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2006.08.03

超能力

今でも多少そうかもしれないが、1980年代以前は、多くの人が超能力というものに対し、大きなロマンや憧れを持ったものだと思う。
「幻魔大戦」(平井和正、石森章太郎)や「バビル2世」(横山光輝)といった漫画・アニメが大ヒットした他、実に多くの超能力・神秘力を扱った漫画、アニメ、SF小説、映画が作られ、ことごとに評判だったと思う。そして、ユリ・ゲラーが来日し、当時はゲラーが本物の超能力者であるように扱われ、超能力を科学的に肯定するような書籍、雑誌などの文書が溢れた。

ただ、世界的に言っても、これらは必然という部分もある。
そもそもが、超能力者のルーツはイエス・キリストであり、新約聖書に書かれたイエスが起こした奇跡の数々は、クリスチャンであれば史実として受け入れているはずだし、さらにイエスは「私が行ったのと同じこと、いや、もっと大きな業をあなた方も行えるのだ」と宣言してあるのだ。
これはもう、超能力を信じるなという方が無理である(笑)。

長い間、超能力を肯定する証拠として扱われたのは、1930年代のデューク大学におけるライン教授の超能力実験だ。いや、今現在ですら、これをもって超能力が実在すると言う者すらいる。
ライン教授の実験結果に不正があったとか言う話をしなくても、その実験は誰にでも出来る簡単なものであるのに、そんな古い実験結果を持ち出すこと自体、超能力が存在しない理由になることは、ちょっと知性のある者には明らかである。つまり、その後、厳格な実験をやったら、さっぱり再現性は見られなかったということだ。

SF小説として古いものでは、「宇宙戦争」で再び有名になった英国のSF作家H.G.ウェルズの「奇跡を起こせる男」というものがある。そこに登場する超能力者はイエス以上で、望んだことが即座に実現する。なんとも壮大な超能力者を登場させてはいるが、この小説はウェルズの深い知性により、実に素晴らしい作品になっている。この超能力者は、地球の回転すら簡単に止める力があったが、最後に望んだことは、その力の放棄であった。つまり、超能力を肯定するとかしないとかのレベルのお話ではなく、イエスや神のような奇跡の力は人には似合わないことを改めて示したのかもしれない。

ところで、時が経ち、現代に近付く中で、人々の超能力の関心は変わってきているのではないかと思う。
かつてであれば、超能力は大きな武器であり、その力で宇宙からの侵略者と戦ったり、この世の巨大な悪を懲らしめるとか、あるいは、その力のみで豪華な生活をしようというおかしな夢を見たものだと思う。
しかし、ある時期から、どうも超能力というやつは、さほどのパワーがあるわけではないが、それが使えたら他人に自慢できるし、何の取り得もない者が、(気分的に)他人と対等に立てるとかといった希望に変わってきたように思う。これは、ミスター・マリックのような、奇術的パフォーマンスの影響があるのではと思う。マリック自体は、自分を超能力者と言ったことはないと聞くが、そう誤解されても仕方がないようなことは絶対に数多く言っているはずだ。

大槻教授などは、教育的信念から、超能力否定に精力的に取り組んでいるようだ。その信念自体は素晴らしいものであると思うが、もっと配慮を持って行うべきと思う。いかにいかがわしい超能力者であっても、対等にけなし合っていれば、どっちが上とも言えないのである。相手が誰であれ、傲慢な態度は驕りであるという教訓を我々も学べたと思う。

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