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2006.10.01

不良高校生に見る学校教育の成果

学校教育と若者の粗暴さの関係を考えるととても面白い。
ここでは、ちょっとひねたタイプの高校生を取り上げる。

かなり以前の高校生であれば、道を歩いていて相対すると、不良であれば「どきやがれ」となるし、もう少し普通の高校生でも、そんな目をしていたものと思う。
ここらは、当時はいろいろ言われたであろうが、今であれば清々しくさえ思える。相手が強いかもしれないというリスクは覚悟しているし、少なくとも欲しいものを自分で勝ち取ろうという気概だけは見える。
この頃は、若者はまだ学校に対して反発があったし、教師の方も案外に「それももっともだ」という想いがあったと思う。
そして、少し前の高校生では、道ででくわすと、「そっちがどくのが当たり前」といった、相手を見下した顔をするのが普通だった。これは、幼児性全能感であり、ものごとにチャンレンジした経験がなく、あってもすぐに尻尾を巻いて逃げると、幼児の頃の、意味もなく自分が世界で最も重要な存在と思い込む段階に戻る、人間の基本的な性である。本人は自分は神に等しい存在であると言う幻想の中にいるが、その幻想が破られることは無意識的に恐れているので、社会には出にくいし、極端になるとニートになる。
この時代では、不良たちが狙う相手はノーリスクが保証される老人や身障者のみとなる。
これは、学校教育が更に徹底され、子供の時間を取り過ぎることによる、家庭のしつけがなされなくなった結果である。
尚、勘違いしている人が多いが、家庭のしつけとは、親が子供に教えるだけのことではない。子供が地域の活動に関わることにより、他の大人からも教わるべきものである。
どうも、学校教師が一般の大人より賢いという風説や大誤解があるようで、子供が地域に関わるという非常に重要なことが軽視されるようになったこともあるように思える。学校教師は子供よりマシとすら言えないことは、ほぼ間違いない。

最近はさらに末期的である。
道で対峙すると、今の高校生は「どけ」という態度でもなく、「おどきなさい」という雰囲気でもない。仲良しグループのメンバーでもない限り、相手の存在を認識すらせず、こっちがどかないと簡単にぶつかってくる。
これは、他人やものごとへの極端な無関心の表れで、米国輸入の義務教育がすっかり浸透した成果である。同じ年齢の子供をあつめて、同じ時に同じように感じる訓練が徹底してなされ、個性も想像力もなくなった者が、他人やものごとにいかに関心を持たないかを表している。そして、その成果は、数学や英語より、美術教育が圧倒的に高いのはこれまでも書いた。本当のところをバラしてしまうと、学校で数学や理科を教わる必要もないのだが(むしろ致命的に学力を無くす恐れがある)、美術教育は絶対に行ってはならない。自分の感受性すら信じられなくし、心的な死をもたらすことを恐れるならね。

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