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2007.02.27

乙女の誘惑

禅宗には「公案」と言って、修行者のための問題があります。いわゆる禅問答です。
あまりにも訳の分らない問題が多く、「こんにゃく問答」と言われることもあります。

その中に「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という、面白い(?)ものがあります。
だいたいのお話がこんなものです。

お婆さんと若くて美しい娘が二人で住んでいた。
このお婆さんは、1人の修行僧の面倒を見、寝食の世話をしていた。
その僧の修行も20年になった時、お婆さんは、娘に僧を誘惑させる。
娘は、年の頃15・6の萌え萌え美少女であった・・・とは公案にないが(笑)、まあ、そんなものと思って欲しい。そんな美少女が「ねえん、好きにして・・・」と恥じらいながら寄り添う・・・とも書かれていないが、まあ、そんなところだ(笑)。
しかし、僧は、「ふっ、私のハートは凍った岩のごとし。無駄なことじゃ」と相手にしません(ごりっぱ!)。
これを娘から聞いたお婆さん、僧を追い出し、僧のために立てた庵を焼き捨てた。

で、公案は、この意味を問います。
さて、なぜお婆さんは怒ったのか?僧はどうすべきだったのか?

あくまで、昔の本ですが、仏教学者の増原良彦(ひろさちや)氏は、「人間的欲望を捨ててしまうことが修行ではない。チューくらいまでは良かったのではないか」と書かれていました。
しかし、チューで火を付けて後は知らんというのはあまりに・・・^^;

有名な一休禅師は、老いてからこの公案について、「こんなことがあったら、この枯木(老いぼれた自分のこと)にも青い芽が出ますぞえ」と言いましたが、つまり「いただきます!!」ということでしょうか(笑)。
いえ、一休さんって、確かにそういう生臭坊主でした^^;

総じて言えば、人間的でないものになってしまっては、人を救うこともできない。そこを、この修行僧は勘違いしているといったところでしょうか?

この公案は難しいものとされていますが、禅問答集などを見ると、大体が増原氏と同じような解答になっているような気がします。

しかし、それは優れた解答ではありません。
私が真の正解を述べましょう(をを!)
まず、僧が正しい修行者とします。
凍った岩のような人間であってはならないのはそのとおりです。
そして、彼は、娘に手を出しても出さなくてもどっちでも良かったのですが、多分、手は出さないでしょう。状況次第ではありますが。
とりあえず、僧も、若い萌え萌え美少女が好きですが、別に何もしなくても残念だとは思いません。また、何かしたらしたで、それもよしなんですが^^;
このような僧の境地は、決して冷淡で無味乾燥とした高みに超然とある・・・といった寂しいものではありません。感受作用も普通の人と同じです。
しかし、修行が進み、至福の境地にあるわけです。その幸福感の強さは、萌え萌え美少女の誘惑などよりはるかに高いので、別にどうでもよいわけです。
よって、正解は「幸福であるから手を出しても出さなくても良い」です。
セクハラや痴漢みたいなことをする者は幸福感がなく、自分が不幸でみじめであると感じているわけです。
また、アマゾンのような通販サイトを見ると、アダルト商品の数が凄いことが分ります(いえ、そんなに詳しくはないのですが^^;)。しかし、このようなものを欲しがるのも、やはり自分をひどく不幸だと感じている人たちです。
ただ、世間でいう「幸福」と真の幸福とは全く違うものであるかもしれません。

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2007.02.25

きれいな感情

感情にも、「きれいな感情」と「醜い感情」がある。
きれいな感情とは、「静かな心」であり、醜い感情とは「活動する心」だ。
では、心が静かだと何がきれいなのか?
静かな心とは、静止した水面であり、くもりのない鏡だ。
そこには自分が正確に映り、自分の真の姿が分かる。自己を知るとは、そのようなことであり、自己を知ることが至福のゴールであるのだ。

20070225

で、日曜はお絵描きの日(ラクガキじゃなかったっけ?^^;)。

絵をクリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

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2007.02.24

セレンディピティ

最近、狂気の寸前にある(笑)。
と言うのは、人間の脳には限界があるのに、無限の情報が精神の中に流れ込んでくるからだ。
気が狂うのを防ぐのに言葉は都合が良い。巨大な情報でも一言で曖昧に言い表せば精神はある程度納得する。
その都合の良い言葉とは、シンクロニシティとかセンレンディピティだ。
いずれの言葉も、本来は言葉で言い表せず、それなりに説明しようとしてもかなり長くなる。
曖昧に言うなら、シンクロニシティ(共時性)とは、「意味のある偶然」で、セレンディピティは「幸運な偶然を得る能力」だ。ちょっと似たところがある。
現在の私の生活は24時間がシンクロニシティだ。
漫画家のCLAMPさんが、作品の登場人物に「この世に偶然はない、あるのは必然だけだ」と度々言わせるが、必然も何も、全ての出来事は自分が作っているのである。
簡単な例をあげるなら、本を1冊手にすると良い。本を開くと文章(絵の場合もある)が書かれている。それらの文字や絵は、本を開く前は決して書かれていなかった。全てあなたのマインドが瞬間に書くのだ。夢の中で本を読むことを考えると想像しやすいだろう。
20世紀最大の詩人と言われるW.B.イェイツが絶賛したインドの詩人タゴールは、アインシュタインに「あなたが月をいまのように感じなくなれば、もはや月ではない」と言ったのも同じである。
私は、子供の頃、何かに興味を持てば、そのすぐ後で、それに関連するものが現れた。それがまた頻繁に起こるようになってきた。
ただ、これもそう珍しいものではないに違いない。
ポップミュージックの詩にも、このような体験を綴ったものは結構あり、それを聴いて不思議な感覚を覚えるのも、やはり大なり小なり、誰でも知っているからであると思う。

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2007.02.23

雛人形の正しき新説

雛人形をいつまでも飾っていると婚期が遅れるなんて言いますよね(笑)。
こういうことって、いつまでも雛人形をしまわないので、ごろっと横になる場所がなくなったお父さんやお兄さんの間で言われだした・・・程度のことと思います。実際には、そんな話の由来は全くありません(あっても真実のはずもないし)。
例えば、現代ですら、行事の際にいちいち気にする人のいる「大安」「仏滅」なんてのも、明治時代の賭博師が勝負の運をこじつけるのに言い出しただけのもので、仏教とは何の関係もありません。

で、雛人形を販売する会社のサイトを見ると、雛人形を母親から譲り受けたり、姉妹で共用することを、さも深刻そうに「おかしなことです」「感心できません」や、控え目なものでも「お1人1つが望ましいです」とかあります。
「譲り渡しなんて絶対にやってはいけない」なんて過激なものもありました。
その根拠は、雛人形というのは、女の子の一生の災厄を身代わりに引き受けるからというものです。これは日本に古来からある人形(ひとがた)に罪を託し水に流すというものと結びついたもののようです。
ただ、人形(ひとがた)の場合は、災厄の元である罪や穢れを祓うというものであり、災厄そのものを引き受けるわけではありませんので、本来は話が違います。罪を人形(ひとがた)に託すには、それなりの敬虔さが要求され、悔い改めを形にしたもので、これはこれで意味がありますが、雛人形が災厄を引き受けるというのも、誰かが勝手に言い出したことでしょう。その伝承の由来なんて、それらのサイトに書いてありません。
昔は現在と比較にならないくらい、幼児の死亡率が高かったことも、何かすがるものが必要だったということかもしれませんが。

では、私が新設を作りましょう。
雛人形は多くの女性が大事にすればするほど幸福をもたらすものであると。
普通に考えると、こちらの方が自然です。特に、職人さんが丹誠込めて作った雛人形を1人の独占にするなんておかしなことです。
まあ、「人形職人は貧しくて・・・」なんて言われると、確かに弱いですが。

しかし、あたかも母親に不安を与えるように、「1人に1つ必要だ」と言うのも感心できません。
言うまでもありませんが、自分専用の雛人形を持っていても、次から次へと災厄に見舞われる女性もいれば、家に一度も雛人形が無かった女性が幸せな一生を送ることも珍しくはありません。
断言しますが、雛人形の有無と幸福や災厄は何の関係もありません(当たり前だ)。
土台、雛人形を独占で1つ持つより大切なことが沢山あり、その多くができていないのに、雛人形で幸福を・・・なんて滑稽であることはすぐに分ります。

それに、子供たちの間でも、「自分専用の雛人形を持ってる子」とそうでない子で、微妙な、あるいは、露骨な差別が生ずることもあるでしょう。また、家に1つの雛人形もない子が辛い思いをすることはかなり多くあるでしょう。児童養護施設(昔で言う孤児院)ではどうでしょう。
そんな子のことを思いやり、親が立派な雛人形を買ってやろうと言っても断る子が本当に立派であることは間違いありませんし、その理由は親御さんも喜ばせることでしょう。この場合は、やはり雛人形は購入し、雛人形を持っていない子を招待して、「これはあなたのものでもある」と宣言し、それを証するために一緒に雛人形の前で写真を撮るなども良いかもしれません。心無い子が「他人の家の雛人形がお前のものであるはずがない」と言っても、大事なのは心であることを教える良い機会ができたことを喜べば良いでしょう。

以前、このブログでも書きましたが、宗教儀式で白い衣装が必要とされていても、それが用意できなくて辛い思いをする子供がいるよりは、自主的に普通の服で儀式に参加する子が大勢いる方が、もしその宗教が真に良いものであるなら、むしろ正しい儀式になるはずです。

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2007.02.22

人間に赦されないこと

あなたは何をしてもいい。
ただ、言い訳だけは赦されないのだ。

かなり昔、ヴァーノン・ハワードの「コズミック・マインド」という本を読んだ時、この1行だけが強く印象に残っていた。
およそ、人間を評価する際の唯一の判断材料が「言い訳をどのくらいするか」であると思う。

結果として、ある人間の言動がその本人や他人に不幸な出来事を招いた場合でも、客観的にその人間には何の咎もないと考えられることがある。
しかし、超一流の人間というのは、自分に関しては弁明しないものである。
野球選手でも、良い成績を残せなかったとして、一流選手は一言も言い訳しない。
サラリーマンも同様である。職務が不首尾に終わった場合、まともな人間なら決して言い訳しない。
子供の頃から、言い訳せずに耐える訓練をしている者は能力が高い。
ただ、一生言い訳をし続ける人間がなんとも多いのである。

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2007.02.21

美女と醜女

ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」は、主に子供向けの本では「ああ無情」のタイトルが付けられている。
しかし、この小説は簡易化して子供に読ませる意味があるとは少しも思えない。
ある程度の人生経験を積んでこそ、多少なりとも価値の分かる作品であると思う。
確かに、私も子供心に、司教のところから銀の食器を盗んだジャン・ヴァルジャンをその司教が警察に対して嘘の弁明をする場面は感動的であるとは思ったが、その複雑な背景が理解できないことには、この司教はただの優しい人、あるいは、お人よしである。

で、私は小学5年生の時、いよいよ旺文社刊の「大人向け」の「レ・ミゼラブル」に挑んだ。しかし、冒頭部分の聞きなれないフランス語の地名や人名、そもそも意味不明な言葉や、イメージの沸かない状況描写など、全く歯が立たないことが分かった。
しかし、ただ1行、鮮烈な印象に残った部分があった。
それは、かのミリエル司教の妹であるバティスティーヌの記述で、「若い時でさえ美しくなかった」という部分である。
彼女は65歳位であり、当然その年齢では美しいはずがないが、若い時でさえ美しくなかったとは・・・。私は説明できない異様な感情に囚われた。

小学4年生の時、クラスにA子という大変な美少女がいた。美人なんてものは好みの問題もあろうが、彼女に惹かれない男子は考えられなかった。また、彼女は勉強も女子では1番で(男子にもっと凄い秀才がいたので)、さらに体育も優秀で、とくに足が速く、女子では無敵であった。いや、音楽でも何でも、彼女にできないことはなかった。
そして、クラスにB子という、全く美しくない女子がいた。小太りで表情も陰気で意地悪な雰囲気であった。さらに、勉強もスポーツも音楽もあきらかにダメであった。
性格的にも、A子は抜群かどうかは別として、明るく快活であり、礼儀正しかった。B子についてはよくは分からなかったが、雰囲気が暗いのは確かだった。
私はこの時、人間の宿命について考え込んだ。同じ年の女の子であるのに、なぜこうも違うのか?B子が生きる意味があるのか?(いえ、子供の頃のことなので^^;)

で、バティスティーヌである。
若い時でさえ美しくなかった彼女の辛い人生を思わず想像したのかもしれない。小学5年生で考えの及ぶ範囲はたかが知れているが、それでも気が滅入るに十分であった。
しかし、彼女は、気高い生き方を貫くことで、老人になって高貴な美しさを持ったとある。
だが・・・^^;
たとえ小学生でも、男子による女子のスカートまくりは猥褻行為であり、犯罪であることを認識させないといけない。その意味で問題ではあるのだが、アニメ「ひみつのアッコちゃん」(1988年版)のある回で、可愛いアッコのスカートは沢山の男子から狙われるが、そうではない彼女の親友のモコが「私もやって欲しい」と思っていることをアッコに告白したことがあった(と思う^^;)。
アッコも小学5年生であったと思うが、バティステーヌはモコ以下の立場であったことが想像できる。年をとってからの高貴な美しさより、若い頃のアッコのような魅力の方が楽しいし、メリットも大きい(笑)に違いない。
だがしかし、美人は年をとった時の落胆も大きいと聞く。若い頃は、下心からだろうが、男共が親切にしてくれ、見られることも快感である。しかし、ある時期から、誰も「見てくれなく」なる。美人の楽しさを知っているだけに苦しみも大きい。年をとってしまえば、若い時に美人だったかそうでないかでさほどの差はない。よって、美人でなかった方が心安らかかもしれない。また、自分が年を取ったことに気付かないか、必死でその事実を拒否する「元」美人も少なくはないが、これは大変に滑稽で悲惨である。

だが、美しさもまた、単なる想像であり幻想である。
本当の幸福を与えてくれるわけではない。美人は心の片隅にでも憶えておくと良い。

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2007.02.20

アニメに見る男女関係の変遷

アニメに見る貴重な文化講座である(マジか)。
人気アニメが世相を反映していることは同意されるであろう(断定)。
で、アニメに見る男女関係といいますか、男女の力関係を考えよう(はいどうぞ)。

取上げる作品は、
「サイボーグ009」(1966,1979,2001)
「美少女戦士セーラームーン」(1992)
「ふたりはプリキュア」(2004)
である。

これらの作品の男女の間で、保護とか戦う力という点を考えると面白い。

●サイボーグ009
サイボーグ戦士の仲間は9名で、女性は003ことフランソワーズ・アルヌール1人である。
実質上のカレシである009(ジョー)は当然であるが、男性のサイボーグ戦士達は皆、献身的に003を守る。1つには、003が彼らの中で最も生身に近いということもあるが、それでも、身を盾にして彼女を守る姿は騎士道を見るようで感動的である(他の男のカノジョなのに)。特に、無愛想な大男である005は、大岩が降ってくれば003の上でがっしと屋根になり、敵の電撃攻撃では、彼女の身体をしっかり包み込み、自らは苦痛に呻く。もちろん、本カレの009も負けてはいない。敵の光線砲が003に命中する瞬間に彼女の前に飛び込んで代わりに被弾し、これ以上加速装置を使えば自らの身体が破壊の危機にある時も、躊躇なく最大加速で彼女の所に走り、敵の攻撃から救い自らは致命的な状況に陥る。
これほど本気で守るのはやはり003は可愛いから・・・と思いきや、003がセクハラされたという話もなく(笑)、執拗にデートを強要することもない。
日常でも、彼らは003に優しく、時には彼女の若い女の子らしい気紛れや癇癪に振り回されるがままということもある。しかし、これは003自身の女性らしい性格も関係するようである。

なんという立派な男達。立場を利用してセクハラの限りを尽くしながら、いざという時は決して彼女達を守るはずもない会社の上司や学校教師となんという違いであろう。

これらは、原作者の石ノ森章太郎氏の騎士道精神があると思う。それと共に、女性は守るものであるという意識があったのだと思う。また、やはり女は弱いものであるという思いはやはりあったと思う。
●美少女戦士セーラームーン
こちらは、セーラー戦士(当然、全員女性)は全部で10人で、男はセーラームーンのカレシであり、未来の旦那であるタキシード仮面1人であり、サイボーグ戦士達と正反対となる。
そして、タキシード仮面は、セーラー戦士達と比べて決して強くない。もし1対1でタキシード仮面とセーラー戦士が戦えば、よくてもタキシード仮面の3勝7敗であろう。
それでも、セーラームーンの危機には必ずタキシード仮面は駆けつけ、まずまずの働きはする。そして、やはり献身的にセーラームーンを守り、彼女の盾になって何度か致命傷を負ったことすらある。つまり、あまり強くはないが、彼がいなければセーラームーンは倒れていたのであり、その存在はやはり偉大である。

セーラームーンの時代では、女も自立し、強く生きることがかなり強調されるようになったと思う。しかし、いざとなると男を頼ったり、心の奥では、男にかしずかれるお姫様でありたいと思い、男の無償のサービスを当然のように思う女のいやらしさの目立つ時代でもあった。
●ふたりはプリキュア
「ふたりは」というくらいだから、当然女の子同士のペアである。
(最新の「プリキュア5」は5人組であるが、とりあえず除く。しかし、基本的には同じポリシーであるはずだ)
戦闘力のある男の味方はいない。よって、いかなるピンチの時にも決して男が助けにくることはない。(例外として、元々は敵であったキリヤが彼女達を助けたことはあった)
実は、この「男が助けに来ない」というのは制作上のポリシーであるらしい。
可愛い乙女でありながら、男に甘えない、頼らない。敵にボコボコにされても(かなり激しくやられる)、彼女達だけで根性を奮い起こして逆転勝利する様は感動的である。

いよいよ女の自立も進み、男をアテにしなくなった。
よって、男に媚を売らない。「ふたりはプリキュア」の別のポリシーでは、パンティーショット(パンチラ)、入浴シーンはもちろん、彼女たちの水着姿も出さないというのがある。セーラームーンでは、これらは満載と言って良いほどあった。
セーラームーンとプリキュアの間の時期の大人気アニメ「カードキャプターさくら」では、パンティーショットは原作者により禁止されたが、入浴シーン、水着姿はあった。
(もっとも、見えそうで見えないのが一番えっちだという意見もある^^;)


●現在の大人の女性について
現在の大人の女性が、アニメの変革通りプリキュア的かというと、完全なまでにセーラームーン的だ。
一見、自立することで自由に振舞っているように見えても、実は男に依存してまがままを通そうと思っているに過ぎない。
そして、男を自在に扱う唯一最大の武器は性的魅力と心得、化粧品のCMに見られるポリシーは「男を欲情させるのが女の値打ち」「いい女は我慢知らず。わがままで行こう」「女に知性は不要」であろう。
もともとがセーラームーンが女の子に人気があったのは、セーラームーンはプリンセスであり、親身に尽くしてくれる仲間(家来でないのか)と、自慢するに足る王子様(タキシード仮面こと地場衛は超美青年の上、異常なまでの秀才である)が、命がけの献身と、一切のわがままを許してくれる包容力を持って慈しんでくれるという、まさに女の子にとってのパラダイスがそこにあったからという説もある。

ところで、現在は男の方も、騎士道精神などは持ってはいないだろう。
サイボーグ戦士やタキシード仮面が騎士道精神で動いていたとしても、現在の男が女に仕える理由は下心なのであるから、いざという時の献身など期待しない方が良い。

男が騎士道精神を培い、女がかつての女性らしさを取り戻すか。
あるいは、女がプリキュア的に進化するか。
いずれかが日本を救う・・・かもさいれない(笑)。現状では間違いなく、崩壊に向かって進んでいる。

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2007.02.18

ヒノカガヤキ、ツキノシジマ

幸福になるには、太陽か月のようであることだ。
太陽のように、与えに与えるか、月のように静かに見守るかである。
ただし、いずれの場合も一切の分け隔てをしてはならない。
全てを愛することができるなら、太陽のようであればいい。
しかし、そうでないなら、月のようにあれ。つまり、全てのものから一切の関心を引き上げよ。
真の幸福に至る道は、このいずれかしかない。
・・・って、誰が言ったのかなあ(笑)。

20070218

週に一度のラクガキの日です^^;
見習いシスターさんは、1人で、明日のミサのために大聖堂のお掃除をして、すっかりくたびれて眠ってしまいました。髪もボサボサで・・・。
先輩シスターさん達はメイクアップして合コンに行ってしまいましたので(笑)。
・・・というシチュエイションです(笑)。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.02.17

結婚に適さない日

どうしても忘れられない言葉がある。
バーナード・ショーとの会話らしいが、こんなものである。
「先生、金曜日に結婚すると不幸になるというのは本当でしょうか?」
「もちろんだとも!金曜日だけが例外であるはずがない!」

笑い話には違いがないが、これほど奥深い会話も滅多にはない(?)。

回答者の意味することは質問者の期待を裏切ることがよくある。
これは、回答者の方が頭が良かったり、老獪である場合はありふれたことである。
だから、相手の方が頭が良い場合、その相手の回答には、よくよく注意しなければならないのである。しかし、これを怠る場合がなんと多いか!
これは、人間というものが、自分の頭の良さを買いかぶり、実際には自分より賢い相手を自分より低いあるいは対等と思ったり、相手は自分に親切にするべきという妄想を持つことも示している。

ショーに質問をした者は、結婚したがっていたが、結婚する日は金曜日を外すべきかどうかをショーに聞きたかったのかもしれない。もしそうなら、ショーの答えは何の役にも立たないばかりか、この質問者は結婚すらできない。
こんな例はどうであろう。
「借金の返済を10日待ってください」
「よかろう」
「ありがとうございます」
「ではこの証文にサインしろ」
「はい」
「よし、では、10日後に返済できない場合は、お前の娘をいただくことになった」

「怒りの荒野」(DAYS OF WRATH 1967)という、ジュリアーノ・ジェンマ、リー・バン・クリーフ共演の西部劇がある。
一流ガンマンであり知略家のタルビーが、ガンマン志望の私生児スコットに、「ガンマン心得十カ条」を教えるが、その先頭2つが「人にものを頼むな」「人を信用するな」である。この十カ条はよく知られるようになったが、確かに重要である。

ついでに言うと、「真理はシンプル」でもある。
ショーへの質問は愚問であった(笑)。

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2007.02.16

太陽の芸術、月の芸術

この世で苦労しない方法は、夢の中で苦労しない方法と同じだ。
そもそもが、夢と目覚めに何らの違いもない。

昨夜の夢は金色 幼い頃に遊んだ庭
佇むあなたの元に 走って行こうとするけれど
もつれて もつれて 涙 枕をぬらすの
(「時をかける少女」より 詩・曲:松任谷由実)

この歌に表現された者も、愚かにも人生で苦難を味わう罠にはまっている。
夢も人生も、何ら悪いものではない。ただのショーである。
問題は、夢の中のある部分が好きで、ある部分が嫌いであることだ。
これが全ての苦悩や不幸を生む。
正しい態度は、全てを愛するか、全てに無関心でいることである。
クラスのA子は好きだがB子は嫌いという者は必ず不幸だ。
好みの食べ物に大いに惹かれるのに、嫌いな食べ物があるから食事が憂鬱なのである。
学校や会社などの中で、気の合う仲間がいるのに、どうしても嫌な人間がいるという場合、悲惨は避けられない。
嫌いなものを好きになるのは難しいかもしれない。なら、全てに無関心であれば良い。
昔から、3無主義とかいって、「無関心」「無感動」「無責任」が若者の悪しき傾向のように言われ、無関心も欠点のように思われているかもしれない。しかし、本当は特定のもの以外に無関心であるから良くないだけであり、全てに無関心であれば実は良い。
こう言う者もいるだろう。
「打ち込むべきことに無関心であるべきでない」
野球選手が野球に無関心だったりすることはあり得ないという発想である。
関心があるからといって、その分野で成功しないわけではない。だが、苦難は避けられない。

先の「時をかける少女」であるが、彼女が夢に見た「あなた」は、おそらく彼女が愛する人である。しかし、彼女が「あなた」に無関心になれば、走っていこうともしないし、足がもつれることもない。結果として、涙を流すこともないだろう。

マザー・テレサは、「他人への無関心が罪である」と言った。それは正しい。
しかし、本当は「他人に無関心で、身内や仲間に関心がある」ことが罪なのである。
全てに無関心であれば、行為者であるという自覚なく、正しいことを行うようになる。

幸福の秘訣は太陽のようなるか、月のようになるかである。
分け隔てなく、与えに与えるか、あるいは、やはり分け隔てなく静かに接するかである。
芸術にも、恐いほど与える芸術もあれば、無色透明な芸術もある。前者がピカソやゴッホや岡本太郎なら、後者は円空や晩年の池田満寿夫と思う。

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2007.02.15

オール1が教師になることについて

書店で、「オール1の落ちこぼれ 教師になる」というタイトルの本を見た。
いったい、どんな意図で付けたタイトルなのだろう?
このタイトルを見て驚くような、マインドコントロールされた人間がまだまだ多いということだろう。
オール1の落ちこぼれが教師になって、何の意外性があろうか?
私なら、
「オール1の落ちこぼれ 詐欺師になる」
「オール1の落ちこぼれ 強盗になる」
「オール1の落ちこぼれ 売春婦になる」
などの方がまだ意外だ。

解説するのも馬鹿馬鹿しいがやってみよう(笑)。
「AがBになる」が意外なのは、Aの価値とBの価値に差がある(と認識される)時だ。
「オール1」そのものに何ら欠陥はないが、「おちこぼれ」を付けることで価値を落としている。ここは著者の主張を受け入れるという理由だけで、「オール1」を低いものと仮定する。相手に敬意を払い、一応は理解を示すということは人間関係の基本だ。
ただ、もう一方に関しては、「教師になる」と言ってるだけで、「教師という素晴らしいものになる」という価値付けをしていない。
なら、幼稚な変態だらけの教師が「オール1」よりマシである理由は何もなく、なんら驚くべきことではない。むしろ、「オール1」の本来の価値が低い理由は何もないことから、「オール1のまともな人間が、教師という馬鹿げたものになった」と捉えるなら、それはそれで良いと思う。

こんなタイトルが狙い通りの効果があるうちは、やはり教育界はダメであろう。

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2007.02.13

私だけが存在する

小学3年生の時と思うが、私は自分が意識を持っていることに気付いた。
それは最初、「意識空間」のような球体をしたものと感じたが、その大きさがどのくらいかというと、おそらくは無限で、少なくとも宇宙に匹敵すると思った。
そして、他の人も同じように意識空間を持っているのだろうかと考えたが、それは想像しにくかった。それ以降、他の人も意識を持つのかということは謎となったが、私は、多分それはないと思った。意識を持つのは私だけだ。
ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなただけが存在する」と言われ、それを信じた。そして、その言葉を覚えることで、短い間に覚者となったという。
他の者がいないなら、目に見える他者を虐げても良いのか?
実際は反対と思う。他者と見えるものは全て自己であるからだ。
別の言い方をするとこうなる。「私がいるから全てが起こる」
偶然に起こったことでも、自らの意思とするものが強者であり、神に近いといえる。これは、決して、「全ては神の思し召し」とすることとは違う。後者は神の選択を崇拝したが、前者は神の機会を崇拝するのである。

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2007.02.12

人間の美徳

本日、テレビで石原慎太郎都知事のインタヴューを視聴したが、興味深い話があった。
三島由紀夫に、「自分の思う男の美徳を紙に書こう」と言われて書きあったところ、お2人とも「自己犠牲」と書いたらしい。
自己犠牲とは、他人のために自分の欲望を無視してしまうことだと思う。
別に男に限らず、例えば巫女やシスターの服に憧れを持つのは、それが本来は自己犠牲を示すからと思う。形で言うなら、男では、ある意味、軍服かもしれない。

20070211

そんなわけで、シスター萌えは続く・・・ではなく、「自己犠牲」の象徴、シスターさんを描きました^^;
儲け主義の企業(政府も加担)による消費意欲(欲しがり癖)増大作戦のため、我慢知らずの馬鹿女をもてはやす風潮が強いのは嘆かわしいですが、自分の欲望から注意を逸らすことは、自分にも幸福をもたらすものだと断言できます。
左の小さな絵をクリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

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2007.02.11

方法叙説のすゝめ

書店の(最近はあまり行かないが)「啓発書」コーナーに行けば、「自己開発」だの「有能になる方法」だの「成功する習慣を身に付ける」だのといった膨大な数の本があるし、さらに新しい本が次々に出る。
良い本も1冊か2冊はひょっとしたらあるのかもしれないが、そんな本に当たる可能性は宝くじに当たるようなものだ。
人間としての能力を磨くのに、17世紀のルネ・デカルトの書いた「方法叙説」以上のものがあるとは思えない。
デカルト批判にもいろいろあるし、中には正当な批判もあるかもしれないが、私が目にした範囲においては、批判者の能力はデカルトの足元にも及ばず・・・というか、問題外であった。
近代思想におけるデカルト、精神分析学におけるフロイトというふうに、パイオニアというのは不利な立場にあるという面はある。彼らをまことしやかに批判する論理を作るのは難しくはないし、彼らが巨大であればこそ、それが売名になると心得る連中は多いだろう。
だが、真に賢い人の立場とは、例えばマスローのように「私の仕事はフロイトの深い意味の追求であった」といったように、実際的なことを誠実に行うものなのである。

「方法叙説」は短い本である。本の値段は中味の価値にはあまり関係ないと見え、養老孟司氏が30ページもの解説を書いたせいですっかり分厚くなった(笑)白水社のものでも680円だ。私が昔買った角川書店のものは180円だった(「方法序説」と表記。アマゾンでこの古本が75円で買える。ただ文字が非常に小さい)。
そして、難しいかといえば、デカルトは12歳の子供が読み通せるように書いたという(ただ、当時の12歳の学童は今の日本の大学生より知的であるかもしれない)。

義務教育や高校教育において、「方法叙説」が紹介されることはない。学校でそんな良いことが行われるはずがない(笑)。
私は養老孟司氏のような立派な人間ではないので、4~5回は読んだとは思うが、おそらく身に付いたのはせいぜいが数ページであったと思う。それでも、仕事嫌いでお馬鹿な上、引きこもりのニートであった私が(笑)、苦労することもなく楽に社会で生きているのは、方法叙説でものの考え方をほんの少し身に付けたおかげと思う。
現在の啓発書、成功法則、怪しい占い師や霊能力者(笑)の本は、自己を破壊しこそすれ何らの役にも立たない(私もかなり破壊された^^;)。学校教師の指導も全く同様と思う。
また、現在の日本は、どこの国によるものかは知らないが、日本人無能化作戦がかなり進んでしまっている(マジか?・・・マジです^^;)。方法叙説で、最低限の頭の使い方を修得することをお薦めする。

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2007.02.09

病気は全て心因性という考え方

病は気からと言う。
NLP(神経言語プログラミング)の創始者リチャード・パンドラーは著書の中で、彼は全ての病気は心因性であると最初から決め付けていると書いていた。
C.H.ブルックスの「自己暗示」には、著名な心理学者エミール・クーエによる病気治療について書かれているが、深刻な器質性疾患も暗示療法で治癒させる例が数多く示されている。
心身医学の父と呼ばれる、ドイツ人医師のデオルグ・クロデックの「エスの本」を読むと、クロデックは全ての病気は(当然器質性も含む)心因性と断言している。さらに言えば、怪我とか事故まで心因性であると言う。
これら3つは、おそらくは実績豊かで、医学会でも完全に無視されているわけでもないと思う。効果があるせいか、これらを使って金儲けをする連中も後を絶たないが、上記に関しては、創始者自身が書いた本のみが有効であり、その他は読む必要はない(エミール・クーエに関しては上記の通り、C.H.ブルックスによるものが唯一の正確な本である)し、第三者による妙なメソッドを行う必要もない。
個人的には、この中でNLPはあまり納得できなかったが、この手法をちょっと試したところ、酒豪に1分で禁酒させたりと面白い効果を確認した。とはいえ、単に私の暗示が効き過ぎたせいかもしれない。はっきりいって、よく分からない。NLPは商売色の強いものが多いので、私は関わりを持たないことに決めている。また、NLP自体、ミルトン・エリクソンの手法を取り入れているし、パンドラー自身もエリクソンから離れていない。それならば、エリクソンの研究をした方が良いかもしれない。

個人的には、病気や健康に関しては、自己暗示(C.H.ブルックス著、河野徹翻訳 法政大学出版局)、エスの本(ゲオルグ・クロデック著、岸田秀・山下公子翻訳 誠信書房)の2つを読むことをお勧めする。治癒されるかどうかは知らないが、大いに得るところはあると思う。

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2007.02.08

芸術的アニメ作品

私が長い間、待ち続けたDVDがついに発売されます。
5月25日ですが。早くゴールデン・ウィークよ終われ!(笑)

その作品は「CLOVER」です。
CLAMPさんの同名の漫画をショート・フィルム(短編映画)にしたものです。
1999年に、劇場版「カードキャプターさくら」と同時上映されたものを見て衝撃を受け、あれからずっとメディア化されるのを待っていました。
ノーカットで、堂々5分間の作品です(笑)。
しかし、原作のミステリアスさ、ドラマチックさが存分に表現された美しい作品です。

ヒロインは、スゥという名の12歳の美少女。
スゥとは、中国語の「4」です。彼女は、4つ葉のクローバーというわけです。
でも、彼女が幸せになれるか、誰かの幸せになれるかは不明。
彼女が人を好きになることには、とてつもなく大きなリスクがあります。
どれくらい大きいかというと、宇宙最大のリスクと言えるのですが(笑)。

漫画の「CLOVER」は、ベスト装丁賞をあげても良いくらい、個性的な装丁の上、漫画そのものがまた形式においてもユニークです。
1999年に連載が終わり、その個性的なコミックスも4巻発売されましたが、いまだ未完。
CLAMPさんは続編を描く気もあるようですが。

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2007.02.07

夢のない眠りで起こること

皆さんは、夢のない眠りにあった時のことを憶えているだろうか?
憶えていない?
憶えていたら、とても面白いのだ。
平和な眠りの夜のことを憶えているのだから。
ただ、そこにはマインドはないので、欲望も苦痛も悩みも恐怖もない。
憶えていないのは意識に空白があるからだ。
そして、実を言うと、目覚めの間も意識は空白だらけで、見えていて聞こえていても、ほとんど何も憶えていないものなのだ。
思考、感情、行動、言葉を注意深く意識するようにしていれば、意識も発達する。すると、眠りのない夜のことも憶えているようになる。
そして、その時は、なんとも楽しいことが起こる。
何が起こるか?
とても楽しいので試して欲しい。

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2007.02.05

不安への対処。芸術その他。

誰しも、ふと、言いようのない不安感がこみ上げてきたり、大きな不幸感に苦しくなることがあるのではないだろうか?
自分が将来どうなるんだろうかとか、自分はもっと良い立場になれたはずが、他人や不運のせいで、得られるべき正当なものが得られず、このような(低い)境遇に甘んじているのであるとかである。

まあ、これらのことが芸術の題材になることもあるだろうし、思想やあるいは心理学の問題として扱い、何らかの体系を作って有名になることもあるかもしれない。
また、こんな人間精神を利用し、宗教、占い、あるいは、成功哲学とかで大儲けする連中も後を絶たない(笑)。これらをミックスでやるとさらに効果は大であるかもしれず、正気で考えれば不快なオバさんが連日テレビで豪放発言しながら人気を博していたりする。

さて、これら不幸感、不安感にどう対処するか?
宗教、占い、成功哲学などは、別の不安や不幸に連れて行くだけなので、縁を持たないことをお薦めする。
養老猛司さんあたりだと、「馬鹿なことを考えずに身体を使って働け」と言われるかもしれないが、普通に言うならそれが一番正しいというか、それしかない。
唯幻論の我らが岸田秀先生やフロイトだと、これらの心理を母親との関係として捕えるなどして、それなりに論理的に納得するかもしれないし、それはそれで有意義と思う。

こんな考えもある。心がぐらつくなら、ぐらつかせておけ・・・と。ただそれを客観的に見ていろ・・・と。するとやがて抜け落ちる。その時何が起こるか?それを確認しろ・・・と。これは、ヴァーノン・ハワードの本に書かれていたことだが、私には、これが彼のオリジナルの思想かどうか分からない。少なくとも、別の高名な思想家の方法を参考にはしたのではないかと思う。ハワードはこれらの思想を歪めてはいないが、商売にする必要性からか、グループメソッドに重点を置いたスタイルを取った・・・なんてうがった見方も出来た。単にアメリカ人向きにしただけかもしれないが。

尚、芸術においては、太洋感情による精神の昇華という効果が考えられる。
心理学においては、マスローではそれを至高体験として非常に肯定的に扱ったが、フロイトにおいては、退行性の一体感、すなわち、幼児が母親に対して持つものとされ、リビドーの逃避となるのだと思う^^;

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2007.02.04

円空の石仏と池田満寿夫の陶芸

円空と言えば、膨大な数の木彫りの仏像を作ったことで有名であるが、石仏も作ったらしい。
梅原猛さんの「歓喜する円空」(2006年新潮社)にあったが、自然石に顔の輪郭だけ掘り出したもので、その神秘性に梅原氏は「こんなものが作れるのはピカソのごとき天才」と書かれていた。
私は、「池田満寿夫般若心経写真集」(1995年同朋舎出版)という、池田満寿夫さんの破壊された野焼陶芸作品を見て、梅原さんのその記述を思い出した。凄まじい神秘性と荘厳さを感じたが、蕪木研爾氏の写真がまた素晴らしい。
池田さんの陶芸の異形の仏像にも、何か円空のようなものを感じた。やはり池田満寿夫さんは天才だと思う。

20070204_2

本文とは何の関係もありませんが、日曜はラクガキする日です(笑)。
先週のシスターさんを脱がせてしまいました^^;

見なくていいですが(笑)、絵をクリックすると大きな絵がポップアップで出ます。

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2007.02.03

記憶の嘘

これまでに何度映像化されたか知れない、筒井康隆さんのSF小説「時をかける少女」で、未来人ケン・ソゴルは深町一夫という普通の中学生になりすましていた。
二人だけで暮らしていた老夫婦の深町夫妻に、自分が孫であるという記憶を植え付けてその家に入り込み、また、学校の先生や生徒達、近所の人たちにも、自分がもともと深町家にいたと思い込ませた。
このように、「偽の記憶」を植え付けるという手法は、かなりポピュラーなものだ。
昭和アニメ「魔女っ子メグちゃん」では、メグは元魔女のマミにより、マミの家族である神崎家の人たちに、魔法でメグがこの家の長女であると思い込ませた。
また、「美少女戦士セーラームーン」でも、セーラームーンこと月野うさぎの(未来の)娘であるちびうさ(母親と同じうさぎという名前)を従妹と家族に思い込ませることで、その家で生活した。
逆に、忘れるというものもある。
深夜アニメ(妖しい響きだ^^;)の名作「神無月の巫女」では、姫子と愛し合った千歌音(両方女の子ね^^;)の存在が消去され、千歌音はもともとこの世に存在しなかったことになる。

ところで、こういった話が荒唐無稽かというと、そうでもない。
催眠術を使えば、自分の家族を他人と思わせたり、または、逆に赤の他人を家族と思わせることも可能と思う。(よほど巧妙でないと、長期間、そう思わせることは難しいと思うが)

では、あなた自身の記憶というのは、本当に正しいのだろうか?
あなたのきょうだいは、本当のきょうだいであろうか?あるいは、親は?子は?夫、あるいは妻は?
本当は、ついさっきマインドコントロールされて、昔からのきょうだい、親、子、夫、妻と思い込まされただけではないのか?
実は、間違いなくその通りなのだ。
夢の中のことを考えて欲しい。あなたが男性で、夢の中で堀北真希が妹だとしても、あなたは彼女にサインを求めたり、大喜びしたり、いきなり○○○(自粛)したりはすまい。
ごくあたりまえに「真希~、今日は部活あるのか~?」とか言うのである。
「うつつ」も全く同じである。心が作り出した幻想である。
もちろん、夜の夢同様、うつつも目覚めることができる。では、目覚めた時、何が起こるか?「爆発」である。心は解放され、うつつは完全に夢として扱われる。

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2007.02.02

自らの正義を貫く

「自らの正義を貫け。これはあなたの言葉ですよ、理事長」
この言葉を聞いたのは10年以上前だが、あれ以来、ずっと引っかかっていた。
同じ言葉を、現在、およそ25歳以下の女性の多くが聞いているはずなのだ。
これは、アニメ「美少女戦士セーラームーンS」124話での、セーラーウラヌスのセリフである。

「自らの正義」ということは、個人的な信条を表していると受け取れ、それが独断であって、普遍的な正義でないことはもちろん、悪とみなした方が良い場合もあるかもしれない。
よって、その言葉が間違いであると反発したことで憶えていたのであろうか?
だが、最近になって、私はこの言葉に価値があると理解した。
正義には3つある。
「個人的正義」「大衆的正義」「真の正義」である。
このうち、「真の正義」は人間に行なえるものではない。そもそもが、人間には認識不可能なものだと思う。よって、人間の立場から言うなら、「真の正義」は存在しない。
なぜこう言えるかというと、正にして義なると言う時、それは何らかの目的に対して言うものであるはずだから、真の正義と言うからには、宇宙全体のあらゆる目的の中でも最高の目的に対する有効性がなければならない。神とか宇宙の意志とかが存在するのかどうかは分からないが、もし最高の目的があるなら、それは、こういった至高の存在の知るところのものであり、人間には不知としか言いようがない。

では、残り2つの「個人的正義」と「大衆的正義」では、どちらが正しいか?
少なくとも、圧倒的に危ないのは大衆的正義である。
大衆の中に真理は無いと言ったのはイェイツだし、エリオットは、大衆が求めるのは憎しみであって愛ではないと著作で登場人物に言わせていたが、全く同感だ。
歴史的にも、個人一人一人で見ると良い人なのに、集団になると残虐な行為に走る例はいくらでもあった。
ただ、では個人に真理があるのかといえば、それも無いだろう。しかし、個人は賢くなる瞬間があるが、大衆にはそれが決してない。
個人が賢くなる瞬間とは、心が静まり、欲望が消えた状態だ。もし、大衆がそんな状態になるなら、それはもはや大衆とは言えず、他人というものが存在しない状態であろう。

これらから考え、自らの正義を貫くということは、人間の行動の中でも崇高なものと言えるかもしれないと思う。

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2007.02.01

産む機械発言より困ったこと

何かと話題の、柳沢厚生労働相の女性を「産む機械」と表現した問題だが、私としては、柳沢氏の釈明の方が驚いた。
「分かりやすく説明した」というところである。
子供を生める女性の数は決まっているということを、それ以上分かりやすくする必要がどこにあるのか?
これは、何でも全く頭を使わなくても簡単に理解できる話をしないといけないという困った風潮を反映していないか?
人気テレビ番組、テレビCMなど、日本全国、分かりやすい話だらけである。そして、その中味は全く問われない。納豆ダイエット、占い、霊能コンサルティング・・・おかしなものだらけである。
頭を使わないので、耳に心地良くさえあれば何でも無分別に受け入れる。
非常識な人間が国務大臣をやっているというのも問題だが、日本の将来を憂うなら、私としてはむしろこちらが問題と思う。

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