うようになるかもしれない。
では、どうすれば、その愛が本物であるか確かめられるか?
・・・なんてことは必要ない。全部偽者である(笑)。
特定の相手に向けられた愛が本物のはずはないのだ。
W.B.イェイツの「人間の威厳」という詩にある、「月のような優しさ」で表現した「恋人を理解することではなく、誰にでも同じように接してあげること」が本当の優しさであり、本物の愛である。
だが、偽者だからといって粗末にして良いとも言わない。安っぽい偽者すら荷の重い者に本物は縁がないだろう。

20070325

日曜日恒例のラクガキです。
お祈り少女です。「おこづかいの値上げ交渉成立」とか「胸が大きくなるように」とかいったお祈りであるとは想定しておりません(笑)。
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.03.23

あなたはだあれ?

ある親愛なる方のサイトで、私は半分冗談で、「起きている時間の99パーセントは妄想している」と言ったのだが、考えてみればこれは間違いだ。限りなく100パーセントである。
仏教の教えに「妄想するなかれ」というものがあるらしいが、それは不可能だ。
では、どんな状態の時は妄想していると言えるのだろうか?
それは、自分とは関係なく世界が存在し、自分がその中にいると思っている状態である。

世界的ベストセラー「ソフィーの世界」で、ソフィーは「あなたは誰か?」「世界はどこからきたのか?」という手紙を受け取ったらしいが、答えは出たのだろうか?(私は読んでいない)

では、「あなたは誰?」、自分にとっては「私は誰?」なのであろう?
「私はモデルだ」「私は画家だ」「私は○○大学の学生だ」「私は○○の長女だ」などいろいろあるであろうが、これは本当だろうか?
よく、「作家の誰それさんが死亡しました」なんてニュースがあるが、死んでしまえば作家でも何でもない。学生や会社員も、退学になったりクビになればそうでなくなる。
誰かの子供であるということについては、それは単にそう信じているだけである。
「私は日本人だ」さらに「私は人間だ」はどうであろう?
日本が消滅したら日本人でなくなるし、地球の支配者がどこかの宇宙人になり、人間と猿の区別をやめて一律で猿と呼ぶことになれば、やはり我々は人間ではない。
究極的には、我々は誰でも何でもない。ただ何かであると思い込んでいるだけだが、その思い込みは幻想や妄想以上のものではない。こう言うと、「いや、私は絵を描いて食っている。これは妄想ではない」とか「私は教師として確固とした使命感を持っている」と言いたい者もいるかもしれない。では、画家をやめて夜警になって食えるかもしれないし、スリになっても使命感を持てることもあるだろう。

あえて「私は誰か?」に答えるならば、「私は何でもない。私はあれであるとかこれであるとかは言えない。ただ、私は存在する」になるだろう。
ところで、この「存在」を意味する“being”という歌があったので、CDを購入した。KOTOKOという女性アーチストの歌で、自分で作詞・作曲している。これは、人気小説・漫画・アニメ「灼眼のシャナ」の主題歌であるらしい。
で、この「灼眼のシャナ」という作品には、人の存在を灯に変えて食らう化け物が登場し、それに食らわれでもしたのか、悠二という少年にシャナが「あまえはもう存在していない」と言ったらしい。漫画もアニメも1度も見ていないので詳細は分らない。
とりあえずDVDを発注したが(笑)、我々は存在を失うことはできない。私というものについて唯一言えることは「存在する」だけであり、「存在しない」とは言えない。
肉体が滅んでも、別に霊のようなものではないが、やはり存在を失わない。これは精妙なものへの注意を怠らなければ理解は難しくはない。ただ、これを言葉で言う限りは、やはり幻想や妄想の一種でしかない。
世界は、心の幻想が作り出したものだ。私が世界の中にあるのではなく、世界が私の中にある。早い話が夢と変わらない。もっとも、普通の人にとっては、現実味のある牢獄である。

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2007.03.22

なぜ流れ星に願いをかけるのか?

「流れ星が消えるまでに3度願いをかければ、その願いは叶う」というお話をご存知と思う。
しかし、火球とも呼ばれる大型の流れ星の場合など、稀にある程度の時間姿を留めるものもあるが、通常は一瞬で燃え尽きる。とてもではないが、3度も願いをかけることは不可能だ。
では、なぜ、そのような極めて難しい願望達成の方法が伝えられているのであろうか?
それはこうである。
単純に言葉にできる願い事などに価値はないということなのだ。
それは、「夢」とか「目標」という美しい言葉を付けたとしても、所詮は欲望である。人間の悲惨の原因は欲望である。
欲望とは、身体の安楽な維持や快楽を求めるものであり、得られてもさらに求めずにはいられず際限はない。
これらの浅はかな欲望を捨てた時に、真に偉大なものを望む準備が整う。
不要なものを求めなければ必要なものは得られる。
それを教えるための賢い方便であったのである。

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2007.03.21

ナオミの床掃除

歩く芸術品、スーパーモデルのナオミ・キャンベルさんがニューヨーク市衛生局の床掃除やトイレ掃除をしているらしい。もちろん、現在も現役のスーパーモデルとして超高収入のナオミがお金がなくなったのではなく、雇っていた家政婦への暴行事件での判決による強制労働である。
ファッション・ショーに興味のない私だが、ナオミといえば、マイケル・ジャクソンの「イン・ザ・クローゼット」という曲のビデオ・クリップでマイケルと共演していたのをよく憶えている。監督は高名な写真家のハーブ・リッツだけあり、素晴らしく美しい映像であった。ナオミ177センチ、マイケル178センチとほぼ同じだが、ナオミが大きく見えたような気がした。ただ、マイケルはある意味、男性として理想的なプロポーションであることがかえってよく分かったような気がした。
ナオミの床磨き、モップかけ、是非見てみたいものである。

加藤諦三さんの、何という本かは忘れたが、女中さんをアゴで使っていた奥さんが、家が貧しくなってしまい、自分が女中さんをやることになり、屈辱に泣くというお話があった。
ナオミは数日掃除をすれば良く、現在も未来もずっとセレブである。しかし、この女中になった奥さんに楽しい未来はないかもしれない。
W.B.イェイツの「年老いたアラブ人によって書かれた『3つの悦びの歌』」に関する謎のような文書の中で、富豪であったアラブ人が、財産を人にくれてやり召使いになる話がある。彼は、家を奪われた時、家族を殺された時、そして、自らの死が近いことを知った時、それぞれ「喜びの歌」を作った。
これらの不幸を、自らの意思であると認識した時、喜びに満ち溢れたのだ。彼の一生は幸福であった。
女中をアゴで使っていた奥さんが、自分が女中になるハメになった時に泣く・・・なんと馬鹿げたことであろうか?

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2007.03.20

頭が良いと論争に負ける

論争というものが、頭が良い方が勝つものだと思っていないだろうか?
ディベートのようにルールがあり、客観的に優劣が判定されるものであれば確かに優秀な方が勝つであろう。しかし、ルールのない、いわば「言い合い」では、頭の良い方がかえって不利であると言える。
前回書いた、知能指数195のエイブラハム・マスローは、「誰と議論をしても、自分の方が正しいと感じた」とは言ったが、「議論に勝った」とは言っていない。
論争で頭の良い方が勝つのは、もう一方もある程度頭が良い場合だ。

まず、頭の悪い方は、頭の良い方の論理展開についていけない。理解できないということは「発言がなかった」ことと同じだ。あるいは、頭の悪い方に理解できるような形で曲解が行われ、頭の良い方が言った本来の意味とは全く異なるものにされてしまう。
また、頭の悪い方は、自分の主張の矛盾に気付かないし、指摘されても理解しない。
ここまで言えば、論争は頭の悪い方が勝つのが当然と分る(笑)。

論争の相手が頭が悪いと分れば無視することだ。しかし、頭が悪い者ほど自惚れが強いので、無視されることに我慢ができず、ストーカー並に応答を要求してくるものである。
要は、最初から、頭の悪い者と議論をしないことが肝心だ。

一般的に、論争では、論理の正しさや証拠の確かさで争うものである。
裁判などが全くこの通りである。
しかし、これとは違い、権威ある言葉を正しさの根拠にする場合がある。もちろん、この場合は、双方にとって権威あるものでないといけないのは当然である。例えば、社員同士であれば、「社長の方針」といったものがこれに当たる。
そして、カトリック信者の間では聖書が権威あるものである。
以前見た映画で、軍隊への入隊を拒否する男と、入隊させようとする軍部との議論で、聖書が参照されるというものを見たことがある。
入隊を拒否する男は、戦争が聖書の教えに合わないと言ったが、軍部の者は、聖書の中に、イエスが弟子達に「服を売って剣を買え」と言う箇所があることを指摘する。だが男は、「しかし、イエスは剣によって立つ者は剣によって滅びると言った」と返す。
カトリック信者以外には何の意味もないことであるが、権威を認める者同士の間では重要な根拠になる。
これが、カトリック信者とそうでない者との議論であれば、なんともおかしなことになる。一方は聖書の言葉である権威により正しいと主張することが、もう一方には権威でも何でもないので、理屈で納得できないと、正しいと認める理由がない。そうなると、両者の意見は平行線のまま決して一致しない。
そして、宗教上の権威や、所属する国や民族特有の思想(事実上の偏見)というものは自分で思うよりはるかに多く持っているものである。
また、共通の認識を持っていることを多少確認しても、どのくいらいの偏見の差があるか分ったものではない。

荘子は「論争するな」「是非の判断をするな」「デタラメを言うからデタラメに聞け」と言ったが、そもそもが自分の価値判断とて頼りないものではないだろうか?
荘子は、知を超えた判断である明があると言った。それは、仮に「明」と言っただけで、その言葉に意味があるわけではなく、実際には判断ではないであろう。そして、それを得る方法も書いてあるが、人々はこれを見逃す。とても良いものであるのだが(笑)。

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2007.03.18

白鳥を超えたあひるの子

著名な心理学者エイブラハム・マスローが、大学院を卒業し、コロンビア大学で研究助手をしていた時、知能テストを受けた。指数は195であった。ご存知かもしれないが、これは恐るべき優秀さを示す。
この時、マスローは驚きと共に納得した。これまで、誰と議論をしても、自分の方が正しいと感付いていたが、その理由が分かったからだ。

美しく成長しながらも、自分がアヒルだと思っていた白鳥が、自分の真の姿に驚くような経験は望ましいものであるが、その幸運は滅多に得られないと考えられている。
だが、そうではないのだ。これまで聞いたこともないような規模で経験できる可能性がある。

英語の“being”といえば、日本人であれば、beの現在分詞くらいの認識しかないと思う。これは名詞として「存在」「実在」「本質」「本体」という意味になる。
デカルトは「疑っている我は確かに存在する」とし、結局、確実なこと、この世の真理とはこれだけだと言ったが、コリン・ウィルソンは「疑っていようがいまいが、私は存在している」と言った。デカルトは科学者であったからそう言っただけであり、デカルトがそう言わなければ、ウィルソンにだって分からなかったはずだ。
結局のところ、私達に確信できる真理とは、「存在する」ことだけである。
だが、本当のことを言えば、「存在する」は、真理への扉である。真理は目に見えないし、心で感じることもできない。だから、突き詰めて考えれば、真理は存在しないことになる。
Supreme Being(至高の実在)は、英語では「神」となる。
「存在する」という扉を通りぬければ、それが神である。もちろん、宗教上の神ではなく、表現不可能な唯一の存在である。
表現不可能であるから、どのような書き方もできない。
こんな話がある。
生きている人間の自我は決して安定せず、いかに安定しているように見える人間でも、実は心は揺れ動いている。「不動心」など実際には有り得ない。なぜなら、心とは動き回るのがその本性だからだ。しかし、もし、自我を完全に配下に置くことに成功すれば、彼は超人である。
ある者が、師に「あなたは至高の実在である」と言われ、彼はその言葉を憶えた。それにより、努力することもなく、自我を配下に置き、それとの自己同一化を脱した。
それは突然に訪れる「爆発」であり、自分が白鳥など比較にならぬ存在だと知るあひるの子の驚きである。

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2007.03.17

天使の見つけ方

「心の中に悪魔がいる」とか言うでしょ?
だが、「心の中にケモノがいる」の方がまだ正しい。悪魔は躾(しつ)けられないが、ケモノは躾けられる(笑)。尚、心の中に天使はいない。その訳はもうすぐ分かる(?)。
心の中のケモノを躾けないと、ケモノに殺される。だが、心の中のケモノが殺すのは何なのか?
実を言うと、心自体がケモノである。フロイトは心の構成要素は「自我」「超自我」「エス」だと言い、自我こそ、人が自分と考えるものであるとした。それはある意味正しい。
しかし、本当のことを言えば、人は心を自分であると思い込んでいるだけである。そして、自我、超自我(良心)、エス(生命力)といったものはなく、心のいろいろな性質が部分的にはそう見えるだけだ。
心をケモノとして、きちんと躾ければ良い。そうすれば、天使も見えるだろう。

20070317

いつも日曜に描くラクガキを土曜日に描きました(笑)。
暇なんだろうと言われるなら、確かにその通りだ^^;
クリックすると大きな絵がポップアップで出ます。

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2007.03.15

微妙

「微妙」という言葉が長く人気を保っている。
しかし、非常にお気楽で都合の良い使い方が一般化してしまっている。つまり、「白」か「黒」かの判断を保留し、とりあえずグレイゾーンであるとする無責任な見解を抵抗なく受け入れさせるという用法である。とはいえ、そのような「微妙」は限りなく「黒」である。

しかし、本来、「微妙」とは「なんともいえない味わいや美しさがあって、おもむき深い」という意味であり、芸術的美を表現する言葉にもなるのだが、セザンヌを見て、本来の意味通りに「微妙」と言ったら、いまでは妙な意味に取られかねない(笑)。

「微妙」は、とらえがたい神秘である。
そして、これは人間にとって非常に大切なものだ。しかし、いまはこれが忘れられている。
そして、「微妙」と反対の粗大なものばかりに人々の関心が向かっている。
かずかな美しい調べではなく、ヒステリックで刺激的な巨大音の音楽。
優雅で精妙な雰囲気ではなく、単純明快な展開のストーリー。
エロスも奥ゆかしいものであれば叙情的であるが、現在は露骨なものがありふれている。
そして、当然ながら現代人には微妙な感覚が欠如してきた。
精妙な感覚はそれを発達させなければうまく使えない。

真理とは微妙なものである。微妙な感覚を持たなければそれを掴むことはできない。
強い感覚しか理解できないのであれば、宇宙の真理を捉えそこなう。そして、ペテン師の説く粗雑なものを真理と思い込む。
最も精妙な真理、それはただの存在である。単なる存在を微妙に感じる感覚を持てれば、精神は真理の中に溶け入り、あらゆることが理解できる。そうなれば、世界を手にしたに等しいのであるが、粗雑なものに注意が向く限りそれは不可能である。

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2007.03.14

似非科学に悩まされる

「似非(えせ)科学」という言葉をご存知だろうか?
「似非」とは、「似てはいるが本物ではない」という意味で、「似非医者」「似非文化人」という言葉が使われる。
「似非科学」とは、科学のようであって科学でないもので、簡単に言えば、コジツケ科学とかデタラメ科学である。いかにも科学的であるような宣伝をして、実は科学的根拠がほとんどないものである。代表的なものでは、超常現象、超能力、幽霊、霊能力、宇宙人、UFO、超光速航法などのSFの世界のことを、科学で解明したとか、科学で応用し実用化するとかいったものがある。そして、それらの科学が、認められないのは、現在の科学レベルが低いからであり、自分達は新しく飛躍的に進歩した科学を得ることができていると主張する場合も多い。
似非科学には、明らかにデタラメと分るものも多いが、それを言う者が医者で、専門用語を並べてそれらしく語ったり、誰もが知っているようなロボットペットの開発者で、CDを発明したスーパー技術者にして某大企業の重役とかになると、コロっと騙されることがあまりに多い。

UFO研究家で名高い矢追純一氏は、大手金属工業会社のテレビCMに出演し、「矢追さん、UFOって何で出来ているの?」という子供の声の質問に、正確な返答は私も憶えていないが、地球上にない特殊な素材とかなんとか答えていたのではないかと思う。しかし、そもそも、UFOが地球に飛んできている証拠など絶対にない。UFOだけであれば、「来てるかもしれないじゃないか?」と言う方もいるだろう。しかし、太陽系の惑星で地球以外に知的生命が存在することはどうやらなさそうであるし、一番近い太陽系まで3~4光年もの距離があるのだから、普通に考えれば来ていない。この場合、3~4光年を飛行することの難しさが理解しにくいほど、その可能性を否定しずらいというわけであろう。では、とりあえずUFOは置いておいて、矢追氏の別の主張を見ると、動物は、死ぬと霊界に瞬間移動するというものがある(笑)。それが証拠に、カラスやハト、スズメの死体が滅多に見れないことの不思議を主張する。すると、多くの人が「そういえば・・・」とあっさり信じてしまう・・・だろうか?(笑)世の中には、嫌になるほどカラスの死体を処理している人もいるのだが^^;;(ちなみに、飼い犬や飼い猫は、本来の霊的能力を無くすので死体が残るらしい)

最近知った似非科学では、ある医者の方が主張するものだが、白人のルーツは黒人のアルビノ(白子)であるというものがあった。アルビノとは、メラニン色素を持たない疾患で、当然、全身真っ白(血液などの影響でピンクがかってはいる)である。古代は、人類は全て黒人であったが、その中に生まれたアルビノどうしで子供を作るうちに白人になったというものである。これを言ったのが皮膚科の医師であるから始末が悪い。なんでも、魚のアルビノには、アルビノどうしを交配させてアルビノに固定することが可能らしい。
しかし、2~3万人に1人というアルビノがどうやってアルビノ民族を形成するまでになるのか?また、人類発祥の地アフリカで、紫外線に弱いアルビノが古代にどうやって生存できたのかの説明はない。そもそもが、白人とアルビノは全く違う。
古代人の肌の色が黒か褐色かは分らないが、当然ながら、寒冷な地に移住した後で、色素を減らして白人になったと考えるのが自然である。尚、有色人種にも、色素を減らす能力のない遺伝子を持つ民族が存在することから、エスキモーのイヌイット族のように、褐色の肌のまま寒い場所に住む民族はいるが、褐色の肌は寒冷地の生存に不都合はない。ただ、これが黒人の場合は、メラニン色素過多で紫外線の吸収が必要なビタミンD3の生成ができず、例えばクル病になる可能性が高い。
この白人=アルビノ説を唱える医師は、著名な心理学者カール・グスタフ・ユングは超能力者であると断言し、自らも超能力を獲得すると宣言していた怪しい医者である。気エネルギーなどというものを平気で持ち出し、その大きさをなぜか+20から-20までの数値で示す。私の予想では、これは波動測定装置という似非科学の測定器が示す数値ではないかと思う。波動測定装置には、-20~+20で測定するものと、-21~+21の数値を使うものがある(互いに関係のない複数の装置があるのだ)。波動測定装置の販売先は医者が多く、数百万円から1千万円以上のものもある。この装置を普及させたのは、「水からの伝言」で最近また復活してきた江本勝氏であるが、この装置を分解して、そもそも、その+いくらとかのパネル自体が、装置の回路と接続されていないなど、何かを測定する機能など全くないことがバラされていた報告をネット上で見たことがあるし、江本氏の謝罪文も見たことがある。もし、それが事実でないなら、当然、江本氏は法的手段に出ているはずである。(内緒だが、エレクトロニクス技術者による装置解析の報告を私も聞いたことがあるが、そんな説明を聞くまでも無いオカルト装置であると思う)
波動測定装置や波動が、なにやら分らないながら世間に普及したのは、著名な経営コンサルタントの船井幸雄氏の宣伝の影響が大きいらしいが、船井氏は、波動について自信たっぷりに語っていたのが、上記のようなイザコザがあってからは波動に関して、実におとなしくなったように思われる。コーヒークリームで有名なめいらくグループの代表である日比孝吉氏の著書「波動を知って100歳を得よう」の推薦文では、「まだ研究段階のことなので、各自判断して欲しい」といった逃げ腰の文章になっていたのがおかしい。
(尚、めいらくグループでは、いまでも波動測定装置による品質管理を行っているらしい)
よく、電磁波防御グッズの効果の説明に、「波動測定装置で測定し、良好な結果が出ています」と書かれていた(いまでもある?)。その波動測定装置が何の意味もないデタラメであるのだ。そもそもが、それを見て「波動測定装置って何?それって、信頼できるの?」といったことが浮かばないといけない。

ところで、これら似非科学を扱う上で必要なことをどうしても伝えたい。
それは、「法外な主張をする側が、その主張を証明する必要がある」ということである。
よく、似非科学を主張する者には、「私の説が嘘だと証明できるものなら証明しなさい。それができないなら、私の説は否定されない」という、馬鹿げた態度を見せる者が多い。
法外な主張の否定の証明などできるはずがない。
例えば、10本脚のハエが存在するという主張があれば、主張者側がその存在を証明しない限り、そのようなものは存在しないとして良い(当たり前だ)。もし、そんなものがいないことを証明できないなら、10本脚のハエが存在することになるから、世の中、どんな馬鹿げた主張もまかり通ることになる。
超能力やUFOの存在の証明は、実をいうと1つとしてないのである。よって、夢のない話で申し訳ないが、これらはやはり存在しない。

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2007.03.13

暖冬に想う

暖冬だと、いつもの年より物悲しさを感じないのはなぜだろうと考えたら、おそらくは「マッチ売りの少女」と「フランダースの犬」を思い出さないからだろうと思う。
この2つは、凍える寒さの中、空腹と疲労で罪のない若い命が尽きるという、なんとも救いのないものである。
「3匹の子豚」や「赤頭巾ちゃん」なども、ハッピーエンド版が一般化しているが、本来のお話は狼に食べられて終わりのはずである。ただ、これらのお話は、あまりに漫画っぽく、あくまで教訓のためのたとえ話であり、それほど悲しいお話ではない。
同じように人間以外の生き物を題材にしたものでは、イソップの「アリとキリギリス」の方が、もっと恐ろしい。このお話も、アリがキリギリスを暖かく迎え入れ、キリギリスに反省を促すというものや、悪くても、アリが「当然の報い」と冷たくキリギリスを追い返すといったお話が一般化しており、原作がどうなのか分らないほどであるが、一説では、アリがキリギリスを捕まえて食べてしまうというのが元のお話とされる。いや、さらに言うなら、アリはキリギリスの手足をもいでしまい、粗末な餌を与えて太らせてから食べたという残酷バージョンもある^^;
尚、「グリム童話」に関しては、グリム兄弟が楽しいお話に書き直したものが一般化しているが、元々のお話はなかなかエグいと聞く。

「マッチ売りの少女」はモデルがいるらしいが、こういった境遇の子供は現在においてすら、世界には決して少ないわけではない。
「フランダースの犬」は、豊かに創作された小説ではあるが、矛盾や理不尽さに現実感がある絶妙な展開が読者を引き込むのだろう。悲運を描く小説は数多いが、その中でも屈指の泣ける小説であると思う。
この2つのお話は、主人公が、いかにがんばろうとも、プラス思考しようとも、勇気を奮い起こそうとも、そして、一点の曇りもない純粋な魂を持っていても、それが何の役にも立たないところは、本当に容赦のない作品を作ったものである。
あえていえば、マッチ売りの少女は死の間際に楽しいものを見たし、ネロはルーベンスの絵を見た。しかし、それが、二人に与えられたせめてもの慰めであったことが、余計に悲しさを誘うわけである。
私など、子供の頃、これらのお話を読み、極度の人間不信に陥ったものである(笑)。いや、現在でもそうかもしれない。そして、そのおかげで世界の全てを疑う種を自分の中に持ったことは私の幸いであったようである。

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2007.03.12

現代のオカルト

オカルト(神秘、魔術、超自然)的なものは、昔から人を騙して金儲けをする手段に利用されたので印象は悪いが、精神を刺激するためには有益なものと思う。およそ、壮大な想像力なんてものはオカルトが関係するものばかりではないか。
芸術の題材も、聖書や神話と言えば聞こえはいいが、神秘な世界を堂々と描くなどはまさにオカルトである。
「20世紀最大の詩人」と言われるノーベル賞作家W.B.イェイツはかなりのオカルティストで、一説では魔法結社の会員であったというし、彼の「ヴィジョン」という作品は、彼の妻による自動書記(霊などが人間の手を動かして書かせること)により得た異世界の情報を基にしたものだ。
ニュートンが、数学や物理学の研究より錬金術の研究にはるかに大きなエネルギーを費やしていたことは、彼の死後に残された研究ノートに現れているらしい。
また、唯物論者の代表のようなデカルトも、実はオカルト大好きだったらしいが、公には秘密にしていたらしい。ただ、「方法叙説」に、「珍奇で稀有な学問も役に立った」と書いてあるのは、神秘学のことを指しているらしい。
ただ、特に現代の日本では、オカルトのレベルが落ちてきていると思う。霊能力や超能力や運命学についてメディアに登場するのは、いかに人気を博していても、一目で怪しいと分かるオバさんやオジさんばかりであるが、人は騙されてしまうと、なんでもステキに見えるらしい(笑)。
私は、中学1年生の時、W.E.バトラーの「魔法入門」という書で魔法の勉強を始めた。ここでいう魔法の定義は「精神に自在に変革を起す技術」であるが、そんなことが本当にできたら、まさに無敵であるし、それこそ魔法かもしれない。バトラーの師のダイアン・フォーチュンはフロイト理論を魔法に取り入れたとも言われる。
ただ、これら西洋魔法は、多分、日本人には馴染まない。そもそもが、バトラーはインドでヨーガを学んだが、それが西洋人に向かないところがあるので作り直したくらいである。
とはいえ、バトラーの「魔法入門」やフォーチュンの「神秘のカバラー」は現在も入手可能で、なかなか面白いので、ヘンなオカルトに行くくらいなら、こちらに取り組んだ方が良いと思う。
日本人に向くオカルトも、良いものがあったのだが、すっかりすたれてしまった。その原因は「幸運が恐いほど来る」とか「お金も恋も望み通り」式の、全く頭を使わない欲ボケ人間に合わせたものばかりになってきたからだ。
中国に目を向けると、「荘子」のように実に分かりやすく真理を現した書がある。もちろん、体得までには時間がかかるだろうが、当たり前に世の中に存在することは良いことだ。
インドには、20世紀にも何人かの聖者がいて、良い教えを残してはいるが、サイババのようなペテン師にハマる人が沢山いたりで、なかなか大変である^^;
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギといった、やたら商売の上手い聖人もいるが、個人的には、あまり関わらない方が良いグループと思う(金もかかるし・・・^^;)。

尚、医者が専門用語を並べ立てたり、大企業の重役で、すごい実績のある技術者が書いたものをたやすく信じる傾向が日本人には特に強いであろう。そんな人たちの書いたものの中に、なんとも馬鹿げた低レベルのオカルトも沢山ある。騙されないためには、科学的思考が大切なのはもちろんであるが、やはり学校というものの中で思考する能力を失ってしまうことの問題が大きい。これを補うには、世間で修行して、経験しながら自分で考えるのが良い道であると思う。

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2007.03.11

ただ1つの望み

アインシュタインは物理学での成功の秘訣を聞かれ、「別に大したことではありません。こればっかりやってたからです」というような返答をしたらしい。
ある人が、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに「なぜ願い事が叶わないのでしょう?」と聞くと、彼は「強く長く願えば必ず叶う」と言った。叶わないのは、願いの強さが十分でなく、長く願わないかららしい。
彩月(さつき)さんの「鳥になる時」という歌(アニメ「コレクター・ユイ」主題歌)の最初の部分が「何よりも強い願いならいつかは叶うって」だったのを思い出す。
1つの強い願いを持つことが非常に大切なものらしい。成功の秘訣の本などを見ると、なるべく沢山の願いを紙に書けなんて教えているものがあるが、それが、真の望みを探すためのレッスンとしても最悪だ。部屋の中に座っていて夢が見つかることはない。
イチローはアメリカで子供達に「早く自分のやりたいことを見つけて欲しい」と言ったことがある。それはイチローの実感ではあろうが、どうやってそれを見つけるかは言わない。彼は子供の頃に運良く好きなものを見つけたからだ。
「サウンド・オブ・ミュージック」という有名なミュージカル映画に、「Climb every mountain(全ての山に登れ)」という歌があり、修道院長を演じるかつてのミュージカルのスーパースターで72歳のペギー・ウッドが見事に歌い上げていたが、そこにはイチローの語らなかった夢を見つける方法が表現されている。タイトルそのままなのだが、「全ての山に登り、全ての流れを渡り、全ての虹を追って、あなたの夢を見つけよ」だ。早い話が「若いうちはなんでもやってみろ」である。やってみないことには、自分に合ってるかどうかなんて分からないはずだ。
だが、あまり遠回りしたくなければ、画家の横尾忠則さんが著書に書かれていたことを思い出しても良いかもしれない。「ごく若い時(たとえば10代)に好きだったこと」をヒントにすることである。
1つのことにエネルギーを注ぎ込まなければ、成功もしないし、充実感も得られないに違いない。

20070311

日曜のラクガキの習慣は続いていますが、これは深夜に描いたもの。「朝は夜より賢い」なんて本がありましたが、やはり夜の精神状態は狂気が入るような気がしますね^^;
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.03.09

信じられない

「信じられない」といえば、昨年の日本プロ野球の頂点に立った球団の外国人監督の言葉として有名になってしまったが、この場合は、極めて良い出来事によるものであった。
逆に、とてもひどい目に遭った時には、何もかもが信じられない気分になることもあると思う。
私の場合、「信じられない」というと、「アメリカン・グラフティ」という映画を思い出す。
純情な男の子が可愛い女の子を好きになるが、彼女は、彼のハンサムだが女ったらしの友人の誘惑にのり妊娠してしまう。しかし、その女ったらしは知らぬフリを決め込む。
彼は、有り金全て、バイト代の前借り、それでも足りず、大切な自転車を売り、彼女に堕胎手術を受けさせる。彼の最大の献身と愛情は、彼女にも届いたかに見えた。しかし、彼女を訪れると、彼女はあの女ったらしの友人と抱き合っていた。
彼は、「信じられない」と思っただろうか?(笑)
まあ、世の中、理不尽なものだ^^;;

さて、ここまでは普通の話である(?)。
私は、この「世界一損な役回りの男の子」が、「全て信じられない」と思ってくれることを願う。実に良いことだ。この世の全てを疑って欲しい。
この世が全て幻想であることは、それを疑うことでしか明らかにならない。これまで確かだと思っていたことの全てが実はまやかしであったと悟るきっかけとなる。
総じて言うなら、世俗的幸福は危険なものだ。欲望に限界はない。更なる快楽を求め、それと表裏一体である苦痛を味わうしかなくなる。
秘密を打ち明けると、真理を見ようとしても無駄だ。ただ、偽りを受け入れなければ十分であるのだ。

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2007.03.08

孤独に耐える力

独居老人より3世代で住んでいる老人の自殺が圧倒的に多いそうだが、意外に思うかもしれない。
しかし、人間、1人の孤独というのは、普通はある程度の年齢になれば耐えられるようになる。
しかし、周りが仲良くしている中で、1人疎外される孤独というのは厳しいものである。
学校のいじめでも、悪口を言ったり、暴力を振るうというものもあるが、陰湿で効果的ないじめはなんといっても「シカト」、即ち、無視である。周りが楽しくやっている中で1人相手になってもらえない厳しさは凄まじい。

「わたしのいもうと」という、いじめを描いた絵本がある。これは、著者の松谷みよ子氏に手紙で届けられた実話である。
ごく普通の小学生の少女が、転向先で徹底して無視されるいじめを受ける。遠足の時ですら1人でいた。これは周りが楽しそうな分、ひどく辛いものである(その様子を描いた絵が特に悲しく感じた)。やがて彼女は学校にいかなくなり、かつて自分をいじめた少女達が何もなかったように中学生になり高校生になるのを家の中から窓ガラス越しに見続ける。
彼女にも、彼女の家族にも地獄の日々が続く。そして彼女はひっそりとこの世を去る。作家に手紙を送ったのは、彼女の姉であった。
味戸ケイコ氏の絵も素晴らしいので、是非、購入することをお薦めする。

ある程度の孤独は悪いものではない。
W.B.イェイツもよく言ってたらしいが、孤独こそ最高に心を鍛えてくれるものであるらしい。それでいえば、誰にも孤独は必要だ。しかし、限度を超えたもの、ましてや、子供には厳しすぎる。
だが、もし耐えられるならば、心を鍛える最高の機会と思って耐えて欲しいとは思う。心は鍛えていないと、常に揺れ動き、コントロールが効かず、不安と苦痛は避けられない。欲望に負け、身を滅ぼす可能性も大きくなる。
心が静まった状態こそもっとも強力なのであるが、それを実現しそこねることになる。
いじめをなくし、それが行われていないかチェックする努力はもちろん続けていただけば良いが、いじめや孤独がいつ自分の身に降りかかるかもしれない場合にそなえ、孤独の耐え方みたいなものを身に付けさせるのも良いことではないだろうか?そして、我々が孤独に耐え、心を鍛えることも、世の中に良い影響を与えるものと思う。

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2007.03.06

天然加速装置

アインシュタインは、相対性理論を簡単に説明するのに、「ストーブの上に座っている1分は長いが、可愛い女の子と一緒にいる1時間は短い」といったようなことを話したそうだ。
ところで、アインシュタインが1905年に博士号論文としての特殊相対性理論の論文を提出する4年前、英国のSF作家H.G.ウェルズは「新加速剤」という作品を発表している。「加速剤」とは人間の行動・思考力を千倍化する薬品で、これを服用すると、周りの世界はほとんど停止して見える。
時間があらゆる場所で同一ではないことを、主観的体験に置き換えると理解しやすいというものである(もちろん、相対論では意味は異なるのだろうが)。
手塚治虫氏が、やはり漫画の中で加速剤を登場させたことがある。ただ、この加速剤は、ウェルズのものと異なり、精神速度のみ加速させる。だが、加速剤を服用した男は肉体の動きも加速されると思い違いをし、銃殺される直前に薬を服用し、弾丸が身体に達する前にエスケープしようとするがそれができず、かえって長い恐怖と苦痛を味わうことになってしまった。
石ノ森章太郎氏の「サイボーグ009」には、009(ジョー)とジェット(002)に加速装置が装備され、スイッチを入れると、思考・行動とも加速され、周りの動きがスローになる。戦闘の上では圧倒的有利となるわけだ。

ところで、時間感覚というものは左脳の機能で、右脳にはこれがないらしい。よって、右脳が主に支配するような活動では、長い時間が過ぎても気付かず、いわゆる「あっという間に時間が過ぎてしまった」ということになる。絵を描くというのも本来は右脳の管轄であり、夢中で絵を描いていると気付かないうちに時間が過ぎてしまうことになる。
また、一瞬間が長く感じる印象的な経験をお持ちの方もいると思う。
野球選手では、バッティングの調子の良い時は、ボールの縫い目が見えるというが、これも主観的時間が加速され、ボールが遅く見えるというものかもしれない。尚、実際に生理反応速度で主観的時間は異なるらしく、一流のバッターは右脳の活性化と共に、なんらかの生理的要因もあるのかもしれない。
戦国武将の話でも、初陣の際、最初は恐くて仕方がなかったが、ある緊張点を越えると、心が澄み渡り、敵の動きが刻銘に見え、たやすく倒せたという話もある。
使い方は明確ではないかもしれないが、我々には天然の加速装置が備わっているのかもしれない。

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2007.03.05

1億もらったらどうする?

「1億円もらったらどうする?」なんて質問に対する回答を1度くらい考えたことがあるかもしれない。
これは、もちろん、相応のサービスの対価としてではなく、宝くじに当たるなど、労せずして得られた場合という前提であろう。
言ってみれば、働き以上のものを得たということであり、たまたまその額が多かったということだ。しかし、1億とまではいかなくても、似たようなものはザラにある。
例えば、サラリーマンでは、労働以上の給料を得ている場合も珍しくはない。特に、新人時代は、会社に利益を与えないので、まさに「もらっている」だけである。
ベテラン社員でも、仕事もできないのに会社の情けでクビにもならずに給料をもらっている場合もあるだろう。
これは権利でもあるが、学生期までは自分で生計を立てる必要はない。
成人しても養ってもらっているニートもかなりいると聞く。

こう考えると、改めて「1億もらったら」と聞くまでもないように思う。
だが、実際にこの質問を受けると、豪華なレジャーや趣味などの娯楽に使うか、あるいは貯金とかの回答が圧倒的と思う。

ところで、新渡戸稲造の有名な「武士道」という著書がある。
特権階級である武士は、自ら田畑を耕したり、製造・販売に携わらなくても生活が保証される。戦国時代であれば、敵から領民を含め国を守るという大儀があるので、それも当然と思われたかもしれないが、徳川の世になり、戦争もほとんどなくなると、「ただもらっている」という状況になる。これではニートと変わらない(笑)。
実際、武士の方でも後ろめたかったのである。そこで、武士達は、「せめて立派な人間であろう」と思った。これが武士道であると新渡戸は言う。

では改めて、1億もらったらどうすれば良いのであろう。
最も良いのは返してしまうことだ。だが、それができず、自分のものにしたいなら、せめて立派な人間になることを心がけてみたいものである。

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2007.03.04

消え行く世界

物語で、1つのお話が、まるごと夢の中のことといったものを知っているだろうか?
サンダーバードで有名なジェリー・アンダーソンは、同じ人形劇の「キャプテン・スカーレット」や初めて俳優を使ったドラマ「UFO(邦題『謎の円盤UFO』)」で、1回のお話をまるごろ登場人物の夢にしてしまったことがある。
また、アニメ「ツバサ・クロニクル」で、サクラ姫の故郷を訪れるも、どこかおかしいと思ったら、その世界はサクラ姫の心が魔法の力で作り出した世界であったというものがあった。他にも沢山あるに違いない。
ところで、今あなたがそこにいると思っている世界。それもまた、あなたの心が作り出した世界であることは間違いない。では私は誰かって?それはあなたの夢の世界なので私は知らない^^;
あなたの心は世界を作り出し、愚かにもあなたは自分で作った世界の中に拘束されているというわけだ。夢を見ている間ならその通りと納得するだろうが、目覚めでも全く同じである。そして、この世界が夢であると見破れば解放される。
心が世界を作り出し、世界が心の中に消えていく様を見るのは、なんとも面白いものである。

20070302

で、恒例、日曜日の夢の中でのラクガキ^^;
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.03.03

鈍感力のすすめ

小泉前首相が、自民党幹部に「鈍感力が大事」だとアドバイスしたらしい。
これに対し、テレビなどでも、ごく一般的な「鈍感」の意味や事例を持ち出し「敏感力が必要なんじゃないか」などという小賢しいことを言う連中もいるが、彼らの理解力こそ鈍である。
「鈍感力」とは、渡辺淳一氏のエッセー「鈍感力」(集英社)からのものであるらしいが、私は読んでいない。
しかし、まさに「鈍感力」こそ必要であることは間違いない。
「鈍感力」とは、言い換えれば、動じないことである。では、どうすれば動じないでいられるかというと、程度はともかくとして、この世を夢のようなものと見なすか、マインドを使わないことだ。そうすれば動じることはないし、ものごとにも適切に対処できるのである。

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2007.03.02

世界の変え方教えます

ごく若いうちは、世の中を変えることは簡単だと思う。
年を取るごとに、それは難しいと思う。自分の家族、クラス、職場ですら容易に変えられない。
気楽に「世の中を変えてやるぜ」と言う者は馬鹿だと思って間違いない。
しかし、なぜ世の中を変えることが難しいのか、ちゃんと説明できた方が良い。
ジョン・レノンは、「レボリューション」という歌で、「世界を変えたいって?オレはお前の頭を変えてやりたいよ」と言っていたが、なぜそうしたいのか言っていない。レノンよ、お前は不親切だ(笑)。
準備もなく「世の中を変えてやる」というのは、毎日ゴハンを食べているだけの者が、その味が良くないからといって「オレが米を変えてやるぜ」と言うようなものだ。
米や、その栽培・収穫法、調理法を知っていることが米を変える必要条件であり、さらにその上に多くの十分条件を備えてこそ米やゴハンの改良が可能となる。

世の中を変える必要条件すら満たさない者が「世の中を変える」と言うのが愚かしい訳である。
また、それほどではないが、世の中を変える方法を聞く馬鹿もいる(笑)。それは、例えて言えば、家から出たことのない者が、帰り道を聞くようなものだ。

さてでは、世界を変えるには、世界について知り、それを動かす方法を会得すれば良いことが分かった。
ところが、それは意外と簡単である(笑)。
マイケル・ジャクソンの「マン・イン・ザ・ミラー」という歌で、「世界を変えるには、まず鏡の中の男を変えることから始めるのだ」とあるが、これは違う。必要なのは鏡を磨くことだ。ただし、心の鏡である。
よって、世界を変えるための最も正しい質問は「心の磨き方」である。荘子も、最高の人間の心を鏡に例えた。これを磨き、自己を正しく見ればそれで十分である。

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2007.03.01

白人はこうして生まれた?

最近読んだ本の中にあったのだが、人類はもともとが全部黒人であったという説がある。
皮膚科の医師である高野信夫氏の著書「黒人→白人→黄色人」にあった説を信じたものであるようだが、なかなか面白い。
黒人だけだった人類の中に生まれた白子達が、黒人達から阻害されて、離れて集団を形成した。白子(しらこ)とは、アルビノとも呼ばれる疾患で、色素がないので白い身体を持つ。白蛇、白兎などがそうであるが、白ライオンや白タイガーなどは白変種であり、白子ではない。もちろん、人間の白子イコール白人ではない。
それでも、黒人達から離れた白子同士で子供を作っていくうちに白人になったという説である。

白子は2~3万人に1人しか発生しないので、とてもではないが集団を形成することはない。ただ、上にあげた本では、なぜか白子が大量発生したとある。もう古い本なので見てはいないが、そのようなことは起こるとは考えにくいし、証拠もないと思う。
また、白子は色素がないので紫外線の影響を強く受け、最初に人類が住んでいたアフリカでの生存は難しい。また、白子は視覚障害を持つ場合がほとんどであり、生存し、さらに子供を作り育てるということが、原始時代に可能であったとは考えにくい。

今では、宇宙人、地底王国、超能力などと共に、トンデモ学説とみなされているかもしれないが、私も仕方がないと思う。
猫は昔は全部黒猫だったのが、その中に白子の猫が生まれ、白子の猫同士が交配して白猫になったなんて誰も信じないだろう(笑)。

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