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2006.12.14

真の勇気とは

よく聞くのだが、「勇気をもらいました」という言葉ほど馬鹿げたものはない。

「勇気をもらいました」という言葉の何がそれほどおかしいのかお分かりだろうか?
そもそも勇気とは何だろう?
勇気のことを、向こう見ずとか博打と思っている人は多いと思う。そんな迷惑なものが勇気なら、全く不要である。

ロシアのベスラン学校占拠事件を憶えている人は多いだろう。
あの時、他の人質達のために、自発的に犯人グループに水を要求に行った少女がいた。
彼女は助からなかったらしいので状況が分からないが、これから「勇気をもらいました」という人はいないだろう。
別に彼女の行為の源を勇気と呼んでも良いが、むしろこれは誠意と覚悟である。もしこれが勇気であれば、誠意や覚悟をもらえないのと同様、勇気をもらうこともできない。

もらったという勇気とは、ほとんどの場合、「欲望が満たされる期待」という意味だ。それは幻想(妄想)の期待である。そんな妄想は一瞬は心地良いものである。
そして、欲望が満たされないとどうなるのだろう?不安になるのである。

つまり、勇気をもらわねばならない人というのは、不安が正常な状態の人である。
「勇気をもらいました」という人は、言い換えれば、「私はいつも不安だ」と言ってるのである。
なぜ不安かというと、様々な欲望をひっきりなしに起こしているからだ。
1つの正しく強い欲望なら勇気に変わるかもしれない。しかし、個人的で浅はかな欲望であれば不安になるのは当然である。

さて、では、本当の勇気とは何であろう。それは不安とは無縁のものであるはずだ。
では、結論らしきものが見える。
勇気とは、自分が無であることに耐えることである。奇妙に思える向きもあるだろうが、これが真実だと思う。

我が敬愛する史上最高の賢者、岸田秀先生は(ちと褒め過ぎ^^;)、自我とは幻想であり、真実の自分など存在しないといった。岸田先生を心棒する伊丹十三氏でさえ、「しかし、偽りの自己を取り去れば本当の自分が現れるのでは?」と食い下がったが、岸田先生は「ない!」と切り捨てた。
そして、本当の自分がない不安には「耐えるしかない」としていたと思う。

自分が無であることに耐えられれば不安はない。それが勇気の状態である。
上にあげた、テロリストに水を要求した少女は命を捨てていたのではないかと思う。馬鹿でない限り、命を惜しんでできることではない。彼女はそれに耐えたのだと思う。
先にも言った通り、この勇気とは誠意と覚悟である。

誠意と覚悟。あなたにはものごとを成し遂げる心構えがあるようね。
~アニメ「ツバサ・クロニクル」より 次元の魔女の言葉~

本当は書かない方が良いと知りつつ、期待を持たせることを書くなら、無になりきれば不可能はない。全て可能となる。
これはよく聞くことであると思う。
絶体絶命を切り抜けた人たちは、その刹那、全てを捨てていた。
不世出の空手家、大山倍達氏が、真剣を持った剣の達人と決闘した時も、「手足の1本でも残っていれば相打ちに」と思って突撃し、気がついた時は、相手は川原でのびていたという。この時の経験からか、大山氏は、「先に命を捨てた方が必ず勝つ。喧嘩でも」と何かに書いていたと思う。

繰り返して言うが、勇気とは、自分が無であることに耐えることである。生きる目的も無ければ、欲望も期待もない。そうなれば真の誠意と覚悟を発揮する。

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