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2006.10.31

落としたい?

「落とす」だの「モノにする」とかの言葉を聞くと、あんまり真面目なことは思い出さないと思う(そんなことない?^^;)。
辞書で、「落とす」のそれらしい意味を見ると、「相手を従わせる」「決着をつける」などの意味がある。また、「ものにする」には「手に入れる」という意味がある。「所有する」とは日本文学では、よくその表現に使われたと思う。
その「落とす」であるが、なぜそんな意味に使われるようになったかというと、堕天使を「天から落ちた天使」という意味で言うことからきたような気もする。
そして、主に清浄な少女が「落ちる」とか「沈む」絵には、そのような意味が含まされていることが多く、それは見ている者に無意識に感じられたりして絵の情感が増したりする。
このように、絵には象徴を使って隠れた意味を表現するものは多いと思うが、時代・地域を越えて通用するものは面白い。とはいえ、ユングのいう「集合無意識」とは関係ないとは思う(笑)。

20061031

手に触れさせる女神です。女神と言ったら女神です(笑)。
山本リンダさんの歌ではありませんが、マドンナと言われるほどの乙女の手に触れるだけで、国家の与える勲章の百万倍の名誉かもしれませんね。騎士道とはそのようなものか(?)

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2006.10.30

きっかけの一言

業績の頂点に達した者には、誰かから聞いた一言がそのきっかけになったということも多い。
対して、沢山の成功の本や成功セミナーで成功したという話は全く聞いたことがない。
駆け出し俳優だったバート・レイノルズが、大俳優クリント・イーストウッドに尋ねたことがある。
「人気が出るまで、何をしていたのですか?」
イーストウッドは答えた。
「成功するための準備をしていた」
レイノルズは、たちまちにその深い意味を感じ、成功の梯子を駆け上った。

20061030

本日のラクガキは、私が実際に見たもの(謎)。
クリックすると、大きな絵が出ます。
二人の少女の表情が少し違います。

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2006.10.29

新たな目

我々は、「新たな目」を持つことを忘れてはならない。
精神状態がいつもと違う時、見慣れたはずの風景や、自分の家の扉でさえ全く違って見えることがある。長年の間、毎日見ていた部屋のふすまに美しい百合の絵が描かれていることに改めて気付いて驚くこともある。
これを、わざとやってみることもできるはずだ。
普段見慣れたものを、意識して新たな目で見る。すると、それがなんとも美しくて興味深く、意味に満ち溢れていることが分かる。
そして、人間が死んだようになって生活をする原因が、この新たな目を忘れてしまうことである。
世界が、意味と驚異に満ちていないなら、人が生きている意味もないからだ。

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フィギュアスケートGP第1戦は安藤美姫さんの復活優勝。浅田真央さんは、3位で「よくやった」とは言えないところが凄いですね。
で、私は舞ちゃんファン<聞いてないよ
TV放送のゲストの荒川静香さんも言ってましたが、「美しい」ですね。
ちょっと舞ちゃんをラキガキしてみました。似てませんけど^^;

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2006.10.28

極端論は愚かさの証

何かについて、「好き」「嫌い」、あるいは、「良い」「悪い」程度の答えしか浮かばないなら、多分、そのことについて良く知らないのだ。
最近、中国や韓国をオール悪とするような書物も多く見られるが、どうもこのような極端な考えが多過ぎるように思う。
アメリカ、北朝鮮、ジャイアンツ、安倍総理・・・などなどについても、そんな意見が多くないだろうか?
心理学では、フロイトを「時代遅れ」「間違い」などと決め付ける専門家すらいる。しかし、明らかにフロイトと異なった(そしておそらくは優れた)理論を持つマスローはそんなことは言っていなかった。マスローはそれぞれの真理を統合することが必要で、フロイトの深い意味を追求してきたと言った。本当に賢い人とは、このようなものだと思う。

20061028

いつまでもサロンパスを貼っていたら、風呂上りに姉に押し倒されてバリっとはがされた瞬間(笑)。
クリックすると苦痛の悶えが大きく表示されます^^;

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2006.10.27

引きこもりの生き方

世の中には、引きこもりタイプの人間が一定数、必ずいる。
私なども、かなりその傾向が強いのだが、周りの人間にそう言うと、なぜか全然信じてもらえないばかりか笑われる(笑)。
引きこもりタイプは、当然ながら人間関係が苦手であるので、学校や会社に行くのは辛く、下手をすると、まともな社会人になれないまま一生を過ごすか、そうでなくてもストレスを溜めながら生きて、場合によっては病気になったり早死にしたりということになりやすい。
詩人・思想家で、共同幻想論で有名な吉本隆明氏(作家よしもとばななさんのお父さんと言った方が分かりやすいかも)が、引きこもりの人間の生き方を2つ書いていたのを読んだことがある。1つは努力して引きこもりを克服するという、普通の方法であるが、これは下手をすると精神に歪みを起こす可能性がある。私もそう思う。
もう1つは、引きこもりに徹することだ。そして、人と会わずに自宅でできるような仕事をすれば良いと言う。しかし、そんな仕事はないと思う。ニートでもアフェリエイトで収入を得ている人もいるというが、一般にはせいぜいが月に数千円の収入であり、とてもではないが生活できない。
在宅業務とかで、パソコンで仕事をするなんてのもあるが、これだって仕事を取るには人間関係の基本ができてないといけないし、そもそもが生活できるだけのお金なんて滅多に稼げない。
あまり解決にはならないが、私の場合で言うと、行く先行く先で、力ある人間がやたら世話を焼いてくれた。よって、比較的安楽であった。やはり美しいからか・・・ではなく、オカルト的な意味でなしに、自分以外の力に協力してもらえることは、別に引きこもりでなくても必要なことだ。力ある者は助けるのが好きだ。そこで、媚びるとかではなく、助けてもらえるだけのものは自分で作らないといけない。それと共に、自助の精神とのバランスも必要と思う。ちょっと訳が分からないが、正しいのではないかと思う。

20061027

本日のラクガキは和な乙女を描いてみました。
クリックすると大きな絵が出ます。

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2006.10.26

マル禁の酒はなぜウマい

ビートルズの有名な歌「ヘイ、ジュード」の出だしはシンプルではあるが意訳しにくい。
「そんなにしょげるなよ。悲しい歌も気分次第で楽しくなるさ」
実に無責任である(笑)。
いったいどう気分を作れば、悲しい歌が楽しくなるんだ。大方の人間はそれが分からないから辛いんだ。

それなら、トム・ソーヤーのペンキ塗りの話の方が良い。
トムが友達に、「俺の代わりにペンキを塗ってくれよ」と頼んだとすれば、よしんば引き受ける殊勝な子がいたとしても、その子にとっては苦役になる可能性が高い。
しかし、横柄なトムに見返りすら差し出したにも関わらず、トムの友達は嬉々としてペンキを塗ったではないか?
この話は、ほとんどの人が知っていると思うが、その意味にはあまり気付いていない。
トムの友達は、ペンキを塗ることを「許可されていない」と思わされたことが重要なのである。

昔、アメリカで禁酒法というものが制定された時代があった(1917年)。酒を造っても売ってもいけないというもので、飲酒を禁止したわけではないが、事実上飲むことができない。結果、当然のことながら密造酒が作られ、闇取引がはびこったのはもちろんだが、バーが増えたのが面白い。禁止されることで、酒がさらに美味いものに感じたのだ。
実際、マル禁の酒ほどウマいものはない(笑)。

不倫の恋が楽しいのもしかり。表向きには禁止であるのだから(笑)。
セーラー服の少女が美しく見えるのも、禁断の果実であるからである。妙な法律で抑えれば抑えるほど、セーラー服の人気はうなぎ上りとなるのである(爆)。

イタリア映画「愛のほほえみ」で、なんとも愛らしい10歳くらいの少女が、タバコを手に「火を持ってない?」と主人公の少年に言って驚かせる。
彼女は言う。「あたし、『やっちゃダメ』ってことは何でもしたいの」

で、ポールの無責任発言(作詞)を補填する方法が分かったと思う。
やっちゃいけないことをやればいい。ただし、やったことの対価は支払わねばならぬことを忘れてはいけない。そして、対価を覚悟するからこそ楽しいのである。林檎をトムに渡した子供のように。

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疲れた時、こうやってうつ伏せになって、土踏まずを踏んでもらうとキモチいいのですね。
「ああ~ん・・・もうだめぇ!」って感じです(笑)。
クリックすると、しょーこりもなく大きな絵が出ます。。。

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2006.10.25

白雪姫の真実

白雪姫のお話は、グリムは何度も書き直したようですね。
最初は、お后は実母だったのが継母になったりです。
しかし、お后のビューティークイーンの座を脅かしたのが、白雪7歳の時というのは変わらずです(!)。

お后と鏡は、こんな会話をしたかもしれません。

后 「ミラーちゃん、この世で一番の美人はだあれ?」
鏡 「あんたやと思うけどなあ。白雪もエラいべっぴんになってきよったで」
后 「そうねえ。あれは男殺しになるわね」
鏡 「今はまだええけど、後5年もたってみい。白雪は12歳の乙女盛り。あんたはもう28や。とうが立つでえ」
后 「そーなのよねー。ダーリンも若い子が好きだから心配だワ。私がオバさんになっても泳ぎに連れてくタイプじゃ絶対ないわね」
鏡 「せやけどな、あんたも我が身を省みたら分かるやろうけど、なまじ外見がええさかい、中味はカラッポになりかねんで」
后 「ああ!それは言わない約束でしょ!でも、確かに・・・。私も母親らしいことをしてあげたいわね。ミラーちゃん、何かいいアイデアない?」
鏡 「わいを頼ってばっかりではいかんで。でもまあよろし!わいの古い知り合いに『しつけのリトル・セブン』と呼ばれとる7人の小人がおるよって、そこに預けたらええんちゃう。ほんまはアンタが行った方がええかしれんけどな」
后 「お黙り!でも分かったワ」

お后も鏡さんも、実はいい人だったかもしれません(笑)。

20061025

ラクガキも続くものですね(笑)。セーラー服の女の子です。
クリックすると大きな絵が出ます。

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2006.10.24

大洋感情の起し方

ロマン・ロランの言った「大洋感情」というものを誰もが体験したいだろうと思う。
忘我的・神秘的な体験で、無制限で無拘束な感情である。
イェイツの言った「エクスタシ」もこのことかもしれないし、岡本太郎の「爆発」も私は明らかにこれであると思う。
アントニオ猪木さんや、前田日明さんといったカリスマ的なプロレスラーが、ビートルズも教わったというTM(超越瞑想)をやっていることは知られているが、TMでは純粋意識を体験するというが、これも大洋感情と似たものかもしれない。

心理学ではマスローのいう「至高体験」がこれにあたるものであると思う。そして、これを体験することは、自己実現の上でも非常に大切なものであるようだ。
マスローと交友のあった、英国の著名な作家コリン・ウィルソンもよく書いているが、至高体験は意図的にも起せるものである。かくいう私も、やり方が割に分かってきた。もっとはっきり説明できるようになったら、教えようと思う。

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人魚姫と王子様のムフフな出会い(違)。
原作によると、人魚姫は15歳の比類なき美少女で、脚も超絶綺麗であったらしい。
私がこのお話で好きなことは、風の精になった人魚姫は、王子様と共に、その花嫁にも祝福のキスをしたことです。決してケリは入れませんでした(笑)。

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2006.10.23

私の好きな感覚

3つ違いの美人姉妹がいた。
二人は、とてもよく似ていると言われていた。妹は、美しい姉と似ていると言われるのが嬉しかった。
姉が中学3年。妹が小学6年の時のことである。
姉がうたた寝していて、完全に寝入ってしまったところに妹がやってきた。考えてみれば、妹は、姉の顔を近くでしげしげと見たことがなかったが、この時はじっと見つめてみた。
そして、姉が美しいのに驚いた。そして思った。
「あたしなんかとちっとも似てないじゃない」

こういう感覚、好きですね。いえ、それだけのことなんですが(笑)。

20061023

ラクガキの習慣が身に付いて参りました(笑)。
クリックすると、一応大きな絵がでます。

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2006.10.22

解放された力

あまり良いことではないと思うが、小学校の劇で、どもりの役を本当のどもりの子供にやらせたことがあるらしい。
その子はすぐに役を降ろされた。なぜなら、彼は舞台の上ではどうしてもどもれないのだ。
ワープロもコンピュータ伝票もなかった時代、字が下手で経理係を解雇されかけた会社員がいたが、「できるだけ下手に書いてみろ」と言われたら、2日ほどでまともな字を書くようになった。
だが、普通にできることを下手にやるのは難しいものらしい。ピカソは「下手に描くようにしている」と言ったが、実はピカソは本来、上手さにかけても天才的。さぞや難しかっただろうと思う。

20061022

本日のラクガキ。
graffito(古代人の描いた壁画等の絵、文字)は、岡本太郎さんによると、あれは現代人には描けないらしい。
池田満寿夫さんも、それらには写実より生き生きとしたものがあるという。
graffitoはgraffiti(グラフィティー。ラクガキ)でもある。古代人のラクガキは凄いものであるようだ。

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2006.10.21

超人の哲学

「すべては神の思し召しのまま」という言葉がある。
人知では理解できなくても、全ては正しき神の思し召しであるので、いかなる出来事も良いものとする考え方である。
ところが、W.B.イェイツが書いたらしい謎のような文書の中に、これとはっきり異なる宗教哲学があるが、これが実に興味深い。
※私は、渡辺久義氏の「イェイツ」(あぽりん社)で読んだ。
この世の全ては、チャンスとチョイスに別れ、これ以外には存在しないとする。チャンスは「偶然」で、チョイスは「自由意志」である。
全ては神の思し召しとして受け入れるのは、神のチョイスを崇拝することである。
しかし、その文書に書かれたアラブ人は、神のチャンスを崇拝することに一生を捧げた。
神のチョイスを崇拝することはまだ易しい。しかし、神のチャンスの広大無辺さを理解した時、神に最も近付くという。
私は、これだけで万巻の哲学書に優ると思った。
渡辺氏も、これはニーチェのツァラトゥストラのような超人の宗教であると書かれていたが、その通りと思う。そもそも、人間は、これを知る者とそうでない者に分かれるとすら思える。
いかなる偶然-宇宙大自然の偶然-も、神の意思ではなく自分の意思とすることである。このことによって神に近付くのである。

20061021

テーマは「聖女」。ラクガキも、グラフティーと言えばカッコいい(笑)。
尚、graffitiをgraffitoと、最後をoに換えれば、古代人の描いた絵や、便所のラキガキになるらしい。池田満寿夫さんは、著書に、自分の絵は便所のラクガキと書かれていたのを思い出す。

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2006.10.20

最高に幸福な思い出

もう随分昔になるが、オリンピックの水泳で金メダルを獲得した14歳の女子中学生が、「今まで生きてきた中で一番幸せです」と言って話題になり、よくこの言葉が真似された。
では、私にとって、これまでの人生で一番幸せだと感じたことはというと、それは小学生の時、明日から夏休みという日の気分である。なんとも寂しいものである(笑)。しかし、今でもその日のことを思うと心の高揚が蘇る。その時、この世は美しく、人生は生きるに値すると感じたものである。
人間にとっての幸福とは、実に、この世が美しく、人生が生きるに値すると感じることなのである。

20061020

毎日のラクガキです(笑)。シュリンクス伝説のつもり。

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2006.10.19

マスローと萌えと芸術

イエスは人はパンのみで生きるにあらずと説いたが、パンを得られない状況にある者はパンを求めるのである。
まさか、イエスの言う通り、誰でも超能力でパンを出現させることができるわけでもない。
パンを安定的に得られるようになって初めて、より高い欲求を持つのである。

これは、著名な心理学者マスローの欲求階層説が当てはまる。欲求階層説とは、低レベルの欲求が満たされて後に、高い欲求に進むということである。
慈善とか博愛、犠牲的精神などはかなり上位の欲求となる。どれ程を望むかは人それぞれであるが、自分の生存がピンチにある人間が、他者に尽くすというのはあまり有り得ない。
また、社会的な落伍者が聖人気取りで他者に奉仕しようとしても、かえって迷惑な場合が多い。彼らには、意識的あるいは無意識的に、邪心や下心がある場合が多いからである。

ここで「萌え」について考える。
「萌え」とはバーチャル恋愛である。アニメの美少女キャラを恋人として扱うのであるが、これも恋愛という欲求レベルを満足していないので、より上位にある、相手の人間性を対象とした愛というものに進まないと考えることができる。
なぜなら、オタクでなくても、ごく若い時には可愛い少女やカッコいい男の子に萌えるものであり、そこで適切な相手との恋愛を行って満足すれば、外見や若さにこだわらなくなるものであるからだ。

これについては異論があり、萌えるオタクは、現実の女性や少女に自己の理想を投影することができず、理想化した恋愛対象を求めるというものである。
実際は、萌えオタクの大半においては、萌えは単にモテない補償であろうが、そのような場合もあるのではないかと思う。その違いはというと、普段の行いを見れば一目瞭然と思う。信念あるオタクであれば、自己を向上させるためにかなりの努力を行っているものであると思う。特に知的な面で顕著であると思う。
ただ問題は、たとえ純粋な愛を求める信念あるオタクであったとしても、その欲求レベルはほとんど満足されないまま生涯を終える可能性があることだ。
フロイトであれば、「萌え」は、幼少時の母親との関係に原因を置くであろうが、マスローでは必ずしもそうではない。「萌え」を誘発する因子がその人間の中にあると考えられると思う。
この難しい欲求を持った者が自己実現するには芸術の道以外に、あまり良いものが浮かばない。ゲーテもダンテも萌え因子を持っていたと思うが、彼らは限りない高みに昇った。
いろいろ考えるに、純粋な萌えタイプの欲求階層はやや標準とは違う点もあり、ある意味、特別な人間ではないかと思う。

20061019

ラクガキが楽しくなってきました^^;

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2006.10.18

全ての病気は心因性?

あらゆる病気は心因性であるとする考え方がある。
最も強烈に断言していると思えるのは、ドイツの「心身医学の父」と呼ばれる医師ゲオルグ・グロデックだと思う。
「自己暗示術」で有名なエミール・クーエもその立場と思う。
その効果を疑う医師や心理学者も多いがNLP(神経言語プログラミング)の創始者リチャード・パンドラーも、その著書の中で、全ての病気は心因性と決め付けていると書いていた。
まあ、免疫力が低下すれば、いかなる病気も悪化するのだし、免疫力は精神の状態に大いに影響されることを考えれば、あまり無茶とはいえないかもしれない。
ただ、グロデックのように、器質的疾患も間違いなく心因性とするのは凄い。
余談だが、トム・クルーズが熱心に信仰している宗教であるサイエントロジーの根本理念であるダイアネティックスでは、教祖L・ロン・ハバートは、全ての病気の少なくとも75パーセントは心因性であり、実際はもっと多いかもしれないと書いていた。私も変なことを知っているものだ(笑)。

ところで、自分の周辺で、大病になったり、そこまでではなくても、慢性的に具合の悪い人を観察していると、これは本当のことではないかと思うことが多い。
ところで私も最近はストレスが多い。精神に活力を持たせるよう心がけねばと思う。

20061018

ラクガキ(笑)。クリッjクすると、一応大きくなる^^;

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2006.10.17

ゲームの恐怖に震えた

RPG(ロールプレイングゲーム)のファンは多いと思う。
私はただの一度もやったことがなかったのだが、数年前、一応はアダルトなのだが(笑)、爽やかそうな絵柄のパッケージのものをやってみたことがある。
そして、恐ろしいまでに無為な時間を消費することに愕然とした。これは、RPG全般に言えるのではないかと思う。
絶対にやらないと心に誓った。
別にRPGに限らず、ゲーセンの反射神経型のものも、お金と共に貴重な時間を奪い取ってゆく。また、昨今の小型ゲーム機もしかり。
ゲーム脳理論が正しいかどうかは知らないが、思考することなく長時間過ごすのであるから頭に悪いことは確実である。ただ、他人がゲームをやればやるほど、相対的にこちらが優秀になるという利点もある。よって、他人にまでゲームをやめさせる気はない。

20061014

お絵描きソフトのエアブラシで遊んでいたら、案外カワイイ雰囲気になった(笑)。
クリックすれば大きな絵・・・を出すほどでもない^^;

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2006.10.16

忘れられた英雄

相変わらずの与太話だが、いつもより長い(笑)。
しかし、売れない芸術家や、人生、うまくいかない人の参考になるかもしれない(?)。

現在、日本のメジャースポーツといえば、歴史の長いものでは野球、サッカー、相撲、ボクシングがある。
格闘技はいろいろなものがあるが、交流戦も盛んなこともあり、「格闘技」一般では間違いなくメジャーと言えるはずだし、「K-1」1つでもメジャーと思う。
また、ゴルフ、フィギュアスケートも世界でもトップレベルの人気選手がいるし、TV中継などの興業は順調と思われ、選手層もかなりのもので、これらもメジャースポーツと言って間違いないと思う。

ところで、1960年代から1970年代にかけて、今ではその名称を知らない者も多いと思うが、キックボクシングが堂々たる日本のメジャースポーツであった時代があった。
1973年、野球では巨人軍が9連覇を達成すると同時に、巨人軍の選手であった現在ソフトバンク監督の王貞治は3冠王を達成。しかし、この年、日本プロスポーツ大賞を獲得したのは、キックボクシングの王者、沢村忠だった。

すでにメジャーなスポーツであれば、実力さえあればスターになれる可能性がある。しかし、キックボクシングというものは、沢村とそのスタッフが始めたものだった。基本的にタイのムエタイ(タイ式ボクシング)だが、そこに投げ技などのいくつかのルールを加えたもので、最初は沢村が主にタイの選手と対戦する試合をメインに興業していた。
ややもするとボクシングが素人目には退屈に見えるのとは違い、豪快な回し蹴りや肘打ち膝蹴りなどの多彩な攻撃でKO率90パーセントの大迫力であった。
しかし、それが人気になるのはスタートしてから何年もの後で、このように一般に知られていないスポーツを普及させるのは並大抵のことではない。
最初は、コーチやトレーナーは試合の終わった女子プロレス団体からリングを借り、千人でいっぱいになる会場の二階にそれを運んで自分達で組み立て、疲れ果てたところで選手のセコンドについた。そして、沢村自身も一人一人にキックボクシングとは何かを説明してチケットを売ったが、僅か千席にも空きが沢山あった。
当然ながら沢村は会社勤めの後に練習し、休日に試合を行った。
そして、やっとテレビ中継にこぎつけた時、沢村は唯一の財産であり、大好きであった愛車を売ると、自分と後輩のために入場用のジャケットを買い、生まれて初めてミシンを使って、1つ1つに選手の名前を縫いこんだ。
キックボクシングがブレイクしたのは、沢村が本場タイに乗り込み、タイの英雄にしてタイ国ライト級チャンピオン、ポンチャイ・チャイスリアと引き分けた時だ。

現在、野球では巨人の小久保選手がファンを大切にし、丁寧にサインに応じると聞いたことがある。また、特にパ・リーグの選手はこういった心構えがしっかりしており、大スターの松坂投手も「プロとして当然」と長時間サインに応じると聞く。
王監督は現役時代から、可能な限り、並んでいる全員にサインすることで有名だったが、これは今でも変わらないらしい。
反面、巨人あたりには、ファンから逃げるような選手もいるというが。

沢村は、ファンの有難さ、大切さを痛感していたのか、ファンサービスにも徹底していた。
バラエティ番組、クイズ番組、インタビュー、イベント出席、雑誌取材、写真撮影・・・いかなる仕事でも黙って全部こなした。スケジュールは超過密であったが、「マネージャーが取ってきてくれた仕事」を断ることなど考えられなかった。
疲れてジムに帰り、色紙が1メートルも積まれていると、代筆を勧められたが断り、全て自分でサインした。お正月に年賀状が1万5千枚来たら、全てに返事を出した。
疲労で新幹線の中で寝入っていて、たまたま乗り合わせていた修学旅行中の学生がサインをもらいに来た時、同僚が気を利かせて断ったが、目覚めた沢村はそれを聞くと、学生達を呼びにいかせ、一人一人に丁寧にサインしたという。
沢村が出ないと興業が成り立たず、週1のペースで試合し、月に8試合が組まれても文句を言わなかったばかりか、お客さんを満足して帰すためにいつも迫力ある試合をすることを忘れずに勇猛果敢に攻め、必然的に自分も攻撃を受けてダウンすることが多かった。特に沢村は、キャリアの浅い頃は防御があまり上手くなかった。
身体はいつも満身創痍だった。ついにある時、胸を強打されて肋骨のつなぎ目を損傷し、全く動けない状態で45日の休業となる。そして、沢村がいないと客は入らないので、興業自体が中止になる。
それでも沢村は、自分がキックボクシングを支えているという驕りは全くなかったらしい。
なぜ沢村がここまでストイックにやれたかというと、1つには純粋な武道家精神があったと言われる。より高い境地に進みたいという気持ちで、沢村は現役時代の終わりにも、技を改善し、技術を向上させ続けた。
そして、もう1つは、引退式での沢村の最後の言葉に表れていたと言われる。「施設や学園のみなさん、元気でがんばって下さい」
沢村は現役時代、よく大きな袋にお菓子を詰め込んで福祉施設の子供達を訪問し、過密スケジュールの中、身障者のスポーツ大会に応援に駆けつけた。自分の魂溢れるファイトで不遇な人たちを元気付けることがなによりのやりがいであったのかもしれない。
現役を引退すると、車好きの沢村は、自動車整備の修行を1から始めて、真面目に働いた。さぞ熱心な仕事振りであったろうと思われる。キックボクシング界を離れて何年も経った頃、所在さえ定かでなかった沢村の居場所を突き止めた雑誌記者は、沢村の手が油で真っ黒であったことを書いていた。
実に学ぶべきところが多い稀有な人物であると思う。
芸術家は金にならないと言われるが、参考になる点も多いと思う。

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2006.10.15

戦争と芸術

科学技術の進歩が、軍事目的の研究から生まれたものであることは間違いないと思う。
第2次世界大戦時の欧米での科学技術の進歩は恐るべきものがあったし、現在の最先端のテクノロジの原型も、ほぼこの時代に存在していた。
また、医学の進化というものが、生体実験を行える環境の中で飛躍的に行われたものであることも否めないかもしれない。

これらのことが良いとか悪いとかではなく(当然、良くはないが)、これらのことに人間の根本的性質を見ることができる。
人間は、切羽詰らないとやる気にならないし、何事も実地が最も効果的ということと思う。

では、なぜ戦争がそんなに「切羽詰った」ことであるかである。人間は、所詮個人的利益に関わらないと、さほどに切羽詰まらない。では、戦争が、なぜ個人にとって「切羽詰る」ものであるかである。
1つには、戦争ほどの巨大な利益を生むものはないことがある。表面的な収支で言うなら、必ずしも国家にとって、短期間での利益はないかもしれないが、戦争は複雑である。その複雑さを制する面白さも知性の優れた人間にとっては大きなやりがいかもしれない。
もう1つは、戦争のもたらす興奮である。そこには限りない恐怖や悲惨があるが、これが人間の精神を最大に覚醒させる。
ある著名な思想家が、戦争勃発の可能性が上がった際、「いっそ戦争の恐怖によって人間性の堕落をもたらす精神の倦怠を抜け出せるならそれもよい」と思ったようだが、いざ戦争が始めると悟る。「人間精神の倦怠を阻止するだけの恐怖が戦争にすらない」

人間は、平穏な日常を送り続けると、倦怠による絶滅を避けるために戦争を必要とするものである可能性はあると思う。
単に、経済的、治安的に安全であるだけでは平和は続かない。
仲の良い恋人や夫婦が倦怠期を避けられず、スパイスみたいなものが必要と感じるようなものに似ているのかもしれない。
芸術の役割はそこにある。成功したかどうかは分からないが、芸術は精神の覚醒のためにある。宗教も本来はそうであったが、権威主義がはびこったため、その役割はほとんど果たせなくなった。しかし、芸術も十分にその危機にある。

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2006.10.14

人間の幸福と芸術

ほとんどの大人に言えると思うが、今のようにはなりたくなかったはずだ。
子供の頃は、もっと胸躍る仕事に自分がつくと思っていたと思う。
今の仕事はつまらないし、うんざりするのではないだろうか?
もちろん、どんな仕事でも、最初から面白いはずはない。しかし、本当にやりたいことをやっているなら、その修行時代ですら、苦しくても何か生きがいを感じるはず。しかし、ただの一度の生きがいも感じないまま時が過ぎ、無理矢理に納得しようと思っているに違いない。

人間にとって、一番の幸福とは、やはり自分に向いた仕事をすることだ。
しかし、リクルート産業が自分に向いた仕事につかせてくれることは絶対にないことを忘れてはならない。彼らの目的は、人々を生きがいある仕事につかせることでは決してない。そのような幻想を与えているだけである。
そもそもが、生きがいある仕事を求めるなら、まず、早々に学校制度から抜け出す必要がある。日本の学校は従順な労働者や、とめどなく消費する小市民を育成することだけを目的にアメリカで作られた代物である。土台、生きがいのかけらも感じない教師の言うことに無理矢理従わされる学校に行って、自己を確立できるはずがないことは当たり前のことである。
精神力という言葉があるが、これは筋力などと違って測ることが難しい。しかし、これも使わなければ衰え、鍛えれば強くなるという意味で同じであるが、無限の力を持つところが物理的な力とかなり異なる。この精神の力の使い方を教えるのが芸術の大きな役割の1つである。自分に向いた芸術作品に強い注意を注げば、即座に自分の力を感じるに違いない。それは世界をも征服する力である。

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2006.10.13

気合とは

「気合」と言ったら、どうも、アニマル浜口さんを思い出すようになってしまった(笑)。
人間にとっての気合の重要さは疑わないが、ああいう風に「気合だ!気合だ!」とパターン化したものは、もはやただの遊びである。
いや、あれは、タレントとしてのアニマル浜口さんのツールであって、細木数子さんの「ズバリ言っちゃうわよ」と何ら変わりない。
「気合だ!気合だ!」と言って気合がでるものではない。

アニマル浜口さんに因んでプロレスラーの例で言うなら、良い話がある。
マサ斉藤さんという、主にアメリカで活躍していた強豪レスラーがいたが、彼が雑誌のインタビューで、ケンカ必勝の極意についてこう言ってたことがある(試合必勝ではないことに注意)。
「相手を本気でぶっ殺してやると思い切れたら、どんなヤツが相手でも、まず負けることはない」
なんとも物騒な話だが、宮本武蔵の「神に逢えば神を切り、仏に出逢えば仏を切る」にも通じそうな気合溢れるものと思う。
少なくとも、弱い者を殺したり切ったりはすまい。

「ゴッドハンド」と呼ばれた不世出の空手家、大山倍達さん(故人)も、ケンカ必勝についてこう言ったことがあるらしい。
「先に命を捨てた方が必ず勝ちます。ケンカでも」

気合とは、精神を目的の対象に注ぎ込むこと・・・一般的にいうなら集中であるが、積極的な集中である。普段は、精神は受容状態であり、この状態が続くと精神の倦怠が起こる。ほとんどの人間が、この倦怠状態にあり、何か面白いことが起こらないかと思って退屈している。
しかし、幼い時は、精神を積極的にものごとに注ぎ込むので、なんでも面白いのだ。
アニマル浜口さんの「気合だ!」は、受容状態になった精神を逆転させ、こちらから注ぎ込めばいいんだと言うことを思い出させるキーワードであったはずだが、テレビで見るように、笑いながら、指で「気合だ」と言った数を数えだすようになったら、もはや効果はない。

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2006.10.12

ムンク

多くの人も同じかもしれないが、私はムンクといえば「叫び」のイメージしかなく、「叫び」があまり好きでないので、ムンクのイメージが良くなかった。
ところで、こんなイメージが作られるような、「叫び」の極端な強調はいかがなものかと思う。

たまたま、カール・グスタフ・ユング(スイスの著名な精神科医、心理学者)の関係の本を見て、その中に掲載されていた、ムンクの「病める子」を見て、その美しさに衝撃を受けた。原版は、ほぼ正方形で、一辺が120センチもある油彩画を、小さなモノクロ画像にしたものでさえ、それほど美しかったのだ。
ベッドに身を起した少女の横で、母親がうな垂れいる。回復の見込みのない娘への悲しみに打ちひしがれているのである。その悲痛さがよく伝わってくる。
しかし、母親を見る少女の横顔は気高く輝き、全てのものに祝福を与えているかのようである。
さっそくムンクの画集を買うと、「病める子」はムンクにとっても重要な作品であり、当然取り上げられていたが、大きなカラー画像で見ると、さらに美しかった。
その他のムンクの作品にも、大いに心惹かれるものが多かった。なんだか騙されていた感じである。

ところで、以前、池田満寿夫さんの本で読んだが、ムンクは油彩絵の具の使用方法に問題があり、保存状態が必ずしも良くはないらしい。
しかし、その荒れた感じが、ムンクの場合はさらに深みを増すのだから面白い。
「病める子」は、特に修正を繰り返したものであるらしく、絵の具の状態としては良くないのかもしれないが(修正そのものが悪いわけではないらしいが)、この絵に関しては、そんな不安は全く感じさせないように思う。
こんなきっかけで、ムンクの大ファンになってしまった。

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2006.10.11

太陽は冷たい?

ある本に、太陽は冷たい星であるという主張があった。書いた人は工学博士であると書かれている。
なんでも、高い山に登るなど、高い処に行けば行くほど気温は下がるのであるから、太陽が熱いはずがない・・・と(笑)。
いや、笑ってはいけない。この本はよく売れ、大学を出ている人でも真剣な顔で読んでいたらしい。それに、信じないまでも、そんな説を馬鹿げたものであると説明できる人はほとんどいないらしい。
学校というものが、いかに行くだけ無駄であるかが分かる。米国で最初に義務教育が導入されたのはマサチューセッツ州らしいが、義務教育導入後、明らかに識字率は低下したらしい。言うまでもなく、日本の義務教育は米国のそれのコピーである。

上空に上がれば気温が下がるとはいえ、ずっと上がっていけば、今度は気温は上昇する。大気層が変化するからである。つまり、地球の気温というのは、あくまで地球の地殻や大気その他の条件で決まるのであり、太陽からの距離は関係ない。
だいたいが、たかだか3km上がったら寒いからといって、太陽が熱ければそれはおかしいと思うのは科学以前である。太陽と地球の距離は、約1億5千万キロメートル。これに対する3kmは、太陽と地球の距離を100メートルとすると、千分の2ミリである。
宇宙は広大である。それを、人間の脚で可能な山登りで測ろうとするのは、「アメリカ、ターザンの手のひら位」と言うのと同じである。つまり、かの本の著者は科学においては未開人と変わりないわけである。

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2006.10.10

ニュートンの林檎は無駄話

よく、「難しい話を明解に話すのが頭のいい人だ」と言われる。
それは一面の真理と思う。
しかし、注意しないといけないのは、その「分かりやすい話」が役に立ったり、本質を理解させてくれるということは絶対にないということである。
当たり前の話だが、なぜかそれを認識しない人が多い。

作り話かもしれないが、ニュートンが万有引力の説明に林檎が落ちる話をしたと言うが、その林檎の喩えを聞いて、万有引力の何が分かるというのであろう?
数学者の矢野健太郎さんの本にこんな話がある。最初はニュートンもそれなりに真面目な説明をしていたらしいが、万有引力とは何かと質問をしてくる社交界の方々は、知的好奇心からではなく、挨拶代わりか、面白い話を期待しているだけである。
それが分かったニュートンは、誰にでもすぐに分かり、そこそこ面白い林檎の話を考えたというのが本当のことらしい。

アインシュタインも相対性理論について尋ねられると、こんな話をしたらしい。「ストーブの上に座っている10分間は長いが、美女といる1時間は短いでしょう?」

一般人は頭を使うのが嫌いだから、これらのような話を好む。しかし、一事が万事これでは困るのだが、最近は特に「分かりやすく心地よい話」ばかり求める傾向がある。よって、馬鹿げたテレビCMにその気にさせられ、細木数子を賢者と大誤解し、占いを信じ、新興宗教に大枚を巻き上げられるのである(笑)。

ITスペシャリストたる私を面食らわせるのは、雑誌や新聞で一般人相手に「オブジェク指向」の説明が掲載されることだ。特に10年ほど前は、そのようなことが盛んに行われていた。オブジェクト指向ブームである。
断言しておくが、コンピュータプログラミングをよほどやっていない限りオブジェクト指向など絶対に理解できない。土台、これらの雑誌記事の「誰でも分かるオブジェクト指向」が私にすら分かった試しはない(笑)。
ソフト開発技術者でも、オブジェクト指向を理解している人に会ったことは滅多にない。
「コピーを取ってくれる女子社員は、コピーの取り方を知っていて、コピーを取れという指令を出すとそれを実行する。この女子社員はオブジェクトである」
なんとも失礼な解説である(笑)。

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2006.10.09

絵の教本

絵の教本って、なかなか一般向けのものがないように思います。
アンドリュー・ルーミスのテキストは、ルーミスのデッサンが素晴らしいし、なんとなく初心者にも読めるようなことも書いてあるので買ってみましたが、面白いのは最初の方だけで、すぐに挫折しました。彼の本は、あくまでプロを目指す人向きと思います。
絵は好きなのですが、安野光雅さんの「絵の教室」を、上達のために役に立ちそうな気がして買えば、これも実はレベルの高い本でした。最初の方に出てくる、「面白そうないくつかの問題」として出された10の課題を見て、私はすぐに諦めました(笑)。
そんな私でも楽しく読めたのは「池田満寿夫の人物デッサン」(河出書房新社)です。見る目が無いからでしょうが、この程度なら描けそうとか思いました(笑)。しかし、素晴らしい本でした。

20061009

小松彩夏さんの写真を見ながら描いてみる。本物は凄い美少女です(笑)。
池田満寿夫さんも、写真をモデルにすることは奨めています。
クリックすると大きな絵が出ます。

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2006.10.08

庖丁

包丁という言葉は、中国の名料理人である丁(てい)さんから来ている。
ちなみに、包丁の包は庖で、これは料理人という意味だ。すなわち、庖丁とは、「コックの丁さん」ということになる。
これは、「荘子」の「養生主」編に出てくる。
丁の語る料理の極意は、おそらく、あらゆるものの極意と思うが、それを知っても、なかなか実践できるものではない。
尚、丁が言うには、普通の料理人で月に一度、名人でも年に一度刀を変えるが、彼の使っている刀は、19年使い込んで、なお新品同様であるらしい。その理由こそ極意であると思う。

20061008

素描・・・と言いますか、久々にラクガキ(笑)。
クリックすると、大きな絵が出ます。

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2006.10.07

ヒロインの掟

漫画やアニメだろうと映画だろうと、あるいは、小説であろうと、未熟な登場人物たちが失敗や挫折を経験しながら成長する姿が非常に良いものである場合がある。
また、強大な敵を相手に、勇気とチームワークで勝利するものにも勇気を起こさせるものがあると思う(個人的には「勇気をもらう」という言葉は大嫌いであり、あくまで勇気は自分で「起こす」ものと思う)。

しかし、よく考えると、これらが一般的・普遍的なものであるとは必ずしも言えないことに気付く。
それは、アニメの場合が特に顕著と思うが、ヒーロー、ヒロインは美男美女ばかりである。
ヒーローはまだ味で勝負する場合も多いが、ヒロインはほぼ間違いなく美女、美少女である。
苦しみながらも、回りの励ましや協力を得、力強く成長・・・といったところで、彼女達は、誰からも愛されるたぐいまれな美しさという、強力なアドバンテージがある。これらを見て感動するという場合、ヒロインと自分を同一化するものと思うが、冷静に考えると、それは成立しないことが分かる(自信のある方もおられるとは思うが)。

例えば、「天空の城ラピュタ」で、もし、空から降りてきた少女シータが美少女でなかったら、パズーはあそこまで命がけで献身したかというと、それは絶対にないと思う(笑)。
いや、それどころか、地上に彼女が到着した瞬間に、放置はしないまでも、適当な大人にまかせ、パズーは一人で家に帰ったはずだ。オバさんだったら・・・いや、もうやめよう^^;
シータが美少女だったので、パズーは迷わず自分の家に連れて帰り、自分のベッドを与え、シータが目覚めると、楽しませ、食事を用意した。気絶中にシータに手を出さなかったのは褒めてやりたいが(笑)、ドーデの「水車小屋便り」で、川に落ちて戻ってきたお嬢様と過ごした夜に悩ましいものを感じたと素直に告白した主人公殿のように、パズーも眠れなかったに違いない。
そして、あまつさえ、命がけで巨大な悪と戦い、英雄的勝利を得る。まこと、美女は少年を勇者に変えるのである。
ラピュタの王族の娘が美少女でなかったら、世界はムスカのものになっていたかもしれない。ムスカ自体は、シータが美しいかどうかは意に介さなかったようであるし(笑)。
しかし、宮崎駿監督は、この作品を最後に、長く美少女キャラをヒロインにしなかったが、このあたりの葛藤がなかったろうかと思う。

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2006.10.06

北海道滝川市の小学6年生女児の自殺事件について

私は正直言いまして、世界の悲惨や人の不幸には概して無関心な方ですが、北海道滝川市の小学6年生の女児の自殺事件に関しては狂わざるをえない。
遺書が入っていたと見られる封筒に書かれた「私が死んだら読んでください」という文字を見て、これを書いた時の彼女の気持ちやその無念さを思うと正気ではいられない。
市長はともかく、事実認識をしなかった市教委のトップの教育長や校長が謝罪に訪れたというが、まさか一度きりの訪問ではないと思いたい。たとえ迷惑がられても、365日は通い続けるようでなければ、事の重大さを認識しているとは言えないであろう。遺族が会ってくれなければ、家の前で追悼すれば良い。

ところで、私は「いじめ」という、妙に柔らかい言葉も嫌いである。これははっきり言って迫害あるいはリンチである。
とりあえずいじめとするなら、これは大人の世界でもある。しかし、社会で鍛えられた大人ならそれに耐えることもできるが、子供ではそうもいかず、彼女にはどこにも逃げ場がなかったのである。

ところで、この事件の原因は何であろう。表面的には学校や教師の無能となるが、現実的に、学校や教師にこういった問題をまかせて安心できるであろうか?
いじめを行った子供たちの家庭のしつけの問題もあるが、1日の大半を学校やその関係で過ごす子供をどうしつければ良いのであろうか?
テレビドラマで、特別な教師が、トラブルを抱えた生徒に極端に親身になるというものがあるが、まさかあんなものを実際に期待するわけにはいかない。

私の考えでは、子供は学校に拘束され過ぎである。
そんなに拘束しないと教育が与えられないかというと、ザラにいると言われる分数計算のできない大学生は、小中学校で2倍の拘束時間にしていれば、そうならなかったであろうか?そんなことはあるまい。
学校で教わらないと教育が身に付かないなどは大嘘である。
教育の重要目標は、遅くとも14歳までに、自学できる方法を身に付けさせることであると思う。
私などは、そもそも学校で何か教わったことなど全くなく、読み書き計算は、親や姉に「ついでに」教わったし、教師の下手な授業より何百倍も分かりやすい参考書が数多く出版されていることを知ったら、勉強した科目(数学や科学であった)は、良い成績であった。反面、社会科や国語などは勉強しないことに決めていた。それで不都合といえば、勉強しない科目の影響で内申書が悪く、授業料の安い公立高校に入れなかったことであった。とはいえ、受験だけで入れる私立高校はそこそこの進学校に入れたし、大学はとにかく親に負担かけまいと、確実に入れる国公立ならどこでもいいと決めたが、これもそこそこのところには入れた。当然、高校も授業を聞いたことは一度も無いし、塾や予備校にも行ったことはない。(ただし、塾は学校より教育というサービスをはるかに高度に行っている場合が多いと思うし、それが一般認識と思う)
私のようなおバカな子でもこの程度は問題なかったので、誰でもできるはずである。
宇宙ロケットに積み込むカメラを指導的に開発した方には、小学校も出ていない人がいるが、勉強と学校は関係ないそうであり、私もそう思う。

だが、学校の時間を短くして、ゲームをしたり、ゴロゴロしたりすれば良いのではない。
地域社会に関わるべきである。別に、地域の伝統芸能を学べというのではない(それも良いが)。社会で生きる大人と接すべきである。学校教師と接するより、数百倍有意義であることがバレるだろうが、それほど良いものである。
地域や大人と関わることこそ大切な教育であり、地域に貢献するようになれば、弱いものいじめをする暇も考えもなくなるであろう。
教育の問題は、子供が家庭や地域の大人から切り離されたことにある。
コンピュータに興味があれば、例えば私が子供たちに何らかの仕事を与えて教えてあげることも可能と思う。まあ、情報漏洩の問題もあるので難しい部分はあるが、現役バリバリのシステムエンジニアが学校で授業をするのも良いだろう。子供は興味のある授業を取れば良い。
このような抜本的な改革が行われない限り、今後も不幸は起こるであろう。

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2006.10.05

「痛いの痛いの・・・」はなぜ効くか

小さい子供が、軽い怪我をして泣いている時なんかに「痛いの痛いの、飛んでけ~」とか言うことがあると思う(大人相手でも?)。
これが効く場合と、効かない場合がある。
効かない場合の代表は、かなり痛い場合だ(当たり前だ)。それと、「痛いの痛いの・・・」と言ってる者を子供が信用していない場合である(悲しい)。
母親などにこう言われたら、痛みがなくなるわけでもないのだろうが、子供が泣きやむことも多い。
ではなぜ、このようなことが起こるか知っているであろうか?
暗示というのとは違うのだ。

上記の例は、怪我の場合であるが、要は、子供が驚いた場合と考えれば良い。
例えば、でっかい犬がいきなり現れ、子供が泣き出した場合でも、母親が、「大丈夫よ、ほら」と言って、犬をあやしてみせれば子供は泣き止む。
仮に幽霊が出た場合でも、母親が「大丈夫よ、ほら」と言って幽霊とハグすれば、これも同様である(有り得ないが)。

子供は、怪我をしたり、大きな犬と対峙したり、幽霊を見た時、そのことの大変さ加減の見当がつかないのでパニックに陥るのである。それを、信頼する大人が「大丈夫だよ」と言ってくれれば、それが大したことではないと分かり、安心して泣き止むのである。

尚、こういったことは、子供に限らず、大人にも重要な意味がある。
何かのトラブルに見舞われてすっかりパニックに陥った時、そのトラブルの実際の大きさを認識すると、案外に大したこともない場合が多い。
小市民というものは、些細なことで大騒ぎすることをご存知と思う。
何かつまらない不満で大騒ぎしている人々に「北朝鮮のミサイル接近中」というニュースがあったら、彼らは、さっきまで話題にしていた不満の下らなさに気付くはずだ。

こんな印象深い話がある。
昔、ロシアの捕虜収容所で負傷した日本人兵士が死に掛けていた。重症で、どう見ても朝までもつまいと思われた。
ロシア人兵士は、日本人捕虜の中にいたコックに、「最後に何か食べさせてやれ」と言った。コックが、その瀕死の兵士に「何を食べたい?」と聞くと、彼は「パイナップル」と答えた。そんなものがあるはずがない。だが、林檎があった。コックは、林檎をフライパンと砂糖で調理し、パイナップルのようにした。兵士はそれを残らず食べた。
しばらく経ったある日、コックが外を歩いていると、誰かに呼び止められた。なんと、あの兵士である。信じられないことに、彼は元気そうだった。
彼は言った。「あんな美味いものが食えるなら、もっと生きてみようと思った」

この兵士はなぜ生き延びたのか?私は、本人が言うように、美味いものを食うという楽しみを見出したためと思っていた。このコックは後に有名なコックになったことから素質があったのだろうし、その林檎のパイナップルは彼の得意料理にもなった。この時も、本当に美味しくできていたのではと思う。
しかし、今では、私は彼は精神的に死んでいたのだと思う。そうなると、人間は現実感を失い、自分の心が自分を滅ぼす。だが、美味いものを食べた時、現実感が蘇ったのだと思う。すると、自分を滅ぼそうとする心の牢獄の罠に気付く。
パニックに陥った子供も大人も、現実感を失い、妄想に捕らわれている。なんらかの手段で、妄想を振り捨て、現実感覚を取り戻すと、生きるエネルギーが沸いてくるのである。

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2006.10.04

予想外

ソフトバンクは、いまさらホリエモンに対抗しているわけでもないだろうが「予想外」を売り物にしているようだ。
ホリエモンの「想定内」は、「予測できていた」という優越の姿勢を示しているが、「予想外」は、この真っ反対で「思いもしなかった」という、ややもすれば負けの姿勢も感じる。
「想定内」の反対語は「想定外」であるが、「予想外」と比べると、まだ把握状況は高いと思われる。「想定」とは、「予想」と比べると、具体性が高いように思えるからだ。

ところで、「想定外」ですら「予想外」に優るとすれば、「想定内」の「予想外」に対する優位は決定的と思える。
しかし、ここにはよく考えるに値するものが潜んでいる。

一般には、予想外より予想範囲を好み、予想範囲より想定内がさらに良いと思われる。
先は読めた方が良く、それは例えばビジネスに関しては力になる。
全てが想定内なら先行きの不安がなく、余裕を持って人生を生きることができると感じる。
しかし、本当にそうだろうか?
全てが予想外の未知の世界、人生こそが楽しいのではないだろうか?
当然、予想外には、良いことばかりではなく、予想外の悪いこともありうる。しかし、それをひっくるめて面白いのではないのか?

米国の成功教ともいえるクリスチャン系宗教組織の大教祖ロバート・シュラーは「思い通りになるのが人生だ」と言った。ビジネス界の大物達もシュラーを絶賛し、その教えを支持する。同系列にはノーマン・ビンセント・ピールがいるし、「イメージすればなんでも叶う」と言うジョセフ・マーフィーも新興宗教の牧師だった。
宗教ではないが、ナポレオン・ヒルも望み通りの成功をもたらすことを売り物に、高価な成功プログラムを販売し、巨富を築いた。
彼らの教えで成功するかというと、それはまずないだろうが、仮に本当だとしても、想定内の人生がそんなに面白いだろうか?

「スピネル、この世で一番楽しいことは何か知ってるかね?」
「なんですか?エリオル」
「予期しないことが起こることだよ」
~「カードキャプターさくら」(CLAMP著)より~

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2006.10.03

夢への闘い

絵画などの創作活動で食べていけるようになるのはなかなか大変と思います。
私にも、絵と陶芸で、家を建てて、良い車に乗っている知人もいるのですが、昔は大変だったようです。
いや、今でも決して安定しているわけではなく、不安が無いわけでもないようです。
で、芸術家ではありませんが、苦難を背負って夢に挑んだ人の話を・・・

何年か前、日本にやってきた中国人一家の話がテレビでありました。
父親は45歳の学生です。子どもは娘が一人で12歳位の可愛いお嬢さんでした。
父親は若い頃、文化大革命の影響で勉強を続けることができませんでした。それでも好きな学問の道を諦め切れなかったのですが、中国では、大学に入るのに年齢制限があります。そこで、就学の年齢制限のない日本に来たらしいです。
当然、生活はどん底で、日本では珍しい貧困がありました。
父親と母親がアルバイトで生活をしていましたが、賃金は安いし、そのアルバイトでさえ度々失業していました。
父親は、毎日カップ麺と安いパンしか食べずに勉強に励みましたが、ある時、とうとう身体の具合が悪くなり、一大決心をして、サンマの缶詰を買い、汁も残さず飲んでいました。

ある年のクリスマス。その娘さんは、外で父親と待ち合わせていました。
父親は銀行に行き、全財産の1万円をおろしました。クリスマスくらいは、娘に何かしてやりたかったのでしょう。
しかし、寒い中で、娘は1時間以上待たされます。ちょっと本屋に立ち寄った父親は、つい学問の本に夢中になり、時間が経ってしまったのです。
しかし、娘は文句1つ言わず、父親についていきます。まずは食事です。父親はラーメンを、娘は堅焼ソバを注文しました。クリスマスのディナーには程遠いですが、二人には滅多にないご馳走でした。
それから、二人は文房具屋に入ります。父親は、欲しいものを選ぶよう言いましたが、娘はシャープペンの芯と消しゴム以外は手に取りませんでした。

父親は、博士号試験を目指していました。
そして、大変な努力をして試験に挑みます。これまでの苦労が報われるかどうかです。
妻はスタミナドリンクを買ってくれました。それを飲んで、いざ試験に向かいます。
しかし、ダメでした。来年の試験まで、この生活をまた1年続けなければならないという現実が彼に重くのしかかります。
しかし、それでも気力を奮い起こして、次の年の試験に挑みました。しかし、ダメでした。
さらに次の年も・・・。
そして、いよいよ、最後のチャンスとなります。大学との関係で、次に落ちたら、もう受験できません。
しかし、試験前に、父親はレストランの床掃除の仕事をクビになりました。母親も失業しています。八方塞でした。
しかし、娘さんは平気な顔で、微笑みながら言います。
「神様は、夢を追いかけて諦めない人を見捨てないのよ」

そして、父親は最後のチャンスで見事成功し、経済学博士の学位を授与されます。
中国の大学で、助教授の職も用意され、一家はついに中国に帰ります。

聞くところによると、あと一歩で夢がかなうというところで諦める人が最も多いものだそうです。
必ず夢が叶うわけでもないのですが、上の話は参考にしたいものです。

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2006.10.02

マドンナ

「学園のマドンナ」とか「わが社のマドンナ」と言うように、「マドンナ」とは美しくて人気のある女性を指すのであるらしいが、元々の由来は、当然聖母マリアであろう。
ドイツワインで有名な「マドンナ」も、聖母教会で作られていたことからその名がついている。
アメリカのスーパースターである歌手のマドンナも、そういった狙いで付けた名前かと思ったら、なんとこれは本名であるらしい。その上、母親も同じ名前だそうだ。

ただ、聖母マリアの名前が「美女」「人気者」の代名詞になるのはかなり違和感がある。
昔はそうではなかったのかもしれないが、現在のイメージではやはり恋人向きの雰囲気がある。「手の届かない高嶺の花」であることを端的に表現しているとは言えるが・・・。

尚、聖母マリアの出現を受けたということで知られる、フランスのベルナデッタ・スピルーによると、聖母マリアは16歳くらいの若い女性で、比べるもののない美しさであったという。
ベリナデッタが聖母マリアの出現を受けたことは最初、誰も信じなかったが、ベルナデッタがその「輝く婦人」に名を尋ねたところ、彼女が「私は無原罪の宿りです」と答えたとベルナデッタが言ったことから信じられるようになった。ベルナデッタがマリアに指示されて掘った場所からは泉水が沸き出し、それは現在も続いている。1866年に亡くなったベルナデッタの遺体は今も腐敗せず、一般に公開されているようだ。

20061001

私なりのイメージの聖母マリア。13歳くらいの少女で、受胎告知の頃です。
クリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

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2006.10.01

不良高校生に見る学校教育の成果

学校教育と若者の粗暴さの関係を考えるととても面白い。
ここでは、ちょっとひねたタイプの高校生を取り上げる。

かなり以前の高校生であれば、道を歩いていて相対すると、不良であれば「どきやがれ」となるし、もう少し普通の高校生でも、そんな目をしていたものと思う。
ここらは、当時はいろいろ言われたであろうが、今であれば清々しくさえ思える。相手が強いかもしれないというリスクは覚悟しているし、少なくとも欲しいものを自分で勝ち取ろうという気概だけは見える。
この頃は、若者はまだ学校に対して反発があったし、教師の方も案外に「それももっともだ」という想いがあったと思う。
そして、少し前の高校生では、道ででくわすと、「そっちがどくのが当たり前」といった、相手を見下した顔をするのが普通だった。これは、幼児性全能感であり、ものごとにチャンレンジした経験がなく、あってもすぐに尻尾を巻いて逃げると、幼児の頃の、意味もなく自分が世界で最も重要な存在と思い込む段階に戻る、人間の基本的な性である。本人は自分は神に等しい存在であると言う幻想の中にいるが、その幻想が破られることは無意識的に恐れているので、社会には出にくいし、極端になるとニートになる。
この時代では、不良たちが狙う相手はノーリスクが保証される老人や身障者のみとなる。
これは、学校教育が更に徹底され、子供の時間を取り過ぎることによる、家庭のしつけがなされなくなった結果である。
尚、勘違いしている人が多いが、家庭のしつけとは、親が子供に教えるだけのことではない。子供が地域の活動に関わることにより、他の大人からも教わるべきものである。
どうも、学校教師が一般の大人より賢いという風説や大誤解があるようで、子供が地域に関わるという非常に重要なことが軽視されるようになったこともあるように思える。学校教師は子供よりマシとすら言えないことは、ほぼ間違いない。

最近はさらに末期的である。
道で対峙すると、今の高校生は「どけ」という態度でもなく、「おどきなさい」という雰囲気でもない。仲良しグループのメンバーでもない限り、相手の存在を認識すらせず、こっちがどかないと簡単にぶつかってくる。
これは、他人やものごとへの極端な無関心の表れで、米国輸入の義務教育がすっかり浸透した成果である。同じ年齢の子供をあつめて、同じ時に同じように感じる訓練が徹底してなされ、個性も想像力もなくなった者が、他人やものごとにいかに関心を持たないかを表している。そして、その成果は、数学や英語より、美術教育が圧倒的に高いのはこれまでも書いた。本当のところをバラしてしまうと、学校で数学や理科を教わる必要もないのだが(むしろ致命的に学力を無くす恐れがある)、美術教育は絶対に行ってはならない。自分の感受性すら信じられなくし、心的な死をもたらすことを恐れるならね。

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