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2007.01.11

世界は私の腕の中

ある時、私は眠っているとも目覚めているとも言えないような状態でいたが、自分の部屋に居ることは自覚できていた。
その時、部屋の壁を大きなトカゲで這い回っているのを見た。墨のような色だが美しく、その動きは生き生きとし、優雅な感じさえした。
やがて、そのトカゲは動きを止めたが、それはなんと壁の細長い形の木目に変わってしまった。やはり、そのトカゲは白昼夢のような幻覚であった。
しかし、幻覚としても実にリアルであったし、木目の模様がトカゲの幻覚を起こしたはずなのに、トカゲが動き回った後で停止した場所で木目に戻ったことが不思議だった。

コリン・ウィルソンの本で読んだが、現実世界そのものが、我々の内部の何らかの力が能動的に構築するという考えがあるらしい。
絵画を見る時は、我々の内部の何かが瞬間でその絵画を作成するというわけである。
ただ、その構築の度合いというものがあるらしく、それが強い場合には迫力があるが、それが弱いとくすんだものになるものであるらしい。
突飛な考え方には違いないが、体験的に考えても、実際はそうではないかと思わせるところがあるし、上に書いたトカゲの幻覚からも、我々の内部にある神秘な力の存在の可能性を感じさせられる。
サルトルは、小説を読むということは、その小説を自分で書くことであると言ったそうだ。また、ショパンの音楽を聴いていたら、自分がショパンになり、その音楽の意味するものが鮮明に浮かんだ体験をする者がいるようだ。

我々は、世界は自分の外部にあり、自分がその中にいるのだと当然に考えている。
しかし、実際には、逆に世界が自分の中にあるのだというインスピレーションが閃くことがある。
エルメスやグッチのバッグを手に入れるには、普通かなりのお金が必要だ。さらに、車や家となると、もっと多くのお金が必要で、島1つともなると、かなりの富豪でないと手に入れるのは不可能であるとされる。しかし、宇宙がまるごと自分の中にあるのであるから、もともとが全て自分のものであり、手に入れるという行為は不要になる。
宇宙そのものが、心の作り出したものであるからだ。しかし、それが本当に価値あるものであるかどうかは話は別である。上に書いたトカゲのように、単なる幻想に過ぎないものであり、しかも、それに執着を持つことで苦しみを味わうことになる。
幻想に実体はなく、それを諸行無常といい、般若心経では空と言ったような気もする。
ただ、幻想を見ている何かはあるはずである・・・というのは、デカルトも考えたように思う。彼は、全ては疑わしいと考えたが、疑わしいと思っている我が存在していることだけは確かだとして、例の有名な「我思う、ゆえに我あり」と言ったのである。
ただ、その「存在する我」が言葉で説明不可能であり、体験といったものも超えているので、人間としては「ない」としか言えない。
よって、岸田秀先生の「唯幻論」でも、究極の実体、真の自己はないと結論されていると思う。
翻訳ではあるが、「十戒」(「じっかい」でないと変換されないのはなぜ?)という映画で、モーゼに十戒をさずけた神が、自分を「在りて在るものである」と言ってたのが興味深い。真の自己がもし神であっても、それはただ「在る」としか言えないのである。

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