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2006.10.16

忘れられた英雄

相変わらずの与太話だが、いつもより長い(笑)。
しかし、売れない芸術家や、人生、うまくいかない人の参考になるかもしれない(?)。

現在、日本のメジャースポーツといえば、歴史の長いものでは野球、サッカー、相撲、ボクシングがある。
格闘技はいろいろなものがあるが、交流戦も盛んなこともあり、「格闘技」一般では間違いなくメジャーと言えるはずだし、「K-1」1つでもメジャーと思う。
また、ゴルフ、フィギュアスケートも世界でもトップレベルの人気選手がいるし、TV中継などの興業は順調と思われ、選手層もかなりのもので、これらもメジャースポーツと言って間違いないと思う。

ところで、1960年代から1970年代にかけて、今ではその名称を知らない者も多いと思うが、キックボクシングが堂々たる日本のメジャースポーツであった時代があった。
1973年、野球では巨人軍が9連覇を達成すると同時に、巨人軍の選手であった現在ソフトバンク監督の王貞治は3冠王を達成。しかし、この年、日本プロスポーツ大賞を獲得したのは、キックボクシングの王者、沢村忠だった。

すでにメジャーなスポーツであれば、実力さえあればスターになれる可能性がある。しかし、キックボクシングというものは、沢村とそのスタッフが始めたものだった。基本的にタイのムエタイ(タイ式ボクシング)だが、そこに投げ技などのいくつかのルールを加えたもので、最初は沢村が主にタイの選手と対戦する試合をメインに興業していた。
ややもするとボクシングが素人目には退屈に見えるのとは違い、豪快な回し蹴りや肘打ち膝蹴りなどの多彩な攻撃でKO率90パーセントの大迫力であった。
しかし、それが人気になるのはスタートしてから何年もの後で、このように一般に知られていないスポーツを普及させるのは並大抵のことではない。
最初は、コーチやトレーナーは試合の終わった女子プロレス団体からリングを借り、千人でいっぱいになる会場の二階にそれを運んで自分達で組み立て、疲れ果てたところで選手のセコンドについた。そして、沢村自身も一人一人にキックボクシングとは何かを説明してチケットを売ったが、僅か千席にも空きが沢山あった。
当然ながら沢村は会社勤めの後に練習し、休日に試合を行った。
そして、やっとテレビ中継にこぎつけた時、沢村は唯一の財産であり、大好きであった愛車を売ると、自分と後輩のために入場用のジャケットを買い、生まれて初めてミシンを使って、1つ1つに選手の名前を縫いこんだ。
キックボクシングがブレイクしたのは、沢村が本場タイに乗り込み、タイの英雄にしてタイ国ライト級チャンピオン、ポンチャイ・チャイスリアと引き分けた時だ。

現在、野球では巨人の小久保選手がファンを大切にし、丁寧にサインに応じると聞いたことがある。また、特にパ・リーグの選手はこういった心構えがしっかりしており、大スターの松坂投手も「プロとして当然」と長時間サインに応じると聞く。
王監督は現役時代から、可能な限り、並んでいる全員にサインすることで有名だったが、これは今でも変わらないらしい。
反面、巨人あたりには、ファンから逃げるような選手もいるというが。

沢村は、ファンの有難さ、大切さを痛感していたのか、ファンサービスにも徹底していた。
バラエティ番組、クイズ番組、インタビュー、イベント出席、雑誌取材、写真撮影・・・いかなる仕事でも黙って全部こなした。スケジュールは超過密であったが、「マネージャーが取ってきてくれた仕事」を断ることなど考えられなかった。
疲れてジムに帰り、色紙が1メートルも積まれていると、代筆を勧められたが断り、全て自分でサインした。お正月に年賀状が1万5千枚来たら、全てに返事を出した。
疲労で新幹線の中で寝入っていて、たまたま乗り合わせていた修学旅行中の学生がサインをもらいに来た時、同僚が気を利かせて断ったが、目覚めた沢村はそれを聞くと、学生達を呼びにいかせ、一人一人に丁寧にサインしたという。
沢村が出ないと興業が成り立たず、週1のペースで試合し、月に8試合が組まれても文句を言わなかったばかりか、お客さんを満足して帰すためにいつも迫力ある試合をすることを忘れずに勇猛果敢に攻め、必然的に自分も攻撃を受けてダウンすることが多かった。特に沢村は、キャリアの浅い頃は防御があまり上手くなかった。
身体はいつも満身創痍だった。ついにある時、胸を強打されて肋骨のつなぎ目を損傷し、全く動けない状態で45日の休業となる。そして、沢村がいないと客は入らないので、興業自体が中止になる。
それでも沢村は、自分がキックボクシングを支えているという驕りは全くなかったらしい。
なぜ沢村がここまでストイックにやれたかというと、1つには純粋な武道家精神があったと言われる。より高い境地に進みたいという気持ちで、沢村は現役時代の終わりにも、技を改善し、技術を向上させ続けた。
そして、もう1つは、引退式での沢村の最後の言葉に表れていたと言われる。「施設や学園のみなさん、元気でがんばって下さい」
沢村は現役時代、よく大きな袋にお菓子を詰め込んで福祉施設の子供達を訪問し、過密スケジュールの中、身障者のスポーツ大会に応援に駆けつけた。自分の魂溢れるファイトで不遇な人たちを元気付けることがなによりのやりがいであったのかもしれない。
現役を引退すると、車好きの沢村は、自動車整備の修行を1から始めて、真面目に働いた。さぞ熱心な仕事振りであったろうと思われる。キックボクシング界を離れて何年も経った頃、所在さえ定かでなかった沢村の居場所を突き止めた雑誌記者は、沢村の手が油で真っ黒であったことを書いていた。
実に学ぶべきところが多い稀有な人物であると思う。
芸術家は金にならないと言われるが、参考になる点も多いと思う。

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