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2006.04.30

あの星の空

子供の頃、星空を見て、あのどこかに宇宙人がいるに違いないと思ったことがあるかもしれません。
宇宙人はいるかもしれませんが、少し昔の人が考えたように、UFOに乗って地球に来ている確率はほぼゼロと思います。
我々の太陽系に最も近い恒星は、ケンタウロス座のプロキシマ星で、その距離4.24光年。
さらに、最も近い太陽系外惑星はHD18933bで、これが属するこぎつね座までの距離は63光年です。
光より速く進むことは不可能なことから、いかに科学技術が進歩しても、宇宙人との直接交流は実現しそうにありません。
でも、はるか彼方の惑星にも空があり、その空で星が輝いていることはあるでしょう。それを想像するだけで楽しいものです。

20060429

はるか彼方に、こんな空の星があるかもしれないと思って描いた絵です。
地球に似た空なら、こんなコもいるかと・・・
クリックすると大きな絵が出ます。

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2006.04.29

リーダーシップ

リーダーシップというものを考えてみる。
どんな世界でも似たようなものと思うが、優秀なだけでは良いリーダーになれない。一人でやる仕事は素晴らしいのに、チームでは全く機能できないという人間は必ずいる。
とにかく、リーダーというのは難しい。
まず、リーダーの重要な仕事はビジョンを示すことだ。そして、そのビジョンに向けて、メンバーをまとめないといけない。全員が同じ方向を向いて進まないとチームはパワーを発揮できない。優秀だが、足並みを乱すメンバーの扱いもうまくないといけない。

私は、今年1月3日、このブログで、「今年は原ジャイアンツが優勝する」と断言した。
今年は巨人が優勝する理由
いまのところ、当たりそうな雰囲気はある。
その時、私は「今年も仁志は冷遇される」と書いた。
当然、これも当たっている。仁志のように、優秀だが自己中で調和を乱す者は、いかに姿勢が真摯でもダメである。
原監督にはカリスマ性はない。しかし、ものごとを分かりやすく話す。馬鹿でも分かる。
馬鹿みたいに簡単なことを堂々と話すのは案外難しい。その意味では、リーダーは、馬鹿ではいけないが、羞恥心は無い方が良い。
また、分かりやすい人間であることや、気分が安定していることが必要だ。リーダーが神秘的である必要はない。そして、ある時は機嫌がいいのに、ある時は不機嫌だというのはいけない。常に同じ気分でないといけないし、たとえ色をなしても、すぐに戻る必要がある。
そして、ある程度、甘くないといけない。メンバーが何度失敗しても、結局は目をつぶってやらないといけないことは多い。その点では忍耐が必要である。そして、何度失敗しても信じてやれることが必要だ。本当に忍耐が必要だ。
そして、人間は感謝されるところに留まるという基本を忘れてはいけない。

いろいろ書いたが、本当に必要なのはメンバーの自我をチームの中で安定させてやることだ。なぜなら、それこそが人間が生きる目的であるからである。

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2006.04.28

意外な話

意外な事実というものがある。
知らないなら知らないで良いかもしれないが、かなりのインパクトのある事実で、しかもかなりの月日が経過した後に明らかになるといったものは面白い。
例えば、1984年のロサンゼルス五輪女子体操で優勝したメアリー・レットンは、足首の怪我で大会二日前まで歩行すら困難だったとかいうものである。

こういうのも面白いかもしれない。
13年ほど前、当時大人気であったセーラームーンの映画「劇場版美少女戦士セーラームーンR」が公開された。
私の知っている方は、母娘で映画館に行き、クライマックスシーンでは両方共スクリーンに釘付けになり一緒にうるうるしていたらしい(笑)。
クライマックスシーンとは、巨大隕石の上で戦い終え、力を使い果たしたセーラームーンと仲間の4人のセーラー戦士達、そしてタキシード仮面が、隕石の欠片に乗り、地球に戻ろうとするところである。大気圏に突入し、砕け散ろうとする隕石をセーラームーンが命と引き換えに聖石「幻の銀水晶」のパワーを解放し、他の戦士も力を振り絞って神秘パワーを結集することで持ちこたえようとする。迫力満点のシーンは子供たちやお母さんを激しく緊張させたことであろう。
問題は、この時流れていた歌である。この映画のために特別に作られた「Moon Revenge」だ。興奮のシーンに相応しい音楽であったが、おそらく、誰も歌詞に注意しなかったと思う。しかし、これがおよそ子供向け映画とは思えない恐ろしい歌だった。
作詞は冬杜花代子さん。中森明菜さんの「タンゴ・ノアール」の詩でも有名な素晴らしい作詞家である。冬杜さんは、「セーラームーンR」のRの意味が分からず、原作者の武内直子さんに尋ねようとした(原作ではセーラームーンRというシリーズはない)。しかし、敢えて思いとどまり、Revengeという言葉を自分で当てはめた。後に流行語になる「リベンジ」つまり復讐である。Rとは、本当は、ロマンスとかリターンという意味らしい。
この「Moon Revenge」という歌には「宿命の愛は、逃げても追いかけても、死んですら終わらない。なぜならそれが月の復讐だから」というのがテーマで、美しくも恐ろしい詩でできている。
あのシーンでこんな恐ろしい歌が流れていたとは誰も気付くまい。
そして・・・
幻の銀水晶の力を使ったことで滅びたセーラームーンに衛(まもる)の「宇宙人の」幼友達フィオレから「生命の水」が与えられ、命を吹き返すが、その刹那、背景に流れた歌の詩が「It's Moon Revenge」であった。ここでセーラームーンが再び生命を得、また宿命の愛の運命の中に引き戻される。それが月の復讐だ。思わずぞっとする。

だが思う。当時劇場にいた子供達はこの歌を認識しなかっただろう。しかし、彼女達の無意識ははっきりと憶えている。それが彼女達にどのような影響を与えるだろう。
当時7つとしたら、今年あたり成人になるのだが・・・。

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2006.04.27

人工知能の古い夢

artという英語は、当然、芸術、美術という意味があるが、技術、技能という意味、あるいは、人工という意味もある。
人工知能はArtificial Intelligenceとなる。
昔のSF映画などで、宇宙人との戦いの中で、戦略をコンピュータに解答させるというものがよくあったと思う。そこで出てくるコンピュータは、磁気テープが常に回転していたり、LEDがピカピカ点灯し、カードで入力したり、紙テープで出力されたりするし、CRT上で解答するにしても単純なテキスト文字であることから、今日のパソコンよりはるかに下の性能であると言って間違いないと思う。
実際、昔の(1960年代以前)作家達はもちろん、科学技術者でさえ、現在のパソコンを想像することは不可能だったと思う。
1980年に、アラン・ケイが今日のGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)とほぼ同じシステムを作ったのは驚異的なことであり、その後10年位は、たとえ職業でコンピュータに関わっているような人にもよく分からないものであったはずだ。

昔のSFであったように、コンピュータが考えて戦略や行動基準を示すことが可能なら、現在のパソコンでそのようなことが行われていても不思議ではないが、誰もそんなことはやっていない。
知的な解答を導き出すためには、考えるソフトウェアである推論エンジンと、十分なデータである知識ベースが必要だ。早い話が、少なくとも膨大なデータを「いい形」でコンピュータの記憶装置に登録しないと、何か有意義な解答が出るはずがない。
しかし、膨大なデータを入力していたら、それに目を通した人間の方がよっぽどマシな答を思いつくものである。
せいぜいが、株価のデータの変動を見ながら、統計的にその後の変化の予測をし、加えて人間の経験やあいまいデータを考慮して儲かる取引をするくらいだ。この場合も、あいまいなデータから、重要ポイントを見抜くのはやはり人間の知恵である。
コンピュータは恐るべき速さで進歩したが、コンピュータに対する人間の認識も進歩しているとしたら、昔のSF映画を見て苦笑するものだと思う。

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2006.04.25

エスと自己暗示

フロイトの精神分析療法で、肉体上の症状が治ったということもあるが、それは特異な場合のことと考えられ、あくまで精神療法は心の病を治すものであった。
しかし、フロイトにエスの概念を与えたグロデックは、全ての病気は心因性であり、エスの作用と考えていたし、実際、精神分析療法で肉体的な疾患をかなり治癒させたらしい。もちろん、精神疾患も治したが、そもそもがグロデックは精神と肉体を別のものとは考えなかったようである。
医者ではないが、精神的な療法でやはり肉体的疾患の治癒にかなりの成果を上げた者として、エミール・クーエがいる。フロイトやグロデックよりほぼ10歳若いクーエは、薬剤師であり、精神分析療法に関しては知識がなかったかもしれない。クーエが使ったのは暗示療法であるが、医者が見離したような患者を奇跡のように治癒した話も伝えられている。
そもそも医者ではないクーエであるが、自宅の診療所には常に大勢の患者が訪れ、クーエは精力的に治療を行ったようである。ただ、クーエは報酬を全く求めなかったというから驚きである。

グロデックはフロイト同様、精神の抑圧を精神分析で発見し、患者に抑圧になっているものを自覚させることで治癒に導いた。しかし、クーエはそんなことはしなかった。
クーエは自分の治療は自己暗示であると言い、実は暗示に他者暗示は無いとする。他者から暗示を受けたように見えても、それを本人が受け入れ自己暗示にしなければ効果はない。
そして、自己暗示で最も重要なのは「一般暗示」であり、その他の「特殊暗示」は補足に過ぎず、無くても良いと言う。
一般暗示とは、聞いたことがあるかもしれないが、
「毎日、あらゆる面で、私はますます良くなっていく」
というシンプルな言葉を使うものであり、具体的な症状を取り上げて、例えば「腰痛が治る」とか「胃弱が治る」と言うのではなく、それら全てを含む「あらゆる面で」という言葉で代用するのである。
精神というものは、納得ができないことに関しては頑固に抵抗するものであり、「癌が治る」などと言うと、「そんなことがあるものか」と反発し、その反発が勝ってしまう。
しかし、一般暗示であれば抵抗は起こらない。
クーエは、一般暗示の言葉を眠る前に20回、起きた時に20回唱えよと指示する。
他には何もない。このクーエの自己暗示を利用した商売をする者は後を絶たないが、上にあげたことが全てであるのだから、他に付け足す必要は全くない。
一般暗示は、「全て」に関してのことであるから、病気からの回復もであるが、事業を成功させる能力や気力の向上にも効果があるとされる。
尚、ジョセフ・マーフィーの成功法則のような摩訶不思議なパワーが発揮されるといった馬鹿げた話はないので、あまり妙な方向にはいかないようご注意願いたい。

しかし、グロデックのエスのことを考えると、一般暗示により、もしエスと協調することができるとすると、ミラクルとしか思えないことも無いとは言わないが、やはりこういう話で儲けようとたくらむ連中には注意して欲しい。
このようなことで、誰かにお金を払う必要などは全くない。

ついでの話であるが、クーエの弟子が、言葉も理解できない幼児を暗示で癒す話がある。
言葉を解せぬ者が暗示にかかるとは変な話ではあるが、その幼児のエスと治療者のエスの交流と考えると、さほど不可思議とも思わない。エスの支配による、治療者の表情、声、なでたりさすったりの行為が幼児のエスに影響を与えるなら、効果もあるのではないかと思う。

今回は、グロデックとクーエを結びつけるという珍しい話であった(笑)。

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2006.04.24

大洋感情と芸術

みなさんは、ロマン・ロランの言った「大洋感情」を経験したことがあるだろうか?
没我的、神秘的な感情で、宇宙との一体感として知られるもので、この上もなく幸福な感情と思う。
ただ、フロイトに言わせると、これは乳児の母親や外界との区別がつかない段階への退行であり、恋人との完全な一体感もそれと同様と言う。
なにせ、フロイトによれば、恋している状態は一種の狂気であり、「精神病の正常な原型」と言うことである。
すなわち、フロイトによれば、大洋感情は幻想である。
ただ、実際に大洋感情を経験した人は、人生で最も深遠な瞬間であり、世界やあるいは自分自身に対する見方を変えてしまうほどであるとし、フロイトの説明に納得しないようだ。
ドストエフスキー、エリオット、ブレイク、そして、イェイツなど、超一流の作家の作品には大洋感情と同じと思われる記述は必ずあるようだ。
そして、それは、心理学者のアブラハム・マスローが説いた「至高体験」であることは間違いがないと思う。
私は、岡本太郎の言った「爆発」も至高体験や大洋感情だと思っている。
イェイツは芸術の目的はエクスタシーであると考えていたようだが、最大のエクスタシーとは大洋感情であることで、やはり岡本太郎と同じことを言っているように思う。
ただ、至高体験は誰でも経験していることであり、また、誰にでも経験できる。それは、極端な苦しみや極端な緊張から解放された瞬間に感じることが多いと聞くが、いろいろな場合があるようである。芸術家を目指す人なら、その体験を憶えておきたいものと思う。

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2006.04.23

エスの驚異の力

それが潜むのは、人の細胞の中なのかもしれないが、「エス」という不可思議なものがある。
人を病気にしたり、不意に腫れ物を作ったり、躓かせて転がしたり、あるいは、少女の乗ったボートが他のボートとぶつかって少女の帽子が落ち、それをひろった相手側のボートに乗った青年と恋に落ちさせる(中森明菜の歌かな?)。
近眼で、視力の及ぶはずのないものでもエスには認識されているということもあるらしい。
「脚のこのあたりに弾丸をくらって、除隊になればなあ」とか思っていたら、正確にその場所に弾丸をくらったという話もある(まあ、偶然かもしれないが)。

新聞の一面をざっと見て、妙に変な気分なのでもう一度よく見ると、自分にとって関心のあるものを連想させるような言葉が載っていたということもあるが(私も経験した)、これもエスの働きとされていることがある。

「エス」は、フロイトのオリジナル概念と思われていることが多いが、本当はドイツ人医師グロデックが考えたもので、当時、師匠のような立場にあったフロイトがそれを拝借したのだ。だが、フロイトのエスとグロデックのエスはかなり異なる。それがもとで、フロイトとグロデックは不仲になった(フロイトとユングほどの決裂ではないが)。

人気アニメ「シティーハンター」で、冴羽獠(さえば りょう)が、群集が歓声を上げる大騒音の中、はるか後方で銃のトリガを引く音をキャッチするという場面があったが、エスならそのくらいのことはやりかねない。
確かに、信仰厚い隊長の指揮する部隊が、極めて危険な戦場で一人の負傷者も出さなかったという話もあるが、ただ、エスというのは、そうそう思い通りに働いてくれるものではない。
しかし、全くの気まぐれということもなさそうだ。
グロデックは、子供の時の事故で脚がかなり曲がっていたらしいが、大人になってからエスが事故を起した原因を理解した時、即時に脚がまっすぐになったらしい。

いずれにせよ、我々はエスに生かされているのであり、どうあがいてもエスから逃れることは出来ない。いや、自我そのものがエスと別のものではない。
エスが神なのかどうかは知らないが、アインシュタインが神について言ったことが妙に思い出される。
「神はサイコロ遊びをしない」
「神は老獪(ろうかい)である。だが、悪意はない」
アインシュタインが最高の賢者と認めていたのはフロイト博士であった。

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2006.04.22

自分を名前で呼ぶ人

子供が、自分を名前で呼ぶことが多いのはご存知と思う。
「あいちゃんはね、アイスが食べたいの」
「ケンタは幼稚園で一番サッカーがうまいんだ」
年齢が進むと、自分を私、僕、俺と言うようになる。遅くとも小学校低学年までにね。
しかし、時々、いい年になっても自分を名前で呼ぶ者もいる。女性に多いように思う。
「園子、こんなの見たの初めて!」
そういう人は精神が幼いと見なされるが、高校生とか、大学生になってもそんな人が実際にいる。女の子に関していえば、余程可愛いコであれば、特に男性には好意的に思われる可能性が高いが、そうでないなら(残念ながら可愛いと思われない場合)、下手したら駅のプラットホームから蹴落とされかねない(笑)。

しかし、考えてみれば、自分を名前で呼ぶことにも優れた点がある。
それは、自分を客観視しているということだ。
そして、さらに考えれば、年齢と共にそんなことをしなくなるのは、自我とは年齢と共に強くなることを示す。自我とは、「私は私である」という感覚であるからだ。
そして、自我とは作り物であり、何らかの信念や主観、主義が固まって出来るものである。
そして、主観や主義が強くなると精神の自由を失う。
自分を名前で呼ぶ者は確かに幼いが、精神の自由さは持っている可能性がある。
人間、とかく、「私が」「私が」になる。自分にしか関心がなく、それがかえって自分を見失う原因にもなる。
自我が強くないと社会で生きていくことができないが、時には、自分を名前で呼ぶ子供の真似をするのも良いかもしれない。

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エスの神秘

私は最近、「エス」に凝りはじめた(笑)。
エスとは、無意識に潜む我々の常識を超えた知恵やエネルギーを持つ何かで、フロイトにより世に知られるようになったが、最初にこの概念を示したのはドイツの医師グロデックだ。
グロデックのエスはフロイトのエスとかなり違い、実際、フロイトがエスについて彼流の概念を発表した時はグロデックは怒って抗議したらしい。

さっき、たまたま1969年製作の英国テレビドラマ「謎の円盤UFO(原題:UFO)」をDVDで見ていて、エスの力を示す例に出会った。このドラマの製作者はそんなこと意識してもいないかもしれないが、実に見事なお話であった。
このドラマは、早い話が、地球侵略を目論む宇宙人と地球防衛組織シャドーの戦いである。人類より数百年進んだ宇宙人は、ある作戦をしかけてきた。そのため、シャドーは危機に陥る。シャドー司令官ストレイカーは、なぜか10年程前のビデオを思い出し、それを再生する。そのビデオに今回の危機を打開するカギがあるように思えてならなかったのだ。
部下が「このビデオにそんなものはない」と言うが、ストレイカーは、「ほんの1語か2語なんだ」と言う。ビデオの中で「火の玉」という言葉が話された時、ストレイカーは「これだ」と思う。宇宙人は、隕石を利用し、通信妨害装置をしかけたのだ。「火の玉」から「隕石」が連想されるのだ。
ストレイカー自身の知性は、何も分かっていないのに、エスは分かっていた。それをストレイカーに謎めいた方法で知らせたのだ。
エスは、このような連想遊びのようなことをよくやる。しかし、その知恵や力は凄いものである。このドラマのようなことは実際にあるし、クロデックはエスの意図を読み解くことで、難病を治したりもした。
エスを知れば、世界や人間に関するいろんな謎が解けるだろう。そして、芸術の秘密も分かるかもしれない。

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2006.04.20

エスと芸術

これは芸術にも大いに関係するが、人間というものは無意識に潜むエスに動かされている。
エスのやり口はあまりに見事であるため、しばしば神秘めいており、実際、我々の中に神がいると思われたり、無意識の中の神に願いを伝えれば叶うという大誤解をした者もいたかもしれない。
しかし、エスがそうそう自我の都合の良いことをやるわけではない。
本日、オリックスの清原選手が「またも」死球をくらって病院に行ったが、清原選手のエスが繰り返し死球で怪我をするよう仕組むには訳でもあるのだろう。

正直な芸術家は、自分の腕前よりも無意識が描いた時の方がうまくいくようなことをよく言う。岡本太郎さんは「苦労した絵より、勝手にどんどん進んでいった時の方が絶対に良い」と言ってたし、横尾忠則さんなども「何ができるか自分で楽しみ」な時に良い作品になるし、最近では、ちゃんと無意識に描かせると言っておられるようだ。
漫画家の水木しげるさんも、20年くらい前、つまり65歳くらいから妖怪を描くのが快感になったと言い、描いている時は無意識になるようだと言う。
これらは、無意識の中のエスの活動を表している。
しかし、エスは自我の思惑など、全然意に介さないことが多い。思いもかけないことでも、本当は自分が望んだからエスが起したようなものなのだけどね。

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誘惑の原理

みなさんは誘惑は得意だろうか?
これについては、悲惨なほど下手な者がいるが、実に上手い者もいる。
え?お前にアドヴァイスが出来るのかって?
もちろんである。男でも女でも意のままである。
え?私はブスでデブだけどって?何の問題もない。
え?チビでハゲの中年が若いコを?いったい、何の支障があろうか?
この世に美醜など存在しない。もちろん、一般的固定観念からしたって、必ずしも美男美女がカップルになるわけでなし、むしろ、そのような場合の方が少ない。

あまりややこしい説明はしたくないが、こんな話が参考になると思う。
想う相手には相手にされないが、嫌なヤツばかり寄ってくるというものである。なんのことはない。嫌と思う相手を見事誘惑しているのである。

誘惑上手は、さりげなく自然であることに同意すると思う。準備周到に誘惑するのはアブない人である。逆に誘惑下手は、悲しいまでにわざとらしい。
早い話が、誘惑しようと思ったら失敗する。
誘惑は無意識にやらせるのである。もっと的確に言えば、エスにやらせるのだ。エスはその方面のスペシャリストであり、もちろん、あなたの中にもある。
エスがその気になれば、あなたの表情、身振り、発声、全てが誘惑爆弾になる。どんな風にやるかなんて自分には分からない。
意中の相手からの興味を引き上げよ。後は、「今日は何を食べたい」とか、わけもないのに憂鬱にさせるものとか、肌荒れを作るような自然な生命力にまかせておくことだ。そして、準備だけしておけば良い。
コツが分かればきっと簡単になるだろう。

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2006.04.18

敏感肌にはワケがある?

似たような人もおられるだろうが、私はこの時期は敏感肌で大変に苦しい。
セットかもしれないが、おまけに乾燥肌で、痒いのだが、かくと傷になり、痛くなる。

さて、私は感想肌だろうがガンだろうが風邪だろうが、全てエスの仕業と決め付けるようになった。フロイト博士の洗脳が完全に効いているようだ(笑)。
エスとは、精神の自我以外の部分で、巨大でエネルギーに満ちている。しかし、無意識の領域にあるので、意識はできない。
そして、エスはなぜ私を敏感肌にしているのだろうか?
エスの概念をフロイトに与えたドイツ人医師グロデックによると、敏感肌とは、自分が敏感であることをアピールし、優しく扱ってもらいたがっているのだという。そして、それが満たされていないので、誰かそうするよう主張しているのだそうだ。
なるほどと思う。
敏感肌の人には、優しくナデナデしてあげると良いと思う。

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2006.04.17

人を嫌うことは案外恐ろしい

よく「病は気から」といい、心が原因で病気になるのではないかという考えがあるが、私も経験上そう思う。
医学にも、心身医学といって、心や社会面も考慮に入れて医療を考えるというものがあるようだ。
トム・クルーズやジョン・トラボルタが入信していることで有名な宗教団体サイエントロジーでは、「ダイアネティックス」という精神や身体に関する理論があり、書籍で読め、私は擬似科学でしかないとは思うが、面白い点も多い。ダイアネティックスでは、病気の75パーセントは心因性であり、実際はそれ以上かもしれないとされていた。
NLP(神経言語プログラミング。これも擬似科学とする意見がある)の創始者リチャード・パンドラーは、著書に、「我々は病気は全て心因性と決めつけている」と書いていた。

フロイトにエス(心を動かすエネルギー)の概念を与えたドイツ人医師グロデックによれば、全ての病気はエスが作っており、当然全て心因性であると言う。器質性の病気も心因性であり、さらには事故でさえエスが起こす心因性であるとする。
そういえば、ダイアネティックスでは、全てのエングラム(人間に逸脱行為を起こさせる精神的原因)を取り除きクリア(完全な人間)になると事故にも遭わないらしい。
ダイアネティックスでは、フロイト理論では無意識に押し込められた抑圧と同じようなものをエングラムと言い、エングラムが人間に作られる過程の考え方が独特なのであるいが、それを除けば案外合理的である。ただ、この理論をいきなり主張するトム・クルーズにはいささか問題があると思うし、実際、この点でクルーズは批判されている。

私の周りにも、重病になったり、事故で大怪我、あるいは死亡に至ったケースもあるが、私としては、案外予感があった。中には、私に尋常ならざる嫌悪感を持っていた者も確かにいたが(こんなに可愛いのに・・・)例外なく悲惨なことになっている。他人をそんなに嫌うものではないと思う。
私はあまり一般的な固定観念に従わないところがあり、それがどうにも我慢できない人が必ずいるようだ。岸田秀氏の唯幻論によると、共同幻想という妄想を共有していない人というのは、自我にとっては脅威であり、存在してはならぬものらしい。
たとえば、美大を出るようなのは最も芸術家には向かないと私は思っている。美大を出て、有名な画家に師事してという生活を送り、人を感動させる作品が作れるわけがない。せめてサラリーマンを20年以上やりながら芸術活動を続けるような人の方が見込みがあると思う。ただ、上手い絵が必要な分野では美大の存在意義もあると思うが、それは芸術とは何の関係もないと思う。

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2006.04.16

心のメカニズム

心には何らかのメカニズムがあるかもしれません。
フロイトは「自我」「超自我」「エス」の3つに分けていますが、「自我」は私という自覚、「超自我」は理想の自分で、親や学校に教育されたものからできています。「エス」は心を動かすエネルギーで、自我の外にあるので自覚できません。
エスの概念を最初に考えたドイツの医師グロデックは、エスはどんな病気でも作り出すといいます。エミール・クーエは暗示の力で、歩けなかった人をその場で走らせるなどの奇跡的治療を数多く行いましたが、エスに働きかけるのかもしれません。エスが病気を作るなら、それを消すこともエスにはできるということかもしれませんね。
20060416

心のメカニズムのテーマで絵を描きました。
クリックすると大きな絵が出ます。

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人はみな神を目指す訳

何かの雑誌で、ジャイアント馬場さんが「全てのもめごとはヤキモチから生まれるんだ」と言ったと書かれていたのが、かなり前の話ながら非常に印象に残っている。
みんながみんなフロイトを勉強する必要もないかもしれないが、1つだけ人間の性質として絶対的な事実を憶えておいた方が良い。馬場さんは経験的に知ってたように思う。

大袈裟に言えば、人間はみんな神を目指しているということだ(もちろん、大袈裟に言った)。
赤ん坊にだって知覚も精神もある。3歳以前のことは誰も全く憶えていないが、無意識の中には完全に残っている。赤ん坊は最初、自分と世界の区別がついておらず、世界イコール自分と感じている。ここでは、知らないことは何もなく、できないことは何もない全知万能の状態である。つまり、自分は神である。そして、この意識は生涯を通じて人間を支配する。
ごく幼いうちは、自分が世界で最も重要な存在と感じたままでいる。しかし、まずは親のしつけにより、自分にもできないことや、やってはいけないことがあることが分かってくる。近所の子供と遊んだり、学校に入ることにより、他人との接触の機会が増え、争ったり、お願いしたり、妥協したりと時には痛い目にあいながら、自分の立場というものを理解し、自分も世界の一人に過ぎないことがだんだん分かってくる。
しかし、自分が世界の中心であるという意識は残っているので、思い通りにならないと屈辱を感じる。また、自己評価は他人の客観的評価よりはるかに高い。
50点の人間は、80点の人間を見ると、自分の方が優れていると必ず感じる。そのため、能力通りに80点の人間が特別扱いされると、大変に嫉妬する。その度合いは、精神が幼いほど大きい。

この数十年の中で、子供をあまり叱ってはいけないような風潮ができ、教育でも、子供は自由にのびのびさせるのが良いとされ、その通り行われてきた結果、自分を神のようなものと思い、自己重要感をとんでもなく高く考えることを疑わない人間が増えてきたようだ。
そこで、SMAPの「世界に一つだけの花」の大ヒットである。嬉しがってあの歌を歌う者は、自分は特別なオンリーワンと思っているが、他人がそうだとは全く思っていない。

この傾向は、精神が幼い者に顕著と言っても、精神を鍛え上げた者にも無縁ではない。
業績を上げ、さらにその人格の高さで尊敬される者も、全員がこう言う。「物欲や、ほとんどの欲望は克服したように思う。しかし、名誉欲だけはなくならない」
ましてや、甘やかされて精神の幼い人間なら、ピノッキオも真っ青の鼻の高さであって当然である。

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2006.04.15

フロイトにハマる

私は、今年に入ってからフロイトに凝りはじめた(笑)。
きっかけは、本田透氏の「萌える男」(ちくま新書)からだ。「萌え」こそ、現代における最も重要な思想と思っている私には興味を惹くタイトルであった(笑)。
それはベリィ・グッドであった。そして、その中で紹介されていた岸田秀氏の唯幻論なる思想を知り興味を持った。書店をふらふらしてたら「唯幻論物語」(文春新書)を見つけて購入する。これは、岸田氏の最も新しい本と思うが(2005年出版)、岸田氏の最初の本であり、代表作とも言える「ものぐさ精神分析」(中公文庫)は1982年の出版である。
岸田氏の考え方は、基本的にはフロイトと同じとご本人も書かれている。
私は、フロイトは古いポンコツで、ユングこそ新しいと大誤解をしていた。そもそもフロイトをまともに読んだことがないのに、勝手なことを書く著作家にすっかり騙されていたようだ。一種の洗脳であった(笑)。
岸田氏は、フロイト以降の心理学・精神分析学で、フロイト以上のことはほとんど言われていないと断言する。岸田氏の本はどれも極めて面白いので、片っ端から読んだが、その中でフロイトもある程度分かるようになった。
ただ、岸田氏の本ほど、再読の意欲の沸かない本も珍しい。ただ、それは、非常に分かりやすいので、一度読めば十分理解できるからである。
もちろん、岸田批判も聞くし、岸田氏の言い分でも全て納得する訳でもないのだが、私がかつてその洗脳理論で注目していた岡田斗司夫さんが書かれていたように、岸田批判をする人は大抵岸田さんの本をちゃんと読んでいないのだと思う。
世間常識からは突飛であっても、特に法外なことは書いていないし、岸田氏の頭の良さには驚くこともあった。
以前はかなり凝っていたコリン・ウィルソンはもうどうでもよくなった。ウィルソンは大変に頭の良い人と思うが、かなりいい加減な人ではあると思う。岸田氏の本を読めば、ウィルソンは逃げ出すのではないかと思う。ウィルソンは、あるところまでは素晴らしいのであるが、あるレベルまでくると神秘思想に逃げてしまい、結局、何も分からないというところがあると思う。
さて、唯幻論を堪能したら、次は本家のフロイトを攻めたくなるのが人情である。「自我論集」(ちくま学芸文庫)に挑むが、さっぱり歯が立たない(笑)。多分、翻訳がダメなのだと思う(をい)。半分冗談だが(半分本気かよ)、とりあえず、もっと簡単なところや、フロイト自身について知識を得る読書に切り替える。
私がフロイトで最も興味があるのは「エス」に関してであるが、この概念はドイツの医師グロデックから得たらしい。さっそくグロデックを調べたら、なんと岸田秀さんが翻訳した本があった。「エスの本」(岸田秀、山下公子訳 誠信書房)である。これは強烈な本だ(笑)。あまり誰にもお薦めしない(爆)。

私は、フロイトの基礎は習得しておいて損はないと思う。それどころか、これを知らないと、随分無駄な努力をすることになると思う。
ただ、学校で教えることはお薦めしない。学校の先生はヘンな人が多いので(笑)、どんな馬鹿な教え方をするかと予想したらあまりにお寒い。そもそも、フロイト理論から最も人を教えるのに向かない人間が教師をやってるような気がする・・・いえ、独断である(笑)。

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2006.04.13

自己評価の怪

人は、自分を高く評価し、他人を低く評価するということは聞いたことがあると思う。
しかし、このことは軽く考えられ過ぎているかもしれない。
自分を実際の3倍程度に自己評価しているような超謙虚は人は極めて稀と思う。10倍なら良い方と思う。
もっとも、人の価値を正しく評価する基準は何かというと大変に難しいことは認めるが、それほど大きくは外れない基準なら、間違いなく収入がある。
月給10万の人は、月給30万の人を見たら、自分の方がはるかに優秀だと思うものである。
以前、ネット上で付き合いのあった若い女性の場合は凄かった。自分のゆうに10倍以上の収入のある相手を、気分によっては「対等」、気に入らないと、「アホ」「馬鹿」「タコ」で、彼らがいかに愚かかを延々と吐露し、対して自分の有能さを自慢する。彼女が彼らを馬鹿にする数十倍、自分が馬鹿に見えるに過ぎないのだが・・・。もちろん、自分がすぐにクビになる無能さへの過剰な言い訳は尽きない。

とはいえ、こういった傾向は全人類に例外なくある。精神分析学か何かではナルチシズムとか言うらしく、人間の誕生から生育の過程で、必ず身に付くものであるらしい。最も幼稚な段階では、自分は全知全能と感じる。そして、精神が幼いほど、その傾向が強いことは言うまでもない。要するに、自分は厚く遇されるべきと思うのは幼児的精神の証拠である。自分の言うことは肯定されるべきだという思い込みが見られる者も幼い。たとえば、学校教員にその傾向は強いと思える。彼らが何か問題を起した時の幼児のような言い訳がそれを示していると思う。

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2006.04.12

何を願ったか?

井上昌己さんの「Up Side Down -永遠の環-」という歌に、驚くべき真理が込められているのを見て驚いたことがある。(作詞は古賀勝哉さん。作曲は井上昌己さん)。

人は心に描いたとおりの
自分になってゆくものらしい
だから予期せぬ出来事でさえ
私が望んでいたことなんだろう

この歌は、TVアニメの「怪盗セイント・テール」(原作は立川恵さん)のエンディング曲だったが、そこでは2番の詩が使われていたので、1番の詩であるこの部分を聴くことはなかった(1番では、この他に「あの日、名前も知らない人の隣で今夜眠っていたりするだろう」など、あまり子供向けでないせいと思う)。

この詩の恐ろしさが分かるだろうか?
前半2行だけなら、アール・ナイチンゲールという成功ビジネスで大儲けした人が営業用のキャッチ・フレーズにしていたもので、一般大衆好みの表現である。
しかし、重要なのは後半2行である。

ひどく悲惨な出来事に逢った時でも、それは自分が望んでいたことであるというわけである。
ただ、注意しないといけないのは、「私が望んでいた」と言っても、それは表面的な意識ではなく、無意識に望んだことである。
大事なものを失くした、恋人に捨てられた、病気になった、大事なところでヘマをした・・・これらは、無意識に望んだことである。
そして、現実になりつつある「心に思い描いたとおりの自分」。それも実に無意識が描いた自分である。それがどのようなものであるかは、あなたの表面の心には全く想定外のものであることは確実である。
「願いがかなえばいいのに」とか言うけれど、人の願いは全て確実にかなっているのである。今のあなたの状況。それこそが、あなたの願いがかなった姿である。

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2006.04.11

魔法の読書

「魔法の読書」というのは、伊丹十三(映画監督)さんが、岸田秀(心理学者)さんとの対談集の中で使った言葉で、「それを読むことで力を得る」ことを期待する読書のことだ。
みなさんも、単に面白いからではなく、何か武器を身に付けるような気持ちで本を読むこともあると思う。伊丹さんもそうだが、ビートたけしさんや、ジャイアント馬場さんのような「異常な読書家」というのはそんな傾向が強いと思う。
ところが。世の中には、一見、力を得られそうで、実は力を失くしてしまうような本の方が多い。ジョセフ・マーフィーの成功法則や、それを元にしたような「なぜか幸運に恵まれる」とか「お金もカレも思いのまま」といったような本といえば、心当たりがあるかもしれない。
最近では、日本一のお金持ちとかいう方が、もうこれは、読んだ人から根こそぎ力を奪うような本を「これでもか、これでもか」というばかりに出しまくっている。推測だが、彼は自分でも気付いていないと思うが、この国への恐ろしくも深い恨みを持っているのだと思う。
力をくれる本というのは、決して心地よくなく、奇妙なことが書いてあると感じるのが普通だ。

20060410

絵を描きました。
クリックすると、大きな絵が出ます。

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2006.04.10

芸術と神秘思想

今現在、超能力を信じている人はどのくらいいるだろう?
超能力とまではいかなくても、血液型性格診断や星占いを多少は信憑性のあるものと思っている人は多いのではないだろうか?
最近、日本物理学界がこういう問題にどう対応するかを議論するシンポジウムを行うとかいう話を聞いたことがあるが、少なくとも国内ではこういった問題への取り組みはいい加減と思える。

さて超能力であるが、絶対にないとは言わない。言わないが、それは「あなたの家の裏庭に大判小判が埋まっていないとは言わない」というのと同じ意味である。もし、大判小判が埋まっていると主張するなら、主張する側が実際に掘り起こして持ってくる必要があるのは当然であるが、超能力に関してもそうである。そして、超能力について、そのような実証がなされたことは現実には一度もない。
同様に、血液型性格診断も星占いも、信じるに足る証拠はどこにもない。しかし、いまだに「私はA型だから性格は・・・」とか「彼はO型だから私と愛称がいい」ということが、明らかな冗談という雰囲気ではなく、それどころか普通に話されることがあるのは驚くべきことである。

30年以上も前と思うが、超能力者を自称する元奇術師のユリ・ゲラーが来日し、TVで超能力パフォーマンスを見せ、すっかり信じてしまった方々が沢山いて、その影響が今でも残っているような気もする。ゲラーは現在に至るも同じようなパフォーマンスを披露しているし、ここ数年は知らないが何度か再来日もしているようだ。

やはり20~30年以上前のSF小説やSF映画、ドラマ作品では、一般的な意味で超能力が存在することがごく普通に語られているものがよくあるようだ。
いや、フィクションだけではなく、自己開発分野での世界的に有名なものや、国内でも、有名なスポーツ選手を指導したことを謳うセミナーの中に超能力まがい、あるいは、ESPカードなど、ズバリ超能力を扱うものが、もしかしたら現在でもあるかもしれない。
これらの主催者が根拠としているものに、1930年代だろうか・・・デューク大学のライン教授が行った超能力実験で肯定的な結果が出たというものがある。成功哲学の権威と言われるナポレオン・ヒルを始め、クラウド・ブリストル、C.K.トーチェ、ジョセフ・マーフィーなど現在でも版を重ねているこれら成功法則の有名人の著書で、ライン教授の超能力実験が超能力存在の証明として取り上げられている。
(ただ、カードの裏側の記号を仮に透視できたとして、なんでそれがビジネス等の成功と結びつくかという点は全くいい加減である等、普通に読んでもひどい本ではあるのだが)
そして、そもそもライン教授の実験自体、まともに検証した科学的な人間で信憑性ありと考える者など一人もいない。実験方法の厳密さや統計の仕方など、全く信憑性に欠けるものである。なにより、あんな簡単な実験なら、もし本当に信憑性があるなら、何度でも実験が繰り返され、その中で実験方法も進歩し、統計にも信憑性が増し、多少は説得力ある資料になっているはずである。

では、芸術に関しての神秘思想はどうであろうか?
絵画の中で天使が飛んでいようが、見たこともない怪物がいようが、地獄や天国が描かれていようが誰も文句は言うまい。
岸田秀氏が「芸術家は公認の嘘つき」と書いていたが、まあ、言い方に配慮は必要としても、絵画の嘘・・・というか、現実にはないものを想像するのは人間の素晴らしい能力と認められているのであるから、全く問題はない。
問題は、芸術や想像を現実と混同することであると思う。確証は無いが、優れた芸術家には、あまり夢想家はいないのではないかと思う。夢想家の作品が厳しい現実を生きる者の共感を呼ぶとは思えない。特に今後はさらにそうで、他の分野で長年活躍して後に芸術家になった者の作品が評価される時代になると私は思う。

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2006.04.09

フロイトと芸術

フロイトは、芸術活動の背後にある動力は満たされなかったリビドー(性的衝動の素になるエネルギー)であり、それが逃避的な空想となって現れたものと考えていたらしい。
そして、十分に成熟した理想的な社会では芸術は必要とされないらしい。
まあ、フロイトは文学に関しては素晴らしい見識を持ち、自らも名文家で通っていたが、絵画に関してはさほどでもなかったと言われている。
しかし、ダ・ヴィンチの「聖母子と聖アンナ」において、マリアの母親であるアンナがマリアとほとんど同じ年頃に描かれていることについて、ダ・ヴィンチには実母と継母が同時に存在したためと解釈したことは高く評価されているらしい。この絵のアンナとマリアは共にモナ・リザに大変に似ており、これら3人の女性にはダ・ヴィンチの母親像が投影されているとも言われている。

フロイトによれば、芸術は逃避的空想であるが、ゴヤは理性と結びついた空想が芸術の母であり、芸術の驚異の源であると、「ロス・カプリーチェス」(版画集)の冒頭に書いている。
だが、空想とは言っても、白昼夢のような空想というわけではなく、理性を吹き飛ばしかねない衝動を伴った空想が芸術には必要と私は思う。
では、フロイトらしく言えば、エス(欲動)が自我に大量に入り込みながら自我がコントロールを失わずに耐えている状態が芸術の母であり、岡本太郎の爆発、イェイツのエクスタシーであると思う。イェイツが精神を鍛えろとさかんに言ったのは、このためと思う。

20060409_1

またラクガキをしました。
左の小さな絵をクリックすると大きな絵がポップアップで現れます。

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2006.04.08

ハッピバースデイ、シッダールタ

今日、4月8日は、日本では、仏教の開祖であるお釈迦様の誕生日とされています。
日本ではというのは、中国、韓国では陰暦の4月8日をその日としているからです。
小乗仏教国(インドやタイなど)では、5月の満月の日です。
釈迦は一説では、5月4日(BC563年)生まれで、その日は満月であったと言われています。

お釈迦様は、生まれてすぐに7歩を歩き、「天上天下唯我独尊」と唱えたとされます。
「天上天下の中で、ただ我一人尊し」とは、なかなか凄い言葉ですが、仏陀宣言なのでしょうか?
ところで、7歩歩いたというのは、六道輪廻の世界を超えたことを意味するらしいです。
六道輪廻とは、人間界を含め、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、天界ですが、これらの世界を生まれ変わり死に変わるのは苦しみであるとされます。人間界よりはるかに素晴らしい天界すら苦の世界です。
釈迦は、この六道輪廻を1歩だけ踏み越えました。20歩や10歩でなく、7歩が良いのだそうですね。人間と接して教えを授けるには、先を行き過ぎていてもいけないわけです。

釈迦は、インドの小国である釈迦国の王様である浄飯王(じょうばんのう)と摩耶夫人(まやぶにん)の一人息子として生まれ、両親は高齢で、母は釈迦出産後すぐに亡くなったこともあり、シッダールタ(釈迦の本名)王子は父の溺愛を受け、贅沢三昧に育てられました。それでもシッダールタは容姿端麗、文武に優れた立派な青年に成長します。
しかし、29歳で出家。悟りを求めて荒行を行う者達の中でも最も凄まじい修行を積み、35歳の時、菩提樹の下で悟りを開いたとされます。

我々にも馴染みの深い「般若心経」(般若経という経典のエッセンス)によれば、この世の一切は空であり、幻に過ぎないとあります。あの短いお経の中に、一切が徹底的に空であることが、これでもかこれでもかと繰り返されます。
全て幻ですから、岸田秀さんの唯幻論と同じです(笑)。
般若心経の最後の部分である「ぎゃていぎゃてい・・・」は呪文で、唱えればたちまちに悟りの境地に入るとされていますが、それが絶対保証であることもくどいほど繰り返されます。
尚、「ぎゃていぎゃてい・・・」は元の音ではありませんので、呪文としてはまずいかもしれません。私はある本で「ガテーガテーパーラダテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」と書かれてあるのを見ました。
で、悟りに至りましたか?(笑)

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2006.04.07

ボーイズ・ビー・アンビシャス

どんな人間が一番ぞっとするかというと、小善人、小市民だ。
小さな価値観を頑なに守って一生を過ごす者である。どうすればそんなことができるかというと、欲望を捨てることによってである。もちろん、彼らだって他人に強烈に敬われたいだろうし、贅沢もしたいし、いい女(あるいは男)も欲しいとは思っている。しかし、それを得るためのリスクより、小さな安定を選んだわけである。
ところが、戦争になり、武器を持ち、たまたまどこかを占領した時、そこの住民に残虐な行為をするのは実に小善人なのだ。
人間は欲望を捨てた気になっても、捨てられるものではなく、無意識の中に抑圧しているものなのだ。抑圧されたものが噴出の機会を与えられると実にクレイジーである。必ず歪んだ形で現れ、限度を知らないものだ。
最初からある程度悪い人なら、欲望が歪んだ形で出る割合は低いので、とりあえず欲求を満たしたら、限度以上のことはしないものだ。
世間を騒がせるような凶悪犯罪をする者が、普段はおとなしい良い人というのは当たり前のことである。普段は欲望を抑圧していおり、それが無意識に溜まり、何かの拍子に噴出した時には理性は効かない。
一寸の虫にも五分の魂というが、どんなにおとなしく弱々しい人でも欲望の総量に差はない。
クラーク博士が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言ったのは、単に「がんばれよ」程度の意味だったらしいが、その拡大解釈の「少年よ大志を抱け」というのは、まことに重要であると分かる。確かに大志を抱くと、自我が揺れて気分が悪かったり、屈辱を味わう可能性も高いが、抑圧した欲望に思わぬ反撃をくらうよりはマシである。

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2006.04.06

ピノッキオとキカイダー

作り物である「人間のようなもの」が、不完全な良心を持つために苦悩するお話として、イタリアのカルロ・コッローディの「ピノッキオ」と、石ノ森章太郎さんの漫画「人造人間キカイダー」がある。
それぞれ、童話、漫画の違いはあっても、意外なほど長く人気を保っているが、この「不完全な良心」というものが何かを感じさせるのではないかと思う。

そもそも、人間の良心そのものが不完全なものである。いうならば、これらの作品を見る者は、自分の不完全な良心をピノッキオやキカイダーに投影し、自分の本当の姿はあんな木彫りの人形か、半分中味の透けて見える機械のようなものではないかと思うのではないだろうか?

ところで、人間の良心とは何であろうか?
人間の良心は、スケールの小さな弱い人間の場合に最もよく働く。いわゆる「小市民」「小善人」と言われる人間である。逆に、生命エネルギーが大きい、すなわち、欲望が大きい場合に良心が働きにくくなる。
で、適度に欲望を持ち、良心もきちんと働くというのが望ましいが、なかなかそうはいかないようになっている。そこが太古からの人間の苦悩である。
普段はきわめて人の良い人間が、戦争中に集団になると残虐な行為をするのは生命エネルギーが増大し、良心が消えた状態である。

人は、生命力に乏しいが良い人である状態も、生命力が大きいが野蛮な状態もどちらも嫌だと思っている。しかし、いずれかになりやすい。
ピノッキオやキカイダーは、そんな人間をよく現している。
そこが人気の秘密と思う。

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2006.04.05

大芸術家はこうして生まれる

人間はみな狂っているという。私も全く同感だ。狂っていない人間など見たことがない。
では、自分はどうかというと、もちろん自分のことなど分からないし、自分は正常だと思っているのは他の方と同様だ。
人間は狂っている中で、なんとか折り合いを付けて生きている。その方法は、1つの文化圏の中で、似た狂い方をすることだ。日本的狂気とか、米国的狂気とかがあるので、お互い相手が狂っていることは分かるが、同じ文化圏の同じ狂い方をする者達のことはそんなにひどいとは思わない。
さらに、地域独自の狂い方や、会社独自の狂い方(企業風土という)がある。会社に入って、その会社の狂い方に合わせないと「会社が自分に合ってない」と悩むことになる。それは違うのだ。「自分の狂い方が会社の狂い方に合ってない」のである。
芸術家は先端の狂気をまとわねばならない。そして、その狂気を文化が取り入れた時、その者は大芸術家となるであろう。

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2006.04.04

移り変わる美意識の謎

美意識は時代、地域によってかなり異なるとは言うけれど、30年前の映画の美人女優や20年前のアイドルとかを見ても、確かに今の美人、美少女の基準とはかなりかけ離れている。
いや、実際はそれどころではない。
小学校も高学年になると、女子は美的に評価される事態も、好むと好まざるとをえず増えるし、本人達も自分の美人度を意識するようになるだろう。
ところが、ある男子が、ある時期、ある美少女を大変に可愛いと思っていたのが、ほんの数ヶ月後にはその子にさっぱりと興味がなくなり、別の子に心惹かれるということがよくある。別に飽きたとか(笑)、新しい意中の子がより美人というわけでもなく、好みの変化としか言いようがないものである。
私も、幼稚園の時、クラスに女神様のように美しい子がいた覚えがあり、後に卒園写真を開いて確認してみたら・・・正直、こんなものが美しいと思ったことが信じられないという経験がある。
そんな私の美的感覚は進歩したか退化したかは不明である。
夕焼け空を見て美しいと思う人は多いだろうが、ジャングルの住民にしてみれば夜行性の獣が目覚める恐怖のサインにしか見えない。
今、美しいと思っているものも、数年、いや、数日したら、少しも美しいと思わない可能性はある。実際、催眠術を使い、一瞬に嗜好を変えることが可能な場合もある。
人間の感覚、思考、このあてにならないもの。
赤く見える、美しいと思う、善と思える・・・デカルトはその全てを疑った。その思考や感覚が絶対的でないことは分かる。徹底的に疑いまくった。そして、何も確かなものは見つからなかった。しかし、「なぜ疑えるのか?」という疑問が沸いた。それは完全な存在を前提にしなければ説明がつかない。これが1つの神の存在の証明だった。それで、彼は「疑っている我は確かに存在している」という結論に達した。
フロイト論者は、デカルトは「我思う故に我あり」と言ったとして、その我は意識であるから、無意識の発見により、デカルトは古くなったと言うが、どうも違うように思う。デカルトはそう表現はしなかったが、疑っているのは意識ではなく、神のような完全な存在から発するものとしていたと思う。意識では「赤い」「大きい」「美しい」と思っているのだからである。
芸術的想像力も無意識から来るらしい。では、それを見る我々も、意識上の美しい、美しくないをあまり信用せず、無意識の囁きを感じたいものだ。もちろん、無意識は意識できないので、何か微妙な感覚として捉える必要はあろうが。

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2006.04.03

その嘘、本当?

一昨日がエイプリルフールとかだったのですが、そこで、
「私の言うことは嘘である」
として、もし本当のことを言ったら、嘘を言ったことになります。
逆に、本当に嘘を言ったのなら、嘘を言ってないことになります。
こういうふうに、矛盾が生じます。

よく聞く例では、
「この壁に貼り紙を禁ず」
と書いた張り紙をしたら、この貼り紙自体が禁止に違反します。

「例外のない規則はない」
という規則にも例外があることになり、「例外のない規則が存在する」ことになってしまいます。

このように、自分自身を含む集合を考えると矛盾が起こりますが、英国の哲学者・数学者のバートラント・ラッセルは階型理論で、そういったことを解決する考え方を示したようです。
この考え方では、貼り紙禁止の張り紙はしても良いし、例外のない規則はないことになります。
要は、規則は自分自身の規則を免れるといいますか、規則そのものと規則を適用するものを同じに扱ってはいけないということと思います。
正確なところに興味があれば、分かる人に聞くか、本で勉強しましょう^^;

20060402
で、ラキガキですが、ちょっと色っぽい絵になってしまいました(?)。
サムネイルをクリックすると、大きな絵が出ます。

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2006.04.02

愚かなロリータ

ナボコフの小説「ロリータ」をご存知だろうか?
米国作家ウラジミル・ナボコフ(ロシア出身)のこの小説は1953年頃に完成し、1962年には巨匠スタンリー・キューブリックにより映画化され、1997年にはエイドリアン・ライン監督で再び映画化されている。
小説や映画を知らなくても、ロリータ・コンプレックスと言われる少女愛好者の語源となったものと言えば、ほとんどの人が見当がつくと思う。

第2次世界大戦直後のアメリカが舞台と思うが、映画で見たところでは、一般家庭にも自家用車、テレビ、電気冷蔵庫があり、庭ではミニスプリンクラーで水を撒き、豊富な商品があるドラッグストアは現在のコンビニのようである。広い車道、ネオン、近代的ホテルや病院・・・極端に言えば、現在の日本とさほど変わらないような豊かさである。
映画制作者の意図しないことだろうが、私はアメリカの素晴らしさに驚いた(笑)。

文学者であるハンバートが、教授に赴任する大学に通うための下宿を探している時、下宿人を募集していたヘイズ夫人(未亡人)の家を訪れる。やたらハイで、おしゃべりで、早い話がアホな中年女であるヘイズ夫人にうんざりし、ハンバートは断る口実を考えるが、庭で日光浴をするヘイズ夫人の娘である11歳のドローレス(愛称がロリータ)を見て、ハンバートは激しく萌える(笑)。
「お嬢さんですか?」
「はい。しつけがなってなくて・・・。で、ハンバートさん。お部屋は借りていただけますでしょうか?」
「え?・・・あ、はい。もちろんです。よろしくお願いします」

ハンバートは9歳から14歳の少女の中にいる「ニンフェット」と名付けた特別な魅力のある少女を愛好している。ドローレスはみるからにニンフェットだったようだ。
ハンバートはここに住むようになってから、鍵付の秘密の手帳にドローレスに関する色々なこと・・・おそらくはエロチックなことが多いと思うが・・・を熱心に書いていく。

こう書くと、ハンバートはまさに倒錯者、変態と思われそうであるが、私は果たしてそうであろうかと疑問に思う。
普通ではないかと(笑)。
ハンバートはロリータに妙なことをすることもなく、立派な中年文学者の態度を取り続けていた。このままの日々が過ぎていれば、ひょっとしたら、特に何事も起こらなかったかもしれない。それなら、ハンバートは良識ある人である。頭の中で何を考えたってそれは別段構わないことのように思う。

ところで、このロリータは美少女ではあっても、タチの悪い子供である。そして、それは明らかにヘイズ夫人の責任である。
愚かな女ヘイズ夫人に育てられた愚かな娘ロリータ。これこそが、この作品の重要な骨子ではないかと思う。
ロリータはハンバートが自分に魅力を感じていることはなんとなく分かっていたと思う。それで、これまで母親と喧嘩する時はあきらかに分が悪かったが、なんとかハンバートを味方にしようとした(ヘイズ夫人とロリータは度々、下らないことで喧嘩していた)。
ハンバートは露骨にロリータの見方はしなかったが、彼女をかばったり、喧嘩に負けて泣いているロリータを慰めるという楽しい役目は大いに引き受けたようだ。

しかし、ハンバートにとっては嫌な現実が襲い来る。ヘイズ夫人はハンバートに自分との結婚か、ここを出て行くかを迫った。
ここらがハンバートの愚かな点である。美少女なら他にいくらでもいると早々に引き上げれば良かったのに、恋は盲目である(笑)。ハンバートはヘイズ夫人との結婚を承諾する。
あまつさえ、ヘイズ夫人はロリータを夏期キャンプに追い出し、新婚二人きりを満喫しようとする。嫌がり助けを求めるロリータだが、ハンバートにはどうすることもできない。
ハンバートにとっては、まるで詐欺であった(笑)。
実話を基にした話のはずだが、このお話はとにかく衝撃的なことが起こる。
なんと、ハンバートが熱心に書き記したロリータに関する(多分やーらしい)手帳がヘイズ夫人に見つかり、しかも、ハンバートは鍵をかけていなかった!(嗚呼!)
変な趣味をやるときには慎重にという教訓を教えてくれる(爆)。

今でも、彼氏の携帯に他の女の子のおかしなメールが残っていれば大問題に発展するが、そんなレベルではない。浮気相手は自分の娘(しかもまだ12)・・・いや、浮気どころか、最初からあちら一直線(笑)。自分のことはブタとかなんとかボロクソに書かれている。多分、この母娘を睡眠薬で眠らせ、母ブタはゴミ箱の横に放置して、ロリータにあんなことやこんなことをしようとした計画も書いていただろう(実行はしなかった)。

ハンバートは、俺は文学者だ、ちょっと身近なモチーフを使って小説を書くくらいのことはするさとか言い訳するが、いったんキレたアホは分別が効かないものである。
奈落の底に落ちる直前のハンバート。だが、ここで恐ろしい幸運(?)な出来事が起こる。
なんと、ヘイズ夫人が近所の男が運転する車に跳ねられ即死する。
ヘイズ夫人を跳ねた男は、ハンバートに震えながら謝罪する。「奥様が急に飛び出してこられ・・・」内心「でかした!」と思うハンバート(※こんなこと小説には書かれていない)は、超人格者の態度で彼に寛大さを示す。感激した男は、葬儀の費用の負担を申し出る。男は、自分が断るに違いないと思っていることはハンバートにだって分かっていた。しかし、ハンバートは「ありがとう!感謝します!」と申し出を受け、男は呆然とする(笑)。
偶然、ハンバートはロリータと父娘の関係を見事に確立してしまったのだ(恐ろしい・・・)。

小説といい、映画といい、ストーリーの面白さは抜群で(小説も映画も基本的に同じストーリーだが)、この後の展開も凄い(いや、本当の面白さはここ以降だ)。
映画は、さすがに巨匠キューブリックのが面白かったと思う。ロリータ役は、キューブリックの方は14歳のスー・リオン、ラインの方は16歳のドミニク・スウェイン。どちらもちょっと大人過ぎで、12歳の雰囲気はさすがになかった。また、あくまでアメリカ的美少女であり、日本人好みとは思えない。

ところで私は、小説の中、ヘイズ夫人の話で、ロリータは2歳の頃、ベッドからおもちゃを放り投げてヘイズ夫人に拾わせて喜ぶ性格の悪い子だったというところが気にかかった。
ヘイズ夫人は拾うべきでなく、拾ったとしてもロリータに返してはいけなかった。
このことで、ロリータは原始的ナルシシズムである、極端な自己重要感を強くし、他人の感情に疎い、自己中心主義のアホな娘になってしまった(もちろん、一時が万事で、何事もヘイズ夫人は同じようにやったのだろう)。

実は私は「ロリータ」は高校生の時に一読しただけであり、記憶違い、読み間違いもあるかもしれない。
また、その後ロリータがどうなったかも分からないが、本には書かれていたようにも思う。
ロクな死に方はしなかったように思うが・・・

20060331
久々のらくがきです。
クリックすると大きな絵が出ます。

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2006.04.01

「美の呪力」を読む

岡本太郎の「美の呪力」を読む。
戦慄する。これぞ岡本太郎の真髄ではないだろうか?
「今日の芸術」は、歪んでしまっている日本の美術界を叩き潰し、一般の人にも(もちろん芸術家にも)芸術のあるべき姿(それは無限ではあるのだが)を取り戻して欲しいという願いから、やや洗練され過ぎの感があった。
しかし、この「美の呪力」は凄い。人間存在の根底を貫く荘厳さも恐怖も歓喜も生のまま取り出して示そうとする迫力がある。
生きたまま心臓をえぐり出す生贄の儀式も、悲劇であるには違いないし、矛盾や不条理であることも強烈に認めてはいるが、岡本太郎のあのぎょろりとした目が、いや、太郎の作品に必ず登場する「目」がそれを睨みつけ、一歩も引かずに対峙している。
醜いイエス、醜いマリア、そして、最高に醜い天使。だが、そこにこそ人間存在、地と天との狭間で苦悩しながら歓喜する生の人間がある。
そして「赤い兎」。岡本太郎の短い詩。わずか10文字が、私には岡本太郎の全存在であることが理解できた。
その詩とは「赤い兎をあげましょう」だ。
岡本太郎はそれを生命の幻想の造形という。幻想でありながら強烈な実感なのだ。それを誰にあげたいのかは分からないという。しかし、私は確かにもらった。もらったものは倍返し。期限が過ぎたら3倍返しが基本である。私も必ずあげようと思う。

岡本太郎が好きな赤で塗った本。加えて太郎の独断と偏見もたっぷりな本(笑)。是非ご一読を。

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