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2006.11.30

ミュー

良い響きの言葉と思うが、「ミュー」と聞いて、何を思い出すだろうか?
Googleで見ると、意外にも商用の名前に使われていることが多いことが分かる。つまり、お店や会社の名前、あるいは、ブランド名や商品名である。
高校生の方なら、摩擦係数(μ)のことであると言うかもしれない。
ミューはギリシア文字のMまたはμである。MはアルファベットのMと同一視されるが、元来は別物である。
マイクロ記号として使われることも多いが、これは形が似ているからで、本当はマイクロ記号は別のものである。

ちなみに、私はと言うと、小泉今日子さんが歌った名曲「夜明けのMEW」を思い出すが、このMEWは、猫などが、このままの通りMEW(ミュー)と鳴くという動詞である(面白い^^;)。
ちなみに「夜明けのMEW」は現在でもシングルで入手可能であるが、どうせなら「Best of Kyong King 」をお薦めする(なんのこっちゃ・・・)。
もう1つ、私がミューで思い出すのは、ポケモンの1つ「ミュウ」である。「ミュー」ではなく「ミュウ」であるが、この名前は「ミュータント(MUTANT)」から来ている(なら「ミュー」ではないかとかいう話は置いておく^^;)。
私はポケモンはあまり好きではない。自分で戦わずにポケモンに戦わせるというのは怠慢(?)であるし、それも、心を通わせた可愛いポケモンを闘犬代わりにして平気だというのは理解できない。
しかし、この「幻のポケモン」ミュウはなかなか興味深い。独特の愛らしさがあり、人気も高いと思う。また、実力の方も、おそらくはポケモン最強と思う。あらゆる超能力を備えているが、性質の方も理想的である(私も詳しいなあ・・・^^;)。
ところで、「ミュウツー」というポケモンもある。1998年の劇場版映画「ミュウツーの逆襲」に登場したが(ゲームでのミュウツーは私は知らない)、なんと、ミュウの遺伝子を使って科学者達がより強力なポケモンとして作り出した、文字通り「最強のポケモン」であるらしい。子供向けとは思えぬほど思想的な映画で、なかなか面白かった。
人工的に作られた生命体として、ミュウツーは自己の存在を肯定できない。「私は誰か?」と悩みつつ問う。そして、自分の存在を確立するために、ポケモンを強化した複製を量産し、世界を征服することで己の存在意義を確かめようとする。う~む・・・深い!(笑)
改良を加えて複製したポケモンはオリジナルより強い。ことに、最強のミュウを改良したミュウツーは無敵であるはずだ。映画の方でも、そういった状況設定を明確にしていたので、ミュウとミュウツーの対決はかなりワクワクしたものである(笑)。
ミュウツーも自分の実力がミュウを格段に上回ると確信していたようである。しかし、ミュウはミュウツーに全く劣らず互角に戦う。同時に始まったポケモンと複製ポケモンの大群どうしの戦いは、最初は複製が圧倒していたが、ミュウの戦い振りに触発されてか、やはり全く互角の戦いとなる。
何かを悟ったミュウツーは、複製ポケモン達を連れてどこかに去る。中田のように自分探しに行ったように思う(笑)。

ところで、ミュウツーの「私は誰か?」という問いは、子供たちの心に残っただろうか?
子供時代を持たない者、あるいは、過去の記憶の無い者は、この疑問に悩む。しかし、普通の人間とて、自分が何者か本当に理解しているのだろうか?
自分とは何か?それは、自分がどう認識していようと幻想でしかない。
(岸田秀先生の「唯幻論」関連書籍参考)
では、中田英寿の自分探しは失敗に終わらざるをえないであろう(笑)。

20061130

本日のラクガキです^^;
なかなか絵を描く時間がありません。本は電車で読めるのですが、絵は難しいですね。
タブレットパソコンでも買おうかなと思います。
上手い人はPDAなんかでもいい絵を描くのですが・・・

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2006.11.29

聖者とピカソ

南インドのアルナチャラ地方に、1950年に亡くなるもいまだ多くの巡礼者が絶えないラマナ・マハリシという聖者がいた。沈黙の聖者とも呼ばれ、ほとんど会話を行わなかったと言われ、特に何かをしたというわけでもなかったが、インドを代表する聖者の一人と認められているようだ。
他の有名な聖者がいろいろな醜聞を晒してしまうことがあるが、ラマナ・マハリシに関しては、おそらく何も出ることはないと思う。ふんどし1枚以上、何も所有せず、講演したり著作を出したわけでもなく、特別な修行を考案したり人気タレントと交流したわけでもないので当然とは思う。そんな彼を、最も純粋な覚者(悟りを得た者)と言った人がいたが、その通りかもしれない。

そのラマナ・マハリシについて、印象深い話がある。
マハリシが、木の棒を削って杖を作っていた。1日中制作を続けていたが、出来上がった杖があまりに見事なので皆が驚いた。しかし、マハリシは、そこをたまたま通りかかった羊飼いの少年にその杖をあげてしまう。
無執着の行とはいかなるものかを無言で教えたものと言われる。

ついでに、こんなことを思い出した。
ピカソは近所の子供の似顔絵を描いてプレゼントしていたようだ。当然無料である。
岡本太郎が「子供が、絵が気に入らないと言ったらどうするのだ?」と聞くと、ピカソは「描き直すよ」と答えたそうだ。

2つ共、非常な感慨を覚える話であると思った。

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2006.11.28

無法な男に惹かれる時

強引な男はモテるだろうか?
「相手次第よ」ということになるだろうが、功を奏する強引さについて述べる(笑)。
どんな強引さが女性をその気にさせるのか?
それは、「自らに危険を背負った強引さ」である。逆に、自分には何の危険もない強引さほどみっともないものはなく、当然、女性に嫌われる。
映画の中の話だけとは思うが、結婚式の花嫁を強奪する男がいたと思う。このように、全てを失う危険を冒してまで自分を求めてくれた男に女性は感激する可能性もある・・・かもしれない(笑)。

芥川龍之介の「藪の中」という短編の傑作がある。
一人の夜盗が、ある武士の美しい妻に一目ぼれし、策をこらし、夫の前でその女を奪う。
夜盗が女に言う。「自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ」そして、自分の妻になれと言う。その時、女は、夫たる武士がこれほど美しい妻を見たことがないと思うような表情をした。
外道であり、この世に背いていても、危険を冒して自分を求める勇者に女が惹かれることもあるというお話である。
「心身医学の父」と呼ばれる、ドイツの天才医師ゲオルク・グロデックは、このあたりのことを詳しく著書に書いている。女は、法を犯す危険を背負ってまで自分を求めてくる男を本当は待っているのであると。逆に言えば、法の裁きをすりぬけようとするセコい男には、やはり用はないことになる。

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2006.11.27

「ただ者」を超えるには

誰しも「ただ者ではない」自分になってみたいのではないだろうか?
大いにヒントになることを述べてみようと思う。
それは、何か1つ、修行とでも言って良いことを毎日やることである。そんなに難しいことでなくても構わない。しかし、「必ず毎日やること」である。

新渡戸稲造の有名な「武士道」に載ってたと思うが、江戸時代、ある武士がたまたま見かけた町人の男を見て、その目付きや立ち居振る舞いがただ者と思えず、何者かと問い詰める。すると、その町人は「ただの町人です」という。だが、もし人と違って見えるなら、こういう訳かもしれないと言って話すには、彼は子供の頃から臆病であったが、それを克服しようと、毎日暗くなると必ず墓場に行くようになったということだ。当時の墓地は、いまの爽やかな霊園とは全く違い、ことに夜ともなると不気味で、臆病者が一人で行けるような場所ではない。それを毎日続けることができた彼は、確かにただ者ではない。
新渡戸稲造も、何かやらねばと思い、それを行水とした。何があっても毎日やってこその修行である。風邪をひいて高熱が出た日も続け、医者に怒られたそうだが、ここまでの堅い意志があってこそ偉人になれたのであろう。

日産自動車のセールスマンとして、16年連続ナンバーワンセールスマンであった奥城良治氏は、毎日1時間の競歩をすると決めたが、会社の慰安旅行先で歩くための平地がなくて困った時、石段の上り下りを1時間やったそうだ。最後には、息も絶え絶えとなり、手で脚を持ち上げないと昇れなくなり、奇異な目で見られたが、そこまでやる男だったから長年ナンバーワンセールスマンでいられたのであると思う。

偉大な人間について調べると、確かに毎日の修行を何かやっていた場合が多いと思う。毎日聖書を読んだり、公共の場所の掃除をしたり、お経を読むなどの行をしたりである。
座禅や瞑想みたいなものでも、たまに気が向いた時にやっても大したことはないが、1年365日続いたなら立派なものである。例えば、毎日欠かさず座禅を組んでいる者が、全くのダメ人間というのは考えにくい。
野球選手であれば、決まった時間になると、宴会中であろうが酔っ払っていようが必ずバットで素振りをする選手もいた。
芸術家でいえば、ピカソやゴッホやモディリアーニは、それこそ毎日必ず長時間絵を描いていて、制作枚数も半端でなかった。

継続は力なりというが、本当だと思う。

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2006.11.26

催眠術

いまどき、催眠術がまやかしであるなどということはないのだが、大多数の人には普段関わりのないものでもあるので、たまに見る機会があると、驚きのあまり神秘的なものであるかのように感じてしまうこともあると思うし、催眠術が実際のところ、どのようなものであるかはかなり誤解を持たれていることもあるだろう。
故意かどうかは知らないが、気功家が「気のパワー」のパフォーマンスに催眠術を取り入れ、単なる催眠術を気功の威力と宣伝するのを見たこともあるし、能力開発セミナーでも、催眠術で驚かせて、かなり怪しい能力開発の理論を押し付ける困った「先生」も見た(テレビ出演や著作の出版もしているセンセイであるが、名は伏せる)。
当然、霊能力、超能力、あるいは宗教関係で重宝(?)されている場合もあるし、集団セールスのようなものでも大いに有効利用(?)されているようである。

催眠術パフォーマンスでよく見るのは、合唱した手が離せなくなるとか、自分の名前が思い出せなくなるとか、冷たい10円硬貨を熱く感じるとかであるが、面白いものでは、全くの他人を自分の恋人であるかのように認識させるというものもあり、これはマスターしたい方も多いと思う(笑)。
また、一度は見たこともある方が多いと思うが、頭と足だけを支え(いわゆる人間橋)、その上に人を乗せても平気で重く感じないというパフォーマンスがあるが、これは催眠術を使うまでもなくやり方が分かれば簡単にできる。
催眠術を利用して金儲けをする連中は困ったものであるが、この際、催眠術について正しく認識し、騙されないようにするのが良いと思う。とはいえ、私がここでいくらか書いた程度では無理なので、適度な書籍にあたれば良いと思う。

かくいう私も、中学生頃から催眠術に興味を持ち実践もしてみた。
ところで、気功や自己開発パフォーマンスの場では、センセイが参加者の中から選んで催眠術をかけるのであるが、催眠術はかかり易い人とかかりにくい人がいる。
大雑把に言えば、10人いれば、非常にかかりやすい人は2人くらい、かかりにくい人も2人。後は、内容によってはかかったりかからなかったりで、かかってないのにかかっているフリをしてくれる優しい人も結構多い(笑)。
で、センセイ方は、催眠術とは言わず、気が通り易いとか、反応が良いとか適当なことを言うが、そんな催眠術にかかり易い人を持ち上げる。「感受性が豊か」とか「知性が高い」とかである。しかし、それはウソである(笑)。
催眠術を長くやっていると、かかりやすい人は割に簡単に分かるようになる。これは感受性とか知性の問題ではない。信じやすい人や、気の弱い人がやはりかかりやすい。逆に、しっかりと精神的に自立した人は普通はまずかからない(もちろん、そんな人でも弱い部分はあるので、それを見つければ、案外楽な場合もある)。
ところで、最近は、やたらかかりやすい人が多い。「コップの水に気を入れるから味が変わるぞ」とか言ったら、「あ!変わった!」とか簡単に感じたり、「酒に変える」とか言ったら、本当に酔っ払う人も少なくない。多分、学校で「いい生徒」だった人と思う。無批判に学校や教師に従ってきた者たちで、ぼんやりとした目付きをしている。
他者暗示にかかり易いことに美点は何もない。実をいうと、暗示に他者暗示も自己暗示もない。全て自己暗示である。他者暗示とは、他者の指令を自己暗示にすることである。つまり、他者の指示を自分のものとして信じ込むことである。こう言うと、あまり気持ちの良いものでないことが分かると思う。

人間、確かに「思い込みの力」も必要であるが、何を思い込むかは必ず自分で決めないといけないのである。

20061126

本日のアブないラキガキ(嘘)。今では、罠の仕掛けにはバネを使うのでコンパクトにできますが、昔は、生木や竹のしなりを利用したのでしょうね。トラップ(罠)は、落とし穴と違い、動物を傷つけない目的のものが多くあります。
映画「世にも怪奇な物語」の第1話「黒馬の哭く館」で、若き日の美しきジェーン・フォンダが獣用の罠に足を挟まれる場面がありました。あれは痛そうでしたが、やはり悩ましかったですね^^;
クリックすると大きな絵がポップアップで出ます。

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2006.11.25

心の力の使い方

1998年に亡くなられた映画評論家の淀川長治氏を憶えておられる方も多いだろう。
日曜洋画劇場では32年間解説を続けたが、最後の解説映画は「ザ・ラストマン・スタンディング」で、私はこれの解説をよく憶えている。いや、解説の内容ではなく、もはや声もかすれ、一目で苦しいことが分かるが、それでも熱のこもった解説をされていたのを鮮明に憶えているのだ。このブルース・ウイリス主演の映画も素晴らしかったが、淀川氏は、このタイトルも絶賛しておられた。「真の男」の姿をウイリスが鮮烈に演じていた。
そして、淀川氏は、この解説収録翌日に死去。なんとこの解説は、本人の希望で取り直しをやったそうだ。

私は、淀川氏が、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」を四百数十回見て、見る度、必ず涙を流すと言ったのをよく憶えている。
私はこのDVDを購入し、しっかり見てみた。
私は、後に見た、ジュリアーノ・ジェンマ主演のマカロニウエスタン「怒りの荒野(原題:Days of wrath)」との共通性を感じる。(私は原題の「怒りの日々」の方が良いと思う)
昨今のいじめ問題を考える上でも良いヒントがあると思う。
「太陽がいっぱい」のトムも、「怒りの荒野」のスコットも、才気溢れる青年であるが、生まれが貧しかったり、私生児であるがゆえに、蔑まれたり、理不尽な扱いを受ける。
トムはまだうまく世渡りしており、富豪の令息の友人になったりしているが、だからこそ、持つ者と持たざる者の違いが身に沁み、その友人にも結局は見下されていることを知っていて、日頃の友人の言動に、心に恨みを積もらせていたに違いない。
一方、スコットは私生児として、町中で蔑まれ、辛い毎日を送っている。掃除や汚物運びのようなことをさせてもらって何とか生活しているが、その扱いは犬以下である。だが、壊れた銃で毎日早撃ちの練習をし、いつか銃を買って何かをやってやろうと密かに思っていた。そんな時、街にやってきた流れ者の凄腕ガンマン、タルビーに出逢い、その風格、凄味、カッコ良さに一発でまいってしまう。トムは根は純情な青年だったが、タルビーと組み、街を牛耳るようになった時、かつての恨みの反動は彼を無軌道な支配者にしてしまう。

2つの作品には、理不尽に心に傷を受けた人間の悲しさが鮮烈に描かれていたと思う。
淀川氏は、彼もまた苦しい境遇にあったに違いない。彼は、家は金持ちであったが、複雑な家庭事情であったことは、淀川家の血筋を途絶えさせるために独身を通したという告白から明らかと思う。
いじめを受けた経験のある者も、この2つの映画に強く感じるものがある場合が多いと思う。
その苦しさから逃れ、自分の居場所を確保するため、犯罪を犯したり、独裁者になることの何が悪いのかと思ってしまう。ましてや、それもできずに自ら命を絶つような子供のことを知るとさらに強くそう思う。この考えが間違いであることは理解できるのだが、私にはどうしても否定できない。蔑み、迫害し、いじめをする者達がやめてくれることを待つしかないとは思いたくないわけである。

コリン・ウィルソンの「至高体験」で読んだが、ロマン・ゲイリの「天国の根っこ」という小説(翻訳は無いと思う)には、堕落する運命、あるいは、死ぬ運命にある者がいかに心の力を使って踏みとどまり、死に打ち勝ったかが描かれている。
いじめ問題を、無能でやる気の無い学校や教師にまかせておいては何も解決しない。また、タレントなどが「いじめをする者は卑怯な人間です」なんて分かりきったことを唱えてもどうにもならない。いじめを行う者にはいじめの自覚はない。単に心の快感の追求とある意味での秩序維持を行っているに過ぎないのであるから。
また、上記の書籍にあった、心の力を使う方法は、子供たちには無理かもしれない。なぜなら、学校では自分の心を自由に使うことができないように強制されるからである。それはまるで、毒虫の群れに入れられる前に、服と火を取上げられるようなものである。それでは死ぬしかない。自殺した子供たちとは、そのような状況にあったのである。
「天国の根っこ」の話を少し紹介すると、捕虜になった兵士達が堕落の極みに達しかけた時、隊長は1つの遊戯を提案する。ここに理想の少女が居ることを想像せよだ。捕虜達はたちまちモラルを取り戻す。敵側の将校は試す。「少女を差し出すように。彼女は我々の慰安婦施設に行ってもらう」。すると、なんと捕虜達はそれを断り、隊長は独房に連れて行かれる。それは確実な死を意味した。しかし隊長は死ななかった。想像の少女との遊戯で、心の使い方を身につけたからだ。

20061125

本日のラクガキです。クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2006.11.24

呪術

ちょっと不真面目なことを考えてみる(笑)。
学校とか会社に行くのが嫌な人も多いと思う。それどころか、いやでいやでたまらないという人も沢山いるだろう。私も引きこもり傾向が強いので気持ちは分からないでもない。
問題なのは、なんのために学校や会社に行くかだ。勉強して立派な人になるとか、義務とか、経済的な自立のため、あるいは、家族を養うためなんて考えると追い詰められる。
私は、学校や会社は、呪術の実験の場と考えていたことがある。
改めて言うが、不真面目な考えについて書いている(笑)。
学校や会社が嫌という場合、その原因は人間関係であろう。早い話が、嫌なヤツがいるわけでだ。別に学校や会社でなくても、家の中にいる場合もある。
そこで呪術を使ってみる。とはいえ、呪い殺すとか(笑)、そこまでいかなくても、なんらかの危害を与えるのはよくない。呪術の性質上、それでは自分も無事では済まない。
ただ、攻撃をかわすことはできるし、結果として相手は自滅する。
私も攻撃を受けることは多かったが、相手がいつまでも楽しい思いをしたことはなかった(笑)。普通は、なぜか周りからいなくなるし、病気になる場合も多かった。突然会社を解雇される者もいた。あるいは、階段から落ちて怪我をするといったものから大きなものまでいろいろあるが事故に遭う者もよくあった。
いったい、何人敵がいたんだ^^;;
再度書くが、不真面目な話である(苦笑)。
呪術に関しては、いろんな本が出ているが、どうも馬鹿げたものが多い。
呪術は難しいものではない。基本的には「何も考えない」ことだ。思考を停止するとか、頭の中の独り言をやめることである。これができれば、相手の邪念はそのまま相手に返る。
(尚、ここで言う「思考停止」とは固定した慣習風俗に頑なに従うという意味ではない)
もっと難しく言うと、フィーリングを感じるのは構わないが、感情で反応してはいけない。
ことさら精神エネルギーをコントロールしようと思う必要はない。考えなければ、結果として制御できている。
では、それをうまくやる方法というと、簡単なのは呪文だ。では、どんな呪文かというと、早い話が何でも良い。自分が気に入れば良いのである。自分で作っても良い。
般若心経の「ガテーガテー・・・・」でも良いし、如来や菩薩の真言でも良い。意味は分かるものでも別に良いが、分からないようなものが良いかもしれない。調べれば、気に入るものが1つや2つはあるはずだ。自分にあっているものが最上で、人がやっているものを真似しない方が良い。その意味では、先生に教わらない方が良い。
呪術というのは、他の連中を地上で空回りさせて、自分は空高く飛ぶことなのだ。
想念を消すという意味で良い話がある。
「どんな考えでも良い。それが起こった時、『この考えは誰に起こったのか?』と問う。答は、『私に』に決まっている。そしたらすかさず、『私は誰か?』と問う。すると、想念は根本から消える。これを根気強く繰り返せば良い」
この場合、呪文は「私は誰か?」となる。単に「私」という言葉に集中しても良いのだ。意味は分かるようで分からないと思う(笑)。

最後にもう一度書くが、不真面目な話である^^;
だが、不真面目で良いのである。世の中はパラドクスである。これによって、最上の有能さと自由を獲得できるかもしれない。あまり信じないように・・・^^;

20061123_1

で、久々にラクガキをしてみる。
絵を描くことは間違いなく呪術に通じると思う。もちろん、上手い絵を描く必要はない。
むしろ下手な方が良い。上手く描いた絵には呪力がない・・・かもしれない(笑)。

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2006.11.23

かもめのジョナサン

リチャード・バックの「かもめのジョナサン」を読んだ方も多いと思います。
かなり神秘的な部分もあり、オカルト好きな方が読むとおかしなことになる心配もあるのですが、今なお人気の高い世界的ベストセラーでもあり、やはり良い本だと思います。
私は、安くて優れた本というと、この本と、デカルトの「方法序説」(もしくは「方法叙説」)を思わずあげてしまいます。

ところで、「かもめのジョナサン」は、今の日本に必要な本という気がします。
かもめ達は、人間達が船から撒くエサを必死に奪い合って取ることが何より重要なことであると教えられ、それを一生続けます。しかし、ジョナサンは、かもめの能力はもっともっと高く、可能性に満ちているのだと気付きます。もっと高く、速く、鋭く飛べることを証明してみせます。しかし、かもめの大人達はジョナサンを戒め、非難し、あげく追放します。
これはまさに、現在の日本の(あるいはアメリカの)状況です。
こんなことを信じていないでしょうか?

学校に行かないと知性のない人間になる。
学校に行かないと大変なことになる。
学校に行かないことは罪で悪いことだ。

全部、真っ赤な嘘です。
この「学校に行く」は、「学校や教師に従う」という意味でもあると思って下さい。
本当は、子供達が、普通の立派な大人達と交流し、社会に参加できるようにすることが何より大切なのですが、この最重要なことが全く行われていないのは異常なことです。学校は、もしあっても、子供達が早く自学できるようにしてあげる場所でなくてはなりません。今のように、たっぷりと時間をかけて偏見を植え付け、感性を破壊するだけの場であってはならないのは当然です。
ここらのことは、私が何度もこのブログで書いてきましたし、今後も書くでしょうが、まずは、一般に信じ込まされている嘘を見破ることが必要です。「かもめのジョナサン」を読めば、そういったことも分かってくるかもしれません。

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2006.11.22

楽しい眼力の鍛え方

先月出版された、梅原猛さんの「歓喜する円空」を読み始めました。
円空は江戸時代前期の仏僧ですが、なんと言いましても円空が作った「円空仏」と呼ばれる木彫りの仏像が有名です。
円空は仏像を生涯に12万体作ったと言われますが、それはちょっと信じられないながら、大変な数を製作したことは間違いないようです。円空仏の芸術的価値は極めて高く、海外でも評価されているようです。この本によると、現代のフランスの一流彫刻家ニコラ・アルカン(レオナルド・ダ・ヴィンチ賞など数多く受賞)が、円空にライバル心と嫉妬心を起こしたのですが、400年も昔の人と知って驚いたとあります。
「異形の仏」と呼ばれることもあるように、円空仏には非常に前衛的な作品も多くあります。

ところで、梅原さんは、この本を書くにあたり、自分の円空研究の日がまだまだ浅いことを自覚し、「後10年、せめて5年後にすべき」と考えたそうですが、梅原さん現在81歳。それで後5年とか10年とか考えるとは大したものです。確かに、この本を見ても、梅原さんの知力に衰えは感じませんし、詳細な調査に要した労力を考えても、後30年はいけそうですね(笑)。

この本の最初のあたりに出てきますが、梅原さんは仏像を見る目に自信があるようです。そして、この眼力は幼い頃にあることで養成されたというのですが、それが面白いものでした。
梅原さんは小学校に入る前、伯父さんに力士(相撲取り)のブロマイドを沢山もらい、朝から晩まで眺めているうちに、力士の身体の特徴を細かく憶え、身体の一部を見ただけでどの力士か言い当てるほどになったと言います。力士が好きというのもあったと思いますが、とても面白い眼力の鍛え方です。
昨今、アイドルの写真集が沢山出ていますので、愛好者が多いということだと思います。では、これらの写真集のマニアとなると、アイドルの身体の特徴を細かく憶え、手足の一部を見ただけで「ゆうこりんだ!」「しょこたんだ!」とか言い当てられるものでしょうか?(笑)ただ、アイドル写真集でも、このように眼力を鍛えることは可能と思いますね。

また、普通の人であれば、アニメを見ても、毎回同じような絵に見えますが、マニアは、「今回の絵は良い」「今回は手抜き」とかはっきり分かるようです。それどころか、「今回の作画監督は誰」といとも簡単に言い当て、好きな作画監督の絵の特徴も詳細に述べることが可能なようです。彼らの目もこうやって鍛えられているのですね(笑)。いや、良いことです。

ところで、私が円空に興味を持つきっかけとなったのがこのナイフです。名人鍛冶師、関兼常作の「円空彫・匠」です。
以前、これを購入しましたが、派手さはないものの恐ろしく切れる(^^; 手作りで隅々まで味わいもあります。ブレード鋼材は白紙1号。日本刀の玉鋼に近く、非常に硬いですが、ステンレス製の洋式ナイフと違って錆びます。
円空が使っていた小刀に「思いを寄せて作った」とありますが、別に円空の小刀と同じものを作ったというわけではないと思います。
私は、老子や荘子を愛読していたのと、中国の神仙思想やそれが日本の神道が結びついたようなものがロマンチックで面白く感じたこともあり、仏教はあまり知らないのですが、これを機会にお釈迦様の教えにも触れてみようとか思っております。それでも、「歎異抄」や「正法眼蔵」は愛読しておりましたし、「法句経」(「法華経」と間違われやすい)も一応は持っております。日本においては、仏教、神道、道教がかなり融合されていて、独特のものになっているようですね。

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2006.11.21

リカちゃんパーティー

今でも人気のあるリカちゃん人形は、1967年に発売開始されたらしい。
リカちゃんは小学5年生の11歳であるが、「素敵なドレスを着てパーティーに行く」なんてシチュエイションが普通に語られた。
今でも、我が国では、「パーティー」なんて、縁がある者にはあるが、縁がない方が多数であろう。
ましてや1960年代、あるいは1970年代の庶民の、それも小学生がパーティーに出るなどというのは、余程の上流階級か皇族の関係でしかありえないだろう。
ちびまるこちゃんを見ても分かる通り、晩御飯のおかずにステーキが出るのが大事件になりかねないのが庶民であり(今でも?)、パーティーなんて別世界のことであったはずだ。
おたパ(お誕生パーティー)やクリパ(クリスマスパーティー)なんてのは、当時、そろそろ現れたが、なんとも質素なものであったはずだ(笑)。
※おたパやクリパなんて、若者でも本当は使わないのであしからず(笑)

とはいえ、西洋の映画や、それを参考に漫画でもパーティーの場面が描かれることは増え、子供たちの間にも、パーティーに出ることへの憧れがあったことは十分に考えられる。
ところで、パーティーには、マナーが必要であるし、それなりの会話が出来ないといけない。また、衣装やメークもある程度のセンスが必要である。
これらは、今でも多くの日本人には苦手な部分があるのではないかと思うが、リカちゃんは、こういう部分にも目を向けさせる良いきっかけになったのではないかなと思う。
また、リカちゃんハウスでは、リカちゃんのお部屋の家具や調度品は立派なもので美しく、当然リカちゃん一人の専用で、狭い部屋を二人あるいはそれ以上のきょうだいで共用することも多かった当時の日本人にはなんとも羨ましいものであったと思う。
このように、物質面では、リカちゃんは日本人のそれも子供に、豊かさへの願望や目標を与えたことは悪いことではなかったかもしれない。

とはいえ、日本人の、特に若い世代のパーティー感は精神的に非常に低レベルなのではないかと思う。
最近の資生堂のテレビCMでもあるが「今日、何のパーティーだっけ?」「なんでもいいんじゃない?」「そうそう、楽しんだもの勝ちだもんね~」って、平然と言っているが、こんなCMを作る企業の姿勢や企業トップの人格を疑う。また、これを疑問もなく見れるとしたら非常に残念なことと思う。
一期一会ではないが、パーティーは、普段あまり会わないような人と会話をし、優れた交流のきっかけになることもある、それには、お互いに敬意を持ち、マナーを守った立ち居振る舞いをするなども大切だし、主催者と参加者、主役とゲストがそれぞれの役割を立派に果たすといった部分もある。それを、「自分が楽しければそれでいい」という態度の者は確かに多いが、その人間性の貧しさは一目瞭然なのである。

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2006.11.20

日本人が騙されやすい訳

よく、「日本人は活字になったものを簡単に信じる」「権威者の発言に弱い」「ニュース番組の意見を無批判に受け入れやすい」と言われる。
アメリカ人あたりも大差ないとは思うが、とにかく日本人に関してはいえば、この傾向が強いことは間違いない。
「脳内革命」のような馬鹿げた本が戦後屈指のベストセラーというのも恥ずかしい限りだ。
ところで、この「脳内革命」について、どこかの評論家が「日本人はオウム真理教の教訓が生かされていない」とか書いていたが、そういう問題ではない。日本人の根本的性質が冒頭にあげた通りであるのだから、教訓で思考方法を修正できるはずがない。

冒頭のような思考パターンは学校教育の大成果である。
では、どのような大成果であるかというと、「日本人は、指図する管理者が必要な国民なのである」。
学校では、教師の言う通りに思考・行動することを徹底して強制される。教師に良く思われないことが、この世の終わりであるような恐怖を叩き込まれる。教師がロリコンの変態でも例外ではない。
自分で自由に考え行動することに、罪悪感や恐怖感を持つようにさせられる。
同じ年齢の者が集められるのは、これらの目的を達成するのに都合が良いからである。

さて、このように教育されると、学校を卒業しても、指図する者を必要とする、知的機能に欠けた人間となる。
そして、新たに指図する者となるのは、「立派な肩書きを持つ著者の書物」「権威者、権威団体の意見」「テレビのニュース番組」「子供の通う学校の先生」「大企業」「感じの良い広告やテレビCM」などなどである。
そもそもが、日本の義務教育は米国のそれのコピーであるが、米国の義務教育は、決して子供の知的能力や創造性を発達させる目的で作ったものではなく、政府と大企業が共同し、政府や大企業にとって都合の良い国民を作ることが最大目標であったというが、十分に納得できる話である。これは、とりあえず、子供たちを、労働者として最低限の生計が立てられるようにし、さらに、国民を統制し、大企業の効率を高めて経済大国になるには効果があったようだ。それが良いことであるというなら、それも1つの意見だ。
しかし、米国でも日本でも、学校教育による人間性の歪みや悲惨は限界に達しようとしている。最近のいじめ・自殺問題は、誰が悪いのでもない。学校教育の根本的欠陥が原因である。

とりあえず1つ言うと、算数のように「10進法において3足す5は8」といったように、回答を限定して差し支えないものはともかく、美術教育のように、教師の胸先三寸で評価がされるような科目は決して決して決して行ってはいけない。「梯子を貸せ」と要求する泥棒に梯子を渡す馬鹿がどこにいる?
そして、早急に子供を学校から解放する方策を進めなければならない。

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2006.11.19

一番を言えますか?

「これまで見た中で、最高の映画、小説、あるいは漫画は?」と聞かれたら、大抵の人は「あれも良かったし、あれも良かった・・・」と迷うことと思う。
また、座右の銘なんてのが、もしあったとしても、普通の人はコロコロ変わる。
最も優れた思想家は・・・でも同様であろう。
ところが、一流の人物というのは、これがビシっと決まっている場合が多い。これがビシっと決まっていて一流でないのは、将来の一流か、もしくは単なる妄信者であろう(笑)。

とりあえず私でいえば(誰も聞いていないが^^;)、漫画なら、萩尾望都さんの半神という、わずか16ページの作品である。
ビジネス読み物なら、伝説の石油会社のCEO、アーマンド・ハマーの自伝ドクター・ハマーであるが、絶版だ・・・^^;
ハマーがこれを書いたのはなんと90歳の時。しかし、この時でも、自家用ジェットで世界を股にかける現役ビジネスマンであった。ドクターというだけあり、本物の医者でもある。

で、私は一流かというと、単なる妄想家である。この世の全ては幻想ですので(笑)

20061119

け、健全過ぎる・・・^^;
二日前に文章で書いた、私が実際に見た(?)、二人の幼稚園児と、実は天使である片方の子の姉の天使が降りてきたところを絵にしてみました。
しかし・・・健全過ぎる・・・。次は不健全なのを描こう(笑)。
絵をクリックすると、大きな絵が出ます。

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2006.11.18

いじめの本当の目的とは

いじめを行う者の実際の目的は何であろう?
相手を貶めることによる自己の優位性の幻想の確立であろうか?
相手に屈辱を与えるほど幻想の自己は優位となり、偽りの快感を感じるのは確かだ。
以前の悪質なものはそうであったかもしれない。しかし、今はもっと悪くなり、目的は相手の存在の抹消であると思う。直接的に手を汚さない排除である。
そのために、精神的打撃を継続的に与えると共に、その方法もエスカレートさせ、いじめられる者の精神力を徹底して破滅させる。そして、最大の効果が出た時には、相手を自殺に追い込む。現在、それが出ている状況である。

では、最も大きな精神的打撃とは何であろうか?
それは、その者が最も必要とするものを取り上げ、与えないことである。
いじめとは、なんとも巧妙なものであるのだ。つまり、いじめる者の感覚はある意味正確で絶妙なのである。

いじめのよく見られるものに、男子生徒のズボンを脱がせるというものがある。パンツも脱がせるところまでいく場合もあるだろう。また、服を脱がせて往来に放置という凄まじいものも現れた。
文明人にとって、衣服というものは保温や保護というだけでなく、精神的に必ず必要なものであることは言うまでもない。その大切なものを取り上げ与えない。
これが精神を壊滅させる上で効果的なのでいじめとして使われるのである。
いまのところ、これらが女子に対して行われたという話は聞かない。まだ、それをやるほどいじめる者の心が落ちきっていないということだ。しかし、時間の問題である。そして、女子に対して行われるようになった時がこの国の終わりである。ただ、教師によるこのいじめは聞くことがある。もちろん、教師はいじめとは言わず、認識もしていないと思う。

20061117

話は変わるが、刑務所で囚人をいじめる効果的な方法は何かご存知であろうか?
スイーツ、すなわち、甘い食べ物である。刑務所では、これがほとんど食べられない。しかし、人間の身体は甘いものが必要である。そして、刑務所で僅かに配られる甘いもの・・・これを取り上げ与えないことが極限的ないじめとなる。

相手を最も苦しめる手段を取ってしまう者達。
しかし、なぜそのようなことができるのであろうか?
推測するに、彼ら自体、自分が本当に欲しいものを与えられていないのだ。その苦しみを倍化して誰かに与え、自分の心の傷を癒しているということもあるかもしれない。相手の苦しみ痛みは大きければ大きいほど手ごたえがあるが、いつもまだ足りないと感じる。相手が本当に消えるまでは決して満足できない歪んだ欲望である。

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2006.11.17

日本人形でなくなった美人タレント

最近の女性タレントの映像では、彼女達が力強くこちらを見据えたものが目立つ。
仲間由紀恵さんやエビちゃん(蛯原友里さん)、それに伊東美咲さんもそんなものが多い。
これには、彼女達が大人の自立した女性であり、しかも自信に満ちたいい女であるとの主張が感じられる。また、みんな美人&ナイスバディなのでカッコ良く、若い女性には憧れであると思う。

ただ、こういった雰囲気の女性は、確かに日本の伝統には反する。
日本人形には、目のぱっちりとしたものは少なく、目は1本のラインで描かれ、ほとんど閉じているように感じる。
これは、日本の女性は相手を、ことに殿方をまっすぐ見つめることははしたなく、男性の方も、女性はこっちをはっきり見ないのが奥ゆかしく好ましかったのだと思う。
そこまででなくても、日本の女性は、ややうつむき加減ではにかんだ様子が可愛いと言われてきたと思う。ただ、今では、欧米の男性にすら、日本の女性は西洋人以上に解放的で大胆であり、ナンパに応じやすく、非常に軽いと言われることもあるようだ。全部ではないが、かなり当たっていると思う。

ところで、しっかりと見つめる女性は、女性には好感を持たれると思うが、はたして男性にも好ましく思われているのだろうか?
まあ、上記にあげた美人タレントであれば好ましいに決まっているが、一般的にはそうでもないように思う。やはり男性は、うつむき加減の可憐な女性を求めるような気がする。
ところで、昔であっても、しっかり見据える女性が好ましい場合が1つある。母親である。ひょっとしたら、上にあげた女性タレントが男性に人気があるとしたら、彼女達は母親のように思われているのではないかと思う。

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2006.11.16

幸運

「幸運」という言葉は誰しも好きであろう。
アマゾンで「幸運」で和書を検索すると610件もヒットし「幸運を引き寄せるスピリチュアルブック-“不思議な力を味方にする8つのステップ”」はじめ、人気霊能者の江原啓之氏の著書が上位を占める(いったい何冊書いてるんだ^^;)。
全体として、努力もなく、なにやら不思議なパワーの使い方の秘法を教えるようなもので、このようなものは何百年、何千年の大昔からあり、なぜか人気は衰えない。

「幸運を得たい」気持ちが強いと、「損をしたくない」という気持ちが大きくなる。一般人の多くにその傾向が大きいことは実感できることがある。
世の中のルールは、簡単に言うと、「後から来たら、後ろに並ぶしかない」というものである。
ところが、電車の入り口では、後から来たにも関わらず、あわよくば先に乗ろうと虎視眈々と狙う者が多い。いや、決して後ろに並ぼうなどと考えない人もかなり多い。ある時、たまたま私が一番前に並んでいたのだが、電車が到着すると、横に立っていた人が入り口にぴたっと張り付く。私の後ろに居た人が私を跳ね除け(笑)、その後ろに付く。「横に居た人が一番なんだから、まともに並んでいた私が2番になるのは当然」という論理であろう。私はどうなるのだ・・・(笑)。
で、並んでもいないのに一番に乗れたら「幸運」という訳であろう(笑)。

で、そんな時、私はどうするかというと、もちろん、後から乗る。
実をいうと、それこそ「幸運」を掴む本当のコツなのである。
「損をしたくない」と頑なに思っている間は絶対に幸運に恵まれない。よって、上記の書物を読んでいる者が、実際には最も不運なのである。
私は、根拠と統計万能主義のシステムエンジニアだが、このことに関しては、経験的・直感的に正しいとしか言えない(よって信じていただく必要もないが^^;)。

ダスキンの経営理念の中に「自分に対しては、損と得とあらば損の道をゆくこと」とあるが、なんとも素晴らしい言葉だ。私は以前、この言葉を職場の壁に貼っていたが、それを見て、何か意見を言った人の全てが「これはおかしい。得な道を選ぶのが当たり前だ」と言ったが、なるほど彼らは全員リストラされたなあ(笑)。対して私はなぜか倍の給料で他社に移ったが^^;
進んで損をする必要はないが、それこそ、電車を待っている時なら、割り込まれることを期待するくらいで良い。
思い出すのだが、幼稚園の時、幼稚園のイベント行事のお遊戯の会場披露が終わった後、先生からお菓子が配られた。みんなわれ先にと取りに行ったのだが、最後の一人の女の子の分がなぜか足りなかった。しかし、彼女は全く意に介しない雰囲気でいたが、やがて別の女の子が、自分のを半分受け取るよう言ってきて、その通りとした。感動的であった。
以下は妄言である。
お菓子が足りなくて受けとれなかった女の子は天使である。当時、私は人間と天使の区別が容易に付き、稀に人の中に天使が混じっていることを了解していた。彼女はお菓子が足りないことを知っていたので、他の子供たちにちゃんといきわたる様に、自分は取らなかったのである(天使だってお菓子は好きだ)。その天使に、自分のお菓子の半分を提供した女の子は普通の人間である。女の子が天使にお菓子を渡した時、私はめまいを感じた。数年後、夢で見たが、女の子が天使にお菓子を渡した時、周りの情景が一瞬で変わった。他の子供たちの動きが止まっている。外で飛んでいる蝶々も空中で止まっている。天使は、自分の姉の天使を呼んだ。よほど嬉しかったと見え、姉にその女の子の守護を頼んだのである。きっとその女の子は生涯、幸運であろう。

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2006.11.15

夢の自己開発法

誰しも、能力がアップし、健康も増進し、若返り、その上、幸運に恵まれる方法があり、それがあまり努力しなくても(笑)叶うなら、まさに夢の実現であろう。
個人的には、そんなうまい話はとりあえず信じないが、世の中にはこの手の話は随分多く、かなりいい加減に言うなら、少なくともその99パーセントは全くのデタラメであろう。
そんなことは、別に私に言われなくても分かっているはずなのだが、騙される人は後を絶たない。困ったものである。
そこで、本物かどうかは知らないが、それほど凄い金もかからず、深刻な訴訟例も私の知る範囲ではないものを取上げる。とはいえ、推奨するわけでも何でもないし、私はその関係者でもない。ただ・・・内緒だが、私もやっていたものである(爆)。

まずはTM。瞑想の1つである。日本では超越瞑想と言われる。書籍も多く出ている。
インドの聖者、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギが、師のグル・デブから伝授されて普及させたもので、実践者は世界に400万人。ビートルズも教わったという。プロレスの前田日明さんが行っていることは知られているが、TM教師によると、アントニオ猪木さんもやっているらしい。また、大企業で取り入れているところもあり、TMの教室では、誰でも知っている有名企業のTM研修スケジュールの表が壁に貼られていた。
ゆうに10年以上前だが、PCソフトウェアで、当時はマイクロソフト以上の規模であったロータス社の当時の社長がTM教師であったという話もある。
いまや推進組織は世界的で、その規模は凄い(あまり詳しくないが^^;)。TMは、朝晩、20分ずつ座って行える非常に簡単なものである。

TM公式サイト
推進組織 マハリシ総合研究所

費用は25万円くらい。私が教わった頃に比べると、随分値上がりしている。
この金額は、自己開発に関する一括支払いでいえば、ギリギリ容認できるものと思う。50万円以上なら、まず疑った方が良い。

さて効果であるが、私は2年ほど続けたが、とりあえず何もなかった(笑)。もちろん、本人が気付かないだけで、非常な変化がある場合もあるかもしれない。
ただ、私はあらゆる面で非常に幸運で、特に社会面では別に有利な条件があるわけではないが、ほとんど苦労せずに良い思いばかりしているのは確かである。
とはいえ、それがTMのおかげかどうかは不明である(笑)。

25万円が高いというなら、私が最近購入したバイオソニックはどうか?
私はこれの旧製品であるパラメモリの時から使っており、その後継機のアルファシータも使った。バイオソニックは、いまはアマゾンでも買える。

アマゾンのバイオソニック販売ページ

記憶力増強装置、アルファー波・シータ波誘導装置とされる。ストレス解消、リラクゼーションに効果があるともされている。
値段は、アマゾンでは29800円となっている(定価はこの1万円は高い)。
個人的には、もしTMに絶大な効果があるとしても、バイオソニックはこれと同等以上ではないかと思う(あまり信じないように)。脳波をアルファー波からシータ波に導く効果があるところもTMと似ている。TMでは、数年やらないとシータ波までにはならないようだが、バイオソニックなら、シータ波のメモリに合わせるだけで良い。

お金の点を別にすれば、いずれもやったところで害は全くない。
ただ、バイオソニックの発明者である政木和三さんと食事中に、彼に言われたことがある。「これでうまいことやってやろうと思っているうちはだめだよ」ってね^^;

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2006.11.14

子供を学校から解放せよ

子供たちを一刻も早く学校から解放しないといけない。
学校教師の中にはいつでも子供に致命的な被害を与える可能性の高い逸脱者が蔓延しているのに、学校は教師の犯罪的行為は直接的な殺人でもない限り全て容認される異常な無法地帯である。
フリースクールも良いが、やはり社交性や逞しさ、現実対応能力、リテラシーを築くのに弱い部分がある。
かといって、同じ年齢の子供を集めて、同じ時に同じように考え感じることを強要する教育による歪みは悲惨であり、放置すべきでない。
子供は地域社会に参加し、まともに社会で生きる大人と接しないといけない。企業の力が必要である。タダでは困るから、学校で無駄にしている費用を、企業による子供の教育目的に回して欲しい。
子供にとって、会社など、働く場はエキサイティングで荘厳な場である。そこで働く、権威など全くまとっていなくても威厳ある熟練の社会人を見、そこで教わることはどんなに素晴らしいことか。教えるといっても、忙しい社会人がべったり教えるはずがない。また、タダで教えてもらえるものでもない。雑用・使い走りでコキ使えば良い。それが虐待にならないよう監視するのは良いことであるが、やはり政府が金銭的補助を行うことが重要だ。
企業に併設する学校は良いと思う。現在の学校は解散すれば良い。無用である。勉強のための勉強が退屈で身に付かないのは当然のことである。まあ、ごく初期の教育に関しては、学校形式も良い場合もあるかもしれないが、高校3年まで小学1年の真似をさせるのは異常である。

早急に、この線で検討を始める必要があるはずだ。
当然、問題も多くあるだろう。しかし、現在の学校よりははるかにマシなはずである。

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2006.11.13

緊急に子供を救うには

いじめ問題に関して、緊急に実施すべきは、子供に「学校に行かなくて良い権利」を即刻与えることである。
いつかの日曜日の「バンキシャ!」で、偉そうなオッサンが(私は、愛しき菊川怜様以外、名前を憶えていない)、「俺なら、やられたらやりかえせと言う」といった発言をしていたが、これは認識不足も甚だしい。TVゲームで現実認識の能力を無くしている子供は限度を知らない。下手に逆らったら、それこそマットでぐるぐる巻きの窒息死にさせられかねない。
学校に行く必要はないことを早く宣言しなければならない。
そして、学校に行かないことに、罪悪感や危機感、焦りを感じる必要が全くないことを、もうバラしていい時期だ。
学校に行かないと馬鹿になるという大嘘はいい加減やめないといけない。
土台、大学を出ても、小学校の基礎すらできない者も多いが、特に実生活で不便はない。しかし、基礎的な読み書き計算は、ちゃんとした環境ならすぐにマスターでき、それ以降はどんな学問でも一人で自学可能なのだ。
高校の未履修問題で明らかなように、無用な履修科目が多過ぎる。小学校からであるが、無駄で膨大な押し付け教育が大問題であるだけだ。
学校に行かないのは大いに結構。本来は、ここで地域社会に参加してこそ健全な成長が可能なのであるが、その方法を整備するまでは、とりあえず、学校以外に行き場所を用意すれば良い。そこで、自学するに足る、最低限の勉強を教えれば良い。費用は、何の成果も出せない学校から回せば良い。無用な履修科目を減らし、教師をリストラすれば費用も出るだろう。リストラされて生活できない教師がいるというなら、そんな無能者が教師をやっていることがおかしいことに気付く良い機会である。
子供を救うのが大事なので、大まかなアウトラインだけ示したが、他に方法があるだろうか?

20061113

そういえば、私は絵はほとんど描きませんでしたが、書道なら小学生の時、数年習ってたことがあります。それで、筆で描いたような絵は違和感なく描けるような気がします。
覚醒するのか、淵に沈むのか。
覚醒させてあげられる社会でありたいですね。

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2006.11.12

グランマ・モーゼス

サラリーマンが、定年になったら、あるいはもっと早くに、小説家や画家になりたいと思っていることもよくあると思う。
サラリーマンでなくても、あのゲーテが40歳になろうという時にも、フィレンツェで画家になることを夢見ていたという話もあるし、ジャイアント馬場さんも引退後には本格的に絵を描こうと思っていたようだ。
アメリカの作家マイク・ハーナッキーは、よく、「作家ですか?羨ましいですね。私も作家になりたかった」と言われるそうだが、そんな時は必ず、「では、あなたも作家になればいいじゃないですか」と言い返すらしい。
ハーナッキーは、学校教師から始め、広告業界、弁護士、証券マンと転職を繰り返したが、どれもうまくいかず、とうとう病気になってから作家になる決意を固めたそうだ。そして、作家になりたい人が作家になれないはずはないと言う。
画家でいえば、アンリ・ルソーやゴーギャンらが、全く別の仕事をしていたのが、中年を過ぎてから画家になったことはよく知られている。
もっと凄い例は、アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス・・・通称グランマ・モーゼス(モーゼスおばあさん)だ。12歳で奉公に出され、20代後半で結婚し、農家の主婦として母として働きに働き、75歳で本格的に絵を始め、80歳で画家として知られるようになる。尚、彼女は、いくら絵が売れるようになってからも決してアトリエを作らず、台所で描き続け、筆は頭がなくなるまで大切に使ったらしい。
私は、別の仕事を長年熱心にやった者こそ芸術家に相応しいと思う。逆に言うと、絵しかやったことのない人が、人を感動させる作品を作ることは不可能と思う。

20061112

滑空する天使です。日本や中国にも、飛行するシャオチェ(娘さん)として、天女や仙女がいますが(いるわけではないか^^;)、翼はなかったように思います。
西洋の天使にも、リングや翼のないタイプはいます。といいますか、元々の天使はそうで、人間と区別するために翼やリングが描かれるようになったようです。

「天使が飛べるのは気楽だからだ」G.K.チェスタトン(英国の作家)

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2006.11.11

脳年齢

ちょっと前、小型ゲーム機で脳年齢を測定するようなものが人気があったと思う。
で、脳を鍛えるソフトなんてのも付いていて、それで鍛えると脳年齢が若返るという仕組みであったと思う。
多くの人はあんなものを信じるかもしれないなと思う。ソフトの製作者がなにやら有名な教授らしいが、それもポイントなのだろうか?
こう書くくらいだから、当然私は全く信じていない。
愛しき松嶋菜々子さんがテレビCMで、最後に「チョキッ!」と可愛く決めたところで、私は「アホらし」で片付けた(笑)。
まあ、最近のお茶のCMでも、あの方のカワイイ系色っぽさは洒落にならないくらいヤバいが^^;
能力とはどのようなもので、頭が良い人とはどんな人かが少しでも分かっていれば、あのようなものを相手にする気にはならないと思う。よく、「人の名前が出てこない。頭が衰えた」なんて話もあるが、それ自体はどうということもない。出てこない名前なら出さなくて良い。単に、名前を思い出す優先順位が下がっただけのことだ。
頭を鍛えるとは、実践で効果を確認できることを考え、そしてそれを実践した結果を分析し、さらに創意工夫することで行われるのである。チョキかパーを当てることで鍛えられる脳は閉塞された部分の機能であり、しかも、繰り返してパターン化すれば思考能力を失うのだ。丁度、携帯メールのようにね。

20061111

可愛いというより綺麗な小学生の女の子がいましたが、彼女の姉のいろいろな行動は、妹にとって容認できるものもあれば、そうでないものもあるようです(笑)。
例えば、後ろから音もなく忍び寄ってのカンチョー攻撃(笑)や、パンツを脱がしてくることもあるとか^^;
まあ、妹を溺愛する姉独特の愛情表現ではあるようです。さすがに妹さんが中学に入ってからは、ほとんどなくなった様子です(ほとんど・・・少しは今でもあるのか?^^;)

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2006.11.10

バイオソニック購入

バイオソニックを購入した。
高度なテクノロジを有する化学工業の林原生物化学研究所の製品である。
ポケットに入る小型のBOXにヘッドフォンが付き、電車の中で取り出すと、MDプレイヤーのようなものと思われるに違いない。
では、何をするものかというと、「アルファー波・シータ波誘導装置」とある。

バイオソニックは、以前、パラメモリ、アルファシータという名称で売られていたものの改良版である。パラメモリでは「記憶力増強装置」とされていた。
バイオソニックでは、発売当時は新聞で、リラクゼーション装置のような言い方がされていたと思う。
バイオソニックの時からはあまり言われなくなったように思うが、発明者は2002年に亡くなられた政木和三さんである。

科学的理論としては、ヘミシンク効果を応用したもので、左右の耳で異なる周波数の音を聞くと、脳波はその2つの周波数の差の周波数に同調するという性質を利用して、特定の脳波に導くというものらしい。基準周波数は生体研究の結果、人間が心地よく感じる151Hzを基準にしてあるということだ。

ところで、アルファー波というと、一頃ブームになり、バイオフィードバック装置や、いろいろなアルファー波誘導装置みたいなものが販売されたが、別にそんなものを使わなくても、目を閉じれば自然にアルファー波になるという意見もある。
ただ、様々な活動時にアルファー波の脳波にすることは、高い能力を発揮できる可能性はありながらも難しいらしい。
そして、睡眠時の脳波であるシータ波を覚醒時に出すには、よほどリラックスしつつ集中した状態であることが必要で、将棋の名人の対局中の脳波がこれであるらしい。
私はパラメモリ時代からのユーザーであったが、ここ数年は使っていなかった。しかし、今月初め、原因不明の眩暈や吐き気で立つことも出来なくなった時、自宅にあったアルファシータを使う度に気分が良くなり、再び愛用を開始した。ただ、このアルファシータは、何年も放置したためか、やや調子が悪く、専用ヘッドフォンも駄目になっていたので、今回、バイオソニックを購入した次第である。

現在は、バイオソニックはアマゾンでも購入可能で、私もここで購入した。
アマゾンのバイオソニック販売ページ

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2006.11.09

村の鍛冶屋

「村の鍛冶屋」という歌が、音楽の教科書から消えているようですね。
理由は、「鍛冶屋が見られなくなった」というようなものだと聞いていますが、鍛冶屋は現在も未来においても重要な仕事で、永久になくなることはないと思いますし、なくなってはいけないと思います。
逆に、鍛冶屋というものをもっと知らしめ、教科書に復活させた方が良い。
そして、この歌。実に素晴らしい歌なのである。

鉄より堅しと ほこれる腕に
勝りて堅きは、彼がこころ

平和のうち物 休まずうちて、
日毎に戦う、懶惰(らんだ)の敵と

※懶惰 なまけおこたること

あたりに類なき 仕事のほまれ、
槌うつ響に まして高し


まさに仕事の真髄。現代の我々が忘れてしまい勝ちな大切なものです。
こんな良い歌をなぜ教科書から外すのか?教育関係者の無能振りは今更言うまでもありませんが、おそらくは、自分達の姿勢とあまりに違うので外してしまったと考えると合点がいきますが。

私が持っているいくつかのナイフは、工場生産品ではなく、鍛冶師が打ったもので、切れ味、剛性(粘り)、研げば切れ味が戻る再現性、それに味わいなどは求められる場は多く、優れた鍛冶師は必要とされています。
確かに、多くの鉄製品は工場生産品で十分であり、一般的な「鍛冶屋」は商売が成り立たちにくいかもしれませんが、高級品や、規格外製品など、手作りが必要なものは多くあると思います。

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2006.11.08

教育改革雑論

小学生にしろ中学生にしろ、学校教師以外の大人とほとんど接触する機会がないことが異常だ。
学校教師というものは、子供たちにとって最も接する価値のない大人ではないのか?
逆に、社会の中で、モノを作り、販売し、サービスを提供して、その成果で食べている逞しい大人こそ、子供たちが接する意義があるのである。
子供たちが学ぶべき場所は社会である。一般の大人ともっと接しなければ何も学べない。
危ない大人が多いという不安を言う者もあるかもしれないが、学校教師が一番危ないと思う。
当然、女子で言えば、中学生や高校生といえば、人生で最も魅力的な時代であり、成人の男性と交流する機会が増えれば、当然、恋愛が発生する。良いことである。今の女子中高生が精神的にあまりに幼いのは、立派な大人の男性と接しないことも大きいはずだ。全く大人とはいえない学校教師や、場合によってはいかがわしいにーちゃんとしか付き合わない。ここで、本物の大人の男性と接すれば、その逞しさに憧れるのは当然で、学校教師や変なにーちゃんがいかに小さいものであるかが分かり、真の大人の男性と交際することで大人っぽくなるだろう。これは、幸せな人生を築く土台になるし、場合によっては若くしてさっさと結婚すればいい。また、彼女達と同世代の男の子は、大人の男に負けまいとがんばってこそ大人になり、その姿に女の子もまいるのである。そこで、15歳(女)と30歳(男)といったカップル(もっと離れてても何ら問題はない)が普通であると同時に、やはり同世代のカップルも多くなるのである。

男の子でいえば、働く大人やその仕事に興味がないはずがない。学校で無駄にしている金を企業や地域社会に回し、企業や地域社会で実地を踏まえた学習をさせれば良い。興味があれば、子供だって多少厳しくても耐えられるし、何より生きた学習が可能だ。ある程度の能力が付けば、子供にも給料を出せば良い。
昨今の、高校の未履修問題などお笑い種だ。そんなもの履修する必要は全くない。無駄な授業が多いだけの話だ。教師の給料のために設定した履修内容に無理に生徒を付き合わせるなど本末転倒だ。
子供達を社会に参加させ、さらに老人とも交流すべきである。老人が実はいかに有能かも分かってくるし、接すれば得ることも多い。

学校にいかないと無知・無教養になるというとんでもない嘘が問題の元凶だ。学ぶことと学校は何の関係もない。むしろ学校で馬鹿になると考えて間違いないと思うし、それはもうばれつつある。
学校と呼ぶのなら、それをもっとオープンでシンプルなものにすれば良い。そこで教えるのは、自学できるようになるための方法だ。遅くとも14歳にもなれば、自分で勝手に勉強できるはずだし、後は仕事の場で実地で学ぶべきである。もちろん、アインシュタインやベルナー・フォン・ブラウンを目指すなら、高等教育の場があっても良いが、本当に興味ある子供なら誰でも参加できるようにすると共に、親の意向みたいなもので無理にやらせるものではない。

基本は、子供を社会の大人と交流させることだ。これなくして、教育改革はないだろう。

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2006.11.07

かぐや姫

かぐや姫といえば、日本人なら誰でも知っているファンタジーのスーパーヒロイン。
しかし、「ではかぐや姫ってどんな人?」と問われると、ウルトラ美女という他は「いえ、そんなこと聞かれても困るんスけど・・・」ではないだろうか?
私もそうだったが、ある歌を聴いて、衝撃を受けたことがある。
まるでかぐや姫が本当に歌っているかのような詩であった。
これは、「まほろまてぃっく」という漫画(原作:中山文十郎、漫画:ぢたま某)に掲載されていたもので、アニメでは曲が付けられ、まほろ役の声優、川澄綾子さんが歌っていた。「まあるいお月さま」という歌である。
作詞は藤城幸太郎となっていたが、実在しないのか無名な人なのか分からないが、正体不明である。漫画では、この詩は「かぐや姫詩集」よりとなっていたので、藤城幸太郎も存在するのかもしれないが、どこかのポエムクラブみたいなものの同人詩集だったら見つかるはずもない。
詩はソラで憶えている。

月 月 まあるいお月さま
私は 村の童(わらし)から 菜の花をもらいたかったな
まあるい まあるい お月さま
私は 赤子の手を握り 笑顔を返したかったな

まあるい まあるい お月さま
いつか あなたに帰るから
いつか かぐやは帰るから

でもね まあるいお月さま
私は 菜の花握り締め 笑顔を 返したかったな

かぐや姫という特別な存在の中の普通の少女の感性・・・これは全く思いつかなかった。
考えてみれば、かぐや姫はほとんど世間から隔離されて育てられ、一般の者と交わることもなかった。ただ、普通の老夫婦の家であることもあり、どこかから、子供たちが誰かに花をあげたりするという、日常の楽しい風景を見たのかもしれない。その当たり前が、かぐや姫には輝かしいものに感じたに違いないという想いを起こさせる。
月に対するなつかしさや愛しさを感じながらも、普通の人としての楽しみを得られなかったことへのちょっとした無念をその月に訴える。なんとなく、かぐや姫を身近に感じるような気がした。
菜の花を握り締め、笑顔を返すかぐや姫・・・さぞや萌え萌えであろう(笑)。

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2006.11.05

体調を崩しております

11月に入ったとたん、体調を崩し、ずっと寝込んでおりました^^;
少し回復しましたので、ご報告をいたします。
健康になれば、またいろいろ書いて参りたいと思います。
そのときには、またよろしくお願いいたします。

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