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2006.08.31

確実にモテる法則

女流監督が製作した映画のヒロインが男性には評判が悪いというのはよく聞く。
そして、これは不思議なことではない。女性の考える「いい女」と男性が考える「いい女」とは全く別物である。
アイドルや歌手でも、女性の間でカリスマ的人気を得る女性は、男性にはちょっと敬遠したいタイプが多いように思う。例えば、安室奈美恵や浜崎あゆみは女性には憧れであるが、男性が付き合いたいと思うのは、深田恭子や安倍なつみのようなタイプと思う。

とりあえず一説としておくが、男性は、女性を良いものと感じる際には、女性に屈辱を要求するものであるらしい。屈辱というといかにも大げさだが、例えば、大失敗をして赤くなっているという少女をイメージすればかなり可愛いが、ここには失敗の屈辱があるのである。その失敗も、屈辱の度合いの高い状況、例えば、転んで下着が見えたなどというのがより好ましいとなる。ただ、男性側の倫理観や精神の病み具合により、女性への過剰な屈辱を要求することにもなる。とはいえ、基本的にはそのようなものである。

最近、新作映画となることで再び脚光を浴びる「スケバン刑事(デカ)」の原作者の和田慎二さんの漫画でこれを象徴するお話がある。
(家にあった古い漫画をかなり以前に読んだので、タイトルなど憶えていない。「スケバン刑事」絡みだったようにも思う)
一流ビジネスマンが16歳の少女を花嫁に迎える。彼は、イケメンで能力はもちろんだが、人格的にも素晴らしくて極めて男らしく、常に強いリーダーシップを発揮し、部下にも慕われる。一方、花嫁は、同級生の中でもひときわ清純さに輝く美少女である。幼妻ながらお似合いで、二人は良好な交際の後に結婚したはずであるが、結婚初夜に彼が変貌を見せる。震える花嫁のネグリジェを引き裂き、叩き倒してからの行為・・・これが毎晩続き、花嫁は絶望に追いやられる。
やがて若い花嫁は恨みから復讐に向かう。詳細は省くが、さすが彼が選んだ花嫁は、復讐のやり方は桁外れであった。
しかし、花嫁が生命の危機に陥った時、彼は自らを犠牲に花嫁を救う。彼は深く彼女を愛していた。

和田慎二さんが思想的にも並の漫画家でないことは多くの方が認めると思う。しかし、この漫画の意味は、あまり読者(特に中高生といった若い読者)には理解しがたいものだったと思う。
しかし、これは男というものの本性を表現している。男は愛しいと思うとき、女の屈辱を求めて止まないものである。
「恥じらいのない女性はダメだ」とはよく言われるが、本当は「屈辱を与えられない女はダメだ」なのである。

浜崎あゆみや安室奈美恵は、威風堂々としたイメージが強く、およそ屈辱が似合わないし、屈辱を許さない強い女という雰囲気がある。彼女達に音楽という美点がなければ、むしろ男には避けられるタイプと思う。このような女でないといけない男もいるのだが、やや亜流と思うし、その理由は説明できると思うが、ここでは取り上げない。

勘違いしている女性は多いが、女性が大はしゃぎしたり、お笑いタレントもどきにひょうきんぶっている姿は、男性には嫌悪感をもよおさせるのである。あまりに屈辱と無縁であるからだ。
また、モデルのエビちゃんのように、きっと見据えたシャープな目元と、堂々たるポーズは、当然女性には受けるが、男性にはさほどではない。嫌悪感を持つ男性も多いはずだ。そもそもが、女性誌のモデルが男性に受ける必要はない。

男性は女性の屈辱を求めるが、当然ながら女性は屈辱を受けるのが好きなはずはない。よって、屈辱を受けなくても男にモテるという構図が望ましいが、それは夢に過ぎない。
そんな夢物語を描いた「エマニュエル夫人」が女性著者の手によるものであることは調べなくても分かる。男があんなものを書くことはおよそ有り得ない。当然、読者も女性が圧倒的なはずだ。

さて、ここまで見れば、男でも女でも、モテる方法が分かる。
男が女にモテるには、ごく一般的な表現でいえば「女性を人生を彩る花とか心の支えとかではなく、一個の人格として認識する」である。しかし、こんな言い方を聞いても決してモテるようにはならない。
ゲーテは言っていた。「女には優しくせよ。女が手に入ること請け合い」と。しかし、どう優しくするかを説明していない。
女性の人格を認め、優しくするとは、決して屈辱を与えないことで、それを全存在でもって示せば、嫌でもモテる。ただし、モテて楽しいことはほとんどない(笑)。女に金などをもらえる間はそうしておいて、女に金がなくなると屈辱を与える男はよくいるとは思う。
次に、女が男にモテる方法だ。これは、男が女にモテる場合の逆で、屈辱を見せる可能性を男に示せば良い。もちろん、最終的に屈辱を感じる必要があるのだから、こちらも、モテても全く面白くはない(苦笑)。
こちらも、男にお金などをもらえる間は屈辱を見せて、もらえなくなると絶対に屈辱を見せない女も多いと思う(多分)。
補足であるが、女性に痛みを与えて喜ぶ男というのは、痛みが屈辱とイコールであると思い込んでいるアホである。

一般には、女に屈辱を与えて喜ぶ男は最低である。しかし、男の本性は女の屈辱を求めている。
では、どうすれば良いか?
それには、007シリーズのタイトルがヒントになる。
“Your eyes only.”
意味は「あなただけ」となる(*^^*)
愛しているなら、女は同時には一人の男限定で屈辱を受け入れることである。ただし、男の方は、その屈辱に見合うものを返さないといけない。
一人の女の屈辱を複数で共有しようという男は、いろいろ考えて見るに(感情論では簡単であるが)、存在意義はないと思える。

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2006.08.30

美人の利得なんてしれたもの

よく冗談半分に、「女は外見が全て」「美しく生まれるかどうかで人生ほぼ決まる」などと言いますね。半分が冗談なら、半分は本気なわけですが(笑)、若い時に限定するならあながち間違いとも言えないかもしれません。
超美人であれば、少々年を取っても美しさが武器になることもありますが、それはあくまで、その女性にお金や地位や、世間に認められた実力がある場合です。いくらなんでも四十や五十過ぎて外見だけで通用するはずがありません。

こう考えると、美人は若い間は多少得をしますが、それがいつまでも続くわけではなく、一瞬で過ぎてしまうようなものですし、若い頃でも、美しさに比例してリスクも大きくなります。果たして美人が本当に得かどうか怪しいものかもしれません。

15歳のクレオパトラが51歳のシーザーに出逢い、そのたぐい稀な美しさでシーザーを手玉に取り、栄華を極めたことは事実のようです。また、多少その名が轟いていたとはいえ、一介の武将に過ぎず、しかも51歳というと当時の平均寿命をはるかに超える「老雄」を独裁者にするための大いなる力を与えたものと思います。まこと、美少女の力とはすごいものです。
しかし、クレオパトラ自身がその後、幸福であったかというと、そんなことはないと思います。

中学生の頃、人気の美少女で通っていたコが、大学生の時に見ると見るも無残に変貌していたという例は驚愕と共によく憶えています(笑)。特に女性は、結婚すると急激に美しさが失われることも多いようです(女に限りませんが)。美しい間にお金持ちと結婚した美人の話はもちろんありますが、もし美人というだけで選ばれたとしたら確実に試練が待っています(笑)。

美人のみが味わえる栄光というものもありますが、いろいろと考えてみるに、長い目で見ると、必ずしも美人が得とはいえないような気がします。

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2006.08.29

愛情を無意識に確認する方法

昔のZARDの歌に「突然」というのがあり、夏の歌なので暑いときにはよく思い出すが、その中の

僕は君の大事な存在(ひと)になれるだろうか?
この仕事(ゆめ)はどんな状況(とき)も笑っているよ
※作詞は坂井泉水さん自身

というフレーズが私は好きなのだが、誰でも思い当たると同時に、2行目が面白いと思う(当て字も面白いが)。
自分の好きな人が、自分のことをどう思っているか、直接聞かずに知りたいと思ったことは一度はあると思う。
しかし、そこは「当たって砕けろ!」で勇気を出してぶつからない限り、どうにもならない。男性の場合は特にそうだが、少女漫画や少女アニメなどを見ていると、女からの告白奨励が結構目に付く。「女だって白馬にまたがり、王子様を探さないといけない」のである(※)。
※このセリフは、アニメ「美少女戦士セーラームーンSuperS」での、セーラームーンこと月野うさぎの娘、ちびうさのもの。

しかし、「精神身体医学の父」と呼ばれるドイツ人医師ゲオルグ・グロデックの本でエス(ラテン語。英語ではitに相当。ただ、英語ではエスはitと区別しidと言う)について学ぶと、そんなことは割に簡単に分かると思う。
※エスとは無意識の中心機能で生命力の源である。岸田秀先生によると、意識から自我を除いたものは全てエスと考えた方が分かりやすいという。エスは普通、フロイト理論の中のものとして有名だが、フロイトにエスの概念を与えたのはグロデックであり、フロイトもそれを認めている。

好きな彼(または彼女)と、さりげなく一緒にいる機会を作れば良い。二人きりでも他人がいても構わないが、自分はターゲットからなんとなく見える程度の距離にいて、、ターゲットがおしゃべりや何かに熱中しないことが大切だ。つまり、できるだけ「退屈」な状況が良い。
そんな状況だからと言って、彼が迫ってきたり(笑)、彼女が親しげに話しかけてきても、それは何の判断材料にもならない。男は見境ない狼だし、美人には博愛主義者が多い(笑)。
そんな中で、彼や彼女が大あくびをしたら、まず見込みはない。
あくびというのは面白いもので、意識的にかみ殺したりした顔は、かなり可愛かったりカッコ良かったりするが、遠慮のない大あくびは恐ろしく間抜けで醜悪な顔となる。どんな美人でも大あくびをした顔を見たら、百年の恋も醒めてしまうほどである。
そして、人は好きな人の前では大あくびをしない。そして、嫌いな人に大あくびをする顔を見せるのはエスの仕業である。エスは正直で正確である。エスの意図しないことは起こらない(このあたりはグロデックの論だが、私もほぼ正当と思う)。
よって、彼または彼女が大あくびをする顔を見せたら、諦めた方が良い。まあ、先ほども書いたように、大あくびをする顔を見たら、こちらもその気はなくなるに違いないが(苦笑)。

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2006.08.28

見え隠れする腺

ある有名な画家のWebサイトで、高校生の方が、「自分はデッサンの際、薄い線で何度もなぞりながら描くのが好きだが、美術の先生は、1回で線を引けと言うので困るがどう思うか?」と質問していた。すると、その画家がご自分で返答された。「どちらの描き方も表現方法である」
アニメーターでも目指すなら、死ぬほどの量をこなさないといけないので、ある程度は1本ですっと決められないといけないだろう。また、いろんな描き方を試してみるのも良いが、結局は本人が好きなように描けば良いと思う。
楽器の演奏や踊り方には確固とした基礎が存在するかもしれない。しかし、それすら独学でこなす者もいる。そして、絵というのは、何かの専門画家になるのでない限り、これといったやり方は無く自由に表現できるところが面白いと思う。

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「サイボーグ009」(2002年)のDVDを遅ればせながら見ましたので、フランソワ(003)を自己流にアレンジして描いてみました(笑)。
彼女が初めてスクリーンに登場したのは1966年。当時の日本の少年、青年男子、中年男性(笑)、老人男性の一部(爆)に、フランスの女の子に対する憧れを植えつけた、ある意味、罪なキャラですね(笑)。
クリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

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2006.08.27

恐れから描く絵

あるお医者さんから聞いたが、昔の武士には、戦の最中に花を生ける者がいたらしい。
荒ぶるということは快感であると同時に、そんな自分を嫌悪するものらしい。そのために禊として花を生けるのだそうだ。
花を生ける他にも、仏像を彫った武士もいたが、絵を描くのでも良かったかもしれない。宮本武蔵も絵を残しているが、荒ぶる心を恐れ、禊をしたかったのであろうか?

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で、禊の絵を描きました(?)。
子供が描きそうな絵だなあ(笑)。
絵をクリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

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2006.08.26

秘話

大抵の人が秘話というものが好きなはずだ。
秘話とは、知られていない話という程度の意味であるが、知ってみると大変に意外で面白い話があるからだろう。まあ、明かされる秘話というのは、面白いものと決まっているということもあるが、秘話の中に人間の本性を垣間見ることも多いのではないだろうか?
例えば、有名なスポーツ選手が、その競技に取り組んだ動機とか、世界的な文学作品を書いた著者のそれを書いた真の動機というものが、案外につまらないものであったりということを知ると、面白く思うと同時に妙な感慨を感じるのは、「人間というものは、案外この程度のもの」とか「天才とか偉人と呼ばれている人も案外平凡」と感じることが多いからではないだろうか?
私は、「偉大な業績も、それを開始した時の動機は大したものではない」と思っている。それを、「実話に基づいた」とされる小説や漫画、あるいは、ドキュメント番組では、さも感動的な動機があるように言われることがあまりに多い。

ただ、さらに考えを進めれば、誰かが何かを行った本当の動機なんて本人以外には決して分からないものだと思う。よって、個人に関する秘話というものは、ほどほどに受け取った方が良い。例えば、犯罪者の動機なんてことがニュース報道された時は、私は百パーセント信じないことにしている。そうでなくても「そんなわけないじゃない」と思われるような報道ばかりである(他の人は、あんな報道を本当に信じているのだろうか?)。

一国や、人類に関する秘話となると別の面白さも出てくる。しかし、これはなかなか真実が分からない。例えば、日本がなぜ第2次世界大戦に参戦したかなど諸説あり、どれが本当かなんて断定できるものではない。
そのため、より面白い秘話が人気となり、真実の重要性が薄れる危険性がある。

ところで、もし、人類最高レベルの秘話なんてものがあったら知りたいだろうか?
私は、知らない方が良いと思う。そういうことは、何者か(多分、人間が生み出した形而上学的な生命体のようなものであったりするのだが)が何重ものシールドによって封印している。それを解除して対処する準備ができていない限りはね(笑)。

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2006.08.25

恋愛上手は人生の収穫少なし?

書店で、背表紙を見ただけだが「『分かりやすさ』の罠」(仲正昌樹著)という本を見た。このタイトルだけで、良い本であることがほぼ確信できた。
皆、考えなくてもすぐに分かる、心地よい話ばかり求め、そんな要望に合わせる話をする者が評判となる。人々の思考は停止し、おかしなことをおかしいと気付かないし、たやすく感情に流され、感動や熱狂を求める。
中味は全く見ていないが、そんなことを批判する本であると思う(読んでもいないのに、よくここまで書くなあ^^;)。

数日前に書いたが、アンデルセンは好きな女の子へのアプローチとして、自分の自伝を書いて彼女に送った。結果は当然、散々であった。沢山の文章で自分を理解してもらうというのは、相手に思考を要求する。しかし、恋する女は頭など使わない。そんな「分かりやすくない」方法に効果がないのは当たり前なのだ。
恋愛というものに高尚さを求めてはいけない。女性経験の乏しいアンデルセンは、恋愛というものに妙な理想を求めたのだろうか?

では、アンデルセンはどうすべきだったのか?
おそらくは、彼のライバルがさっさと彼女をモノにしたに違いない方法でいけばよかった。そんな方法はTVドラマでいくらでも見つかるが、昔のトレンディ・ドラマのあるシーンがとても「分かりやすい」。
土砂降りの夜、彼女の家の前に立ち、雨に負けない大声で「好きだ!!」と叫べば良かった。これほど分かりやすいことはない。その時の彼女の気分もあるだろうが、自伝を送るよりははるかに確率は高い。そう、こういうことは確率の問題である。100撃って1つ当たるか、100撃って10当たるかの問題でしかない。アンデルセンが100回でやっとうまくいくことを、手馴れたプレイボーイは10回以下で成し遂げる。(プレイボーイにもかなりの失敗はあることは注目しても良い)
ただ、アンデルセンは思考する人間であり、結局は豊かな人生を送ることができたのであると思う。
逆に、分かりやすい話ばかり求め、思考停止した人間が実り多き人生を得られるとは私には思えない。

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2006.08.24

医者の資質と芸術家の資質

我が敬愛する「精神身体医学の父」と呼ばれるドイツ人医師ゲオルク・グロデックが医者になったきっかけというのが面白い。
グロデックには、兄が2人いたが、医師であった父親は兄達には医者になることを禁じた。しかし、ゲオルグにだけは「医者になる気はあるか?」と尋ね、それまで家族の中で居場所がなかったゲオルグは、父が自分を認めてくれていると思って嬉しくなり、「はい、あります」と返事をしたことで医者になることになったらしい。
ではなぜ、父親がゲオルグに医者になることを薦めたのか?
それは、ゲオルグが3歳の時、姉と人形遊びをしていたのだが、人形にもう1枚服を着せようとした姉にゲオルグは強く反対した。しかし、結局、姉の案が取られることになった時、ゲオルグは「お人形さんが息が出来なくなっても知らないよ」と言った。これを見ていた父親が、ゲオルグに医者の資質を認めたのだった。
ではなぜ、このことが医者の資質であるかというと、ほとんどの人が思い違いをするだろう。「お人形さんが息ができなくなる」ことをそれほど恐れたということは、いかにも患者に気を使う医師に向いてそうな感じだが、実は、この恐れは、誰かを殺したいという願望が抑圧された反動なのである。殺したいという気持ち、そして、それを恐れるという気持ちのバランスが医者にとって必要なものらしい。

有名な絵描きというものは、ほぼ例外なく子供の時に天才の片鱗を見せていたと思う。その才能がうまく育てられた場合に絵描きへの道ができる。
ただ、その場合も、商業画家になるのが圧倒的であり、芸術画家になるには、やはり何か特別な資質が必要と思う。
岡本太郎は、「芸術家を目指すほどの人なら、自己愛と自己嫌悪が渦巻いているはず」と言ったが、この相対するもののバランスという意味で、上のグロデックの医者の資質と何か通じるものがあるように思う。いや、全く同じと思う。
グロデックの本は文学的価値も素晴らしいらしいが、良い医師はどこか芸術家であるように思えることもある。

グロデックの殺人を恐れる気持ちが仮面で、殺したいという気持ちが本性である。
そして、自己愛は自己嫌悪の反動であり、自己嫌悪が本性である。
芸術というものは、このような人間精神のせめぎ合いの中で生まれるものである。
そして、本性の部分は悪と思える場合が多いかもしれない。
大人の男による幼女や少女の殺人事件が起こることがある。一人で何人も殺した例もある。これらの事件は大人の男の歪んだ性的欲望が原因である。しかし、倒錯者が必ずしもこのような事件を起こすわけではない。殺人者は、この欲望に対する反動が心に生じない。この反動が強く生じれば葛藤が生まれる。ここに芸術が生まれる可能性がある。
実際、芸術家の中には、決して道徳的とは言えない者もいる。また、良い人に見える場合でも、後に日記などで、その内面には醜い欲望が渦巻いていたことが明らかになった場合も少なくはない。しかし、彼らはその反動である罪悪感や自己嫌悪を強く持っていたに違いない。
芸術家は内面に醜い欲望を燃やしながら、同時にそれを嫌悪、あるいは、恐れた者であると思う。

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2006.08.23

熱狂の法則

高校野球の熱狂振りがあらゆるメディアで報道されている。
まるで全国民がこれに加わっているような調子のものが多いが、実際はさほどでもないだろう。
しかし面白いのは、優勝投手が使ったのと同じ商品のタオルが売れたり、同校を何十年も前に卒業した有名タレントが「人生でベスト3に入る出来事」と発言したりは、行き過ぎと言うよりは奇妙、いや、恐ろしいことである。
人間は熱狂が好きである。なぜかというと、熱狂している者同士の連帯感が強いものに感じられ、その時に自分の位置とか立場が確定するという幻想を持つからである。
そして、これは商売や政治において大昔から利用されてきた人間の変わらぬ性質である。
熱狂の裏には必ず仕掛け人がいる。それで大儲けしたり、人々を何か(例えば戦争)に駆り立てる。
熱狂する対象は必ず、頭を全く使わなくて良いものである。考えていては熱狂できない。人々を扇動するには、頭を使わせてはいけないのである。感情に訴え、思考停止させる。
もちろん、あの決勝戦は素晴らしく、優勝投手も大変なものであるが、さほど大騒ぎするほどのものでもない。こう言うと、いろいろ文句を言いたくなる人がいるのは、熱狂仕掛け人の意図する通りのことである。戦争中に戦争の非を説く者に対して行われることと、基本的には同じである。

本当に価値ある行動をした者が帰還する時、出迎えは1人もなく、世の中に全く知られないことが圧倒的に多いのである。

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2006.08.22

芸術家はモテるか?

「芸術家はモテるか」なんてことを書きながら早々に結論を言うなら、モテることと芸術家であることは何の関係もない。
モテた芸術家で私が最初に思い出すのはゲーテだ。年を取っても恋の相手は十代の美少女と決まっているようなイメージがあるが、有名な「もっと光を!」という臨終の言葉は、死の間際でうなされていた時、ガールフレンドの美少女が温泉に入っている幻を見たのだが、暗くてその美しい裸体が見えにくかったので、「見えん!誰か明かりを!これでは暗くて見えん!もっと光を!!」と叫んだという説もある(笑)。
ゲーテは若い頃は美青年であったようだ。しかし、年を取ってからは、決して美中年、美老人ではなかった。こんなエピソードがある。ゲーテに憧れてゲーテの家を訪ねて来た青年が、念願のゲーテに逢った時、その瞳には明らかに失望の色が浮かんでいた。ゲーテは太りすぎていた。
ピカソも不自由しなかった(笑)。60過ぎても、美術学校の周辺をうろつき、画学生の少女を元気にナンパしていた。口説き文句はただ1つ。「ボク、ピカソ」
「芸術家は60歳が青春」とばかりに、63歳のピカソは、画学生であった美少女フランソワと南の島で楽しい時を過ごし、子供も2人作った。
ピカソを乗り越えたと宣言する岡本太郎も負けてはいない。パリで過ごした20代の頃は、あらゆる国の沢山の美女・美少女と付き合い、同棲もしたそうだが、写真で見ると、当時の岡本太郎は、背は低いが顔はなかなかカッコいい。岡本太郎は生涯結婚はしなかったが、青島幸男に「先生、独身は不便ではないですか?」と聞かれ、「猛烈にいいよ、キミィ」と答えている。暗に年を取ってもモテたと言っているようだ。

モテなかった例としては、アンデルセンを思い出す。24歳の時、熱烈な恋をしたが、致命的なアプローチをしている。自分の自伝を彼女に送ったのだ。全く分かっていない。どうもこの方面は全くダメなようだ。歌手やダンサーの素晴らしい女性の友人は沢山いたが、浮いた話は全くない。これはどうも、少年時代に原因があったと思える。常に虐げられ、苦しい思いをし、それでも繊細なので、17歳になっても、人形の洋服を作る遊びが好きだったようだ。彼の童話に登場するヒロインはみな美少女で、特に人魚姫は並ぶもののない美少女振りが細かく書かれている。そして、彼の作品で最大級に美をたたえられているのは、「即興詩人」に登場する「11歳より多くはない」と見られた盲目の美少女ララである。そして、このララにはモデルがあり、アンデルセンが実際にスペインで逢った、やはり11歳くらいの少女である。彼女も盲目で、貧しくボロを着ていたが、アンデルセンは「美の化身」と自伝の中で称えていた。ただ、アンデルセンは、ルイス・キャロルのように美少女と積極的に交際したという話も聞かない。

わが国で言うなら、竹久夢二はハンサムで服装もカッコよく、浮名も流している。
対して、宮沢賢治の方はサッパリであった。ガールフレンド一人いなかった。ただ、賢治は妹を溺愛していたと言われる。彼は本物の妹萌えであった。

あまり普通でない人ばかり取り上げた。また、これらはいわゆる風説の部分もあるだろうから、実際とはやや違うかもしれない。
とはいえ、もしこれらが本当だとしても、別段どうということもない。何が良くて何が悪いかなど、所詮、文化的洗脳、あるいは、幻想である。

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2006.08.21

学校美術教育こそ美術・情操教育のガン

学校で音楽や美術などの教育が無くなるなら、遺憾ながらそれは子供達にとって望ましいことと言わざるをえない。
いまや、優れた美術を学べる書籍・映像が過去から現在のものまで広く安価に世間に行き渡ってきており、何が悲しくて、押し付けられた、美術的・情操感覚的に致命的かもしれない教師に美術の偏見を植え付けられ、美意識を窒息させられる必要があろうか?仮にその教師が美術家として優れていた場合にも、かえって生涯に影響を残す独断や偏見を叩き込まれる可能性は高い。
岡本太郎さんの「今日の芸術」が長い間、絶版になっていたが、こんな良いものが美術教育で取り上げられたことも聞いたことがない。もっとも、この本でも、学校の美術教育はコテンパンに叩かれているのだが(笑)。
そして、日本の学校というものは根本的には変化したことがなく、半世紀前の岡本太郎さんの批判は現在でもピタリと当てはまる。

私も中学2年以来、ラクガキ1つしなかったが、それは真面目な生徒だったから、よけいに美術教育の影響を受けたことが原因と思う。
中学2年と書いたのは、3年生の時は、美術教師が気を利かせてか、面倒だったのかは知らないが、1年間ずっと美術の時間は自習であった。校内のどこにでも行ってスケッチする課題が与えられたが、私は今思えば無用な罪悪感に悩まされつつも1枚も描かず、級友と話したり、ケンカしたり、清純異性交遊(ちょっぴり不純^^;)で時を過ごし、それは学生時代を通じて最高の思い出となった。それは、授業時間中であるという意識が、かえって自由な感覚を強く感じさせたのが原因と思う。つまり、授業中に自発的にものを考えると言う、学校で禁止されたことを無視する機会があったことの幸運を味わったわけである。
その時間にゲーテもヘッセも読んだし、H.G.ウェルズのSFや科学の通俗本も読んだ。これらは今も生きている。
成績に関しては、課題を1枚も出していないにも関わらず、学科試験で点を取ったため、正常な成績となった。考えて見れば、自分の言いつけを守らなかった生徒にも、自尊心の満足を得るために悪い成績を付けるという復讐行為をしなかったところは良い教師であったと思う。確かに彼は芸術系学科の教師の中では、珍しく常識ある教師であったという感想はある(教師って、こんな風に生徒に評価されているものである)。
つまり、美術授業は無いのが最高であり、教師も不要であった。ルドルフ・シュタイナーは言っていたと思う。良い教師とは空気のごとしと。私の最良の教師は空気であった。

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2006.08.20

芸術と猥褻の目的の違い

芸術と猥褻の違いについて、私は以前、「ソフィスティケート(洗練)されているかいないかだ」と書いたことがある。これは、池田満寿夫さんの話を参考にしたものだ。
しかし、もっと明確にすることが可能と分かった。分かってしまえば、「芸術か猥褻か」という疑問自体が奇妙に、あるいは、馬鹿げて思えてくる。
普通は、芸術の目的と猥褻の目的は全然違うものである。芸術の目的は、確かに岡本太郎さんの言うとおり「爆発」であり、イェイツの言う通り「エクスタシ」であるのだが、その意味が一般的には分かりにくいことが問題なのである。逆に言えば、爆発やエクスタシ、あるいは、大洋感情や至高体験を理解すれば、全ての疑問は消える。
池田満寿夫さんにとっては、猥褻の目的と近いところに芸術の目的があったと思う。いや、実際はもともと近いのかもしれない。そのあたりを自然に受け入れていたところが、池田満寿夫さんの天才的なところではないかと思う。

20060820

で、猥褻でない絵を描きました(笑)。
絵をクリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

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2006.08.19

「失敗は成功のもと」の意外な意味

「失敗は成功のもと」と言う。失敗をすることで、能力不足を悟って訓練に励んだり、創意工夫の必要を感じてこれを行い、また、特に失敗の屈辱と共に身に付く経験を得て実力アップすることで成功が近付くというものである。
失敗しない限り、これらのうちの多くはなかなか出来ないし、特に身にしみるような経験は失敗によって得るしかない。
成功した人は例外なく、普通の人よりはるかに多くの失敗を経験しているはずであるし、逆に言えば、失敗せずに成功することはない。
これらのことから、挑戦を奨励する言葉として「失敗を恐れていては成功しない」という、よりアグレッスブな言葉が好まれる場合も多い。

上に書いたことは、いわば常識である。ただし、現在は、この常識が通用せず、痛い目に遭わずに成功しようとしたり、最初から挑戦をしない傾向が強いらしい。その典型がニートであるかもしれない。

ところで・・・
いかに失敗が成功のために必要とはいえ、会社の中で、いくつかの数字を電卓で足すだけの仕事で計算間違いをするような失敗が成功のもとになることはない。
ただ、こんなものにも成功のヒントがあるというのは意外な話と思う。
こういった簡単な業務を繰り返し失敗するということは、早い話が、本人はその仕事が嫌なのである。もちろん、働くこと自体が嫌といった不真面目な態度がよろしくないのは当然だが、本人としては真面目にやっているのに、そんな簡単な失敗が何度もあるなら、仕事を替えてもらうか、辞めた方が良い。できれば、上司が気を付けていて、仕事を替えてやることが可能なら一番良い。これは、会社のためであり、本人のためでもある。

学校で、忘れ物の多い子供というのはいる。教科書を忘れたり、ドリルを忘れたり、鉛筆を忘れたり・・・と、とにかくよく忘れる。こんな子は間違いなく学校嫌いである。授業が嫌いであったり、教師が嫌いであったりといろいろあるが、いずれにせよ、放っておいてはいけない。また、忘れ物をとがめるだけで、教師と親がそのことでよってたかって叱責しても百害あって一利なしなのは明らかである。
学校でものを失くす癖のある子も同様である。
これらのことは、学校では子供の怠惰やしつけの不足であるとされる。そして、間違った指導がなされ、子供はスポイルされる。これは、大人の事例として説明すれば分かりやすいと思う。新婚旅行中に、妻が結婚指輪を失くすということが起こることがある。このカップルはまもなく離婚する。これは、妻の方がそもそも結婚を不本意と思っているからで、指輪の紛失を咎めても何の意味もない。最初から結婚すべきではなかったのだ。
ある研究職の男性は、自分の結婚式の日、それをすっかり忘れ、職場の研究室に行ってしまった。後でそれに気付いたその賢明な男性は結婚をやめた。彼は幸福な一生を送った。

会社勤めの方で、やたら定期券をどこに置いたか忘れたり、社章を紛失したりという方はいないだろうか?これも会社が嫌いなことが原因で、さっさと辞めた方が良い。ある会社でそんな社員がいたが、その上司は優秀だった。彼に仕事をさせず、ぶらぶらさせたのだ。彼はたちまち恐るべき優秀さを発揮し、稀に見る人材になったが、会社は彼の独自なスタイルを認めなかったので、彼は再び定期券を失くす社員に逆戻りした。しかし彼は、良い条件で転職した。もちろん、彼に見るべきところがあることを、その上司が見抜いたのであり、ただ会社嫌いなだけでもいけないが、やはり、紛失癖等は見逃してはならない。

以上は、フロイト心理学を基にしている。信じるも信じないも自由だが、私は失敗癖や紛失癖を無意識に利用したため、およそ何をやってもうまくいった。
興味があれば、フロイトの「精神分析学入門」を読めば、最初のあたりにこれらの説明があるが、クロデック(フロイトにエスの概念を与えたドイツの医師。心身医学の父と呼ばれる)の「エスの本」を同時に学べば更に面白いと思う。クロデックによると、失敗したり忘れたり失くしたりは、間違いなくエスの仕業である。

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2006.08.18

纏わりつく幻想の鎖

人は自分の幻想に気付くことはない。よって、幻想から逃れることはできない。
そして、一生、幻想に苦しめられる。
ジャガイモを毎日食べないといけないと脅迫的に思っていたり、中年になっている女性が10代の美少年こそ自分の理想のタイプと思ったりも幻想であるのだが、自分ではどうにもならない。
自分が非常に良い、尊い、好きと思うもの、それらの全ては幻想である。「幻想であるかもしれない」ではなく、100パーセント幻想である。
例えば、ロリコンなら「私は10代前半の少女が、美しくて良いものだという幻想を持っている」と思えば良い。まあ、実際に付きあってみたら、すぐに幻想から覚めることはほぼ保証できるが・・・(笑)。
これが、長年培ってきた信念のようなものの場合は厄介である。それもまた間違いなく幻想であるのだが、せめて、それでトラブルのないお金が入ってくるか、あるいは、人間関係のいざこざが生じないかで評価し直せば、少しは生き易くなるのだと思う。

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2006.08.17

死を免れた体験の作用

あわや死に掛けたという体験を持つと豪胆になるとか、心が澄んでくるかというと、そんなことはないと思う。私は少なくとも数度、死んで当たり前の状況を切り抜けたことがある。
ただ、死なずに済んだのは幸運だと思うことには意義がある。マスローの「至高体験」とは、根本的には自分を幸運だと思うことであり、これによって人生が豊かになることは相当確かなものらしい。まあ、これに関して言えば、別に死を免れる幸運でなくても良いが、幸運の最たるものは、やはり死を逃れることと思う。
死を免れた体験はなくても、自分が幸運だった時のことを思い出すと良い。自然に至高体験に導かれるものらしい。至高体験は、芸術の世界で大洋感情と呼ばれるものと同じと思われるが、没我的で宇宙との一体感を感じるものである。岡本太郎の爆発も同じものと思う。
それは、生きる上での確実な力になると思う。

20060816

今日も絵を描きました。
私の好きな画家に栗原一郎さんがいます。そこで、栗原さんの裸婦画「よこたわる」を参考に描いていましたが、模写をすぐに諦め、全く自分の描き方で描きました。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2006.08.16

なぜ愛を神に誓うか?

結婚式に行かれたことがあるだろうか?
いや、結婚式をやったことのある人も少なくはあるまい。それも2度、3度・・・^^;
結婚式のスタイルもいろいろであるが、クリスチャンでもないのに教会であげるおかしなカップルも増えている。あるいは、神式であるのに指輪を交換したりとか、もう何でもありである(笑)。
ところで、その主流となっている教会の結婚式では、神父さんが「神とのとりなし」を勤める。よって、神父さんの「仙道椛子さん、あなたはこの男を愛し、病めるときも健やかなる時も・・・(省略)・・・誓うか?」の質問に「はい」と答えるのは、神様に対しての答えである。
まあ、罰則はないようなので、神様相手の誓いも平気で破られるし、そのような時は「あたしクリスチャンじゃないわ」というのは強いというか、そんな誓いなど思い出しもしないというのが本当のところである(笑)。

ところで、これは岸田秀先生の本を読んで初めて気付いたのだが、この「結婚の誓い」というのは、なんとも奇妙なものである。
「愛し、尊敬し、いたわり」というのを、なぜ神に誓うのか?
それは、相手に直接誓われても信じられないからなのである。それがクリスチャンというものなのだ。
キリスト教2千年の歴史で、西洋人は神を中継したことしか信じないことを叩き込まれている。裁判で「真実を語ることをこの聖書に誓え」とか言われる。「いや、俺は聖書じゃなく、裁判長、アンタに誓うよ」では信じてもらえないのだ。
クリスチャンは、復讐ですら神に誓うのである。

では、日本人はどうか?
残念ながら、クリスチャンと50歩100歩だ。
日本人は「世間に誓う」のである。結婚式では、暗黙のうちに、出席者に対し、夫婦で力を合わせて立派な家庭を作ることを誓うのである。
よって、離婚して出戻ってきた女に対し「世間に顔向けできない」とか言うのである。
西洋では、離婚は女にとってもさして不名誉でもなく、堂々としている。もしとがめるなら、それはあくまで「神の名において」であるが、昨今では神様の権威も落ちているので、さらに離婚しやすくなっているわけである。

結婚式も結婚の誓いも、実は全く不要であることが分かる。そんなものがあるから、かえって人は外面や形式ばかりにとらわれ、真に重要なことをなおざりにする。しかし、こんなことを説いていたら、冠婚葬祭会社に殺される(笑)。葬式だって100害あって1利なしである。
また、キリスト教圏の新興宗教なども、神がゼウスやイエスから別のものに変わるだけで、本質的に違いはない。ミラクルな進化を標榜するサイエントロジーだって同じだ。トム・クルーズは結婚相手が自分と同じサイエントロジーの信者になることを強制する。これはつまり、相手を直接愛しているのではなく、「何か」を経由しないと愛せない、キリスト教2千年の悲しい習性である。

だが、私には分かっている。石のような2千年の眠りが、揺れるゆりかごによって悪夢をもたらしたことを
~「再来 W.B.イェイツ」より~

2千年の眠りとは、言うまでもなく、2千年に渡るキリスト教支配のことである。

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2006.08.15

美術教育による異常な結果

大学生の中にすら、分数計算のような算数や平易な漢字の読み書きができず、小学理科レベルの基礎的な科学知識を持たない学生が増えているという。それも、数パーセントとかではなく、何割とかいう数らしい。
これは、学校教育が全く無能で機能を果たしていないという証拠で、既に公教育は優秀な学習塾に全く及ばないことが常識になっている。
では美術教育などはどうか?これはもっとひどいと考えて間違いがない。算数や国語ならまだ解がある。しかし、学校における美術の解とは、教師の胸先三寸である。公平な解があってすらダメな学校教師である。美術教育は子供達を教師の独断と偏見に屈服させるために行うようなものである。個人的には、音楽教師や美術教師というのは特に変人奇人ばかりしか見なかった。
美術教育の成果は既に出ている。他のことでは優秀な若者に、「絵を描きますか?」と聞いてみると良い。彼は思わず苦笑して「いえ、僕は絵は全然ダメなんですよ」と言うだろう。上手い下手が問題なのではない。絵を描くことに恐ろしいまでの抵抗を持っている。異常な教育成果である。

20060814

授業中に漫画を描く少女です。世の中、自分勝手はいけませんが、彼女を咎めることのできないような授業をする教師も少なくはないですね(苦笑)。
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2006.08.14

消しゴムは使わない方が良いか?

デッサンの際、消しゴムで消してはいけないという話を時々聞く。
それを、専門家が言うときはタチが悪い。彼らは、自分の専門が世界の全てなので、どんな場合も消してはいけないと言う傾向がある。
消してはいけないと言うのは、間違いなく職人画家である。例えば、イラストレーターやアニメーターである。彼らのトップレベルは恐ろしく絵が上手い。また、彼らの絵はスピードが命だ。消して修正している暇はない。
ところで、面白い話だが、工学機器の世界トップメーカーである三鷹光器では、入社試験にデッサンをやらせたことがあるという。上手い下手を見るためのものではなく、描き方によって人間性を見るためのものらしい。そして、消しゴムで消す者は発明家向きでないらしい。ただ、三鷹光器会長の中村義一氏によると、消すのではなく、描き直す人が良いらしい。何度も消して完成させるのは強引な性格であり、謙虚さに欠けるらしい。
職人画家と共に、発明家を目指すなら消しゴムは使わない方が良いらしい。

ところで、芸術家であれば、この程度のことをとやかく言うとは思えない。まあ、よほどタチの悪い芸術家は別である(笑)。
池田満寿夫は、「大胆に消せ」と言うし、自らも「消すのが好き」という。消し残した線が面白い効果を発揮することがあるという。さすが池田満寿夫と思う。

岡本太郎も言っているが、上手い絵描きに絵を教わってはだめだと思う。
たとえばゴルフを考えよう。プロがやっている、大きく後ろに振りかざすスイングは素人向きでない。あれだけ振りかざして正確にボールに当てるには相当な練習が必要で、素人がやってる暇はない。素人には、素人の打ち方があるが、誰も教えない。
絵も同じだ。学生時代から何百枚のデッサンをやった先生に素人がかなうはずもないし、同じレベルには決してならない。そして、そんな描き方をやる必要は全くないのである。素人の絵で大事なのは、描いていて楽しいかどうかだ。職人画家や美大の先生でも目指すのでない限り、専門家に絵を習うことは弊害が多いと思う。
池田満寿夫さんなどは、3回も芸大受験に失敗し、街の似顔絵描きをしていた時も、芸大の学生とバッティングした時は、かなわないからコソコソ逃げていたという。そして、街の似顔絵描き達から、下手すぎるので「俺たちの評判を落とすな」と言われたくらいである。絵の価値というのは、全く多面的であることが分かる。ちょっと評判の先生が何を言っても、傲慢さが見られる限り無視した方が害が少ないと思う。

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2006.08.13

日本の人魚

小川未明さんの「赤い蝋燭と人魚」を読んだ。
酒井駒子さんが素晴らしいカラーの挿絵を描いている。いわさきちひろさんが絵を描いたものもあるはずだ。私は、いわさきさんのはまだ見ていないが、いずれ見たいと思う。いわさきさんでは、アンデルセンの方の人魚姫の絵本のいくつかの絵は最高に好きなものである。
さて、「赤い蝋燭と人魚」のお話だが、泣けるといえば泣けるのであるが、そんな言葉ではあまりにズレていると思う。
アンデルセンの人魚姫は、アンデルセン自身の投影であると言われる。では、小川未明さんのはというと、戦後の苦しい世の中で、多くの悲しいものを見た経験が現れているように思える。アンデルセンの人魚姫は、自分の意思で人間の世界に入ったが、小川未明の人魚は母親の意思で人間の世界に入ったのであり、自分の意思ではない。ここらあたりにも、2つのお話の違いはある。しかし、この2つの作品に優劣が付けられるはずもないと思う。

20060812

「赤い蝋燭と人魚」を読んで思わずラクガキしました。
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2006.08.12

幸福が約束される条件

死んだら、自分のお葬式に来た人に何を言ってもらいたいか?
自分で聞けないものに興味がないという人もいるだろうし、そもそも私などはお葬式に誰か来てくれるのだろうかと思う(^^;
ただ、言って欲しくないものなら、タレントのお葬式でのパフォーマンスとしての弔辞や、子供が亡くなった時の同級生の優等生による、いかにも大人に言わされたような感じのものだ。まあ、私の場合、両方ないとは思うが(笑)。

1つ印象に残った告別式の挨拶がある。
プロレスのジャイアント馬場さんの時のだ。日本武道館のファン葬のだか、東京ドームの引退記念興行(馬場さんの死後に開催)か、あるいはその他かは分からないが、馬場さんの最大のライバルであり親友であったブルーノ・サンマルチノが「君は身体だけでなく、心もジャイアントだった」と言ったらしい。これは、人間に対する最大の褒め言葉と思う。

人間、心が大きければ幸福は9割方約束されると思う。
しかし、問題がある。人間は、根本的に大きな心を持つことは無理があるようにできている。そもそも、「心が大きい」とはどういうことか?小さな利得にこだわらないとか、寛容とか思いつくであろうが、結局のところ、「他人を気に食わなく思わない」ことなのである。「この人間は気に入っているが、あの人間はこういう訳があって気に食わない」ではダメである。
そして、人間は多くの他人は気に食わなく思って当たり前であるし、日本ではその傾向は近年ますます大きくなっている。その訳は、甘やかされて育つからである。実に、甘やかされてきた者ほど、他人を気に食わなく感じるはずだ。
これらのことは、別に私の思い込みではなく、フロイト心理学の初歩である。
人間というのは、幼児期に自己を神様のように全能とみなし、自分が世界で最も重要であると思っている。普通は、しつけや生活経験などから、その思い込みを修正するものであるが、甘やかされすぎたり、何かの問題から逃避し続けると、この幼児的な全能感を強く持ち続ける。例えば、混んだ道で携帯電話の画面を見ながら歩いている者は間違いなくそうなのである。自分は世界で最も重要なので、何をしても許されると確信しているわけだ。当然、猥褻行為、レイプ、歩き煙草なども、やっている本人は全く悪いとは思っていない。特に、宗教教祖や学校教師による信者の女性や女生徒への猥褻行為やレイプには極端にそれが表れているのは、犯罪者のその後の弁を見れば明らかである。どんな弁明も、つまるところ「神に匹敵する俺が気持ちいいのだから問題はないはずだ。ただ、ちょっと、タイミングが悪かったのかな」としか言っていないのである。
そして、自分の重要性を認めず、自分のわがまま勝手な振る舞いを当然のこととして認めない他人は、無礼を働いた者に対する王様以上の怒りを持つのである。
このような幼児性全能感を持つ者の心が広く大きくなることはありえず、一生、自分の心に苦しめられて生きるのである。若いうちはまだいいが、そのまま年を取ると、それは見事に顔つきに表れる。いや、最近は10代でもありありとしている者が多い。気の毒である。

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2006.08.11

人の心は本当に謎か?

中村あゆみさんの「キライになれない」という歌の最後の部分の詩は「いつでも自分のこと、一番の謎」である。
自分のことが謎なのではなく、人間の心が謎なのである。他人のことなら分かるような気がしても、それは思い込みである。
ところで、いまだ人の心が謎であることが肯定されるというのはおかしなことである。

ジクムント・フロイトは人間の心を、少なくともほぼ8割方解明していたと思う。もちろん、フロイトにも偏見はあったが、同時代の人々と比べればおそろしく少ないと思う。
アインシュタインは、同時代で最も賢い人はフロイトと思っていた。だから、国連から依頼された「人類にとって最も重要な問題の討論」の相手としてフロイトを選んだ。別にアインシュタインが選んだことが価値があるのではなく、アインシュタインが提起した問題「どうすれば戦争をなくすことができるか?」についてのフロイトの回答を見れば、フロイトが人間を根本的に理解していることがわかる。
8歳児並の幼児思考に留まった者なら、「戦争反対を叫び続ければいいんだ」とか、ジョン・レノンが歌で言ったように「平和な世界をイメージすればいい」とか言うのだろうが、もちろん、こんなものはアリに飛行機を引っ張らせる程に非現実的である。
フロイトの答えは、結論として「それは不可能」であった。そして彼は深い人間心理の理解に基づき、戦争をなくす可能性を持つ案をいくつか示した。その可能性はかなり低くはあり、根気も必要なものであったが、先に上げた妄想論者の主張に比べて100万倍の現実性があった。

ごく個人的な意見として、自分の論は全てフロイトと同じと言いながらも、岸田秀氏は一般に見られる人間の精神活動の範囲においては、100パーセント・パーフェクトに人間心理を理解していると思う。彼が数多くの書籍で行った精神分析の応用は全く矛盾がない。
ただ、彼の精神分析は全く救いがない(笑)。
しかし、このような救いのない本がこれだけ読まれるのであるから、間違いなく本物である。本というのは、妄想の希望を持たせることなしに売れるものではない。岸田氏も、ここらで偽善者になり、「唯幻論的成功法」なんて本を書いたらさぞ売れると思うのだが(笑)。

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2006.08.10

13歳のハローワークサイトを見る

13歳のハローワーク公式サイトを見た。
なんと、私の職業であるSE(システムエンジニア)がない。プログラマもない。占い師やシャーマンならあるのに(笑)。
テクノロジ立国日本にとって、ゆゆしきことである。

ところで、このサイトでは、仕事を「好きで探す」というのもある。
「文章が好き」「メカ・工作が好き」とかいう、まともなものもあるが、「何もしない・寝ているのが好き」とか「エッチなことが好き」とかいうのもある(笑)。
ちょっと、「エッチなことが好き」というのを見てみた(^^;
誰でも大なり小なりエッチだろうが、非常にものすごくエッチなことが好きという子は、家でのコミュニケーションがうまくいかなくて心が傷ついているという場合が多いとある。
そして、結論として、このような子は他の者にはない大きな可能性があるとする。もちろん、その大きなエネルギーを何か創造的な方向に集中できればということであろう。
割によく見るニュースと思うが、下着泥棒が捕まって、犯人の住居の家宅捜査をすると信じがたいほどの数の女性用下着が出てきたというのがある。危険を冒し、それだけ集めるエネルギー自体は凄いものであり、何かもっと有益なことに集中していれば、そこそこ成果を上げたかもしれないのにと思う(何を有益とするかは難しい問題だが)。
異常なほどエッチなことが好きというのは芸術家に向いているかもしれないと思う。このサイトでもそれは可能性としては肯定されていた。
エッチさ加減の足りない私はコンピュータソフト開発者になったわけである(笑)。
尚、逆も真なりで、芸術家はみんなエッチかというと、それは何とも言えない。また、あくまで、芸術家の中でも画家であれば、自分の好きなものを描く芸術画家のことで、依頼主の意向に沿って描く職人画家は少し違うと思う。
ところで、芸術家が食べていけるということは滅多にあることではなく、それを職業というのは無理があると思う。仮に大きなエッチさを武器に芸術家になれたとしてもお金には縁がないと覚悟すべきではあろう。
ある有名なミュージシャンが言ってたことを思い出す。「ミュージシャンっていうのは、街角でハーモニカを吹いていれば満足というやつでないとダメなんだ」

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2006.08.09

Japanese girl

和な乙女を描いてみました。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花・・・でしたっけ?
今の時期(8月)に咲いているのは百合の花ですね。
ところで、漢方では、婦人科系の病気の処方として、長く立っていられるなら芍薬を、すぐに座りたがるなら牡丹を配合すると良いということで、ひょっとしたら美人を表現する言葉ではなかったのかもしれません。

和乙女

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2006.08.08

理想の自分

何かのテレビCMで、
「大切なのは理想の自分をイメージすること」
と言っているものがある。
私には、こんなことを言うのは馬鹿か詐欺師としか思えない。
理想の自分なんてものが存在するだろうか?
昔の流行歌で、電気もない村に育った若者が、東京行きを決意する歌があった。彼は宣言する。
「東京に出たら、銀座でベコ(牛)飼うだ」
彼にとっては、それがどんなところか知らないが、銀座で牛を飼っている姿が自分の理想である。
そんなものなのである。
では、一般の人は「理想の自分」といったら何をイメージするだろうか?
スーパーモデルのようなナイス・バディになった自分。ポルシャに乗った自分。3億円の邸宅に住む自分。
そんなのは、動物的欲望に過ぎない。その動物的欲望を利用して金儲けをする連中は後を絶たず、上記のテレビCMは、カモの量産に一役買っている訳である。

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2006.08.07

ローレライ伝説の非日常性

夢の中でだが、深夜なのに太陽が輝いていたことがある。ただ、その光が昼間のものとは微妙に違い、とても神秘的だった。
非日常的なことが起こり、状況認識はできないが特に緊張を感じない時、人は荘厳な気分になる。なぜなら、非日常的な出来事を受け入れるからだ。
例えば、船で河を渡っている時、河に沿った岩の上に美少女が現れ、髪をときながら歌を歌うと言うのは大変に非日常的だが、誰も緊張しないし、それが夕刻で、夕陽に山々が赤く染まっていれば、ちょっと神秘に酔ってしまう。
すると、船の操作を誤って岩にぶつけて沈没することもあるかもしれない。
伝説には、ある程度の信憑性が必要だが、ローレライ伝説はそれを満たしているように思う。
20060805

ローレライを描こうとしましたが、頭の中では、島谷ひとみさんの「亜麻色の髪の乙女」がぐるぐる回っていました(笑)。
ロレーライの岩って、ゴツゴツして、およそ麗しの乙女には似合わないそうではあります。

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2006.08.06

伝説の力

伝説というものが青年に与える影響は大きいと、この数日、つくづく思わされた。

テレビで総合格闘技の大会であるHERO'Sを、桜庭選手が出るというので久々に見ていた。
そして、桜庭選手が格闘技を目指したきっかけがアニメの「タイガーマスク」であることが何度も紹介される。
では「タイガーマスク」が真面目に目標とすべきものかというと、それは絶対にない(笑)。梶原一騎氏原作のこのアニメは、一世を風靡した「巨人の星」同様、少しでも冷静に考えればなんとも馬鹿げたものである。
しかし、子供騙しと言えばそれまでだが、子供の心にパッション(熱情)を与え、それが強い力になることはある。
かつて「格闘王」と呼ばれ、いまだ心棒者の多い前田日明が格闘技を目指したきっかけは、1つが「紅三四郎」というアニメだ。これは、柔道家の父を倒した武道家を倒すため、世界中を探してあらゆる格闘家と戦う紅三四郎という少年(?)の物語で、毎回違う美少女が登場するという、タツノコプロには是非とも「マッハGo Go Go」のようにリニューアル作成をお願いしたいものだ(笑)。前田日明も、紅三四郎のカッコ良さと同時に、これらの美少女にモテる三四郎に憧れたに違いない(笑)。
そして、前田日明を本気にさせたのは、初代ウルトラマン最終回で、ウルトラマンがゼットンという怪獣に倒されたことだった。前田さんは泣きながら「俺が仇をとってやる」と誓ったらしい。冷静に考えるといくらおかしくても、それが前田日明に意欲や情熱を与えたことは間違いない。

池田満寿夫さんが高校生の時に憧れた画家がモディリアーニで、池田さんは、別にモディリアーニを知らなくても画家になったと言うが、それでもモディリアーニが池田さんに強いエネルギーをもたらしたのは確かなのだ。しかも、池田さんは、モディリアーニの作り話の三文小説で「燃えさせられた」のである。
横尾忠則さんも、少年の頃の憧れというものは大変に重要と言い、自分の芸術の起源がターザンや、中学生の頃に読んだ冒険小説であることを明かしている。

「レイアース」という、3話からなるアニメで、地球にただ3人残された女子中学生達は、異世界の魔法使い達から地球を守るため、魔神の力を使って戦うも、神に匹敵する力を持つ、敵の魔神に歯が立たない。しかし、ついに地球の守り神とも言える魔神レイアースが降臨し、これと合体して、敵のワイバームの魔神に挑む。その時、ヒロインの光が言った。「伝説の力」と。

子供の頃大切にしていた伝説を思い起こし、疑いのない情熱を傾けることが、魔法に匹敵する力を発揮する秘訣であることは間違いがない。
エンスージアズム(情熱)の重要さを語る者は掃いて捨てるほどいる。しかし、それは何の役にも立たない。私が書いた秘訣を加えなければ。

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2006.08.05

芸術家に相応しい年の取り方

我々は、現在の職業を何歳まで続けることができるだろうか?
スポーツ選手は体力や反射神経が必要であり、これらが衰えると引退を余儀なくなれる。
医学や科学の進歩もあり、選手寿命が延びる傾向はあるように見えるが、それでも、一流の場合でも野球選手なら40代半ば迄、より運動量の多いサッカー選手は30代半ばあたりが限界のようだ。
音楽演奏家や歌手は、多少体力が衰えてもスポーツ選手ほどは致命的ではなく、高齢になるまで続ける人もいるが、やはり年を取ると実力は衰える。また、特に女性歌手の場合は容姿が人気に影響する場合が多いが、これもまた年齢と共に衰えるのはやむを得ない。47歳のマドンナが、全く年齢の不安を感じさせず人気も衰えないのは凄いが、いくらなんでも、後十年も続くことはない(続いたりして・・・^^;)。
芸術家はどうだろうか?
彫刻家としても抜群の才能と創作意欲もあった画家のモディリアーニが、体力を理由にやむなく彫刻を断念し絵画に集中したように、彫刻家は体力も必要らしい。ただ、健康なら、ある程度高齢でも創作を続ける作家はいる。
詩人は体力は必要としないので、かなり高齢でも才能次第でやれそうな気もするが、実は詩は(分野にもよるのだろうが)若くないとダメなものらしい。35歳を過ぎても叙情的な詩を創作したW.B.イェイツなどは例外中の例外と言われる。そこにいくと、小説家は高齢な人気作家も多いように思う。
科学者はどうか?
昔であれば、科学者といえば白髪のおじいさんというイメージがあったかもしれないが、創造的な仕事は若い人のものであると思う。かのアルベルト・アインシュタインも天才であったのは42歳頃までであったという。数学の分野では20代も最初の頃が勝負と聞く。

さて、いよいよ画家である。
ピカソが80歳をとおに超えても、創作意欲は全く衰えず、作品を量産し続けたことは有名だが、これほど極端な例でなくても、高齢でもすぐれた画家は珍しくは無い。
しかし、若い頃の作品は素晴らしかったのに、年齢と共にダメになった有名な画家もいる。
逆に、高齢になってから作品が良くなったという話はあまり聞かない。
岡本太郎は「年齢はまったく関係がない」と言ったが、根本的にはやはり若い方が有利な部分が多いに違いない。また、いわゆる精密な腕前を要求される分野では特に若い作家が有利であろうし、そのような分野でなくても、横尾忠則さんが体力の重要さをご自分のWebサイトで切々と書いておられたのを見たことがある。
画家と年齢といえば思い出すのは、中年になってから絵を始めたゴーギャンやアンリ・ルソーのことである。近代の芸術では、正規の美術教育が必ずしも必要がないことを示す良い例であるが、さらに竹久夢二となると、有名になってから美術学校に入ろうとしたが、大家の画家に「きみの絵は美術学校で学ぶとダメになる」と言われてやめたという話すらある。私個人も、エリートコースを来た画家の絵には興味はない。特に今後は、「絵しかできない」画家はダメと思う。
75歳で本格的に絵を始め、80歳で世に知られ、生涯に1600点の絵を描き、100歳でも素晴らしい作品を残した米国のグランマ・モーゼス(モーゼスおばあさん)がいる。技術的には大したことはないらしいが、誰が見ても心を打たれる絵である。それも、12歳で奉公に出されて親の家を離れ、農婦または農夫の妻として自然の中で何十年も懸命に働き、沢山の子供を育て、村の人達と親密な交際をし、ジャム作りや刺繍に励んだことが画家としての土台になっているに違いない。
美大(あるいは美大大学院)を出て画家に師事し、国内のなんとか展で入選し・・・なんて、個人的には気色悪い(笑)。
今後は、特にビジネスマンや研究開発職で大活躍して、社会や人間の真の性質を身体で感じてきたような芸術家の作品でないと受け入れられないように思う。芸術家よ、セールスマンになれ、会社を経営しろ、モノを作れ、そして、自分の人間としての非力さを骨の髄まで感じ、謙虚になってから芸術に挑め。

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2006.08.04

池田満寿夫

池田満寿夫はお好きだろうか?
私は、彼の作品そのものはいまひとつ分からないのだが、彼の著書を読むうちに彼そのもののファンになった。実はこれと全く同じことを池田満寿夫に手紙で書いた女子高生がいて、「アトリエに見学に行っていいですか?」と書かれていたらしいが、池田は返事を出さなかったらしい。理由は「恥ずかしかった」からとか。
池田は、芥川賞作家でもあるのだから、文章は面白くて当然ともいえるが、意図的に面白く書いているようにも思えない。ただ、あまりに正直で飾らずに自分のことを書くことが、時には誤解を受けて当然に思えるほどでありながら、その無防備振りがなんとも爽快である。
池田は、高校生の頃はパリに憧れたらしい。しかしそれは、毎日サンマと大根降ろしを食わされていれば・・・といった意味もあり、多分に幻想的な憧れであるが、現在、パリの人々よりいいものを食っている日本の少年少女がパリやフィレンチェに憧れるのも幻想であろう。この情報化・異文化交流で世界が均質化している時代に、ことさら外国に憧れることの愚かさは1950年代にすでに岡本太郎が言っている。しかし、池田の家があった町には、ろくに書店もなかったのだった。
池田はモディリアーニを好きだというが、それは高校生の時に読んだ、モディリアーニを素材とした、伝記風の三文小説を読んだせいと告白する。本人も書いている通り、誤解や思い込みによって作られた憧れではあるが、いかにも人間らしいことで微笑ましくもある。

池田満寿夫も美術教本を書いている。
偉い画家になってくると、単に自己満足で絵の描き方をいかめしく断定的に語る「先生」が多い中で、池田は「こういう風に描かないといけないといったものは絶対にない」と断言する。自分のやり方は惜しみなく公開するが、真似しても仕方が無いよと釘を刺す。
池田は、別の本でも「描くより消す方が好きだ」と書いている。そして、消すときは大胆に消せと言う。
また、見本デッサンでは、モデルを前に「どうしても似てこない」と言い、途中で似せるのを諦めたとする。「これほどの大画家でも?」と可笑しくなるが、彼が写実に描こうとするのとは違う表現意欲を持っていることに楽に気付くことができ、そこから必要なことを学べる。彼は何かを推奨することはあっても、何も禁止しない。推奨しても、必ずしもそれが良いとは言わない。
そして、不思議なことであるが、読んでいるうちに、自分も描こうという勇気が出てくるし、自分も描いても良いのだという自信が出る。岡本太郎の本もそんなところがあるが、池田のはもっと強力に思う。
ほとんどの人が、小中学校の美術教育で、絵を描くことへの致命的な抵抗を植えつけられるのとは偉い違いである。
学校の美術教育で絵を描く意欲をすっかり殺がれてしまった方も、池田満寿夫の本を読めば、絵や絵の描き方に対する考え方も変わり、また描こうという気になるかもしれない。

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2006.08.03

超能力

今でも多少そうかもしれないが、1980年代以前は、多くの人が超能力というものに対し、大きなロマンや憧れを持ったものだと思う。
「幻魔大戦」(平井和正、石森章太郎)や「バビル2世」(横山光輝)といった漫画・アニメが大ヒットした他、実に多くの超能力・神秘力を扱った漫画、アニメ、SF小説、映画が作られ、ことごとに評判だったと思う。そして、ユリ・ゲラーが来日し、当時はゲラーが本物の超能力者であるように扱われ、超能力を科学的に肯定するような書籍、雑誌などの文書が溢れた。

ただ、世界的に言っても、これらは必然という部分もある。
そもそもが、超能力者のルーツはイエス・キリストであり、新約聖書に書かれたイエスが起こした奇跡の数々は、クリスチャンであれば史実として受け入れているはずだし、さらにイエスは「私が行ったのと同じこと、いや、もっと大きな業をあなた方も行えるのだ」と宣言してあるのだ。
これはもう、超能力を信じるなという方が無理である(笑)。

長い間、超能力を肯定する証拠として扱われたのは、1930年代のデューク大学におけるライン教授の超能力実験だ。いや、今現在ですら、これをもって超能力が実在すると言う者すらいる。
ライン教授の実験結果に不正があったとか言う話をしなくても、その実験は誰にでも出来る簡単なものであるのに、そんな古い実験結果を持ち出すこと自体、超能力が存在しない理由になることは、ちょっと知性のある者には明らかである。つまり、その後、厳格な実験をやったら、さっぱり再現性は見られなかったということだ。

SF小説として古いものでは、「宇宙戦争」で再び有名になった英国のSF作家H.G.ウェルズの「奇跡を起こせる男」というものがある。そこに登場する超能力者はイエス以上で、望んだことが即座に実現する。なんとも壮大な超能力者を登場させてはいるが、この小説はウェルズの深い知性により、実に素晴らしい作品になっている。この超能力者は、地球の回転すら簡単に止める力があったが、最後に望んだことは、その力の放棄であった。つまり、超能力を肯定するとかしないとかのレベルのお話ではなく、イエスや神のような奇跡の力は人には似合わないことを改めて示したのかもしれない。

ところで、時が経ち、現代に近付く中で、人々の超能力の関心は変わってきているのではないかと思う。
かつてであれば、超能力は大きな武器であり、その力で宇宙からの侵略者と戦ったり、この世の巨大な悪を懲らしめるとか、あるいは、その力のみで豪華な生活をしようというおかしな夢を見たものだと思う。
しかし、ある時期から、どうも超能力というやつは、さほどのパワーがあるわけではないが、それが使えたら他人に自慢できるし、何の取り得もない者が、(気分的に)他人と対等に立てるとかといった希望に変わってきたように思う。これは、ミスター・マリックのような、奇術的パフォーマンスの影響があるのではと思う。マリック自体は、自分を超能力者と言ったことはないと聞くが、そう誤解されても仕方がないようなことは絶対に数多く言っているはずだ。

大槻教授などは、教育的信念から、超能力否定に精力的に取り組んでいるようだ。その信念自体は素晴らしいものであると思うが、もっと配慮を持って行うべきと思う。いかにいかがわしい超能力者であっても、対等にけなし合っていれば、どっちが上とも言えないのである。相手が誰であれ、傲慢な態度は驕りであるという教訓を我々も学べたと思う。

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2006.08.02

ピカソ論

ピカソ論といえば、私は2つしか読んだことがない。
岡本太郎の「青春ピカソ」(新潮社)と池田満寿夫の「私のピカソ、私のゴッホ」(中央公論社)の第1部である「私のピカソ」だ(第3部は「私のモディリアーニ」が収録されている)。
岡本太郎はピカソと面識があり、割に気楽にピカソ邸を訪問できる間柄でもあり、よりピカソの実像に迫れたと思う。ピカソ論としてはあまり分からなかったが、岡本太郎の目を通したものとはいえ、ここまで直にピカソを生で捉えたピカソ論はそうないと思う。
一方、池田満寿夫はピカソに実際に逢ったことはない。そして、池田満寿夫自身が、それを書いた時点で、自分にはピカソが分かっているとは言えないと書いている。しかし、読んでみると、とてもそうは思えず、芥川賞作家の文章の力量もあろうが、実に情熱的で素晴らしいピカソ論で大変に面白かった。いや、岡本太郎の方も全く同じことが言える。
しかし、面白くはあったが、私には両方とも、そのはっきりとした意味はさっぱり分からない。
池田満寿夫の方で面白かったのは、岡本太郎について触れる時、「背の低い男」といった言い方をして、決して岡本太郎とは書かないことだ。しかし、岡本太郎のことであることは、少し岡本太郎の本を読んだことのある人なら分かる。だって、「ピカソをすでに乗り越えた」と宣言した背の低い男と言ったら、どう考えても他にはいない(笑)。
いったい池田満寿夫がなぜこんな書き方をしたかとなると、実際のところは分かるはずがないが、少なくとも私には岡本太郎への親しみは感じにくかったが、やはり実際のところは分からない。

ところで、池田満寿夫がピカソの「ゲルニカ」そのものと思ったのは、彼がテレビで見た、ベトナムで数多く発生したシャム双生児の死体のホルマリン漬けの遺体だったらしい。
シャム双生児といえば、最近では、10月に結婚する予定らしいクエン・ドクさんとその兄のベトさん、以前はベトちゃん、ドクちゃんと呼ばれた双子兄弟が世界的に有名であるが、多くのシャム双生児はすぐに亡くなる場合が多いらしい。その死体のホルマリン漬けであるが、池田満寿夫が心の底から恐怖したと言うように、まさにゲルニカを現実にしてしまったものと感じたようだ。
池田満寿夫は書いていた。「想像上のものなら、どんなものでも耐えられる。しかし、現実はそうではない」と。

尚、ピカソ自身が言っていることでもあるのだが、岡本太郎も池田満寿夫も、ピカソの絵が呪術的であることは、二人とも全面的に認めていると思う。
ただ、「絵は武器なのだ」と言ったピカソの言葉の解釈は二人は微妙に異なるように思う。
池田満寿夫は、ピカソは絵を力ある呪符のようにみなしていると書いている。これでもって、悪霊と戦う必要がピカソにはあったのかもしれないと。
岡本太郎は、優れた芸術そのものが呪術であると言っている。それは魂に突き刺さる強烈なメッセージである。
ところで、ピカソに関して日本の芸術家で欠かすわけにはいかないのは横尾忠則と思うが、横尾忠則の本はある程度読んだつもりだが、彼がピカソについてあまりしっかりと書いてあるのを見たことがない。しかし、彼は、ピカソの絵を見て、デザイナーから画家に転向したのであるから、その思い込みもさぞやと思うのであるが・・・。
ところで、横尾忠則は、岡本太郎について、「あまり芸術が呪術的であると言わない方が良いのに」と書いていたように思う。その本意は私には分からないが、どうも岡本太郎は若い(?)芸術家に好かれていないのかと疑ってしまう(これは冗談だが)。ただ、岡本太郎の「認めさせてたまるか」という反骨精神は、大芸術家相手にも有効なものらしいと感じる。

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2006.08.01

ロボット3原則

今後、ロボットの用途が広がり、一般の人もロボットを使う機会ができるに違いない。
ロボットがより賢く強力になるにつれ、これの危険防止対策も必要だ。
映画でも、「A.I」や「アイ・ロボット」などの作品で、このあたりの問題をネタにしており、真面目に考えないとひどい目に遭うぞと脅しているが、必ずしも冗談ではない。
この問題の回避策としていまだ有名なのは、SF作家アイザック・アシモフ(1920-1992)が考えた「ロボット3原則」と思う。
これは、簡単に言うと、

1.ロボットは人間に危害を加えてはならない。
2.ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。
3.ロボットは、上記2つに反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

である。
ところで、1993年にタツノコプロが製作した「キャシャーン」というアニメ作品がある。2004年に紀里谷和明さんが製作した映画「CASSHERN」同様、1973年のアニメ「新造人間キャシャーン」を基にしたものだが、これが素晴らしい作品である。
この中で、ロボット工学の権威である東光太郎博士は、BK-1号という優秀で強力なロボットに以下の命令を与えた。

1.汝は人間の命令に服従しなければならない。
2.汝は人間の生命を脅かしてはならない。
3.汝は地球を愛し、その環境を保護しなければならない。

すると、BK-1は、人類の征服を押し進め、人々の多くを収容所に押し込めて強制労働をさせた。脱走者など、反逆者は容赦なく殺した。
人類軍の反撃に対しては、その優秀なAI(人工知能)による戦略や武器開発で圧倒し、たちまち人類軍を壊滅させる。
そして、BK-1は宣言する。
「ドクター東、あなたの命令はことごとく実行されているぞ。人類は死滅することなく、永延にその種は存続する。我々ネオロイダー(新造人間)の慈悲深き配慮によってな」

つまり、人類が死滅しないよう、そして、地球環境を守るためには、人類に自由を与えてはならない。そのために必要な人類の殺害はやむを得ずと冷静・正確に判断した上でのBK-1の行動であったのだ。これには納得せざるを得ない。
アシモフのロボット3原則なんてものを、言葉通りに守ったら、かえって悲劇的な結果となるのは間違いない。
さらに、まるでBK-1は自らに納得させようとするかのごとくに続ける。
「人類は、母なる地球を汚し、お互い憎みあうことしかできない生き物ではないのか?しかし人類は自らの手で自分を罰することもできず、その役を俺に押し付けた。人類はこの俺を待っていたのだ。人類以上の絶対者であるこの俺を。俺は独裁者ではない。ましてや悪魔などではない!」
そこに、ついにキャシャーンが現れる。BK-1は断言する。
「悪魔は貴様だ!キャシャーン!」
なんというBK-1の説得力。キャシャーンに何か言い分があるのだろうか?
BK-1への反論は?視聴者はキャシャーンの言葉に期待する。そして、キャシャーンは言う。
「父の苦しみ、母の悲しみ、そして俺自身の憎しみのために、ブライキングボス(BK-1)、お前を倒す!」
BK-1の素晴らしい理念に対して、なんと浅はかなキャシャーン。なんとも個人的な動機。
こんなことで、キャシャーンは正義のヒーロー足りえるのか?
そして、両者の対決が始まる。
圧倒的なパワーで攻勢に出るBK-1。長い戦いでガタがきていたキャシャーンは叩きのめされ、フェイスガードも叩き割られる。
だが、ここで不思議なことが起こる。BK-1の中から東光太郎・・・キャシャーンこと東鉄也の父の声が聞こえる。
「よくここまで来た、鉄也。さあ、ブライキングボスを破壊するのだ!新造人間となったお前ならできる。いや、お前にしかできない」
BK-1の信念は東光太郎の意志から生まれたものだった。しかし、その東光太郎の意志が、鉄也にBK-1破壊を託した。
BK-1は言う。
「俺はお前たちを愛しているのだ。キャシャーン、いや、東鉄也よ、お前にも永延に生きる特権を与えてやる」
そして、ついにキャシャーンはヒーロー復活に相応しい宣言を行う。
「断る!お前の作った世界など、俺は欲しくない。俺は俺自身の手で新しい世界を作ってみせる!」
BK-1は最後の最後で愚かさを見せたのだ。

人間の幸せとは思い通り、自己の信念に従って生きることである。
相手が松下幸之助であろうが、王貞治であろうが、イエス・キリストであろうが、彼らの信念の中で生きるのは、どんな人間も絶対に楽しくはない。
このあたりは、「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが、戯曲「カルヴァリー」で、イエスを裏切ったユダの言葉として見事に表現している。
「イエスよ、俺はお前が神であることを疑ったことはない。それを証明するのに奇跡など必要なかった。俺がお前を裏切ったのは、お前が全能に思えたからだ」
俺はお前の笛で踊る猿ではない。ユダはイエスを裏切るより他はなかったはずだと私も思う。

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