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2006.05.18

禊(みそぎ)とは、神事などを行うにあたって身を清めるものと思うが、根本的には身体を含むその者の存在全体を清めるものと思う。
キリスト教の洗礼は生涯一度であるので、形式は別としても(禊は1人で行う場合が多いが、洗礼は誰かにしてもらう必要がある)、同じに扱われることはないが、似た部分もあると思う。
洗礼や禊の絵はよくあると思うが、いずれも清浄な雰囲気のものが多いと思う。

ところで、禊をするということは、穢れているからであり、本質的に人間は穢れていることになる。さらに、高僧や聖なる巫女でも特別な神事にあたっては禊をするのであり、これらの者でさえ穢れはあることになる。
では、穢れとは何であろう?
これがまた摩訶不思議な概念ではあるまいか?
大相撲で、行事のために女性大臣が土俵に立つ企画があったらしいが、聖なる土俵は女人禁制であるとして断られた。仮に、年かさのいった大臣でなく、12歳の清純可憐、純情無垢な少女でも良いわけではないと思う。
かと思えば、男子禁制の場も多く、こちらは男とは穢れた存在として扱われる。
動物を殺すことから、肉食をする者が穢れているかというと、キリスト教では新約聖書の中で、全ての食べものは清いとイエスによって保証されている。しかし、当然のように肉食、あるいは、特定の動物の肉食を禁ずる宗教もあり、飲酒に関しても宗教によっていろいろである。

そこで、このような形式ではなく、人間の欲求としての禊を考えてみる。
日本では、戦場で武士が花を生けるということがあった。いざ戦闘の中では多くの武士は勇猛果敢に戦っても、戦い終わり我を取り戻すと、荒ぶった自分を嫌悪し、禊によって心を清めたいと思うものらしい。
武士とは、「武士道」(新渡戸稲造)にもあるように、本来的には模範となる人を目指し、常に心身を練磨するものである。だが、戦いの道は必ずしも人としての理想に叶うものとはいえない。そこで禊を行いたくなる。
では、禊はどのように行うか?
私は、決まった形など必要ないと思う。
ジャンヌ・ダルクは、戦闘の後、味方のみならず、敵兵の死者のためにも涙を流して祈ったことが伝えられているが、これも禊と言えるのだろうと思う。
一般の人の中にも、人知れず禊のようなことを行う者もいる。たとえば、昼食を抜いたり、好物をわざと避けるなどを、願掛けのような見返りの心無く行うものである。
なぜかは分からぬが、何か良いものであると私は思う。

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