「ただ者」を超えるには
誰しも「ただ者ではない」自分になってみたいのではないだろうか?
大いにヒントになることを述べてみようと思う。
それは、何か1つ、修行とでも言って良いことを毎日やることである。そんなに難しいことでなくても構わない。しかし、「必ず毎日やること」である。
新渡戸稲造の有名な「武士道」に載ってたと思うが、江戸時代、ある武士がたまたま見かけた町人の男を見て、その目付きや立ち居振る舞いがただ者と思えず、何者かと問い詰める。すると、その町人は「ただの町人です」という。だが、もし人と違って見えるなら、こういう訳かもしれないと言って話すには、彼は子供の頃から臆病であったが、それを克服しようと、毎日暗くなると必ず墓場に行くようになったということだ。当時の墓地は、いまの爽やかな霊園とは全く違い、ことに夜ともなると不気味で、臆病者が一人で行けるような場所ではない。それを毎日続けることができた彼は、確かにただ者ではない。
新渡戸稲造も、何かやらねばと思い、それを行水とした。何があっても毎日やってこその修行である。風邪をひいて高熱が出た日も続け、医者に怒られたそうだが、ここまでの堅い意志があってこそ偉人になれたのであろう。
日産自動車のセールスマンとして、16年連続ナンバーワンセールスマンであった奥城良治氏は、毎日1時間の競歩をすると決めたが、会社の慰安旅行先で歩くための平地がなくて困った時、石段の上り下りを1時間やったそうだ。最後には、息も絶え絶えとなり、手で脚を持ち上げないと昇れなくなり、奇異な目で見られたが、そこまでやる男だったから長年ナンバーワンセールスマンでいられたのであると思う。
偉大な人間について調べると、確かに毎日の修行を何かやっていた場合が多いと思う。毎日聖書を読んだり、公共の場所の掃除をしたり、お経を読むなどの行をしたりである。
座禅や瞑想みたいなものでも、たまに気が向いた時にやっても大したことはないが、1年365日続いたなら立派なものである。例えば、毎日欠かさず座禅を組んでいる者が、全くのダメ人間というのは考えにくい。
野球選手であれば、決まった時間になると、宴会中であろうが酔っ払っていようが必ずバットで素振りをする選手もいた。
芸術家でいえば、ピカソやゴッホやモディリアーニは、それこそ毎日必ず長時間絵を描いていて、制作枚数も半端でなかった。
継続は力なりというが、本当だと思う。
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