乙女の誘惑
禅宗には「公案」と言って、修行者のための問題があります。いわゆる禅問答です。
あまりにも訳の分らない問題が多く、「こんにゃく問答」と言われることもあります。
その中に「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という、面白い(?)ものがあります。
だいたいのお話がこんなものです。
お婆さんと若くて美しい娘が二人で住んでいた。
このお婆さんは、1人の修行僧の面倒を見、寝食の世話をしていた。
その僧の修行も20年になった時、お婆さんは、娘に僧を誘惑させる。
娘は、年の頃15・6の萌え萌え美少女であった・・・とは公案にないが(笑)、まあ、そんなものと思って欲しい。そんな美少女が「ねえん、好きにして・・・」と恥じらいながら寄り添う・・・とも書かれていないが、まあ、そんなところだ(笑)。
しかし、僧は、「ふっ、私のハートは凍った岩のごとし。無駄なことじゃ」と相手にしません(ごりっぱ!)。
これを娘から聞いたお婆さん、僧を追い出し、僧のために立てた庵を焼き捨てた。
で、公案は、この意味を問います。
さて、なぜお婆さんは怒ったのか?僧はどうすべきだったのか?
あくまで、昔の本ですが、仏教学者の増原良彦(ひろさちや)氏は、「人間的欲望を捨ててしまうことが修行ではない。チューくらいまでは良かったのではないか」と書かれていました。
しかし、チューで火を付けて後は知らんというのはあまりに・・・^^;
有名な一休禅師は、老いてからこの公案について、「こんなことがあったら、この枯木(老いぼれた自分のこと)にも青い芽が出ますぞえ」と言いましたが、つまり「いただきます!!」ということでしょうか(笑)。
いえ、一休さんって、確かにそういう生臭坊主でした^^;
総じて言えば、人間的でないものになってしまっては、人を救うこともできない。そこを、この修行僧は勘違いしているといったところでしょうか?
この公案は難しいものとされていますが、禅問答集などを見ると、大体が増原氏と同じような解答になっているような気がします。
しかし、それは優れた解答ではありません。
私が真の正解を述べましょう(をを!)
まず、僧が正しい修行者とします。
凍った岩のような人間であってはならないのはそのとおりです。
そして、彼は、娘に手を出しても出さなくてもどっちでも良かったのですが、多分、手は出さないでしょう。状況次第ではありますが。
とりあえず、僧も、若い萌え萌え美少女が好きですが、別に何もしなくても残念だとは思いません。また、何かしたらしたで、それもよしなんですが^^;
このような僧の境地は、決して冷淡で無味乾燥とした高みに超然とある・・・といった寂しいものではありません。感受作用も普通の人と同じです。
しかし、修行が進み、至福の境地にあるわけです。その幸福感の強さは、萌え萌え美少女の誘惑などよりはるかに高いので、別にどうでもよいわけです。
よって、正解は「幸福であるから手を出しても出さなくても良い」です。
セクハラや痴漢みたいなことをする者は幸福感がなく、自分が不幸でみじめであると感じているわけです。
また、アマゾンのような通販サイトを見ると、アダルト商品の数が凄いことが分ります(いえ、そんなに詳しくはないのですが^^;)。しかし、このようなものを欲しがるのも、やはり自分をひどく不幸だと感じている人たちです。
ただ、世間でいう「幸福」と真の幸福とは全く違うものであるかもしれません。






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