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2006.09.30

ギュスターヴ・ドレ

絵を見て、「上手いなあ」という以上の「凄いなあ」という感嘆や、さらにそれ以上の衝撃的感情を持ったことがあるだろうか?
岡本太郎のような大芸術家であれば、初めてセザンヌを見て涙が止まらなかったということもあるのかもしれないが、そのようなことが誰にでもあるものだろうか?
また、いかに大画家の作品であっても、一般の人がピカソやダ・ヴィンチの絵を見て、大きな衝撃を受けることはあまり無いとは思う。

私の場合は、ギュスターヴ・ドレの絵を初めて見た時に非常に感激したのを憶えている。
ただそれは、額に入った油絵ではなく、本の挿絵である。普通の本よりはやや大きくA4サイズ位の本であったが、言って見ればそのサイズに収まる程度の大きさである。
そして、カラーではない。塗ってもいない。全て線画(版画)である。濃淡は線と線の密度で表されている。しかし、それがものすごいリアリティで、荘厳さや迫力に満ちている。
山の斜面に横たる象の存在感や、山の峰を覆う巨大なナマズのような化け物の迫力などにあっけに取られ、陰影を線で表現したヴィーナスの肌の滑らかさに驚く。
そして、輝きながら集って飛ぶ大勢の天使の様子は、ミケランジェロやラファエロの絵にさえ感じなかったリアル天国を見た気がした。
ドレは紛うことなき天才であるらしい。少年の頃、世界の古典文学の挿絵を描こうと決意したらしく、特に聖書とダンテの神曲には思い入れがあったようだが、もちろん、これらに素晴らしい挿絵を描いている。
ペロー童話の挿絵も描いており、その本は今でも日本語のものが入手できる。私は、この本の「赤ずきんちゃん」の挿絵で、赤ずきんちゃんと狼が一緒に立っている絵がなんとも素晴らしいと思った。狼がとても大きく見えるし、ドラマチックさも十分だ。
ドレは、油彩や水彩でも、歴史的な巨匠達に全く劣らないと思う。上手いといえば確かに上手いのであるが、それだけではない情感や神秘性は圧巻と思う。

ドレを扱った人気サイトはここ

ドレの絵は、英語版の書籍になったものがアマゾンの洋書コーナーで買えるものが多い。
「Gustave Dore」で検索すると良い。
日本語のものでは、お話付きの良いものがある(挿絵を描いているのだから当然だが)。アルケミア出版の「寓話」シリーズは、1冊5千円位するが、豪華な良い本と思う。文章も名訳であり、面白い。

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2006.09.29

テレビCMと国民性

テレビCMは、その国の現状の一面を表していることはあると思う。
特に、批判されて放映中止になったものがあった時には、文化的・思想的なものが読み取れる可能性が高い。逆に、なんの抵抗もなく、すんなり受け入れられていれば、それが国民性や文化に合っているということである。

こんなCMを見たことがあると思う。マチスゲンS錠という飲み薬のCMと思う。
電車の中で、釣り手を持って立っている若い女性が顔に汗を浮かべてへたり込む。「鉄分不足ではありませんか?」という声が入る。
そして、宣伝の錠剤を呑んだと思われるその女性が、駅の改札を出たとたん、立ち止まってポーズをとり「イエイ!」(だったと思う)と言う。
たまたまこの女性の後から改札を出る人がいなかったが、なんとこの女性は、それを確認もせず立ち止まってポーズをとっているのであるから、およそ常識のないアホということになる。私は見てて不快になった。
そして、このようなアホは結構多い。
改札口のまん前に立って、おもむろにバッグから定期券カードを取り出したり、改札を出た直後の場所で、待っていた友人と大騒ぎを始めたりである。
別に駅でなくても、コンビニで支払いを終えた後、レジのまん前で財布をゆっくりしまったりはごく普通だが、1歩脇に寄れば、次の人の支払いが出来ることを考えない。極端な例では、普通のOLさんが、支払い直後、その場でゼリー状食品のキャップを開けて、食べ終わってから引き上げるということが、冗談でなくあるらしい。
周りの通行人を無視して、携帯電話の画面を見ながら歩いたり、電車の中で床に座るなども同じ感覚で見ることができるかもしれない。
これらについて、ある本で、彼らは自分を客観視する能力に欠けるという指摘があったが、私はそれは間違いと思う。そもそもが、マナーというものは自分を客観視することで行うものではない。マナーというのは、他人の存在を認識し、これを尊重し、配慮するというのが目的である。マナー知らずの人間というのは、他人に関心が無いのである。
何度も書いたが、他人やものごとへの関心を持たないのは学校に通うことで必然的にそうさせられるものである。よって、あのテレビCMも普通のものとして受け入れられているのかもしれない。

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2006.09.28

貧困

日本では、「貧困」というものを見ることがなくなってきました。少なくとも、餓死なんてことがあればニュースになるほどです。しかし、世界人口の4分の1が戦時下で暮らし、7割が電話をかけたことすらないことからも、極貧などいくらでも存在することが分かります。日本に生まれたこと自体が奇跡的な幸運と言って間違いないと思います。

数年前、都市の駅の周辺で、ダンボールの中で寝ている多くの人たちを見ましたが、みんないい服を着ていて、新しい文庫本を読んでいる人もいました。食事なんかは、ボランティアがお弁当を配ってくれるらしいです。
このような人たちが全部そうではないかもしれませんが、悲壮な雰囲気はほとんど感じなかったですね。

昔の人気漫画・アニメであり、現在でも有名な「タイガーマスク」「巨人の星」「あしたのジョー」は、主人公がいずれも貧困であり、「巨人の星」を除いて孤児でしたが、現在では、なかなか理解しにくいものであると思います。
ひょっとしたら、アンデルセンの「マッチ売りの少女」を読んでも、その状況がさっぱり把握できず、「なぜこの子は寒いのにコートを着ていないのか?」「そもそも、なんで子供が働いているのか?」と尋ねる子供もいるかもしれません。

私は最近、古い映画や漫画の復刻版を買って見ることが時々あるのですが、最近買ったものに、昔のタイの少年の状況を描いているものがありました。
両親が靴を履いているのを見たことがなく、雨の日は、家でシャワーを浴びる日だと思い込んで育ったようです(家に屋根がなかった)。
今でもそうでしょうが、タイでは国技であるムエタイ(タイ式ボクシング。日本ではキックボクシング)がさかんで、当時は庶民が成功する数少ない手段が、一流のムエタイの選手になることでした。この少年の父親は、昔3流のムエタイ選手でしたが、息子は1流にしようと、5歳から猛特訓を開始します。しかし、少年が14歳の時、スパーリング中に父親は少年のキックを受けて寝たきりとなり、半年後に死亡。親殺しとなった少年はムエタイを憎むが、他にできることもなくムエタイの選手になり、強いのだがあまりに狂暴で対戦者がいなくなるという始末でした。

貧困が良いはずがありませんが、オルコットの「若草物語」で、4姉妹の母親が言っていたように「足りない目なのが良い」のではないかと思うこともあります。
少なくとも、一般に行われているように、子供に必要以上のものを与えてはいけないと思います。自分の力で得たわけでもないものを自慢することを憶えたら、もう人間として堕落していると言えますし、矯正は大変に難しいですね。
良い大学に入る目的の大半が、待遇の良い会社に入ることだと思いますが、最初から優良企業に入ったり公務員にでもなれば、世の中の大半を知ることなく人生を過ごすこととなりかねず、それが豊かな人生となるとはあまり思えません。
学歴がないと、自分ですら、自分の能力を信じない傾向があり、これも意図的な洗脳ではあるのですが、社会に出たスタート地点では、誰もが能力なんてありませんので、それに見合った生活や待遇が望ましいものであると思いますが、そうであることは案外に幸運なことかもしれません。

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2006.09.27

「絵が描ける」とは?

絵が描けるとはどういうことであろうか?
「ピアノが弾ける」「社交ダンスが踊れる」「空手ができる」というのとは異なると思える。
絵が描けない人間など存在しない。
ピアノであれば、デタラメに鍵盤を叩いても「ピアノを弾いた」とは言えないが、どんなに下手であっても本人が絵として描いたなら、それは絵である。
その描かれた絵に「上手い下手」「美醜」「独創性」など様々な評価が付くが、その1つを持って絵の絶対的価値とはできない。一般には、その絵が上手いか下手かを大きな価値判断とする傾向がある。その上手いとは写実であったり、ある種の技巧に熟練していることを指すが、それはイラストレーターなどには必須のようなものであろうが、しかし、絵の価値の絶対条件ではない。
絵としては下手と言えるかもしれなくても芸術的価値を認められるものもあるが、その芸術的価値とて絶対のものではない。ゴッホの絵はゴッホの在命中には1枚も売れなかったが、現在は非常に高価である。しかし、それをもって、一概に、ゴッホの絵にもともと普遍的価値があったと言えるわけでもない。
そもそもが、絵に価値を考える必要が必ずしもあるわけではない。

いろいろ考えてみれば、絵を描くということは人間の行為の中でも非常にユニークであると思われてくるし、そこに絵というものの意味があるように思う。
これを独自の判断で「絵はこうあるべき」「こう描くべき」と強制する輩がいる。絵の専門教育を受けた者に多そうに思えるが、その者とて、自分ではいかに自分の絵の腕前に価値があると思い込んでいても、それは極めて一面的なものである。そして、自分のやり方に囚われて視野が狭くなっていることは傍目には分かるが、本人が全く自覚していないというのをよく見る。

独自の絵の価値判断を持っていることもある。ある年齢になれば、ある程度の世間的な価値判断も併せ持つことが好ましいが、特に子供の時に、独自の価値判断を否定されると、自分を信じられなくなる恐れがある。
学校美術では、描いた絵に価値判断が付けられ、小さい子供のクラスでは2重丸とか3重丸とかが付けられる。なんとも恐ろしいことではあるまいか?

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2006.09.26

NOVAのCMの示すもの

英会話学校NOVAのテレビCMではNOVAうさぎが有名だが、現在、もう1つあるのをご存知と思う。
西洋人がジャングルジムに食われている(?)ところを、日本人の女性が通りかかり、西洋人が英語で助けを求めるが、女性は英語が分からないので、「ゴメンナサイ」と言って通り過ぎる。

なんとも恐ろしいCMである。
いや、人を食うジャングルジムではなく(笑)、あんなCMを作るNOVAの感覚と、それを笑って見ていられる感覚である。

誰かが困っている時、言葉が通じないという理由で無視できるとはどういうことであろうか?冗談としてもきつすぎる(いくらなんでもヘルプ・ミーくらい分かると思うが)。
これは何を表しているかというと、他人への無関心である。
マザー・テレサが「我々の最大の罪は、他人への無関心」だと言ったが、それが正しいかどうかはともかく、日本人の他人への無関心が強く感じられるCMである。
CMの女性は、「言葉が通じない」ことを理由に、他人への無関心を正当化したのである。
こんな人間が、英会話を身に付けて何になるのだろうか?(実際には、英会話学校で英会話が身に付くことはないが)

では、日本人のこのような無関心はどうして生まれたかというと、やはり学校教育がその原因と思える。
学校で教育されると、あらゆるものへの関心を失う可能性が非常に高い。
同じ年齢の生徒ばかりを集めて、同じ時に同じように感じる訓練が徹底して行われる。
生徒は皆、授業時間が早く終われば良いと思っているはずだ。教師の授業は下手で気味悪いし、もし何か興味を持ったとしてもチャイムで中断され、すぐに次の授業に切り替えなければならない。こんな環境で、ものごとへの関心が育つはずもない。
個性を発揮すると迫害される学校では、他の生徒への関心はなくなってくる。無個性な人間に関心が無いのは、ある意味当たり前である。

あのCM同様、自分に手助け可能で困っている人がいても、ほとんどの人が無関心なはずである。
また、他人への無関心は、他人への偏った関心に変わる。例えば、男性であれば、女性を「若いか若くないか?」「美人か?」「胸やお尻や脚の形は自分好みか?」といった材料でしか判断しなくなり、いい歳をした男性でも若い女性にしか興味を持たなくなる(うちのダンナにその傾向が・・・なんて人、多いかも^^;)。女性も同様だ。周りの男性が、みんな自分の性的魅力に関心を持っているように思えてくる。そんなはずねーだろというオバさんでも同様である(エステ行ってナイス・バディになっても状況は何も変わらないことに気付いていない人も多いと思う)。
他人やものごとへの関心を持たない人は退屈する。そこで、とめどなく消費する。これこそ、経済大国を目指した米国教育の目標であり、教育制度をそっくりアメリカから持ってきた日本も全く同様である。
学校教育の弊害はあらゆるところで見られる。

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2006.09.25

自然に学ぶ、金のかからない健康と若返り

健康に関して、緑茶や紅茶が抗酸化作用で身体に良いという、比較的安価な話もあれば、なんとも高価なサプリメントや健康食品、健康飲料が凄い売れ行きという。
そういえば、長年に渡り、長者番付トップ10にいるという、アホな本を(ツイてると言うと幸運になるとか^^;)出しまくっている人は健康食品会社の社長であるらしい。

それら製品自体が良いか悪いかは知らない。使ったことも使う気もないからだ。
そんなものに使うお金がもったいない。それらの製品のセールスマン(アドバイザーとか相談員とか洒落た肩書きを名刺に書いている)にそう言うと、いかにも私が将来、悲惨な身体になると脅してくる。いろんな馬鹿げた資料を見せてね。
個人的印象だが、健康食品関係者で怪しくない人を私は見たことがない。

で、若々しく、健康でいたいなら、氷水をお薦めする。これは健康業界トップのタブーの情報とも言われている(かもしれない(笑))。
水を大量に飲む健康法を実践している人もいると思うが、それでもたまたまうまくいく場合もあるが、お薦めしない。どんなことも無理は弊害が多い。少なくとも、効果を実感している人はまずいないはずだ。
少量の氷水で十分だ。

多くの生物が、産卵のためにわざわざ寒いところに行くことはよく知られている。
また、小さな生物の産卵は冬が多く、生まれるのは早春だ。
生物の細胞膜は、水分子をまるで氷のような結晶格子の形に集めている。ある意味、生物は細胞を凍らせているのである。ただ、老化してくると、その結晶構造を作れなくなる。
氷の結晶構造を持つ細胞は、必要なものを受け入れ、悪いものを破壊する作用がある。これができなくなると老化が起こる。ところが、外から氷の結晶を与えれば、この構造は修復される。

ここで疑問が浮かぶと思う。
「氷を飲んでも、身体の中で溶けるぞ」
と。
全く学校は何も教えてくれないものだ。氷の結晶構造は、氷が解けても摂氏30度くらいまでなら破壊されないのだ。老化した細胞組織を再生する働きは十分に果たす。

言い伝えに、仙人が氷水を好む話はよくある。仙人といえば不老長寿であるが、まるで仙人のように若々しく(仙人が老人というのは案外一部の話であり、美青年、美少女タイプが圧倒的だ)元気な人が、高山や北部の寒い地域を好んだこととも無関係ではないと思える。

何を信じるかは勝手だが、馬鹿高い健康食品を有難がるより、細胞機能自体を高めることをお薦めする。嗚呼、健康食品業界に狙われる私の命が危ない(笑)。
こんな蛇足はしたくはないのだが、あまりに不健康な生活をカバーするような万能薬や万能健康法もまた存在しないのであしからず。

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2006.09.24

ブログ開設1周年記念

このブログも昨日で開設1周年となりました。
この1年間で、

記事数: 328
訪問者数: 約37600
アクセス数: 約96000

ご訪問いただいた方に感謝いたします。
で、1周年記念イラストは、ちょっと寒いですが、水着の少女です(笑)。
下のサムネイルをクリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

20060923

1周年記念がこれかい(笑)。

私のシステムエンジニアの仕事は緊張感の高い長時間のハードなもので、なかなか絵が描けません。
アメリカの有名なITベンチャー起業家のポール・グラハムは、ホリエモンなどとは全然違う優秀なIT技術者(プログラマ)ですが、彼は、絵とプログラミングはよく似ていると言います。
私もある意味、そうだと思いますが、それよりも、絵は精神の歪みを見せてくれるところが面白いですね。描いて3ヶ月も経つと、描いた時の精神的傾向がよく分かります。ただ、おそらくはそれは自分にしか分からないと思います。
また、右脳を使う方法も自然に分かってきます。その方法が分かると、いろいろな人が本に書いたり、ゲーム機で行えるようにしている訓練法がバカバカしくて笑えてきます。みなさん、くれぐれも騙されないように・・・。

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2006.09.23

なぜ教師が教育委員会に逆らえるのか?

東京都教育委員会が、入学式や卒業式で教職員が国旗に向かって起立し国歌斉唱するよう通達したことを違憲とする判決が出たらしい。

これはおかしな判決である。
公務員である教師が、管理団体の指示に従わなくて良いはずがない。これは個人の信条とは何の関係もない。もし、指示が気に入らないなら辞めるしかない。当たり前のことである。

会社に勤めている人が、会社の方針や製品が個人的信念として我慢ならない場合に、それに反発して売らなかったり、製品を作らなかったら即クビである。個人的信条など何の関係もない。
この場合、社員は、我慢して会社の方針に従って売ったり作ったりするか、会社を辞めるかするのである。
もし、会社の方針が、入社式で国旗に向かって起立、国家斉唱であれば、社員は絶対に従うはずである。

公務員だって事情は同じでなければおかしいはずだ。
警官が、自分が熱心なクリスチャンであるからといって、クリスチャンの犯人を逃がして許されるはずがない。その他、あらゆる個人的事情を仕事に持ち込むことは許されない。
日本に原爆を落としたのはアメリカ政府で、その責任は大統領にあるのであり、原爆を落とした戦闘機のパイロットに責任があるわけではない。

しかし、生徒や学生は違う。学校に特定の思想や信念を押し付けられる必要はない。
教師を通して国家の方針を叩き込まれるのは、露骨に行われるか暗に行われるかの違いはあっても社会主義国家と大差ないが、教師個人の幼稚な考え方を強制されることも多い。当然ながら、教師というものに、大人としての倫理観を教える能力は全く期待できない。そもそも、学校教師に大人になる機会はなく、教育委員会からのどんな指示であれ、それを忠実に守り、自主的に考えないでいただく方が、はるかに安全である。
人間として従う基本的な道徳は家庭で教えるべきであり、それに次ぐのは、本来であれば、生徒の住む地域の身近な「大人」が教えることである。それが行われている地域では、子供の精神は成熟していき、大人の世界に関心を持つものである。
それが難しいのであれば、希望すれば誰でも教師をやらせると良い。資格を持ってない者に教えさせるのが不安だとでも言うのだろうか?資格を持っている教師の方がはるかに不安である。

ちょっと話がはずれてきたが、はじめにあげた裁判に関しては、明らかに変であると思う。
どこかの教育委員会で、男性教師が女子生徒にメールを送ることを禁止したが(アホな話だが、それほど教師はアホなのだ)、これに個人的信条で逆らう教師がいたらどうするのであろう。

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2006.09.22

もう一人の自分

この世のあらゆるものに光と影があるように、我々自身の中にも対立するような2つの存在があると感じる。
それは、昔から深い洞察力のある者によって様々に語られてきたが、それらは微妙にニュアンスも異なる場合もある。それだけ人間は複雑で神秘的なのだろうが、それぞれの表現の中に人間存在の不思議な本質があるように思う。

1900年に米国サクセス・マガジン誌で発表された作者不詳の不思議な物語「マジックストーリー」に、ある男の前に現れた彼そっくりな不思議な男がこう言う。
「ぼくはかつてのきみ。もう一方の存在のためにきみが追い払ってしまった存在だ」

アニメ「レイアース」(「魔法騎士レイアース」の別ストーリーアニメ)で、イーグルという精霊の男が、「姉」であるエメロード姫に言う。
「私はあなたが忌み嫌い捨て去った影。その私を受け入れようと言うのですか?」
「もうあなただけを苦しませたりはしません。喜びも悲しみも、全ては共にあるべきだったのです」

アラン・ドロンが主演して映画にもなったエドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」の最後で、もう一人のウィルソンのセリフまた凄かった。
「君は勝った。僕は降参する。だが、こののちは、君もまた死んだのだ・・・この世に対し、天国に対し、また希望に対して死んだのだ!僕の中に君は生きていたのだ・・・だから、僕が死んで、君自身であるこの僕の姿によって、よく見たまえ。君がいかに完全に君自身を殺してしまったかを。」
(旺文社文庫「黒猫・黄金虫」より)

My little loverの大ヒット曲「Hello,again」の詩の中の「君」は、別れた恋人である女の子のことだと解釈するのが普通のようだが、何か不可思議な存在のようにも感じる。それは考え過ぎだろうか?

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2006.09.21

美術教育は算数教育よりずっと悪い

我々は、やたらモノを消費していないだろうか?
際限なく、新しいものを欲しがってはいないだろうか?
販売側の努力ももちろんある。しかし、現状が異常と気付いている者がどのくらいいるだろう?

日本にアメリカから導入された義務教育は、アメリカの政府と大企業の共同制作であり、自分で考えずに指示された通りに働き、大量に消費する人間を学校で作ることが最大目標である。もし仮にそんな意図がなかったとしても、結果としては、政府と大企業にとって、まことに都合の良い人間が量産されている。

では、どうやって、政府や大企業に都合の良い人間を作るか?
つまり、労働者としても消費者としてもある意味頼もしい(笑)人間はどうやって作られるかだ。
(労働者としては管理しやすく、消費者としては宣伝に弱い人間だ)
まずは退屈させることである。生徒に本物の情熱は不要である。もし、仮にそのようなものを持ち始めても大丈夫。授業時間は1時間もなく、すぐに次の科目に「熱意」を持たなければならず、燃えはじめた情熱はすぐに消える。
そして、生徒を決して大人にしない。自分で考えて行動しようものなら、たちまち迫害され、かなり嫌な目にあう。
(規則破りの悪童が英雄的な人間になるのは、この迫害に打ち勝ち、自分で考える権利を放棄しなかったからだ)
生徒は、学校を出ても、指示を出してくれる仮想教師が必要である。その目的を大きく果たしているのがマスコミだ。我々はテレビ放送や活字を疑わずに信じる。どんなアホなことでもである。国民のマインドコントロールなんていとも簡単であるわけである。
この教育された人間の性質をうまく利用しているのが、アマゾンなどのリコメンドサービスだ。
アマゾンで何か買うと、「次はこれを買え」とばかりに、次々と関連商品を紹介する。すると、かなりの確率で売れるのである。
自分で考えることのできる人間は、さほどのモノを必要としない。しかし、想像力も自主性もなければ、モノで満足を得ようとするしかない。そして、いくら手に入れても満たされず、際限なく消費する。

新しい服、靴、バッグ、アクセサリー、CD、DVD、電化製品、車などを次々欲しがる者は、学校教育が成功し、政府と大企業を満足させる人間となったわけだ。
学校の目的が、生徒の能力の開発だなんて夢々思ってはならない。大学を出てすら分数計算ができない者が沢山いるそうだが、これはまだ控えめな暴露だ。
学校の目的は、あくまで生徒を幼稚なままにし、大企業の従順なワーカーや、新しいものをどんどん欲しがる素晴らしい消費者の製造にある。

私が思うに、このように、生徒の情熱や自主性をすみやかに破壊するのに都合の良い授業は、算数や社会科より、あきらかに美術だ。
算数では、解法と解答を教師が勝手に変えることは難しい。
しかし、美術では、何が良いか悪いかは抽象的であり、その価値判断を教師が決めることができる。教師の顔色を伺わないと嫌な目に遭わされるという脅しは十分であるので、価値観を強制しても反発はあまりない。生徒は自分の価値判断を信じることができす、そのようなものは管理者が決めると思い込む。まさに、大企業やマスコミのいいなりになる準備が整う。
子供に、他人の都合で生きるのではなく、自分の考えで人生を送ることを願うなら、学校に行かせない方が良いが(この問題はなかなか難しいので、また今後の話題とする)、少なくとも、美術教育などは絶対に学校にやらせてはならない。もちろん、きわめて低い確率で良い美術教育を受ける可能性もなくはないが、それは、ロシアン・ルーレットでワンピース一着を勝ち取ろうとするようなものである。

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2006.09.20

ある高貴な御方の出産に寄せて

最近、やんごとなき身分の御方が男児を出産され、それはわが国はもちろん、世界的ニュースにもなった。
母親はややご高齢で、身体的にも少し問題があったようであるが、最高の医療設備の中で最優秀な医師を専属とし、精神的ケアまで万全で、ご本人も感謝の言葉を口にされておられた。
そのような時、私の頭の中に浮かんだヴィジョンがある。
日が落ちると底冷えのする荒れ果てた地。朽ち果てた不潔な小屋の痕。食べるものも着るものもないやせ細った年端もいかない少女がただ一人、迫り来る出産に震えている。別に彼女を娶るつもりもなかった父親はもうとおに姿を消している。

この世界は、どうも真っ反対なものが必ず存在するらしい。
私が高校生の頃、ある国の優雅な社交界の様子がテレビで紹介されていた。その社交界に入る条件は、働くことなく2億円の年収があること。
これを聞いて私の頭にすぐ浮かんだのは、「働かずに2億円の収入がある者がいるなら、合わせて2億円分の労働をしてもほとんど何も得られない人が沢山いるはずだ」ということだ。

オリンピックで金メダルを取って大スターとして迎えられたフィギュアスケートの美しい女性選手を見ると、破れた者の無念さを感じ、どうにも見ていられない。病気とその治療薬の副作用と闘い、両親の生活費を背負いながら金メダルの最有力候補だった選手は、何でもないところで失敗。その4年前、どう見ても優勝だったはずが疑惑の判定でまさかの逆転負け。別に哀れむことも、ことさらたたえる必要もないが、わが国には敗者を気遣う心があったように思う。
それに、勝者をことさら引っ張り回す者の目的は金であり、想像力がなく退屈している民衆を利用しているのであるから。何度も書いたが、民衆に想像力が乏しく、簡単に扇動できるのは学校教育の成果である。

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2006.09.19

「百匹目の猿」というアホ話

「百匹目の猿」の話をご存知だろうか?
宮崎県の幸島に棲息する猿の一匹が、イモを洗って食べるようになり、他の猿もそれを真似だした。そして、その数が百匹に達した時、遠く離れた別の場所の猿も次々にイモを洗って食べるようになったという話だ。
この話を有名にしたのは、船井幸男の本や彼の講演のせいではないかと思う。
多分、集合無意識で生物はつながっているとかいう、ユングというオカルティックな心理学者の説を持ち出し、人間も同じであるとか書いたり言ったりしているのだと思う。困ったオッサンだが、社会的に立派な人物の中にも、彼に心酔している者は多いらしい。本当に困ったものである。

世界的な芸術家の中にも、流行は人間の集合無意識が起す共時性みたいなものであるとか言ってる人もいる。
ここで流行の話をすると、全てではないかもしれないが、およそ流行というものは想像力の無い人間の退屈しのぎである。
学校教育の中で、想像力なんてものは完璧に破壊されており、自主性がないのでみんな退屈している。それで、ごく単純で分かりやすく感情を刺激するようなものに簡単に乗っかってしまうのだ。最近の例でいえば、甲子園優勝投手の青いハンカチであろう。

で、上の百匹目の猿の話であるが、完全な嘘である。
そもそもが、この百匹目の猿の話を始めたのは生物研究家のライアル・ワトソンであり、船井幸男も、ワトソンの本か、それを引用した本で知ったのだろうが、ワトソン自体が嘘だったと白状しているのである。それが嘘だと知られた後でも、船井幸男は「百匹目の猿」とモロにタイトルにした本を出し、それがまたよく売れた。どうにも困ったことである。

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2006.09.18

頭を切り取られる子供達

中国ではいまだに人民の思想統制が行われ、インターネットまで検閲して人民に制限された考え方しか許していないことはご存知と思う。
これは、社会主義国家では通常のことであるが、権限が支配者に集中するほど強く行われ、北朝鮮のような独裁国家となると、人民は画一化されたロボットであることを強制される。
しかし、日本でも、学校の中では全く同じことが行われている。また、何冊かいろいろな方面からアメリカの教育事情について書かれた本も読んだが、当然、状況は同じである。日本の義務教育はアメリカに押し付けられたものであるのだから。
アメリカでは、裏側で社会を操る者が存在することは、半ば知られているようなものであるが、それは日本も操っているわけである。

20060916

頭を切り裂いて引っ張り出すのか、頭に管を突っ込んで吸い出すのかは知らないが(実際はもっと効率の良い手段が使われるが)、学校は子供達の頭の中の9割を剥ぎ取って捨てようとしている。すでに頭の中身を抜かれた教師を使ってね。
頭の中身が残っていた教師には反逆する者もいたと思うが、単独攻撃では勝ち目はないって(笑)。

左の絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2006.09.17

学校に美術教育をさせる恐ろしさ

学校の美術教育が情操教育になるなんてとんでもない。
そもそもが、学校では同じ年齢の子供を厳格にグループ分けするが、なぜそんなことをするか分かるだろうか?
「同じ年の子にすら、全員に勉強を理解させるのが難しいのに、いろんな年齢が混ざっていたら授業になるはずがない」
とでも言うのだろうか?
とんでもない。そうなれば、年上の子が年下の子に教師の百倍もの分かりやすさで教えるのである。

どこの世界で、同じ年齢でグループ分けすることがあるだろうか?
では学校でなぜこんなことをするかというと、生徒全員が同じときに同じように考えるよう習慣付けるという目的が、同じ年齢にグループ分けした方が圧倒的に効率的に行えるからだ。これは妄言でもなんでもなく、日本の義務教育はアメリカの義務教育のコピーであるが、アメリカの義務教育は経済的な理由のために中央政府や大企業が考案したものであり、無個性で管理しやすい人間の養成を目指していることを明白な証拠を示して説明しているアメリカの有名な教育者もいる。
実際、義務教育導入後、なんと識字率の低下が起こっているという調査結果があるが、自主的に考えない、管理者の指示を必要とする人間は確実に作られる。疑わずに指示された通り働き、自分や同僚を疑い、管理者を恐れ、独創的なことをしないので退屈なためひたすら新しいものを欲しがり消費する人間が、政府や大企業の望む形態での経済の活性化には必要である。

話を戻す。学校教育の目的が、同じように考える画一的な人間の養成であるのだから、数学のように正解は1つの世界であればまだ意味も見出せないこともないが(実際は見出せないのであるが)、個性や多様性を認めるべき美術教育を学校でやればどんなに悲惨なことになるかは誰にでも分かるはずだ。
実際、小学校低学年の教室の後ろの壁に、5月であれば、まるでコピーしたような個性のないこいのぼりの絵が貼られている。どんな絵が褒められるかは子供も知っており、教師の受けを気にしなければならないことはアメとムチでかなり初期に叩き込まれるので、それに従う。多くの場合は、その目的をうまく達成できる「絵の上手い子」の絵を真似るのである。
そのこいのぼりの絵を見て、教育委員会のセンセー方が「さすがに子供は個性があるなあ」とか言うのである(笑)。しかし、本当に個性を発揮した絵を描いたら、その子はかなり嫌な目に遭わされるはずである。

個性など持たない、自主的にものを考えない、管理者を必要とする人間の方が安全に生きられると思い込んでいるなら話は別であるが、学校に美術教育をやらせる恐ろしさは分かっていただけるのではと思う。

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2006.09.16

占いの放送は放送会社の犯罪行為だ

私は、各局が毎朝のように放送している「今日の星占い」」は、公共の電波を使った犯罪だと思っている。
ライブアドアに3億円の罰金を課すなら、放送会社に300億円を課さないのが不思議だ。

星占いが単なる遊びだと言えるだろうか?
そんなことはない。ほとんどの人が、何らかの信憑性のあるものだと思っている。自分の運勢が良ければ喜ぶし、悪ければ嫌な気分になる。自分の占いの内容を憶えている人もいる。
それだけではない。血液型による相性診断を信じきっている者も多いが、それもテレビという、信頼性があるべき媒体で毎朝占いが普通に放送されていることによる洗脳効果も絶対にある。

言うまでもないが、星占いや血液型相性診断は完全なデタラメである。1パーセントの真実もない・・・と、こんな当たり前なことを聞いても、意外に感じたり、反発する者すらいるはずだ。
仮に、そう言い切れないとしても、では、占いを信じている者は、なぜ占いに信憑性があるかまともな説明ができるだろうか?これは絶対にできない。つまり、なんら信憑性の説明ができないものを信じるという恐ろしいことが普通のことになっているのである。
そして、その弊害はあまりに大きい。
アメリカあたりで、社会学者や心理学者などが、占いになんら信憑性がないことを統計調査で示したりすることもあるが、そこまでやらないといけないのがなんとも悲しい。

放送には禁止内容というものがある。中には、なぜ禁止なのかおかしく感じるものもある。しかし、占いは禁止されない。細木数子のなんら証拠のない「あんた、死ぬわよ」が放送禁止にならないのは不可解であると思うのだが(笑)。
実は、何が禁止で何が禁止でないというところに、政府の意図を読めなければならない。そうすると、この国や、この国を支配する米国の国家のありかたまで見えてくる。
だいぶ話が大きくなったところで、本日はここまでとする(笑)。

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2006.09.15

ゲームが国を滅ぼす

ニンテンドーの新しいゲーム機が発売され、同社社長の「どうやったら、もっとゲームしてもらえるかが研究課題だった」というコメントがあった。
日本を滅ぼす研究としか思えない(笑)。
我が家には、携帯型を含め、一切のゲーム機はない。
私も、一度はパソコンでテトリスのような原始的なゲームやRPGをやったことがある。そして、ゲームというものが時間を大量消費するという恐ろしさを実感し、絶対にやらないと誓った。
人間にとって、時間ほど大切なものはない。しかも、ゲームは人間の思考・行動を独占する。つまり、ゲームをしながら他のことはほとんどできない。
ゲームをすることで得られる良いものは何もない。逆に、ゲーム脳理論が正しいかどうかは分からないが、その中の「考えずに反応するだけ」の条件付けをすることはまず間違いがないし、脳機能を破壊することも大いにあり得ると思う。
大切な時間を湯水のごとく無駄にしながら、しかも人間としてのパフォーマンスを落とすのであるから、これほどひどい話はない。年をとってから、若い頃にゲームで大量の時間を消費したことを後悔する日は必ず来ると思う。いや、思考能力を無くして、後悔すらできない可能性も高い。
小型ゲーム機のテレビCMで、知的にも社会的にも立派な雰囲気の大人が、そのゲーム機を持ち歩いてプレイしたり、やはり知的な雰囲気のイケてる若者達が到着した新品のゲーム機のパッケージを喜びの表情で開ける・・・というものを見た時、私は心底恐ろしくなったものである。

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2006.09.14

テレビCMは洗脳である

テレビCMというものも、宣伝効果の最大効率を狙えば、洗脳という手法を取らざるをえないであろう。
例えば、第一生命のCMを取上げる。森山直太郎さんの「あなたの~」の歌声で始まるシリーズもののCMで、現在は2パターン同時放送されていると思う。
現在の2パターンは、父親と母親の立場で作ってあるのだと思う。
保育園で子供が熱を出す。父親がスーツ姿で保育園に子供を迎えに行く。それも、ごく自然に!!
自然さを出すために、それぞれのパターンでは、

父親の立場パターン 「僕が迎えにいける」
母親の立場パターン 「主人が『僕が迎えに行けるよ』と言ってくれた」

と、共に当たり前のような声で言う。
父親が迎えに行った時、子供の顔が喜びで輝く様子も父親の声で感動的に表現される。
このような異常さを、異常と思わせてはならないという製作者の意図が感じられる。

まず、保育園の子供が熱を出したことを、父親に連絡する異常さがある。確かに現在は誰でも携帯電話を持っているので、会社の電話を使う必要はないが、こんなことを仕事中のビジネスマンに連絡するなど考えられない。しかも、子供は父親を見て大喜びし、後ですぐに回復する程度である!
保育園では、子供に何かあった時に、要望によっては親に連絡することもあるかもしれない。しかし、このような事態に対応できるのが保育園である。それも、既に述べた通り、大した症状でなければ、こともなげに処置するはずである。また、本当の親ほどではないが、保母さんや保父さんは、子供に温かく接しているはずである。
父親は、この後、回復した子供と料理をする。仕事はサボリである。保険以前に、即クビであろう(笑)。

さて、このCMの狙いは何であろう?
それは、世間知らずの母親や子供にある種の幻想の世界観を与えようとしていると思われる。
女性でも、本気で働いている人なら、当然、このCMの異常さは分かると思う。しかし、働いてはいても、企業の営利活動に直接携わっていないなら、正直、あまり社会のことは理解できない。そんな人が、このCMのような、甘く楽しい世界を現実のように見せられると、「これでいいんだ」とコロっと洗脳される。森山直太郎さんの素晴らしい歌声も心を麻痺させる催眠効果が高いと思われる。
そして、この幻想の理想世界では、第一生命の保険が必要であることを信じさせる緻密な押しもぬかりなくCMに収められている。どうもこの会社の営業戦略責任者は超優秀なようだ。
しかし、「親が迎えに行けない子供はどうなるの?」という疑問がちゃんと出てくれば、こんなCMの偽りの仮面などすぐに剥がれる。こんなレベルで眠ってはいけない。思考停止してはいけない。

まあ、保険というものは冷静に考えて入ろうという気にはまずならない。そこで、保険会社は理詰めの説得ではなく、情に訴える戦略を取る。代表的なものは、主婦や定年退職者といった、仕事の能力の無い者を採用し、家族、きょうだい、友人、パパ(笑)を保険に加入させるのである。これは実に合理的である。
ソニー生命のCMのように、立派な邸宅の中で恰幅の良い男性二人が仲良く語らい、どちらが保険のセールスマンか分からないといったように、保険のセールスマンがそこまで重く扱われることは絶対にない。このようなわざとらしいCMが、むしろそれが異常であることを示している。
これも、主婦、子供向けである。

まだまだ、本来は異常なことを異常でないと思い込ませようとするCMは数多く。それで一時的には企業は利益を得るかもしれないが、これは日本人を馬鹿にしてしまう可能性が高い。特に母親の知的レベルをさらに落とす。そうなれば、子供も馬鹿に育つ。そして、結局は日本の国力を落とし、自らの首を絞めることになるはずである。

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2006.09.13

ハチドリのひとしずくは洗脳本である?

「ハチドリのひとしずく」という本が話題になっている。
書店で立ち読みしてみたが、心から感動・・・はせず、これって一般民衆の洗脳用ではないのかと疑う(半分本気だ^^;)。
多分、間違いない(笑)。

お話の概略は、森が大火事になり、動物達は逃げ出すが、小さなハチドリ(蜂ではなく極めて小さな小鳥である)が、その小さなクチバシでわずかな水を運んでは火にかけて消化に励むというものだ。
このけなげさには多くの人が萌え感動する。
そして、この本は、その短いお話の後に、延々とエコロジー問題を語る。それらがミックスし、本を読んだ人は「私にできることをしようと思いました!」と言って、使っていない部屋の電気を消したりしだす。

では、洗脳者の意図は何か?
まあ、目くらましってところである。エコロジーに対して、本来、政府などが取るべき対策を忘れさせようというわけである。(嗚呼、私の命が危ない^^;)
その仕掛け人は、もちろん、環境破壊を伴った営利活動を行う者で、国家政府とも結託・・・とだいたいこんなものである。

このお話、私は全く違う設定のものを知っている。
ホテルに泊まると、聖書と仏典が用意されてることがよくある。私はアダルトビデオがあまり好きでないので(笑)、ちょっと暇つぶしに読んでみるのだが、その仏典の中のお話にある。
ここでは、ハチドリではなくオウムである。小さく可愛いハチドリの方がイメージが良い。
森が大火事になるのは同じである。
オウムは、池に飛び込んで身体を濡らし、炎の上で羽ばたいて水をまき、火を消そうとする。
神様が「オウムよ、お前の行いはけなげである。しかし、それしきの水が何になろう?」と言うが、オウムは答える。「長年に渡り、住みかを与えてくれた森への恩義に報いようとする行いが成らぬはずがない」と。
これを聞き、神は手を貸し、火事を消す。

ハチドリとオウムの行いは似ているようであるが、心構えが違う。ハチドリは弱者の思考であるが、オウムは、報恩の誓いと、必ずなすという信念がある。
ハチドリも、解る範囲の行動をしたことは評価できる。しかし、オウムのように身体を濡らした方が多くの水を運べる。行動には、可能な限りの効果を持たせる必要がある。
そして、最終的に大きな成果を上げるかどうかは、行動の目的がいかなるものかで決まる。
ハチドリが、人間でいう8歳の子供なら褒められるかもしれない。しかし、我々大人が思考停止して子供になってはいけない。洗脳者の狙いはそこである。
部屋の電気を消してエコロジー対策をしていると満足してはならない。別に政府を動かすまででなくても良いが、大人なんだから、もっと大きなことができるはずである。

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2006.09.12

家庭の経済事情を子供に教えては如何?

日本の家庭では、家計について子供にほとんど話さないものと思う。
そのため、子供が大学に行くようになってすら、その学費がいかに重いものであるかを実感していない場合が多いのではないだろうか?
しかし、家庭の経済事情ほど、多くの面で勉強になることはないのに、なんとももったいない話である。

アメリカのアニメを見ていた時、スーパーヒーローが会社の社長なのだが、そのヒーローが危険に挑むにあたり、
「社長というのは、いざという時に活躍するために高収入を得ているのだ」
と言うのを聞いて、なんとも感激してしまった(笑)。
私は、ガンダムは1話として通して見たことはないが、巨大戦闘ロボットのパイロットなら、目も眩むような高収入のはずだが、おそらく、そんな話は出ていないと思う。
エヴァンゲリオンに乗っていた3人のチルドレンも、シンジは父親が高給取りとしても(笑)、後の二人は、生活の面倒をみてもらっているだけのように思う。
ここらの感覚もまずいような気もする。

また、子供は、小さい時から「学校を終わったら家を出るんだよ」と教えるべきと思う。こういうことは、小さい時から意識付けるのが良く、高校を卒業する際に急に「出て行け」ではやはり何である(笑)。
ニートやなんかも、食事や小遣いが魔法で出てきているような感覚から、勤労意欲がなくなっているということもいくらかはあると思う。

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2006.09.11

絵のテーマの決め方

絵のテーマに困ることがあるだろうか?
学校では、鯉のぼりや友達の顔、自画像なんてものばかり描かされ、絵を習いに行くと、果物や風景画なんかを描かれるのかなあ?
岡本太郎さんは、果物なんか描くなと本に書いてたが、その理由は忘れた。もともと描く気なんかないからなのだが(笑)。
池田満寿夫さんは、女子高生に「描きたいものが見つからないのですが」と言われ、思わず「それは才能の問題では」と言いかけたが、池田さんの絵のモチーフは便所のラクガキだって自分で言っていて、それを描きたいことに理由はないのだから返事に困ったのではと思う。
横尾忠則さんは、著書の中で、10代の頃に好きだったものを大事にしろみたいなことを書かれていたが、結局はこれが正解と思う。岡本太郎さんの赤を基調にした激しい絵は、幼い時に刻み付けられた「赤い兎をあげましょう」という言葉から発したものだし、池田満寿夫さんのも子供の時の女性への憧れを純粋に追及したもののように思う。
鳥しか描かない画家とか、少女専門とかもあるが、本人が追求したければそれで良いと思う。

20060910

というわけで、いつものテーマで絵を描きました(笑)。
モデルのコはもっと可愛い感じの方なのですが、ちょっと不安げな表情に・・・^^;
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2006.09.10

学校美術教育の評価の仕方

インターネット上でも、学校美術教育関係者自身が、美術教育について熱心に活動しておられるのを見ることができる。
しかし、それを見て、真に美術教育のためにやっているとは思えないものや、個人的思い込みで美術というものを勝手に歪めて欲しくないと思うことの方が私は多い。

ただ、このブログでの経験も含め、何事も批判には抵抗しか返ってこず、それはあまり有益ではない。
それよりも、正しく考える道筋を示すことができればと思う。

ところで、信用できないものの代表は何であろうか?
それが北朝鮮高官と言っても、ほぼ納得いただけると思う。
では、なぜ北朝鮮高官が信用できないのか?
意外にも、美術教育関係者を評価する鍵はそこにある。

北朝鮮高官の特徴は何であろうか?
それは、自画自賛である。
彼らに、
「あなた方の政策の間違いで、人民は飢え苦しんでいる」
と指摘すれば、彼らの答えは、
「お前の認識は間違っている。我々の政策は素晴らしく、人民は豊かで幸福である」
となるであろう。
また、
「あなた方には国際性がない」
と言えば、
「お前の認識は間違っている。我々に悪意を持つ国があるだけである」
となるであろう。

逆に、信用できるとまではいかないが、期待を持たせるものとは何であろうか?
今年散々な成績であった野球の読売巨人軍や、W杯で惨敗したサッカー日本代表あたりがそうではないだろうか?
もし、巨人軍首脳や監督あたりに
「あなた方の選手起用、戦略が間違っていたのではないか?」
と尋ねた時、
「お前の認識は間違っている。我々巨人軍の選手起用、戦略は間違いがない。我々は難しいゲームを沢山勝った」
と答えられたら、皆、巨人を見捨てるだろうが、そんな馬鹿な答えはおそらくないだろう。
もし、巨人軍首脳が真摯な反省の言葉を口にすれば、さらに信用は上がるし、実際にそうするだろう(昨年までは反省自体が高慢だったので信用されなかったが)。
比較の対象としてはおかしいが、この馬鹿な答をするのが北朝鮮高官であり、両者の信頼度に差がある理由である。
立場上言えないとは思うが、北朝鮮高官が「我々は間違っていた。反省せねばならない」と言ったら、我々だって北朝鮮に期待を持つはずだ(本当に言ったら銃殺ものだろうが)。

さて、学校美術教育関係者はどちらに入るであろうか?
私も全て見ているわけではないが、北朝鮮タイプが目立つ。
これまでの学校美術教育の成果が惨憺たるものであることは疑いようがない。学校美術教育は無い方が絶対に良い。
ほとんどの者が、ラクガキ一つしないほど、絵を描くことが疎遠であるというよりは、抵抗感を持っている。描くのは好きだが、美術の授業は苦痛という人も多いだろう。
それでも自分達の美術教育の必要性を訴えたり、関係者の活動を自画自賛するわけであるから北朝鮮と変わらない。
我々が学校美術教育に求めるのは反省であって期待ではない。
ただ、たった一人の美術教師であったが、私の意見に対し「きみの言い分は全く正しい。我々は反省する必要がある」と書いていた。私はここで、学校美術教育に期待を感じたが、それは他の美術教師やそのお仲間の自画自賛や私への難癖でかき消された。

いずれにしても、自画自賛や自己主張のみで、現実への反省がないものを信用できないのは当然である。このブログでコメントをして下さった美術教師や元美術教師の方々も残念ながらそうであった。
インターネット上のものが見やすいと思うが、学校美術教育を評価するときは、このように考えてはいかがかと思う。

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小泉首相の靖国参拝問題

がらにもなく、小泉首相の靖国参拝問題を考えていた。
すると、意外にもすっきりとした答が出た。
それは、
小泉首相には悪意はないが、彼は中国人や韓国人を友人とは全く思っていない
というだけのことである。

ほとんどの者が親に恩義を感じているだろう。ところで、私個人は、墓不要論者で、遺言にも「葬式無用、墓無用」と書くつもりであるが、他の人に奨める気もない。よって、親の墓に手を合わせることはまっとうな行為と思う。しかし、親友がいて、もし彼(彼女)が事情あって私の親を憎んでいるような場合、親友の手前では墓参りはしないと思う。ただ、だからといって、墓参りをやめる必要もないし、親友にも、墓参りをしていることを話しても良い。しかし、親友には見えないようにやる配慮は必要と思う。

小泉首相は責められる必要は全くない。しかし、彼は、中国人や韓国人を友人と思っていないことを指摘されても反発すべきではない。そこで反発すれば嘘つきとなる。
もうすぐ退任ではあるが、日本の首相はあなた方を友人とは全く思っていないと明言された時、中国、韓国は何と言うであろうか?

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2006.09.09

常世の国への誘い

この世界のどこかに、別の世界とつながる入口があるといった話はどこの国にでもあると思う。
天国や地獄の話は世界的だが、死なずとも行ける理想郷としてはインドのシャンバラや中国の桃源郷などがある。わが国にも竜宮城の話があるが、万葉集では浦島太郎は海神の娘と常世(永遠)の国で過ごすとある。

H.G.ウェルズは「塀についたドア」という小説でそんな世界のことを書いている。ある男の子が幼い頃、そのドアが現れ、中に入ったのだが、そこは美しく不思議な世界だった。しかし、彼は一生で一度しかそこに入れなかった。その機会は何度かあったのだけれど、学校や仕事を優先させてしまったのだ。
ところで、仙人や導師というものは、この世で普通の人間に混じって住んでいることもあるが、この世とは違う世界に住むという話がある。その世界は人には見えないが、楽しい世界であるだけでなく、身体や精神の力を充実させるエネルギーに溢れた世界である。中国やわが国にも、昔から、その世界に入るいろいろな方法が伝えられている。そこに入れば、酒が好きなら仙人と酒を酌み交わし、あるいは、美しい仙女と遊んだりできるのであるから、なるほど生命力を高めてくれそうな世界である。
ただの御伽噺にすぎないそんな世界のことが妙に心をときめかせるのは、チベットの死者の書の流行などからもうかがえるように、人は完全にそれらを信じていないわけではないし、心に想像できるということは、半分くらいはあるも同然ということなのかもしれない。

20060908_2


で、異世界に行って仙女に逢いましたので、それを描いてみました。
まあ、夢も異世界であると言えなくもありませんので(笑)。
確かに、夢の中で言いようのない美しいものを見ることがありますが、夢は別の世界とつながる扉という話もあります・・・今日は妙に神秘的だ(笑)。
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2006.09.08

シンクロニシティとセレンディピティ

「シンクロニシティー」という言葉をご存知の方も多いと思う。「共時性」と訳されるもので、心理学者のカール・グスタフ・ユングによって提唱された概念である。これは、単なる偶然に見えるものに我々の知りえないような何らかの原因が働いている場合があるというもので、簡単な言葉で言えば「意味のある偶然の一致」となる。
この思想は、科学的とは言えないと思うが、意外にも一般に広く浸透している可能性を感じる。漫画家のCLAMPさんが、多くの作品の中で、賢者と呼ばれる資格のある登場人物に「この世に偶然はない。あるのは必然のみ」と言わせるのも、これと無関係ではあるまい。
平原綾香さんの大ヒット曲「Jupiter」でも、「愛を学ぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない」という部分の歌詞もそうだと思う。
(もっとも、こういった思想はかなりの大昔きあらあり、ユングがその影響を受けたのかもしれない)

似た雰囲気の言葉に、「セレンディピティー」というものがある。
こちらは、「偶然に訪れる幸運」とか「偶然に掘り出し物を見つける才能」とかいうものだ。およそ科学上の大発見というものは、大なり小なりセレンディピティーの助けがあったと言えるらしい。つまり、いかに努力しても、何らかの幸運がなければそれらの業績はありえなかった場合が圧倒的であるということである。

こう言われたら、誰しも不思議な偶然を体験した例の1つや2つは思い浮かぶと思う。
私の例でいえば、それぞれに面識のない友人二人を誘って食事に行った際、たまたま彼らの住んでいるマンションの部屋番号の話になったが、それが同じ番号であったことがある。
また、以前にも書いたが、たまたま、テーブルの上に3冊の本「至高体験」「神秘のバラ」「美少女戦士セーラームーン10巻」を置いていたが、「至高体験」の序文に、著者によるイェイツの詩集の引用を許可してくれた英国マクミラン社への謝辞があり、「セーラームーン」では、ほたる(セーラーサターン)がイェイツの詩を暗唱するシーンがあった。そして、「神秘の薔薇」はイェイツの作品である。私はなんらの意図もなく、この3冊を積み上げていたのだった。

まあ、誰しも、思い当たることは少なくとも10年毎に1つや2つは必ずあると思うが、その印象が割に強烈なので「この世に偶然はない。あるのは必然だけ」という言葉を使う漫画や小説を面白く感じたり、オカルト屋に騙されたりするのである(笑)。

こういうことは言えると思う。
成功するには、幸運な偶然が必要なことはかなり多い。しかし、そんな偶然はかなり訪れているのである。しかし、それが幸運となるには、準備が必要であるということである。その準備とは、日頃の努力であったり、常に寛容な心で他人に接していることである。というのは、幸運というのは、人によって運ばれてくることが多いからだ。
栗山天心さんという人が面白い言葉を本に書いていた。「タナがなければボタモチ落ちず」と。「タナボタ」といえば、いかにも自分は何もせずに幸運を享受するような感じがするが、タナだけは用意しないといけないのだと指摘する。同じく、「歩かぬ犬は棒にも当たらぬ」と書いていた。犬のようにただ歩けば何か(幸運)に当たるかもしれないが、せめて歩かないとどうにもならないという意味であり、人間でいうなら、やはり何か最低限の努力はしろということになると思う。

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2006.09.07

不思議な人と不思議な話

本日は、書くことも浮かばないので(笑)、印象的な人物とそれにまつわる不思議な話をする(?)。
ある大金持ちであるが(Yさんとする)、最初はその人の著書を読んで非常な感慨を受けたのだが、そのうち、私が勤めている会社の子会社が入っているビルで、Yさんが少し前に事業をやっていたことが分かり、そこでの関係にあたると、いろいろ面白い話を聞くことができた。
さらに、勤めている会社のすぐ近くで医院を開いているお医者さんが、Yさんと関係が深いことが分かり、ここからも興味深い情報を得た。

Yさんの力は凄まじく、私は、個人としての人間が、なぜここまでの力を得ることができるのだろうと純粋に疑問に思った。力とは、財力や事業の力もあるが、知恵という面も大きい。
Yさんには一度だけ会ったことがある。とはいえ、Yさんが講演をされる際、会場のあるフロアにエレベーターでYさんが到着された際、大勢の人と一緒に出迎えただけであるが、一般の著名人とは異なり、Yさんは顔が売れているわけではないので、出迎えの人達もなんとなく見過ごしていたのであるが、Yさんが側を通りかかった際、私は1センチの会釈をすると、なんとYさんも1センチの会釈を返した。おかしな話だが、Yさんが武道の達人でもあることを思い出した。

後に会報誌で、Yさんの興味深いエピソードが紹介されていた。
Yさんは19歳の時、ある筋では神様のごとく崇拝されている先生に会いに行った。弟子にしてもらうためである。しかし、その先生には会えたが、ロクに話をしてもらえなかったそうである。Yさんは自分のレベルが低いためであることを理解し、帰ろうとしたら、その先生が「R(外国人の名前)の本をボロボロになるまで読め」とYさんに言ったようだ。Yさんは、12年かけて、その本が本当にとじ糸まで取れてボロボロになるまで読み、そのボロボロの本の残骸を持って再び先生を訪れた。先生は涙を流して喜び、「弟子になる必要はない。友人になって欲しい」と言われたようだ。
こうなると、同じ本を欲しくなるのは人情だが、「Rの本」という手がかりだけで、Rのイニシャルが示す名前は特に特殊な名前でもなく、どの本か全く分からなかった。すると、数ヵ月後、たまたま会社に初めて来たセールスマンの方に、「Rの本とは何か分かるか?」と聞いたら、彼は分かると言い、数日後、買って持ってきてくれた。一般書店では滅多に売っていない本で、確かに、この本の存在を知る者はほぼいないと思われるものであった。それを縁もゆかりもない人が買って持ってきてくれるのであるから不思議なものである。やはり私が美しいからか?(笑)

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2006.09.06

ゾっとしたCM

以前、SMAPの香取慎吾さんが出ていたウーロン茶のCMを見て、私は心底ゾっとした。
このCMは、銭湯の脱衣所のような場所で、香取さんがタオルを振り回しながら縦横無尽に暴れまくり、「オチャー!オチャー!」という奇声が入れられたものだ。
おそらくは、往年の人気映画「燃えよ!ドラゴン」を真似たもので、タオルはヌンチャク(双節棍。2本の短い木、または、鉄の棒をヒモまたはクサリで繋いだ武器)の代わりであり、「オチャー!」は、主演のブルース・リーが戦闘シーンで発する「アチョー!」という奇声を、ウーロン「茶」にかけたものであろう。
香取さんはSMAPの中で最も大柄で逞しい体格で、あんな大きな男が他人と共用の場所で暴れまわっていたら、迷惑というよりは、女性や子供(男性用脱衣所に女性はいないが)、老人などは恐ろしい不快感や恐怖を感じるはずだ。
そして、特に恐ろしかったのは、その中での香取さんの無邪気な笑顔だ。何ら悪いことをしているという自覚なく、自らの欲求のおもむくままに行動することほど恐ろしいものはない。
子供が無邪気に微笑みながらクモの脚を引きちぎってバラバラにするというのは見るかもしれないし、米国あたりで、7歳の子供が銃を持ち、たまたま通りかかった人を見て、友達に「あいつを撃ってみようよ」と言って平気で撃つようなことが実際にある。
これまで何度も書いたが、歩きタバコや、込んだ道で携帯電話を使用しながら歩くというのも全く同じレベルのことである。
幼い精神に教育がなされないと、こういったことは普通に起こる。
そして、面白ければ、自分が楽しければ、他人が困ろうが傷付こうが全く意に介さないという風潮が非常に強くなってきたように思う。そして、そういった行動を制止されると彼らは異常なまでに激怒する場合が多い。
これは、しつけがなされておらず、さらにそのせいで、幼児性全能感(幼児は通常、自分が世界で最も重要と感じているが、年齢を重ねてもその感覚を強く残しているもの)が強くなったせいである。自分は神のごとき存在であるのだから、自分より低い存在の他人が自分を規制することが不快でたまらないというところであろう。

付け加えるが、これは学生や若年層だけのことでなく、私はどうも学校教師にこの傾向が強いのではないかと思っている。教師が暴力事件や猥褻事件を起こした後の弁明を聞くと、自分の欲求や欲望に単に従っただけのことで、それが問題になるとはあまり思っていないというものがほぼ全部と思う。そのあたりは年齢の高い教師も若い教師も変わらない。私は、学校の授業や部活は(いまや安価に設置できる)監視カメラを設置し、無制限とは言わないが、父兄や学習塾のうち、一定の審査を経て承認された者に、あるいは、優秀な塾に特にお願いして監視・評価していただく目的で公開する必要は絶対にあると思う。未熟な者に放縦が認められないのは、社会では当然のことである。ましてや、いまや学校教師など誰も、いや、あまり^^;信用していないのであるから。

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2006.09.05

楽をするな

南方熊楠という有名な博物学・菌類学者がいた(1867年生まれ、1941年没)。
おそらく大変な天才だったようで、その上、猛烈な勉強家であり、さらに当時としては驚異的だが、米国、英国で研究をした。
40歳位で結婚したようだが、ロクな収入がなく貧乏であり、食卓も豊かなはずがなかったが、それでも時々妻に「おかずを1品減らすように」と指示した。妻は、「この人はまた新しい本が欲しいのだろう」とすぐに了解したらしい。
南方は子供の頃、本屋に行って立ち読みをして、その内容を挿絵ごと記憶し、家に帰って書き写したという。記憶力は抜群で、完全な複製本ができたらしい。
そして、それは、米国や英国の進歩した図書館でも続けたようだ。
私のような才の無い者が、好きなものを好きなだけ食べながら、欲しい本はロクに読まない場合もあるにも関わらず、際限なくAmazonに注文し、それは即座に家まで配達してくれる。改めて考えると、南方熊楠に対してなんとも申し訳なく、心が痛むほどである。
南方は、旧制第一高等学校(今の東大)に夏目漱石の同期生として入学したが、決められた学科を勉強する学校のスタイルとは全く合わずに中退。米国、英国に留学し、ネイチャー誌に論文を出すも、やはりあらゆることを学問の対象にするため、学位の1つも得ることはなく、学歴で言うなら中卒でしかなかった。
ところで、本を見てそれを暗記するというのは、案外良い訓練にはなったかもしれない。聞くところによれば、当時は南方ほどではなくても、そのようなことをする者は少なくなかったらしい。勉強好きでも本を買えない者は多かったはずだ。そして、当時は記憶力の優れた者が多かったようだ。苦労は無駄にはならないというわけだ。
今でも、新しい教科書で勉強できる子供というのは、世界的に見れば小数のはずだ。おさがりの教科書はむしろ大切にされ、熱心に学ばれるような気がする。
漫画家の山岸凉子さんだったと思うが、小学校では、教科書を持っていない子もいたのだが、隣の席の子が、なんと本物そっくりに手描きされた教科書を持っていたエピソードを漫画に描いていた。父親が、誰かの教科書を借りて書き写したのだと思うが、何ともいえない感慨がある。
誰なのかさっぱり忘れたが、ある偉い人が、子供の時、父親に「楽をするな」と教えられたらしい。10年位前に何かで読んだのだが、「楽をするな」という言葉が妙に記憶に残っている。

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2006.09.04

天使の出現

心理学で言う至高体験(絶頂体験とも訳される)と同じらしきことが芸術では大洋感情と呼ばれていると思う。そして、それと同じと思われるものは、文学では、決まった呼び方はないが、ドストエフスキー、イェイツ、エリオットなど最高クラスの作家の作品には必ず登場する。(夏目漱石が天賓と呼んだという話がある)
野口悠紀雄の名著「天使の出現」を読むと、「天使の出現」こそ、まさに至高体験、または、大洋感情であると思う。
岡本太郎さんの「爆発」も同じことを指したのではないかと思う。
(爆発の意味をロクに考えずに批判・揶揄する者は美術教育関係者にもいるようであるが)
「芸術の目的はエクスタシー」であるといったイェイツのエクスタシーも、同じことと思う。

20060903

至高体験は、極度の緊張の後の解放の瞬間に訪れることが多いらしい。
イェイツによると「人を憎むことをやめた時」に起こりやすい傾向があるという。
で、緊張と憎しみから解放されつつある少女の絵を描きました(?)。
絵をクリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

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2006.09.03

絵は趣味か?

岡本太郎は、絵は趣味的であってはならないと言ってたが、私もそう思う。
確かに、学校の馬鹿げた美術教育のせいで、絵を描くことが海外旅行より特殊なものになってしまっているので、趣味ででもやってみるのは良いことなのかもしれないが、絵が趣味というのは何か違和感があるというかもったいない。

例えば、空手や柔道の訓練をしている者にとって、これが趣味である場合もあるとは思うが、多くの場合は単なる楽しみではない目的があると思う。
読書が趣味という人も多いと思うが、趣味の読書とはハリー・ポッターのような面白い小説や、心を麻痺させるロマンス本、あるいはあまり中味はないが売り上げ部数のみを目的に面白く書いたものを読むことであり、慣習的に「趣味」と言ってはいるが、それらの読書とは全く異なる読み方をする者も珍しくはないと思う。

絵はいかなる描き方をしても、楽しいという面はあるとは思うが、趣味と限定した思い込みを持たない方が良いと思う。
そして、素人が絵を描く場合は、絵は習わない方が良いと思う。教師に教われば、一般的に評価されやすい描き方を教わると思うが、これにより狭い枠にはめ込まれる危険がある。そのおかげで、十分な想像力が発揮できなくなる。
習いに行けば、描くテーマも制限され、自分の描きたいものが描けない場合も多いと思う。絵は描きたいものを描くのが一番である。
絵の教本は数多く売られているが、あくまで参考にするのは良いが、プロの商用画家にでもなるのでない限り、あまり真面目に見ない方が良いかもしれない。あきらかに偏見と思われる教本もあるし、そもそも、これらの多くはあまりに細かく厳格で、とても素人の手におえるものではない。
ある有名な画家が書いた絵の描き方の本を買ったが、いかにも、素人さんにも楽しく学べるような前書きのすぐ後に、「まず最初の10の課題」とか示していたのだが、私はそれを見てめまいを感じた。どの1つも、とてもではないが取り組む気になれない大変そうなものだった。
私が唯一楽しく愛読できたのは、池田満寿夫さんの「池田満寿夫の人物デッサン」だった。非常にユニークなテキストで、池田さんが知っていることを書いたのではなく、池田さん自身が新しいことにチャレンジした記録のようなもので、絵を描くこと自体が新しいチャンレンジである読者と共に、絵の描き方を発見しようという試みの本であった。

私は絵を描くことで、絵の腕前がどうのではなく、仕事であるコンピュータソフト開発の能力も飛躍的に向上した。これは不思議なことではなく、世界的に有名なベティ・エドワーズの「脳の右側で描け」にある通り、絵を描くには右脳を使うことになり、巷に溢れる何の効果もない右脳活性化を謳うトレーニングとは偉い違いである。
ただ、「脳の右側で描け」や、そのワークブックは、とてもではないが実践する気にはなれなかったが(笑)。

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2006.09.02

この世は当然地獄である

7月末に、プールの排水溝に吸い込まれて死亡した(正確には頭部打撲による死亡)7歳の女の子のご両親が、プールの安全対策を訴えたこともあり、全国のあらゆる場所のプールでの安全対策や監視体制がより進んだと言われる。

良いことである。ただ、大きな落とし穴に気を付ける必要があるが、その警告を聞いたことがない。

しばらくの間は、安全点検や監視体制は全国的に充実するかもしれない。しかし、時が経てば、やがてずさんとなるし、いまでも、あまり気合の入らないところも絶対にあるはずである。
安全を、プールの管理者側にのみ求めてはいけない。
プールは大量の水を扱うのであり、危険なことがあるのは大前提と考える必要がある。その大前提が、少なくとも大人たちの間に定着した時、初めていくらかは安全になるのである。できれば、小学生以上の子供にも、このこと(プールは決して絶対に安全ではない)は認識させたいと思う。

人通りの少ない道などではなく、学習塾で講師に子供が殺される事件すらある。いや、塾のように、悪評が死活問題に直結する場合は、何か事件が起こると、即、現実的対応が全国規模で行われるので、その後はむしろ安全になる。しかし、小中学校ではあらゆる児童虐待、ことに、オス教師による女生徒への性的虐待や痴漢行為は歯止めなく増え続けているが、現実的対応が何もなされないのであるから当然であり、学校は暴力教師や猥褻教師を実質的に公認していると言うことと思う。
親は言う。「どこに安全があるのですか?」
答えよう。「どこにもない」
一般に安全と考えている場所ほど危ないことは断言できる。
お釈迦様も言っている。「この世は地獄」だと。地獄の中で生き抜く決意をした時に花も咲こうというものである。
一番怖いのは、安全妄想であることを強調したい。

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2006.09.01

力を得る確実な秘訣

人間はこの世で生きる上で、少しでも多くの力を得たいものと思うはずだ。
力として典型的なものとして思い浮かぶのはお金である。実際、お金は強い力を持ち、妄想の愛などとは比較にならない(笑)。
たまたまお金持ちの家に生まれれば、最初から力があるように勘違いするが、もちろん、本人には何の力もなく、親が倒れれば悲惨なことになる。

何かの珍しい本で読んだが、人が力を得るには「制約」というものが大事らしい。
これは、米国式の成功セミナーなどでよく言われる「誓約」すなわち、「私は10年で2億円を得るぞ」とか言うのとは何の関係もない(笑)。そのような「誓約」には、もちろん、何の効果もなく、かえって逆の作用となるのは明白である。
ここでいう「制約」とは自分に加えるものである。
神様・・・という言い方はあまり好きではないのだが、ものの例えとしてこの便利な概念を借りると、神様というのは、人間が自分に制約を加えた分に比例してその人間に力を与える。
分かりやすい例でいうと、何か強い望みを持った時に、何かを絶つということを、特に教わらなくても、かなりの確信を持って行うと思う。例えば、「好きなチョコレートを絶つ」とかである。
人間というのは、奔放に自由に振舞いたいものである。しかし、その本性のまま奔放に振舞うと、力も美しさも損なわれる。その逆が自己制約である。
自分の自由で奔放な振る舞いを制約すれば確実に力が得られる。仕事などは、特に駆け出しの頃は制約の中で行われるものであり、働き始めの頃に熱心に働くと、ぐんぐん力がつく。逆に、厳しい仕事を避けたり、ましてや働かないと、力が付かないばかりか、ますます奔放になるのが普通であるので、ない力がさらになくなる。
これらは、実際の観察においても、まず間違いはないと思う。

歩き煙草をする人間は奔放の極みである。あれほどの迷惑な行為すら自己制約できないのであるから、あらゆる自己制約ができないはずであり、歩き煙草をする人間は惨めなほど力が無いことが容易に推測できる。企業の社員採用時には、是非「歩き煙草をするか?」という質問事項を用意し、イエスの場合は最初から落として絶対に間違いはない。

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