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2006.03.31

明日からワンセグスタート

いよいよワンセグ(1セグメント部分受信サービス)が明日(4月1日)から始まる。
携帯電話の普及により、いつでもどこでも電話ができるという、昔から考えると夢のような話がとっくに現実化したが、今度はテレビ放送についても同じことが実現する。
テレビだから視聴は無料だし、NHKも受信料を取りたくても無理ではないかと思う。なぜなら、ワンセグ受信機器を持っていることが、即、NHKを視聴していることに結びつけることは無理があるし、そもそも、受信機器を持っているかどうかがNHKに分かるはずもない。
通信料もテレビ視聴に関しては無料だ。
願わくば、ソフトバンクが携帯業界大改革を起こし、携帯の通話・パケット料金を大いに下げていただきたい・・・とこれは別の話だが(笑)。

ワンセグを見るには、「対応携帯電話」「ニンテンドーDSにワンセグチューナーを付ける」「受信機付製品(ポータブルDVDプレイヤー等)」を使うが、パソコンではソニーのノートパソコンバイオにワンセグチューナー搭載モデルがある。
ノートパソコンやPDA用のPCカード型のワンセグ受信機が発売されれば一番手軽だが、現在のところ、ピクセラしか発売していないし、これもパソコンとセットで販売の業務用らしい(50万円ほどする)。
ワンセグで、もうテレビはいらない?ことはないか(受信できるのは地上デジタル放送のみ)

ワンセグは、受信側に記憶装置があれば録画も可能で、携帯電話でも短時間なら録画できる(例外もある)。

携帯電話を買い換える予定があれば、ワンセグ対応のものを選択するのも良いかもしれない。ただ、現在はワンセグ対応携帯電話は少なく、ドコモ、au、ボーダフォンとも、それぞれ1つか2つしか選択肢がないと思う。
ワンセグが普及してくれば、モバイルに相応しい放送コンテンツも出てくるだろう。
ただ、混雑した道で携帯を見ながらノロノロ歩くアホがまた増えるような気もする^^;

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2006.03.30

無意識の力

芸術の目的は爆発であり(岡本太郎)、エクスタシーであるのだが(イェイツ)、そのためには(詳しい説明は省くが)無意識の生命力を意識に伝える必要がある。
それには、過激な方法と穏やかな方法がある。
過激な方法とは、ロシアン・ルーレットをやるとか、政情不穏な地域を歩き回ることである。
無意識はあわてて生命力を意識に送り込むが、自我がもたず崩壊する危険がある。それよりもまず、命が危険だ。
で、穏やかな方法を薦めるべきであるが、やはり自己暗示が良いと思う。
ただ、自己暗示や無意識の活用となると、世間に出ているもののうち少なくとも9割は怪しいものであると思う。
現在、出回っている自己暗示や無意識の活用法は、全てエミール・クーエから出ていると思って良いと思う。オリジナルのクーエはとても良いのに、それを自己流のテクニックで改悪化したもの、やたらややこしくておよそ実践不能なものや、あきらかにオカルトになってしまっているものばかりが目に付く。
自己暗示に関し、エミール・クーエ以上のことを言った者はおらず、これを採用すればそれで良いと思う。
エミール・クーエの著書はただ1つで「意識的自己暗示による自己支配」である。幸いにも翻訳があり、「自己暗示」(法政大学出版局)の後半に収められている。前半は、C.H.ブルックスがクーエのテクニックを分かりやすく解説してくれており、実に便利だ。

無意識に関して補足すると、人間の意識は機能的には、フロイトによると、超自我、自我、エスと分かれるらしいが、それぞれの説明が案外すっきりせず、その関係性となるとちょっと理解しがたく思う。(また、意識、前意識、無意識という意識水準による分け方もある。)心理学者の岸田秀氏は、あっさりと、自我とエスの2つであると言う。エスとは、無意識の中心をなす生命エネルギーのようなものである。なんとも乱暴な区分であるが、よく考えると、そのくらいの区分しか普通はできないと思う。
エス(イドとも言う)を自我に取り込むと生命力が上がるが、自我は不安定になる。その不安定さに耐え、さらに不安定を求めるのは際立った芸術家の姿である。イェイツはまさにそのようであったと思う。安らぎや癒しを求める者は芸術家向きではないかもしれない。

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2006.03.29

世界に一つだけの花症候群

単に1つの思索である。SMAPファンの方は気を悪くなさらないで欲しい。私とてツヨポンは好きである(笑)。

SMAPの「世界に一つだけの花」が空前の大ヒットを記録したのは記憶に新しいが、オリジナルの他にピアノ弾き語りヴァージョンやα波オルゴールヴァージョンとかもあるらしい。この曲は、若い女性だけでなく、中年男性にもファンが多いと聞く。
しかし、この歌を聴いた時、うそ臭く感じるくらいが丁度いいと思う。

「ナンバーワンにならなくていい」
これは人の勝手であるので、別に構わない。
たまたまWBCで日本が優勝したが、そうならなかったとしても、こういう気持ちで暖かく迎えてあげて欲しいものである。

「もともと特別なオンリーワン」
これは嘘である。「オンリーワン」というのは正しい。しかし、特別ではない。
「特別」というのは、「特に他と区別されている」「一般と特に異なっている」という意味である。
ところで、「特別なオンリーワン」というこの部分は、この歌が心地良いカラクリである。
なぜなら、誰でも自分を「特別なオンリーワン」と思っていた時期があるからだ。
精神分析で「原始的ナルシシズム」と言われるもので、人間は幼児の時、自分が誰よりも重要で全知万能と感じているものである。
「原始的ナルシシズム」は「特別なオンリーワン期」と言ってよい。

ところが、成長した後でも、この原始的ナルシシズムに逆行することがある。これを「自己愛性退行」と呼び、幼児の頃の全知万能の妄想が復活する。その人間の特徴は、他人の感情に鈍感で、傲慢であり、自分の客観的価値におかまいなく絶対的尊敬を求め、嫉妬深く怒りっぽい。
これって・・・いまやフツーに見られる人たちの特徴ではなかろうか?
混雑した駅の道を携帯電話を見ながらノロノロ歩いて平気(他人の感情に鈍感というより、他人の感情の存在を認めない)、実力通りの(低い)扱いを受けると自尊心が傷付きキレる。自分だけは何をしても許されると信じており、電車の中で通路に群れて座ったり、席についても大股を広げて座る。これらはマナーの問題でなく、幼児の特徴である。

なぜ、幼児的ナルシシズムに満ちた人が多いかというと、やはり親が何でも要求を満たすので、そもそも幼児のまま大人になったこと。
そして、原始的ナルシシズムに退行するのは、障害に出会った時に、それに正面から取り組まずに幼児的全知万能幻想に閉じこもるために起こるのが一般的であり、困難に挑戦せずに逃げてばかりいるためであろう。

「世界に一つだけの花」は、自分が特別なオンリーワンであるという幻想に生きる幼児性ナルシシズムの人間が多いために大ヒットしたのではないだろうか?
TVでも、SMAPが歌う舞台の下で、平和そうな何も考えていない顔で踊る若い女性達を見ると、思わずそう感じてしまった。

私の勘違いであれば良いと思う。

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2006.03.28

いったいどこが「能力開発」?

NLP(神経言語プログラミング)というものをご存知だろうか?
心理療法であり能力開発法であるのだが、1970年頃に、リチャード・パンドラーとジョン・グリンダーが開発したとされている。
1980年に新しいものが開発され、21世紀初頭にまた新しいものが出来たらしい。
早い話が、不治の病気が治ったり、誰でも天才に近付くというものであるらしい。

Web上にもNLPのサイトがあるが、個人的感想で申し訳ないが、あまりにも怪しい(笑)。
ジョン・トラボルタやトム・クルーズが信者であることで有名になった宗教団体サイエントロジーでは、ダイアネティックスという、史上最強らしい能力開発法(これも難病治療が可能とある)があるが、NLPはこれとは何ら関係はない。しかし、目的が同じなら交流がありそうなものだが、そんな話は聞いたことがない。

現在、アンソニー・ロビンスという能力開発分野のスーパースター(?)がいる。
クリントン元大統領やアンドレ・アガシ、故ダイアナ妃を指導したとあるが、ダイアナ妃って凄い能力の持ち主で有名だったのかな?(笑)
このアンソニー・ロビンズは、元々がNLP創始者リチャード・パンドラーの弟子で、極めて有能なNLPのコーチだったらしいが、現在はスピード・コーチングとかいうものをやっているらしい。
アンソニー・ロビンズはとにかく派手な男で、ピークパフォーマーとか呼ばれるようだが、ピッタリの表現と感心する。
今は知らないが、アンソニーは「火渡り男」として有名だった。火のついた墨の上を裸足で歩き、また、他の人にもやらせる。
ところがある時、NLPともスピード・コーチングとも何の関係もないTV番組で、ちびまるこちゃんの声優さんのたらこさんが、海外でこの火渡りをやらされていた。それぞれの手を二人の男の手とつなぎ、あの特徴的な声(ちびまるこちゃんそのもの)で掛け声を上げながら、ほとんど泣きそうな顔で無事渡り終える。なんのことはない。誰でもできるのである。
そして、なんとリチャード・パンドラーの本には、あえて名指しはしていなかったが「火渡りをパフォーマンスに利用している者がいるが、簡単にできることでありNLPとは関係ない」と書かれていた(笑)。

日本では、火渡りのような大掛かりな準備なくできるものとして、名刺による割り箸切りやスプーン曲げのパフォーマンスがよく用いられるように思う。
これらも誰でもできることである。わたしなど、割り箸が入っている薄い紙で割り箸4本同時切断を宴会芸にしていたが(笑)、宴会芸としてもアホらしいので今はやらない。スプーンは、よほど頑丈なものでない限り、女性でも力を入れれば十分曲げられる。

NLP自体は、初期のものはそれなりに良いものがあったような気もするが、もう関わろうとは思わない。
私の意見では、パフォーマンスで宣伝するような「能力開発」は全部怪しいと思った方が良い。
考えて見れば分かるが、何らかの技法で凄い能力が身に付いたりするだろうか?
能力というのは、価値あることを成し遂げるための力であり、目標を達成する中で自ら引き出すものであり、何をしたいか分からない人が他人の指導で能力を引き出すというのは、そもそもおかしいのである。
それを、火渡りや割り箸切りやスプーン曲げや、その他の馬鹿げたことが出来たことで能力が上がったなどと言うのなら、私には失笑ものに思えるのだが。

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2006.03.27

悪い男はなぜモテるか?

前回にも少し書いたが、昔から悪い男がモテるという話がある。
しかも、清純可憐な乙女がなぜか悪い男に夢中になるという不思議なことが多いのだが、その訳は謎とされている。

まあ、信憑性ということになると、あまり単純に信じない方が良い。
清純可憐な少女がワルに惚れるというのは印象深い話なので、実際にはごく稀であっても、よくある話であるかのように誤解されることも考えられるからだ。
丁度、「子供ができずに養子をもらうと、なぜかその後に子供が出来る」という風説もあるが、統計調査を行うと、そんなことは決してないそうである。

ただ、ワルというか、少々、世間の基準から離れた男がモテるというのは本当と思う。
若い男性タレントを売り出す時に、多少不良っぽい雰囲気にしたり、カッコいいワルを題材にした映画や小説、漫画が多いのもその証拠であると思う。

そして、その訳もちゃんと説明できる。
清純可憐・・・というか、真面目な女の子というのは、日常を自分の知識で理解できる範囲で過ごしている。つまり、普通の意識だけで暮らしているわけで、結果がある程度予測できる範囲内でやっているわけだ。
これは、「どうなるか分からないけど、ためしにやってみる」とか「危険な感じがするけど、面白そうだからやってみたい」といったことはほとんどしないということである。
そして、実際の話、危険なことをするのはやはり恐いのである。
これは、無意識から来る欲求をことごとに退けている状態である。
ところが、実は生命力というのは無意識の中に沢山あるのである。それをいつも無視すると、生命力が枯渇してくるのだ。
毎日同じことをやっているとうんざりしてくるのがその証拠の1つである。親に監視されたような生活を送るお嬢様が狂いそうな気分になるのはそのためである。
人類は、祭りというものを発明し、定期的に常軌を逸したことをやることで、人々の生命力を補充させてきた。
しかし、現在の都会では、祭りもないし、あってもさほどクレイジーなことはやらない。

真面目な女の子は生命力が低下するのであるが、ふと不良を見ると、これが生命力に溢れているように見えるのである。断っておくが、本物の不良の場合だ。カッコだけ不良で、群れてコンビニの前でヤンキー座りしてるにーちゃんはもちろん魅力はない(笑)。聞けば、今の「不良」はインネン付ける相手は老人か身障者ばかりだそうだ。
しかし、本物の不良は、生命力を求めた行動をしている。無意識の要求に素直で、学校が嫌なら堂々と一人でサボるし、スピードが好きならバイクをぶっ飛ばす。身体を鍛え、勝つか負けるかは分からないが、強そうな相手にケンカを売る。
こういう、無意識の生命力を普通に取り込んでいる存在を見ると、真面目な女の子は自分も生命力を高めたいと感じるのである。しかも、自分もやりたいが恐くてできないことをやっている姿には当然憧れるわけである。

しかし、モテる男になるのに、別に不良をやる必要はない。ごく若いうちは他の手段もないだろうが、要は安全コースをとらず、あやうい状態に耐えていれば良いのである。
昔の中森明菜の歌にあったように「危なげなあなたしか、もう愛せない」と思われれば良いのだ。

尚、芸術の極意もまた、無意識の生命力を取り込むことである。ピカソやゲーテが老齢になってもモテたのは、お金持ちだったこともあるが、無意識からの生命力を普通に発揮していたことと関係があると思う。岡本太郎さんも大変にモテたようである。

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2006.03.26

サガが上手にピアノを弾けた訳

画家を志望しているような人が「何を描いていいのか分からない」と悩むことがあるようである。
岡本太郎さんによると、絵を描くということは人間の本来的な欲求であるらしく、しかもかなり激しいものであるのに、画家になろうかという人がそんなことを言うのは面白いものと思う。

おそらく、そのような人は、ある意味大変に真面目で、心の不快を嫌う人ではないかと思う。芸術には、衝動的なものが必要と思うが、衝動というのは無意識の中にあるように思う。この無意識の中の衝動が出てこない限り、創作意欲というのは沸かないに違いない。
ただ、無意識の衝動を出すということは、無意識であるから正体が全く分からないものを表の意識に取り込むことであるから、考えてみれば恐ろしいことであると思う。
自分はこのようなものであると思っている自我に衝撃を与えないとは考えにくい。自分の知らなかった自分が出てくるわけであるから、自我は大いに揺らぐことになる。
特に意思が弱く、自我がもともと確立していないような人には恐怖と言って良い。よって、そのような人は無意識が意識に入ってくるのを避けているだろう。つまり、狭い意味での善悪にかたくなに従って生きているのである。
普通の真面目な子が不良に憧れるのは、無意識を意識の中に取り込もうとする欲求があるのではと思う。無意識は生命力に溢れているに違いないからである。実際、多少ルール破りをしているような子供や若者の方が活力があるようである。
米国では、無意識を意識に流入させるのに、LSDやマリファナといった覚醒剤を使用した芸術家も多かった(多い)と思う。ただ、無意識は自我を脅かすので、自我がある程度強固でないと、精神異常などを起こすこともあるようである。

岡本太郎の爆発は「生命が宇宙に一瞬で開くこと」などと訳の分からないことを言っているが、要は無意識が意識に流入してくることと思う。自我から見れば、無意識に対して自己を開け放っているような感じがするのだと思う。無意識を宇宙としたのは割に分かりやすい表現である。
自我が揺らいだ岡本太郎さんはよく奇声を上げたようであるが、そこは大芸術家だから許される。
旧ソ連で、平凡な労働者に、自分が大画家であると催眠術をかけたところ、猛然と絵を描きはじめ、最初は下手だったが、やがて名画を描くようになったという話がある。どんな催眠術をかけたのかは知らないが、無意識を意識に流入させることを促すものだったと思う。場合によっては危なかったが、彼はもともと絵が性に合っていたのだろう。衝動を絵に向けることができ、たまたまうまくいったのに違いない。

真面目で窮屈な自我を持っている人が芸術家になるのは難しいようである。
「ちっちゃな雪使いシュガー」というアニメで、ピアニストのビンセントという青年が11歳の少女サガが入れたコーヒーを飲み、「窮屈な味だ」と言い、サガがそれをとても気にするということがあった。
サガは、ビンセントに心惹かれはするのだが、時々粗暴だったり常識外れの行動をするビンセントに抵抗を持っていた。
ビンセントが属する劇団の公演日近くに、劇団のピアニストが怪我をして、ビンセントはサガに代役を頼むが、サガはとてもそんなことはできないと断る。しかし、サガは説得に負け、最初は緊張したが、心を決めた時、これまでになかったほどの出来で演奏する。サガの意識は広がり、無意識が流入した状態だったと思う。
アニメ制作者はどこまで考えていたのかは分からないが、芸術として面白い話であった。

20060326

本文とは関係なく、絵を描きました。
クリックすると、縦800ドットもある絵が出ます(^^;

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2006.03.25

愛すべき画家ネロ

アニメ「フランダースの犬」のDVDのジャケット画を見て思わずコケる(笑)。
なんとも育ちの良さそうなのほほんとした少年・・・。
この物語を本で読んだ方も多いと思うが、原作通りのものを読んだ人は少ないのではと思う。確かに、原作は子供が読むには悲惨過ぎ、アメリカではハッピーエンドで終わるよう改変されたものがあるとか。

「フランダースの犬」は、「泣ける物語」の定番と言われるが、皆さんはどこに泣けるのだろう?純真そのものの愛すべきネロに最悪・悲惨な運命が襲う不条理であろうか?
そして老犬パトラッシュの示す人間以上の愛情と忠孝。それらが重なり、いいようのない感情の高まりを止められないというわけではないだろうか?

アニメ版は、別のお話位に考えた方が良いかもしれない。
原作ではネロは15歳で、青年と言って良い年齢である。そして、幼い頃から際立った美少年で、画家は競って絵にしたとある。アロアは物語の途中で13歳になるが、やはり素晴らしい美少女となっている。この二人が大の仲良しであるから、アロアの親としては心配であろう。しかし、アロアの母親は、二人がいずれ結婚するのではと自然に感じていたようであるし、父親のコゼツでさえ、それは分かっていたようだ。二人とも、ネロそのものは素晴らしい少年であることも理解している。だからこそ、コゼツはネロにきつくあたるのであるが。
ネロのおじいさんは、80歳の時に2歳のネロを引き取ったというから、物語の中で90歳を超えていることになる。ネロとおじいさんは、これ以下はないという位貧しく、何日も食事にありつけない日があったにも関わらず、瀕死のパトラッシュを連れて帰り、懸命に看病して生き返らせ、その後も大事にした。パトラッシュは、その恩義を決して忘れなかったよう語られている。

ネロはただ心優しく純真であるというだけではない。野望もヴィジョンもあった。
ネロはアロアに、僕は必ず偉くなると宣言する。一種のプロポーズかもしれないが、それは偉い画家になってコゼツさんに認めてもらった上のことと考えていたようだ。
しかし、「偉くなれないなら死ぬ」という言葉には悲壮なものがある。そこまで決意しないと好きな女の子に告白できないとは悲しいものだ(ただ、この時はネロはまだ、アロアを子供扱いしているように思える)。

ネロはルーベンスの絵を見るのにお金がいることに憤っていた。ルーベンスは決してそんなことは考えなかったはずだと思う。もちろん、ネロにはそのお金がない。
しかし、ネロが板にアロアの肖像画を描いたのをコゼツに見つかり、コゼツは気を悪くしながらも、その絵があまり良いので、ネロにお金を払って譲り受けようとする。しかし、ネロはお金を取らず、タダでコゼツに渡す。そのお金があれば、ネロはルーベンスの絵を見れたし、少しはマシな夕飯を用意できたかもしれない。しかし、ネロはアロアの絵をお金にしたくなかったのだ。

この物語が読者を虜にするのは、おじいさんが死に、ネロは家賃が払えず幼い頃からの思い出に満ちた小屋を追い出され、唯一の望みを託した絵のコンテストの発表のある隣町に向かうあたりからだろう。
ネロは自分も空腹で死にそうだったが、パトラッシュにパンを食べさせるために物乞いする。しかし、訳あってコゼツに嫌われていたネロ(コゼツの粉挽場に放火したという濡れ衣)にパンを恵む者はいない。
コンテストに落選し、失意の中で仕方なく村に帰る途中、コゼツの全財産がはいった財布を拾い、餓死寸前でフラフラしていたのを気を引き締めて財布を届ける。コゼツはいなかったが、アロアとアロアの母親に財布を渡し、見つけたのはパトラッシュだから、パトラッシュの世話をして欲しいと言い、パトラッシュに自分を追わせないよう頼むと、パトラッシュが外に出ないよう素早くドアを閉めて厳寒の中に立ち去る。
パトラッシュも餓死寸前でありながら、並べられたご馳走に見向きもせず、ドアが開いた一瞬を逃さず外に飛び出し、老いぼれ傷付いた身体でネロを探す。雪のため、ネロの匂いを見つけるのは難しく、大変な困難の捜索の末、パトラッシュは大聖堂の中で倒れているネロを見つける。

このあたりで、もううるうるする方、はや号泣する方いらっしゃるであろう。
・・・私もである(笑)。

大人たちに顧みられずに虚しく死ぬお話としては、ご存知のアンデルセンの「マッチ売りの少女」がある。
年齢が幼いことと、たった一人で死んだことはマッチ売りの少女の方が悲惨である。ネロはパトラッシュと抱きあって死ぬことができたし、生きていた時には、貧しいながら優しいおじいさんがいたし可愛いアロアが慕ってくれていた。
マッチ売りの少女は大晦日、ネロはクリスマスという、他の人達が幸せな時に空腹と寒さで死んだ。しかし、二人とも、かすかな微笑みを浮かべて死んでいたとされる。二人とも、死ぬ間際に美しいものを見たからだ。
しかし、マッチ売りの少女は、多少の同情を寄せられただけのように思える。対してネロはコゼツを改心させ、「私の婿になるはずだった」と言わせた。美しいアロアは泣いてくれたし、絵のコンテストの審査をした高名な画家は、本当はネロが選ばれるべきであったと言い、ネロが天才であることを認めていたと告白した。幸せというのはおかしいかもしれないが、実際、ネロは満足して死んだのだった。
ネロもマッチ売りの少女も、奇跡的なことと思うが、誰も恨むことなく死んだのは確かなようである。

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2006.03.24

泣いちゃダメ

「泣くな!」「泣いてはいけない」という言葉を映画やTVドラマ、あるいは小説で時おり見かけるが、これはそもそもどういう意味だろう?
分かりきったことのように思うが、意外と不可解である。

まず、「泣く」のはなぜであろうか?
肉体的な苦痛という場合もあるが、それだけで泣くのは子供である。
やはり、精神的苦痛のためであろう。
そして、どんな精神的苦痛で泣くのかというと、それはほぼ「屈辱」であると思う。
では、屈辱とは何かというと、自尊心の失墜である。例えば、大勢の人の前で恥をかかされたり、軽蔑する嫌な相手に無理やり従わされたりする時である。

さて、いよいよここに辿りつくが、「自尊心」の正体は何だろう?
それは自我そのものであり、自我の存続の危機が自尊心の失墜と感じるものである。
なぜそうなるかというと、自我とは誇り高いものだからだ。ただし、立派な誇りではない。まるで根拠の無い妙な誇りなのだ。思いっきり傲慢で、何でも自分の言うとおりになると思っている子供や、金持ちのぼっちゃんや嬢ちゃん(つまり精神的な子供なのだが)を想像してみれば良いが、あれが自我の割に純な姿である。ワガママ放題のぼっちゃんを非難するのは、根本的には誰でも同じだからである。
おぼっちゃんが、自分が「右を向け」と言えば、誰でもそうすると思っているのに、逆に「右を向け」と命じられ、「誰に向かって命令してるんだ」と怒ったら、圧倒的な腕力で叩きつけられ、無理やりに右を向かされた時の気持ちが、人間が泣くという感情である。
この時、「命令する権利のある偉い自分」という自我は存続の危機に陥るのである。

彼に振られて泣くというのも全く同じだ。
彼に愛されているという感情が、自我を支えているのである。心の奥では愛されて当然と思っている。たとえ、表の意識では「あんな素晴らしい男性が自分を愛しているのは不思議だ」と思っていても同じである。
その彼の浮気現場を見たら、誇り高い自我は崩壊の危機に陥る。その時に自尊心の失墜という感情が起こり泣くわけである。ただし、誇り高い自我が、「あの程度の男、あのコにくれてやるワ」と無理に思うことで自我の防衛を果たす場合もあるかもしれないが、やはり隠れて泣くのだから同じだ。

さて、そのような時、「泣くな!」と言うのはどういうことなのだろう?
つまりそれは、「耐えろ!」という意味に他ならない。
自尊心の失墜、つまり、自我の崩壊の不安に耐えろということである。
それが良いことであるから、「泣くな!」と言うのは、立派な人物と決まっている。

泣く者は、自我の支えを失っているわけである。すると、その者はすぐに次の支えを探すのだ。慌ててね。そんな時はロクなものが見つからない。宗教にはまったり、ロクでもない男(あるいは女)に騙されるのもそんな時である。
しかし、「耐えろ!」というのは、単にそういった被害に遭わないためのものではない。
それは「心を鍛えろ!」ということである。
実に自尊心の失墜に耐えることにより、はじめて心が鍛えられるのである。
心が鍛えられると、より大きな経験に耐えることができる。どんな経験でも、それが良いものであれば自我の崩壊の危機はつきものである。だから、心の弱い者は新しい経験にしり込みするのである。
つまり、自我の崩壊の不安に耐えることを軽い段階から始めていき、少しずつ、より強烈な自我の崩壊の恐怖に耐えることで、耐えられえる度合いは大きくなる。
よって、小さなプライドを失うことを恐れて何もしない者は、残念ながら、一生弱いままである。

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2006.03.23

WBC狂想曲

WBCで日本が優勝したからといって、なぜ「感動しました」「ありがとう日本」なのか?
別に大和民族の優秀性が証明されたわけでも、日本人そのものが見直されるわけでもない。
単に日本のプロ野球のレベルが高く、選手およびスタッフがよくがんばったというだけの話で、それに関しては私も素晴らしいと思うが、それだけではだめなのだろうか?

もし、日本選手団が何か特別に不利な状況にあったのなら感動も分からないでもない。例えば、昔なら考えられたが、アジアの選手団には安い劣悪な宿舎があてがわれたというようなことであるが、WBC参加国の選手はいずれも国や企業、あるいはコミッショナーからの手厚い援助を受けていたと思うし、特に日本はかなり良い状況だったはずだ。

昔、力道山が巨大なアメリカ人レスラーを空手チョップでやっつけた時も、こんな感じだったのではないだろうか?
当時の日本人のアメリカに対する劣等感はすごいものだったはずだ。しかし、それは今でも変わらないと思う。「日本人離れした」という言葉が大変な褒め言葉であったり、英語を習うのは良いが、アメリカ人の大げさなジェスチャーまで真似したりする。なんとも卑屈なものである。

それと、「野球は素晴らしい」「がんばればこんな舞台に立てることを子供たちに教えたい」といった妙なものをくっつけ過ぎるのは、自社の宣伝をする社員のごとしで、どこか組織人としての卑屈さがないだろうか?

仮に、日本チームが散々な成績で終わったとしても、イチローが屈辱を感じるのは当然としても、一般日本人までが屈辱を感じる、つまり、アメリカなどへの劣等感という歪んだものに苛まれることがなくなった時が、日本が本当に独立国家になった時といえるような気がする。
日本の優勝に狂気乱舞する気持ちは、かつてサッカーW杯フランス大会から帰国した選手に生卵を投げつけた者の気持ちと表裏一体ではないだろうか?

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2006.03.22

みんなこうして天才になった

コリン・ウィルソンは「至高体験」の中で、「いかなる天才も内的な衝動にすぎない」と書いていた。
しかし、これでは足りない。
ロック狂が「最高だぜえ!」とギターを鳴らしている時、確かに内的衝動がある可能性もあるが、彼は天才ではない。
しかし、彼がマシンガンを構えた兵士達の前で演奏したら天才になれる。ただし、立派に演奏できればの話だ。
つまり、気持ちいい高揚感など、天才と何の関係もないのだ。
内的衝動とは、自我を破滅させるほどのものでなければならず、しかも、意思の力でそれに耐えることで天才になる。
コリン・ウィルソンが天才になったのは、青酸カリを口に含む刹那であった。しかし、彼の意思は幸運にも冷静であった。彼は自伝にこのことを書きながら、なぜか天才の秘訣を誤解している。彼は天才になり、その数年後に世界的作家になったのだが。

断っておくが、自殺志願者が天才になれる可能性は最も低い。なぜなら、自殺とは、自我を意思の力で支えることを諦めた者が取る道で、天才に最も重要な意思の力を欠いている。
(三島由紀夫などの例はまた意味が違うが、今考える余裕がない)
ウィルソンはそれまでに精神を鍛えていたのと、彼の自殺の動機はいわば、自我を消したいというよりは、この世の不条理に対する反抗であった。

ところで、「フランケンシュタインの城」にウィルソンの少年時代の面白く、ためになる話があった。ウィルソンは、弟と遠出したが、帰り道で道に迷い、すっかり暗くなり、しかも冷たい雨に降られる。弟は泣き喚きパニック状態だ。ウィルソンもそうしたかった。しかし、「兄である」という自覚が、「しゃんとしている」ことを自分に命じた。その時、ウィルソンに力の感覚が沸きあがる。彼は天才力を発揮し、無事帰還する。

邦画「地獄変」で、仲代達矢演じる絵師良秀は、娘が生きたまま火に焼かれるのを凝視し、「地獄を見て」、それを見事に絵にする。
彼の意思は自我の崩壊の危機を耐え抜き、天才になり、名画を描くが、その絵を見た、良秀の娘を火あぶりにした主君は自我を崩壊させた(軟弱な意思の持ち主であったので)。

内的な衝動(自我を崩壊させるような揺らぎ)と意思の力が天才の秘密なのだと思う。

20060321
恒例のラクガキです(笑)。
「あの娘っこさ、嫁にしてえ」
「馬鹿こくでねえ、あれはまだ13か14で、しかも、カールが息子の嫁に狙っとる」
「ほんとだべか?しかし・・・」
「カールの息子は利口そうだ。おめえなんか相手にならんべよ」
こんなアホなことを考えながら描きました(笑)。

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2006.03.21

天才芸術家ハイド氏

私は「ジキル博士とハイド氏」は、小学校低学年で読んだきりなのでよく憶えてはいないが、古い映画で見た印象では、残酷なハイドはまさに天才芸術家の姿だと思った。

人間の人格が善と悪に分離するなんてことはない。なぜなら、善と悪なんてものが存在するわけではない。
ハイドというのは、普段は無意識にあるものが大量に意識の中に流れ込んだ状態だと思う。そして、これこそ大芸術家の秘儀である。
無意識の中の生命力が意識に流れ込むと、自我が危うくなる。自我を支えるものが破壊されるからだ。その自我がせいぜいもちこたえている不安定な状態に天才が出現する。

ダリの絵なんて本当は狂人の絵だ。なぜ本人が正気を保っているのか不思議なものだが、こんなことが分かった。ダリは、普段大事に持っているある木片を失くした時、パニックに陥った。それがダリの自我を支えている幻想だったのだと思う。

実に天才芸術家になるとはそういうことだと思う。横尾忠則も、芸術家には狂気が必要というが、狂気とは無意識の生命力が意識に流れ込んだことであり、それが芸術を生み出す秘密なのだから当然と思う。
もちろん、単に上手い絵描きに狂気は必要ない。
岡本太郎も、不意にわめき声を上げて叫びたいとき、実際にそうすると書いてあるのを読んだことがある。
芸術家と反対の人間である優等生や上流階級の有閑マダムは最も狂気と縁遠い。なぜなら、意識を小さなものにして自我を固定し、無意識をシャットアウトしているからだ。いわゆる「小さくまとまった」状態だ。だが、自我の想定外のものが出現するとあっさり狂い、自力で戻れない。自我が脆いのだ。

これで、イェイツが言った、「考えうる限りの苦痛に耐えたものが、最大の美を創造する」という意味が分かる。無意識から流れ込む生命力の激震で崩れそうになる自我のピンチに意思が耐えてこそ芸術を生み出すからだ。

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2006.03.20

変身願望

ご存知のように、人間には変身願望があるようだ。
「この映画を観終えたら、あなたはいままでのあなたではいられない」
といった宣伝コピーにわくわくしたりする(笑)。
「タイタニック」がそんな映画と言われていたと思う。確かに、映画を観て数時間、しつこい人なら1週間位は気分の高揚が続くかもしれない。
ケビン・コスナー主演の「フィールド・オブ・ドリームス」もそうだと言われた。超常現象満載、オバケも沢山登場する(笑)不思議な映画であるが、忘れかけた夢を思い出し、劇場から目を真っ赤にして出てくるそうな・・・

書物となると、もっと現実味があるかもしれない。
「ネバー・エンディング・ストーリー」で少年に老人が言ったように、「本ってのは読むのに根気がいる。音がバリバリバリって出たり、バババって光が出るわけでもない」のである。
映画やTVは、お客様を楽しませる工夫があり、何にも考えなくても楽しめるが、読書はその点、指向性は自分の意思で決定する必要がある。

意識を変革する本・・・という触れ込みでいうと、「マジック・ストーリー」(ソフトバンクパブリッシング)という本がある。1900年に米国サクセス・マガジン誌で発表されたものを出版したとある。物語は、さらにその数百年前に書かれたという。
わずか1000円。すぐに読める薄い本なので、この程度なら騙されたと思って読んでみてもいいかもしれない。
(著作権はとっくに切れており、原文ならネット上でみかけたことがある。翻訳には著作権がある)
読みさえすれば不可能は何もなくなるという紹介がある。貧しい男が、一晩で億万長者になるアイディアを思いついたり、倒産しかけた会社が15日で好転、以後は恐ろしい勢いで成長・・・というのが前書き。本文の前半では、いかな社会のおちこぼれも、一読(あるいは、その内容を聞いただけ)で別人になり、以後はあらゆる不安も持たなくなるという夢のような物語だ。
私も読んでみたが・・・効果があるかどうかは言わないでおこう(笑)。良いか悪いかも分からない。
ところで、画家が成功するのは難しい。この本では、これっぽっちも認められず、朝食すら食べるお金がなかった画家が、この物語を一読してすぐさま成功する。
本自体は面白いので、千円が惜しくないなら暇つぶしに読んでもいいかもしれない。「面白くなかったぞ」と文句を言われても困るが・・・(笑)。
20060319
また絵を描きました。え?ヒマなんじゃないかって?いえ、そんな・・・^^;
クリックすると大きな絵が出ます。

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2006.03.19

国際スポーツと芸術

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、日本はなかなか苦労しているようである。
世界的にWBCへの関心はまだまだ薄いようでもあるし、不自然な2次リーグの組み合わせなど、所詮米国による大リーグのエキジビションという見方もあるが、やはり自国のチームを応援する熱狂振りは十分にうかがえる。
サッカーのワールドカップとなると、歴史があるということもあるが、あの熱狂振りは凄い。誰かが、あれはスポーツではなく、擬似戦争であると言ったが、その通りと思う。
自国の勝利とか、母校の勝利にこれほどまでにこだわるということは、昔誰かが言った「世界は一家、人類はきょうだい」というのは大嘘であろう。実際、この表現は大問題であると思う。このスローガンからは、外国の人との間でも精神的な面まで共通するはずだという大誤解が生まれる。
全人類で共通するのは、基本的な生物学的形態と機能であり、知的能力も基本的には違わないが、精神というものは環境や教育で後天的に構築するものであり、文化が違えば決定的に異なる。
人間が文化的生物であるというなら、外国の人間は全く別の人間と思った方が良い。ただし、人間としての価値は等価であることが認識されれば良いだけのことである。
ところで、国別(あるいは県別や学校別)の対抗戦がかほどに盛り上がるのは、根本的には自分が所属する集団の優位性がかかっているように思うからではないだろうか?
私は子供の頃から、非国民と言われるほど、オリンピックなどで日本の勝利を喜ぶことが全くなかった(笑)。また、母校を特に応援しようという意欲も全くなかった。それは、自国や母校の勝利にこだわり、勝利に熱狂する人々を見て恐ろしいものを感じたり、醜いものを認めたからである。そして、そのような熱狂を離れたところに美しいものを見つけることが多かった。それはきっと、大衆の中に真理は無いからだろう。
では、芸術はどうだろうか?自国の芸術をことさらに誇るなら、やはりスポーツや戦争のようなものだ。
岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、もっと分かりやすく言えば、イェイツが言ったように「芸術の目的はエクスタシー」である。そして、エクスタシーとは突然の安らぎと力の感覚である。だが、それは苦痛を伴う。考えうる限りの苦痛に耐えたものが、考えうる最大の美を創造する。
スポーツも、もともとは本来の芸術のようなものであったと思う。しかし、芸術同様、利用されるものになってしまったように思える。

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2006.03.18

失われた記憶

「過去は捨てた」なんて言うことがある。しかし、過去を忘れることはできない。
人間というのは、基本的に記憶力抜群である。ほら、あの嫌な思い出をしっかり憶えている。

ルイス・キャロルは、生涯に膨大な数を書いた少女への手紙の1つに、「ものを忘れるレッスンを受けましたよ」という冗談を書いている。「忘れてしまうというのは、なんとも気持ちがいいものです」と書いていたのは、案外、願望かもしれない。

しかし、本当は人間にとって記憶を失くすというのは最大の恐怖である。なぜなら、それは自我の土台を失ってしまうことであり、人間は自我の崩壊が何より恐ろしい。自分とは、結局は記憶の積み重ねに過ぎない。

1998年の「ウルトラセブン 失われた記憶」で、過去の記憶を失ったモロボシ・ダンは自分の過去を探すが、出会う人みんながそれに否定的だった。彼を慕う少女の母親は、「過去がそんなに大事ですか?」と言うし、バリエル星人にまで「なぜ過去にこだわる。なぜ今の自分を認めようとしない」と言われてしまう。

それでも人間は過去と、それによって確立される自我にこだわる。「母を訪ねて3千里」で、マルコが母を求めたのも、母親を確認しないと、自己というものがあやふやで不安だからである。人間が、その存在を確固としたものと思わせる記憶というのは、ごく幼い時のものである。その中で母親との関係は重要なので、やはり実母を知らない子供は母親を探す。ただし、母親に会ったマルコはそれで納得し、その後母親と分かれても別にどうということはないはずだ。実際、苦労して母親と巡り合った人というのはそんなものだ。

過去を忘れるというのは本当は良いことに違いない。自我の土台を作ったはずの幼い時の記憶というのは、案外歪んだ嘘である。幻想と言い切った人も少なくはない。それなら、今の時点で新たな自分を作っても良いかもしれない。それを望む者も多いに違いない。ただ、うまくいくとは限らないのだが・・・。
20060318
絵を描きました。
クリックすると大きな絵が出ます。

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2006.03.17

ニワトリが先か卵が先か

「ニワトリが先か卵が先か」なんて命題があったが、なんでこんな問題があるのか不可解だ。
答えは言うまでもなくニワトリである。
ニワトリはもちろん、鳥類は親鳥が卵を温めて孵化させるのであり、卵だけあって親鳥のニワトリがいないと卵は永遠に孵らず、ニワトリはこの世に登場しない。
昔の鳥類はどうだったかと考えても、陸の動物は海の生物から進化したのであり、魚類でも貝類でも頭足類(タコやイカ。タコは哺乳類ではない(笑))でも卵を産む。この場合でも当然親が先である。なぜなら、水中生命はアメーバのような単細胞生命から始まったのであり、これらの生物は細胞分裂で繁殖する。そして、進化の過程で卵を産むようになったのであり、やはり親が先である。
20060316
ラクガキです^^;
クリックすると大きな絵が出ます・・・

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2006.03.16

家康の秘訣

実話かどうかは怪しいが、徳川家康が、天下を取る秘訣を尋ねられた時に「長い方、短い方のいずれがよいか?」と言い、質問者が「両方お願いします」と言うと、こう答えたらしい。
「短い方は『上を見るな』、長い方は『身の程を知れ』である」
こんなことを聞いた時、そのまま受け取って感心してはいけない。いかなる言葉も、その人物のバックグラウンドを考慮する必要がある。

ソクラテスの有名な言葉「汝自身を知れ」も、「身の程を知れ」という意味らしいが、ソクラテスの場合は、神々との比較においてであったと思われる。
しかし、家康は他の人間を対象として考えていたと思う。

家康は、幼い頃から人質としてあちこちでたらい回しされ、忍従の生活を送っていたと学校で習ったが、案外、のびのび楽しく暮らしていたとも言われる。私もそうだと思う。もし本当に幼い頃から抑圧された窮屈な生活を送ると、例えば、そのような幼少時代を送った三島由紀夫や芥川龍之介のように、秀でたところがあっても自我は危ういままで、若くして自殺したように、あまり確固とした自己を確立できないように思う。
家康は幼い頃から良い教育を受けていたことが明らかなように、やはり大事にされていたと思う。
同時に、あまり知られていないが、家康はあらゆる武芸に通じていたが、一流の先生に学んでいる。武芸にしろ、演芸にしろ(スポーツもだが)、それに取り組むメリットは、「上には上がいる」ことを知ることである。そして、あまり上達しない者は自分を過大に評価して慢心している者が多い。家康は、武芸の訓練を通じて、「身の程を知る」教訓を得たのではとも思う。
特に、人間は年を取れば取るほど、また権力でもあればなおさら自分を過大に評価するようになり、身を誤るものである。家康が死ぬまで、いや、死して後も長く徳川家が安泰であったのも、家康が謙虚さを第一の戒めとしたことと関係があると思われる。

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2006.03.15

ニートの本質

ニートの問題が深刻らしいが、考えて見れば、学校のクラスの中で、ニートにならざるをえないようなタイプが1人や2人はいたように思う。
休み時間は一人でぽつんとしていて、遠足では、バスの中で、席を決められないと自分の座る場所がなく、授業でも教師が無神経に「二人組になって」とか言うたびに恐怖を感じるような子がいたのではないか?
そんな子のことはよく憶えていたりする。
基本的には、他人恐怖症なのだが、何が怖いのかというと、他人が自分の都合の良いことをしないことである。他人が自分の意に反することを行うと、無力感に襲われるのである。
彼らは、自分は神のような存在だと思っているのに、他人は自分を攻撃してくるし、自分に彼らを撃退する力がない。そのような自分の無力さに耐えられない。

このようなタイプは引きこもりになる可能性が高いが、攻撃的になる場合もある。
特別な分野で特技を磨いたりして、他人に差を付けることで神の座を回復しようとしたりする。男の子なら、個人教授してくれる人がいて空手を習いはじめると夢中になることもある。
ただ、こういうことも良い方向に行けば良いが、孤立を深める可能性が高い。
それを社会に出るまで引きずると、最初こそは苦しいが、やがてその卓越した能力で独裁的になることもある。
そんな状態になっても、彼らは、子供の時、学校の裏庭でぽつんとしていた頃と変わらない。やはり他人が怖いのである。そして、やはり彼らは神なのだ。実は、どんな人間でも大なり小なりこの傾向はある。自分は神ではないし、特別な人間でもない。対等な他人との関係の中でうまくやっていくしかないことに耐えられない。
彼らはマッケンジー神父やエリナ・リグビーになるしかないのだろうか?
※エリナ・リグビーは、ビートルズの歌の題名でもある、その歌の登場人物。すっかり老い、貧しく、穴だらけの服で、いつも王子様を待っている哀れな老婆。マッケンジー神父は、その同類の誰も説教を聞きに来ない神父。

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2006.03.14

アメリカ男性の日本人化

アメリカのアニメや映画のヒロインは、日本人男性好みとはいえない場合が多い。
アメリカンヒロインは、立派な大人であることが多く、アニメでは顔に(美しい?)しわが刻み込まれているのが普通に思う。日本のミドルティーンのヒロインのように、お肌ツヤツヤのお子ちゃまではないようである。

アメリカは力の国であり、現実的にヒロインになるには大人の知恵と経験が必要だという意識が強いのだと思われるが、私は、アメリカ人のヒロイン像にディズニーの影響が大きいと考えている。ディズニーは、アニメにせよ、かぶりものをした舞台にせよ、お姫様が清純可憐ということは全くない。大人の女性の顔の特徴を強調し、体形もメリハリがある(笑)。アメリカの子供はみんなディズニーで育つといって過言ではないので、ああいったタイプを好ましく感じるよう条件付けられているのではないのか。

そんなアメリカでも、日本人男性が萌え萌えな美少女キャラを有するアニメが放送され、漫画が出版され、大人気であるようであるが、実は昨今、アメリカ人が日本人に似てきたという話もある。
以前は、愛想笑いをするはにかみやといえば日本人だったが、最近はアメリカ男性にもこのタイプが増えているようだ。これは、日本の精神的侵略であろうか?(笑)

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2006.03.13

想像力の魔力

捕虜になった人間は自堕落になることが多いようです。
ロマン・ゲイリの「天国の根っ子」という小説がそんなことを描いているらしいです。らしいというのは、この小説が国内で売られているかどうか私は知らないからで、私はコリン・ウィルソンの「至高体験」という本で引用されているのを読みました。

フランス兵はドイツ兵の捕虜になった時、すっかり自堕落になりますが、隊長は隊員に「理想の少女が居ることを想像する」遊びともいえる指令を出します。
すると、フランス兵達はみるみる自制と誇りを取り戻します。ドイツ兵は驚きます。そして、こんな奇妙な命令を出します。「お前達がかくまっている女を差し出せ」と。すると、なんとフランス兵は拒否し、フランス兵の隊長は独房に入れられます。彼は生きて帰らないはずでした。
しかし、彼は生きて帰ってきます。当然でしょうね。彼は想像力の使い方を知ってますから、他人の一切の承認のない独房でも生きていられます。

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2006.03.12

シカトの真の恐怖とは?

昨日、死んだ少女の絵を描いてから、死というものにとりつかれてしまいました。
そして、啓示がわーっと押し寄せてきました(笑)。
人間は死を恐れますが、それは自我の死を恐れているということです。人間は自我が一番貴重と思っているようです。

ところで、イジメの中で最も過酷なものは「シカト」すなわち無視です。子供もよく知ってますね。
自我というものは他人の承認を得て初めて存在できます。つまり、他人の承認を全く得られないなら死んだも同じなのです。そう考えると、「シカト」というのは殺人と等しいことになります。
実際、シカトも度を過ぎると、される方は本当に死ぬ方が楽です。なぜなら、死ねばかなりの承認を得られるからです。

ロビンソン・クルーソーは、他人の承認の一切得られない無人島で非常に苦しい思いをしたでしょうが、会えなくても自分を承認する人々を思い描くことで生き延びました。
あの小説が名作なのは、そのあたりのことを描いているからだと思います。

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2006.03.11

永遠の風

20060310
絵を描きました。絵をクリックすると大きな絵が出ます。

南インド、アルナチャラの聖者ラマナ・マハリシ(1879-1950)は、キリスト教の意味は、「自我が肉体という十字架に磔にされて滅び、真我が復活する」と語ったことがあるように思います。
心理学者の岸田秀氏は、自我は作り物の幻想に過ぎないが、真我(本当の自分)なんてものは存在しないと言います。ただ、仏陀もまた、私達は「無我」つまり、非実体と説きました。
おおえまさのり氏はこの両者を「同じこと」とします。
死んだ乙女に永遠の「風」を感じることで生み出されたような芸術もあるように思います。

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2006.03.10

正体の分からない相手と付き合う方法

西洋人と付き合う時、よく「同じ人間なんだから心が通じないはずがない」などと言う者がいる。とんでもないことである。
日本人同士の同年代同士でも、仲良くするコツは、相手は自分とは違う人間であることを自覚し、その違いを尊重することである。男女間ならなおさらである。
友達付き合いが下手な者の多くは、母親にべっとり構われて育ち、自分とは違う人間が存在することをいまだ分かっていない場合が多い。母親は自分のコピーのようなものであるから(実際は自分が母親のコピーなのだが)、気を使わずに済むが、これが他人だとそうはいかない。昔、モテない男を登場させて見世物にするようなテレビ番組があったが、モテない男を見ていると、相手の反応などお構いなしに、自分の趣味について語り続ける男ばかりであった。

外国人であれば、東洋人であっても、精神的には全く異なる人間と感じることが多い。しかも、相手がかなりこちらに合わせてくれていると思われる場合でもそう感じる。
これが、西洋人であれば一般的に差異はもっと大きいのであるから、同じ人間として扱ってうまくいくはずがない。
あまりに蛇足だが、もちろん同じ部分もある。腹が減るとか、働くと疲れるとかいった当たり前の部分である。なぜこんな余計なことを書くのかというと、おかしなことに、日本人は、これら当たり前の部分が共通であると考えていないような雰囲気があり、精神的な面で違いがあってしかるべき部分での差異を無視するような傾向があるのではないだろうか?これはいまだ、西洋人コンプレックスが強く、恐れを持っているからである。冷静さがなければとんでもない思考をするのが人間である。
西洋人コンプレックスについていえば、いまだよく使われる「日本人離れした」という表現に端的に現れている。これは、身体的特徴やボディランゲージ、リズム感についての西洋人の優位を表しているが、なぜ西洋人のこれらの特徴を美的と感じるのであろうか?考えてみれば何の根拠もないのである(西洋式スポーツには、手足が長い方が有利な種目が多く、一時期これだけの理由でも日本人が苦戦したことに関しては「日本人離れした」プロポーションへの劣等感はあったと思えるが)。卑屈さも大概にしたいものである。

差異を認めた方がうまくいくケースとしてこういったものがある。
男性は、結婚相手に若い女性を求める傾向が強いが、日本人の場合、10歳差くらいが案外苦労するらしい。しかし、20歳以上違うと、かえってうまくいく。
これは、10歳差だと、見かけの差はさほどでもないし、あったとしても慣れる範囲である。よって、お互い、同じような人間だと思って生活するが、現実にはジェネレーションギャップはかなりあり、時間が経つほどに顕著となる。恋人同士時代に気付く場合もあるが、恋人時代はお互い、相手に合わせようと努力する場合が多い(特に年長の男性はそうである)ので、あまり問題にならないのではないかと思う。また、恋人時代は、お互い多少違っている方が楽しい部分もある。
ところが、20歳も30歳も違うと、最初からかなり異質の人間であると認識しているので、ことさら後で困惑することもない。

SMAPの「世界に一つだけの花」といったヒット曲があったが、個性的で人それぞれ違う部分というのは、相手にとって都合が悪かったり、時には迷惑な部分もあることを理解しないと、そんなに良い歌ではないことになる。

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2006.03.09

ケンカ必勝の秘訣

文明に囲まれて生きていると、何でも論理的に考えたり、計算することで答が得られる、あるいは、解答が存在すると勘違いしてしまうようになる。
そこで、論理的ではない事実というものが生きる上でのヒントになり得ることもある。
大山増達さんという、海外ではゴッドハンドと呼ばれた不世出の空手家がかつていて、現在のK-1でも「極真」出身とかいうことがあるが、これは大山さんが開いた空手流派で海外にも広く普及している実戦空手であるらしい。
昔、この大山さんに、誰かがケンカ必勝の秘訣を聞いたことがあるらしい。大山空手、あるいは、極真空手は別名「ケンカ空手」というほど実戦向きであるからだ(ただし、極真では昔から、私闘は固く禁じている)。
大山さんは「命を先に捨てた方が必ず勝つ」と断言したらしい。戦後は米兵や、あるいは日本人の武道家とのケンカ、決闘に明け暮れていた大山さんの経験も大いに込められた信念と思う。
命を捨てるとは、無心、無我ということを言うのかもしれないが、こういうことは理屈で考えても仕方が無い。
また、マサ斉藤さんという、かつての強豪プロレスラーがいて、ケンカ必勝の秘訣は「相手を本気で殺してやるとまで思い切れるか?それができれば、どんなヤツが相手でもまず負けることはない」と言ったと雑誌の記事に書かれていた。もちろん。ケンカとプロレスは違うだろうが、アメリカでは、素人とプロレスラーをぶっつけ対決させるイベントが人気があるらしく、アメリカが主戦場だったマサ斉藤さんもよくやったらしい。素人とはいっても、腕に憶えのある連中であり、現役オリンピック選手もいたりで、体力的には絶対に不利な場合もあるらしいが、そんな時も、この迫力で立ち向かえば気力勝ちしてしまい、まず負けないらしい。
なんという絵だったか忘れたが、モローが大きなサイズの傑作を1日でとりつかれたように描き上げた直後に昏睡状態になったとかいう話もあるが、何か通じるものを感じる。

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2006.03.08

生命の輝きとは

人間というのは、生存条件に不安定要素が少ないほど(安定するほど)生命力が低下するようにできているように思われます。
逆に、不安定要素が多いほど生命力が発揮されるのですが、今度は自我が安定しない。自我が安定しないのは、本人には不安ですが、それに耐えていると、周りからは危なげな人間に見えますが、これが魅力的なんですね(真の「不良」等)。
20060307
絵を描きました。何か大切なものを渡して去ろうとする者のイメージです。生命にかかわる大事なものなら、不安定さは最大ですので、逆に生命力が最大に輝くというパラドクスです。人間とはおかしなものです(笑)。
クリックすると大きな絵がポップアップで出ます。

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2006.03.07

向上心の考察

一昨年のNHK大河ドラマ「新撰組」で、病に侵された沖田総司が「剣だってもっと強くなりたい」と言うのを聞いて、何か引っかかっていた。
何か疑問があると、解決するまで頭の中で保留しておくというのは、あの養老猛司さんも薦めておられた(笑)。

人が向上心を起こす理由は何であろう?
自己実現等、いろいろ高尚なことを言う者もいるが、つまるところ不安の解消と思う。
あのドラマの沖田総司がどれだけ実像に近いかは分からないが(多分、相当違う)、あの中でも、沖田は欠点も多く、自我が不安定で、得意な剣でさらに強くなれば、自己が確立すると意識的、あるいは、無意識的に思ったのだと思う。
剣で誰にも負けないことでしか自尊心を見出せないわけである。
で、そんな根性では、どれだけ剣が強くなろうが、安心立命などほど遠いと思う。
しかし、沖田の周りには、いろいろな意味で強い者がおり、沖田は剣では一番でも子供扱いされていたし、自分でも劣等感を持っていたと思う。しかし、他の者のような強さを得る自信がないので、ますます剣に頼らざるをえなくなったと思う。
尚、あのドラマで、沖田は芹沢鴨に心酔したが、それは芹沢が揺るぎなく自己を確立した人物に見えたからであろう。もちろん、本当はそんなことはなく、芹沢も不安に怯えるつまらない男であった。

いかなる向上心も基本的には変わらないと思う。
芸術でいうなら、「もっとうまくなりたい」と常に思っている画家が傑作を描くとはあまり思えない。それは自我の安定のために描いているのだと思うからだ。そして、自我の安定とは他人の承認を必要とする。そのためには、他人が見て「うまい」と思うものが描けるよう腕を磨く必要がある。昔の王侯貴族の肖像画は知らないが、傑作とは自分の気に入るものを描いたものかもしれないと思う。

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2006.03.06

ミスコンと芸術

私は、「ミス・ユニバース」の日本選手権での優勝者、あるいは、入賞者を良いと思ったことはあまりないし、世界大会ともなるとさらにそうである。
考えてみれば、美人の絶対的基準などあるはずもなく、ミスコンの勝者というのは、単に審査員の好みを繁栄している以上の意味は絶対にないだろう。

こういうことは別に女性の商品価値を決める公認の品評会に限らない。
芸術品でも全く同じであろう。
セザンヌは生存時はへっぽこ画家とみなされたらしく、サロンには何度出品しても落選し、一度だけコネで入選させてもらった時は、その便宜を計った人がまずいことになり(最低の絵を無理に入選させたとして非難された)、二度とコネが効かなくなったそうだ。さらにゴッホは、そのセザンヌにさえ最低の画家扱いされる。
別に、セザンヌの絵を認めなかった人や、ゴッホを認めなかったセザンヌの目が曇っていたわけではなく、単に主観の問題であろう。現在、ピカソやダ・ヴィンチが価値ありとされるのも、別に絶対的根拠があるわけではなく、これらを良いと思っている人が沢山いるというだけのことであり、また、これらの人の美的感覚が優れているわけでもなく、主観というか、洗脳とか妄想みたいなものと思う。
「モナリザ」を良いと思わなかった人が、ある日突然、それが至上の美と感じるようになったとしても、その者が「分かってきた」わけではない。単に、それまでの妄想から、別の妄想に変えたというだけのことである。逆に、素晴らしいと思っていた「モナリザ」がつまらない絵に見えてきたとしても、何が悪くなったわけでも絶対にない。

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2006.03.05

狂気がなぜ生まれるか?

人間というのは、エスカレートするようにできている。
学校内で暴力団まがいの罵倒をしたり、暴力を振るう教師がいる。カラクリはこうだ。最初は、言うことをきかない生徒に、ちょっときつめの言葉を使う。その時は「言い過ぎかな」と思うが、「このくらいはいいか」と自分で納得する。同じレベルのきつさでは、教師の方でも刺激(や快感)が薄れ、「このくらいはいいか」の激しさは増して行くのだが、自分はその都度納得するので、さしてきついとも思っていない。しかし、初めて見る者から見れば、正真正銘の暴力団である。
会社で、社長が幹部に冷酷なほど厳しい場合も同様である。自分ではさして厳しく言っているつもりはないが、それはだんだんエスカレートするのに自分は納得している。尚、怒られる方は納得するということはなく、やがて「社長は変わってしまった」と思うようになる。
これはあらゆる場合にあてはまる。家庭内で厳しすぎる父親。逆に、親にきついことを言う子供。
ところで、こういったことは、閉鎖された場合に起こる。狭い中にいると、自分を甘やかすことを制限するものがなく、自分の都合で納得するうちに、最初は非日常的なことも日常化する。そして、いつのまにか狂気が支配するものである。大方の学校は間違いなくそうである。言うまでもなく、官僚などは典型である(「このくらいの不正はいいか」が日常化し、エスカレートする)。
優れたリーダーは、このことに気付いているので、グループを固定せずに、例えば職場転換を頻繁に行う。あるいは、自主的に転職を繰り返して狂気を避けている者もいる。
閉塞されることが狂気をはびこらせる。当たり前のことである。

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クルス

タイタニックごっこもナウシカごっこもやってないのに、今はイナバウアーが流行りだとお(笑)。
荒川静香のイナバウアーは、正しくはレイバック・イナバウアーというようです。イナバウアー自体は、あくまで脚の形の技のようで、背中を反らすこととは関係がないのですが、今流行りのイナバウアーは背中を反らせる真似だけのようです(笑)。
イナバウアーはドイツのイナ・バウアー選手が初めてやった技で、イナ・バウアーさんは1960年代は女優で活躍した人らしいです。
人名がついたフィギュアスケートの技は僅か4つで、「アクセル」「サルコウ」「ビールマン」というお馴染みのものと「イナバウアー」です。
体操競技の方は人名の技は大変に多いことと較べ、意外な感じがします。
20060304
絵を描きました。タイタニックでもナウシカでもありません(笑)。クリックすると大きな絵がポップアップで出ます。

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2006.03.04

荒川静香フィーバー(熱狂)の陰

当然と言っては当然だが、荒川静香への熱狂が凄い。
一般大衆も権威もVIPも、女王様に対するようにひれ伏している。
これを見て私は、無名の研究者であった田中耕一さんがノーベル賞を受賞した時のことを思い出す。しかし、彼はスター扱いには慣れなかったが、荒川はスターである。
日本で唯一のメダルを金で獲得した晴れがましさ、カッコ良さ。連日の式典、インタヴューでは英雄として扱われ、彼女が演技で使用した曲を収めたCDは売れまくり、誰もがイナバウアーのポーズを取り(笑)、CM・アイスショー出演のオファーは殺到し、ある新聞では年収12億円が可能とまで書かれる。

ただ、私は荒川のこのような栄光を見ると、どうしても村主を思い出す。あくまで私の人格レヴェルでの話だが、あの(荒川の)立場がもしかしたら自分のものになったかもしれなかったと思うと、嫉妬に狂うはずである。
ソルトレーク五輪では、1つの出場枠を荒川と争って勝って出場し、5位に入賞した。2005年末の全日本選手権では、絶望的な状況から復活し、荒川も、そして、既に世界一とまで言われた浅田真央にすら勝って優勝し、堂々の代表選出。
しかし、一番いいところを荒川に持っていかれた。自らも4位という好成績でありながら、荒川とは差があり過ぎる。なんといっても村主にとって荒川は大学の後輩であり、負けられないライバルである。二人が練習中に靴が接触してしまうトラブルが起きても、お互い無視していた。最近はそうでもないらしいが、不仲は有名らしい。

察しと思いやりが日本の伝統である。村主のことも考え、もっと控えめにしてはどうかと思う。荒川の晴れがましさが村主を苦しめないとは思えない。これは、村主が実際にはどうかということはあまり関係がない。私同様、ほとんどの者が村主の立場ならやってられないはずだ。この理由だけで配慮するに足る十分な理由になると思う。

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2006.03.03

運命愛

随分古いアニメだが「魔法のマコちゃん」という、アンデルセン童話の「人魚姫」をモデルにしたものがある。
「人魚姫」と違い、人魚のマコは、王子様ではなく普通の青年が嵐の海で沈没した船の乗客を助ける中で力尽きて溺れていたのを救い、彼を恋慕うあまり人間になるというお話だと思う。
このアニメの最終回で、マコはこの青年に「私はマコ、あなたを愛するために生まれた」といったようなことを言う。
何か、よく聞くセリフであるが、考えてみれば、恐ろしいセリフであることに気付く。

「あなたを愛するために生まれた」というのは誰の意思であろう?
マコ自身の意思と取れるが、それなら、霊界で魂のような状態であった時、この青年との出会いを予測したか、神のような存在に教えられて、彼を愛するという目的のために自らの意思で生まれたというのだろうか?
あるいは、彼を愛するという目的そのものが神の意思であったという意味であろうか?
いずれでもないと考えられる。
マコの意思でも、神の思し召しでもない。
マコと青年との出会いは偶然である。だが、マコは、その偶然を自らの意思とした。決して神の意思を受け入れたというわけではない。

この世に起こることを、神の知られざる目的として受け入れるのは易しい。しかし、自らの意思として愛するのは難しい。
これは、ニーチェが「運命愛」と呼んだもので、この世界を何の意味も目的もないものとみなしながら、なおもそれを崇拝し愛するというものであり、それが出来るのは強者である。
喜ばしい出来事だけでなく、いかなる悲惨な出来事でも同じように自らの意思とするのである。繰り返すが、神の思し召しとして、無理やりに受け入れるわけではない。
この時、人は神に限りなく近づく。あの時のマコの姿は神のようであった・・・と思う。単にキラキラヌードが眩しいだけさ・・・とか(^^;;

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2006.03.02

自分で書いたバイブル

「新世紀エヴァンゲリオン」で、14歳の渚カヲル君は、「人は何かにすがらないと生きていけない弱い生き物」だと言いましたが、これは全くその通りです。
「俺は何かにすがってなどいない」と言う者や、いかにも堂々として完全に自律しているかに見える人間も全く同じです。
何にすがるかは、例えば、金メダル、地位(社長等)、学位、宗教、神、尊王思想、オカルト、武士道、何らかの教義、親、会社・・・実にいろいろあります。
ホリエモンはお金にすがっていますが、あまりに強く狭く専心したため、どんどんエスカレートしながらそれに麻痺してしまい、自分ではさほどの逸脱と思わないというのは、何にすがった場合でも同様です。

すがっているものが強大で安定しているほど、心は安定するものですが、なにごとも「諸行無常」「色即是空」ですので、何にすがっても不安定です。
アイルランドの大詩人W.B.イェイツは、なんと自分の宗教のバイブルを自分で作ってしまった。世紀の奇書「ヴィジョン」がそれです(彼はキリスト教なんか大嫌いでしたので)。
人は、心(自我)を安定させるために何かにすがるのに、「ヴィジョン」はなんと安定を拒否するようなものであるところが素晴らしい。イェイツの思想に「安定」なんてありません。
自分のために自分で描いたバイブルと思われるものには、ダンテの「神曲」、宮本武蔵の「五輪の書」、道元の「正法眼蔵」、デカルトの「方法叙説」などがありますが、みんな自分が良いと思うものだから、人に見せてしまうのですね。どれも所詮、幻想なのですが、イェイツは自分で幻想と気付いていたようにも思われます。しかし、少なくとも、みんな「読むだけで分かるものではない」と気付いていたようには思います。

何にすがっても良いですが、少しはマシなものが良いと思います。金メダルなんか取ったら、モハメド・アリのように、さっさと川にでも捨てた方が良い。最初から取らない方が幸運かもしれません。
イェイツのように、自分のバイブルを作るというのは、余程の知性や意思の力が必要ですが、普通の方はそれよりも「感動をありがとう」「愛は地球を救う」「39(サンキュー)プロジェクト」か、どこぞの変な占いレヴェルが良いかもしれません。これらの馬鹿げた幻想(馬鹿げていない幻想といったものもないのですが)は、多くの人と共有できそうですので(笑)。

20060302

絵を描きました。クリックすると大きな絵がポップアップで出ます。

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2006.03.01

日本スケート連盟の責任は?

荒川静香が見事金メダルを獲得したトリノ五輪女子フィギュアスケートだが、その喜びに眩まされて、安藤美樹を代表に選出した日本スケート連盟の責任を忘れてはいけない。少なくとも、もっと問題にすべきと思う。
安藤は昨年からの不調のまま五輪に出場したが、この状況は多くの専門家が当然見抜いていたはずだ。むしろ「無理に出場させられた」安藤には気の毒とすら思える。
中野由香里が出場していれば、10位以下に終わることは考えにくいし、上り調子であるだけにメダルの可能性も十分あったと思う。

安藤美樹は2004年の成績が良く、過去2年の成績で評価するポイント制ということであるが、いくらなんでも五輪直前に調子の悪い選手と調子を上げた選手がいればそれにこだわるのは不合理である。
若いとはいえ、安藤はすでに下り坂に入っており、現在までのところ、上昇の兆しはないと思える。
安藤自身、全日本選手権終了直後の代表発表の時、「選ばれるとは思っていなかった」と言ったが、本音だと思う。
また、安藤は五輪では4回転ジャンプにこだわり、それだけを目標にし、成績は度外視した発言を繰り返していたが、運動会じゃないんだから、こんなことを許してよいはずがない。アマチュアスポーツとはいえ、いっさい責任なく自由にやれるはずがなく、荒川、村主も口には出さねど呆れていたのではないだろうか?
しかし、安藤も、現在の実力では上位入賞はありえず、4回転にかけるしかなかったという苦しい事情があったのではないかと思うし、それなら実に可哀想なことだ。
15位で「悔しかった」と言わず「楽しかった」と言われたら、代表漏れした中野や、そのために引退を決めた恩田の気持ちはどうであろう。

五輪が開催されたイタリアでは、最大の全国紙が、浅田真央の特例出場に連盟が熱心でなかったのは、スポンサーであるチョコレートメーカーの圧力と報じられていたが、確かに中野由香里もロッテの契約選手ではない。

アテネ五輪では、女子マラソン代表に、人気と実績のある高橋を外し、直前の選考試合で好成績を出した選手を選んだが、Qちゃんファンも残念ではあっても納得したと思う。

中野由香里は、次のバンクーバーでは24歳。今回の荒川と同じ年齢で、メダルの可能性も大きい。しかし、今回、五輪を経験させてあげれば最も良かったはずだ。そもそも、「経験」だけでなく、上位入賞も十分にありえた。
中野は、一頃、なかなか思うように向上せず、ペア転向の話も現実的になっていた。しかし、毎朝、初心者が行うような基礎練習を熱心に行い、それをきっかけに急上昇したという話も見たことがある。そして、実際の結果も出した。このような選手こそ代表に相応しかったはずだ。

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