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2006.02.28

揺れる想い

不動の精神の持ち主なんて絶対にいません。
大統領だろうが、金メダリストだろうが、武道の達人だろうが、国際スパイだろうが、富豪だろうが、宇宙飛行士だろうが、絶対に例外ではありません。
なぜなら、人間の精神というものは揺れ動き安定しないものだからです。
もちろん、安定しているかに見える時間が長い者もいますが、ごくつまらない理由でどうしようもなく揺れ動くのは、凡人でも偉人でも同じ(本当は両者に明確な区別などはないですが)。
そして、精神を安定させたくて(実は「安心」を求めて)、自己啓発書や占いの本なんて読むわけですね。「幸運が来る」だの「成功する」「愛される」「ツキが来る」ってね(笑)。はい、読めば読むほど心は揺れるようになります。なぜなら、2人の著者がいれば、書いてあることは全然違いますし、下手をすると、一人の著者、一冊の本の中でも矛盾だらけです。いかな権威あるような雰囲気の本でも同じです。
良い本の読み方はこうです。自己啓発や修養のための本は1冊にすること。2冊は絶対にダメです。選ぶのは、少なくとも半世紀以上前のもの。著者が1冊しか書いていないもの。利益のために書いた本でないことが重要です。
その本をボロボロになるまで読むこと。良いか悪いかはともかく、一貫した思想が身に付きます。これを洗脳というのかもしれませんが、人間は何かに洗脳されないと精神が安定しないのも確かです。この本なら洗脳されてもいいと思うものを選んで下さい。
ただ、これは、かなりの妥協案ではありますが・・・
20060226

また絵を描きました。クリックで大きな絵が出ます。

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2006.02.27

なぜバンクーバーを目指すか?

トリノ冬季オリンピックが閉幕したが、ちょっとひっかかることがある。
ジャンプの原田、モーグルの上村、フィギュアの村主の3人が、次のバンクーバーを目指すことを宣言した。
(原田は冗談かもしれないが、冗談と言い切れないのが原田だ)
これって、良いことだろうか?

金メダルを取った経験のある原田はもちろん、上村、村主に、そこまでメダルを目指す必然性があるだろうか?
彼女達は本当によくやったと思うし、次期バンクーバー五輪では、上村30歳、村主29歳。決して不可能とは思わないが、選手としてそこまでやる意味があるだろうか?
現実問題、特に村主は競技の性質上、メダルに必要な現状より数段アップの実力が付くとも思えない。

後1~2年は良いとして、そろそろ別のことを始める準備に入った方が良くはないだろうか?
スター選手でいることをやめた時には確実に大きな喪失感があるが、それはいつかは訪れることであり、むしろ現役選手であること以外に自分の価値を認められないようにはなって欲しくないものである。
確かに、このままでは、上村も村主も歴史に残らないし、人々はこれからの選手に目移りし、彼女達の記憶は薄れるだろう。一方、里谷や荒川は歴史上に光り続ける。とはいえ、金メダルを取った時点からの落差は、むしろ上村や村主以上と思う。
正直、私は、人間の様々な価値の中で、メダルがさほどのものとは思えない。一時的に目指す価値はあっても、全人生の目標とするほどのものだろうか?
いかなる目標だってそうなのだと思う。いかに執着して達成しても、それだけになおさら次の目標が必要になる。達成して満足する目標なんて無いからだ。
どうも彼女達を見ていると、苦しそうに見えて仕方がない。

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2006.02.26

未練がましい希望

欧米人には絶対と思われるイエス・キリストであるが、思想家と言って間違いのない優れた作家にはアンチ・キリストである者がいる。
私の知る範囲では、オスカー・ワイルド、ニーチェ、イェイツがそうである。
ただ、「ツァラトゥストラ」でニーチェはイエスを「高貴な魂の持ち主」と言い、イェイツもイエスの比喩を使った創造的な表現力は認めていたと思う。
新約聖書には、イエスの数々の奇跡や善行・・・らい病の治癒、盲目者の視力回復、処刑されかけた娼婦の救助、はては死人の蘇りがある。ワイルドは「善をなす魂」で、これらイエスに救われた人々がことごとに堕落し、不幸になる様を描いた。

イェイツは、有名な詩「再来」(「再臨」とも訳される)で、「2千年の眠りが悪夢をもたらした」と言う。
「2千年の眠り」とは、言うまでもなくキリスト教の歴史である。それが眠りであり、悪夢になったと言う。なんとも的確な表現である。
(イェイツは「20世紀最大の詩人」と言われ、ノーベル文学賞も受賞した)

心理学者の岸田秀さんは、イエスのような大嘘つきがいるから気をつけろと書いていたが、宗教をやる者は過激なので、私は彼の身を心配した。
私はイエスは妄想家だったと思う(身の保全になるかな?(笑))。
実際、キリスト教は素晴らしいから世界的に普及したわけではなく、支配者にとって都合が良いから利用されただけと思う。「聖書」はなんと「公認のオカルト本」なのだ。

仏教は、世界的規模ではローカルな宗教である。しかし、釈迦は真理を語ったと思う。
「真の自己とは?」「永遠の幸福とは?」「真理とは?」「希望とは?」
もし釈迦にこんな問いをしたら、即答で「そんなものは無い」と言われると思う。
「それでは不安です」と言ったら、おそらく「耐えろ」か「下らないことを言ってないで働け」と言われることであろう。
現在では、仏教をキリスト教的に語るヘンな人たちも多いが、これにも気をつけないといけない。

それでも希望が欲しいと言われるか?
実は私も未練がましく希望を求めている(笑)。ここらが、岸田秀さんや養老猛司さんに根本的に負けるところであろう(笑)。

20060225

せっかく描いたので絵も出しておきます(笑)。少女の顔を大きく描きました。クリックすると大きな絵が出ます。
原寸はさらにデカイのですが・・・^^;

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2006.02.25

仮面ライダー1号変身ベルト

バンダイから発売される、初代仮面ライダーの変身ベルトが評判のようだ。
1974年に登場したというから30年以上前のヒーローだ。販売されるベルトは、ウエストサイズが85~110センチ、価格は約3万円。当然、大人用で、当時、夢中でテレビを見ていた30代後半から40代がターゲットとなる。
バンダイでも予想以上の反響に驚いているという。
家族に内緒でローンを組む構えのお父さんもいるらしい。

では、この変身ベルトを手に入れた後、どうなるのだろうか?

興奮は一瞬だ

その後、興奮を持続させようと虚しくあがくだけである。
妻子がいるなら、買っても絶対に見つからないように。ましてや見せびらかすなんて絶対にやってはならない。
別に変身ベルトに価値が無いとか、そんなものを欲しがるのは馬鹿だというつもりは全然ない。これを欲しがるおじさんを馬鹿にする人だって、それに負けないほど馬鹿げたものを絶対に欲しがるものだからだ。
ただ、その価値を共有していない相手に、その価値の理解を求めては絶対にいけないと言ってるだけである。そうしないと、せっかく3日は持つかもしれなかった興奮が数時間、あるいは数分で終わってしまうからだ。

これを手に入れることによって「あるもの」が得られると期待したのに、それは裏切られる。だが、彼は絶対に懲りない。

「スタートレック」で、ミスター・スポックが、恋焦がれた女を手に入れた男にこう言った。「どんなに欲したものであっても、手に入れてしまえば・・・さほどでもなくなる」
これはむしろ控えめな言い方である。普通は詐欺にあったような気分になる。「こんなはずじゃなかった」と(認めずに必死でごまかそうとはするが)。

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2006.02.24

祭りと芸術の関係

およそ世界中で、祭りの風習のない国や地域は無いが、それぞれの祭りの起源は全てかなり古い。
そして、祭りにはやや「危ない」部分が多いことも共通である。けが人はもちろん、死者が出ることすらあるし、公共物や、さらには民家が壊れることすらある。しかし、祭りが取りやめになるということはほとんどない。

こうして見ると、祭りというものが、人間が生存する上で重要なものであることは容易に想像がつく。
岡本太郎は、パリ大学で民族学を専攻したそうだが、著書「美の呪力」で、祭りの意味を考察していた。日常の仕事や生活は単調で面白くないものなので生命力が低下する。そこで祭りによって活力を補充し、次の祭りまで日常を耐え抜く力にするというものである。祭りは芸術と同様「爆発」であり、宇宙に向かって生命を一瞬で開くという、ここらは抽象的な説明がなされていた。

日常が面白くないものであることは昔から変わらないものらしい。
いかなる原始社会においても、日常の生活や仕事には掟など決まりごとがあり、自由に何をしても良いわけではない。掟を破ると、文明社会同様、処罰がある。また、掟とは、放っておくとついやってしまう人間の欲望を制限するものであるから、それに従うことは何らかのストレスになるはずである。
その押さえ込まれたものを祭りで発散するというわけだ。しかし、単なるストレスの発散のように、スポーツみたいなこれまたルールの厳しいものでやれることではなく、生命力を燃え上がらせるためには、ルールはできる限りゆるくする必要がある(実際は、ストレスもスポーツで発散できるものではないが)。
祭りの時だけは、大方のタブーを逃れ、かなり危ないことが許されるわけである。少し以前には祭りの中に乱交パーティーまがいのことが含まれていることも割にあったらしい。

ところで、少なくとも日本では、最近は祭りに参加する人数が減っているようである。
その理由の1つは、個性化が進んだからと思う。生命力を湧き上がらせるには、興奮が必要であるが、皆が同じことで興奮しなくなったのだ。
そのせいで、祭りが単なるパレードみたいなものになり、生命力を拡充するというものではなくなってきている。
現在は、昔より、日常生活の面白く無さはずっと大きいのに、祭りで発散できない。
では、岡本太郎の言うように、芸術で爆発するという手もある。岡本太郎の言うところでは、芸術も確かに祭りのようなところがあり、人間の根源的な欲求を開放する。
そんな芸術をうまく、きれいに、ここちよいものにする必要がないのは当然であろう。
うんと猥褻なものになるかもしれないし、破壊的な塗りになるかもしれない。そこに生命力の発露が見られるのが芸術である。

心理学者の岸本秀は、祭りの意味をフロイドの自我とエス(フロイドは超自我と自我とエスに分けているが、岸田さんは2つで良いという)で極めて合理的に説明されているが、岡本太郎さんの考えを論理でうまく説明できていたと思う。
ただ、現代人には祭りの効用はさほどでもないという考えも示されていた。
(「幻想の未来」講談社学術文庫)
岸田さんは、問題の見事な解析はしても解決法はいつもほとんど示さない。だから私は信用している。解析はいい加減で、馬鹿げた方法論を唱える自己啓発の著述家やセミナー屋は多いからだ(私はこれら「成功」を商売にする全員がそうだと決め付けている。「成功」を商売にすること自体、間違いであると思うからだ)。

その解決の一方法として芸術が役立つ場合もあると思う。
それでいうと、作品は見るだけでなく、自ら作る必要がある。
しかし、現代の学校の美術教育の洗礼を受けたほとんどの者が、自分で絵を描くなど思いもしないことになっている。
小中学校等で受けた美術教育などきれいさっぱりと捨て去り、楽しく思うように絵を描くことも生きる力を得る重要なものになりえるかもしれない。
「自分も描きたいと思ったら描くべきだ。いや、描かないといけない」(岡本太郎)

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2006.02.23

フロイドやデカルトに関するデマを信じる訳

昔、中国の禅僧である無業は「世間に騙されないよう」と自分を戒めていたようだ。

ところで、みなさんはこんな騙され方をしていないだろうか?
「フロイドは古い(よって間違っている)。ユングが新しい(よって、より正しい)」
「デカルトはコチコチの唯物論者であり、人間の可能性について制限された思想を持っている」

なんのことはない。私がそう思っていたのだ(笑)。
「二十世紀を精神分析する」(岸田秀 文春文庫)の解説で、オタキングこと岡田斗司夫氏が「岸田さんの本を批判する人は実際には岸田さんの本を読んでいない」と書いていたが、私の場合も同じで、フロイドやデカルトを読まず、他の人の書いたものを読んだだけでそう思い込まされていた。まさに風説の流布である。
そもそも、ユングを誉めるのも、デカルトを貶すのも、ほとんどオカルト論者ばかりのような気もする。

ところで、おかしなことに、岸田秀さんは何かの本でデカルトを批判してたように思う。
だいたいにおいて、デカルト批判は「方法序説」の第5部で、デカルトが十分な技術があれば機械で作った動物は本物と区別はできないと書いたことや、心臓の働きに関する誤った理解にあると思える。
あるいは「我思うゆえに我あり」という変な訳をまともに受け取ったかだ。
何が正しいかはよく分からないが、これは「疑っている我は確かに存在する」とするのがデカルトの思想により近いと思う。
確かに、「方法序説」では、一部、生理学的問題を物理学的に婉曲した記述もあるが、その他の批判は、やはりよく読んでいないのではと思う。
「方法序説」をよく読むと、まさに岸田さんの唯幻論の手前かひょっとしたら同等以上の理解に達していたのではないかと思えるくらいだ。
デカルトは、正しく理性を導く方法を探したが、それが見つかるまで理性を野放しにもできないので、暫定の「格率(格律)」を定めたが、その大原則が「単に真らしく思えることは全て虚偽とした」である。
そして、結局、まともな格率は見つからなかった。これは、全て幻想とみる唯幻論と近い立場と思われる。
とはいえ、私は岸田さんの唯幻論は、他の大方の思想よりはるかにマシと思っており、これに従うことでほとんどの苦労はなくなっている。

本日、ある本がアマゾンから届いた。
「ヒトはなぜ戦争をするのか?」(花風社)
である。
国連が、アインシュタインに「最も重要な問題を」「一番意見を交わしたい相手と書簡でやりとりして欲しい」と依頼した。
アインシュタインが選んだ相手はフロイドだった。
こんな面白い本の存在を知らず後悔する。
解説は養老猛司。
翻訳、浅見昇吾。

ちなみに、さっき見ていたアニメ「ツバサ・クロニクル」の中で、浅黄笙悟(あさぎしょうご)という男性キャラがいた。これはユングのシンクロニシティか?(笑)

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2006.02.22

王監督に恥をかかせるわけにいかない?

イチローの「王監督に恥をかかせるわけにはいかない」の言葉に感動した人もいれば違和感を感じた人もいると思う。私は違和感が強かった。
「恥をかく」というのは、日本に対してだろうか、あるいは、海外に対してであろうか?
日本人相手ということも含まれるとは思うが、おそらく海外に対してという意味が強いように思う。
しかし、仮に日本チームが散々な成績で終わったとして、海外の誰が王監督を馬鹿にするというのだろう?もちろん、イチローの能力がダメだったとも思わないだろう。単にチームが弱かったか、運がなかったと思うに違いない。正直、現役時代ですら、海外で王貞治が有名であったとも思えないし、ましてや、いまどき王貞治を知っているのは海外では余程の通であろう。さらにいえば、王貞治が仮にイチロー並に有名人だとしても事情は変わらないはずだ。

多分、MトケイヤーかJハルペン(共にユダヤ人を名乗る著作家)の本で読んだのだと思うが、日本は恥の文化と言われているそうである。日本のマスコミが、海外の有名人が何か失態をしたのを「恥を忘れた」と書いているのを見て、ユダヤ人が「日本人以外は恥なんか気にしないさ」と笑うというものであった。
日本では、中学生でもスポーツの試合で負けると恥ずかしいと感じる場合が多いようだが、米国あたりの中学生に言わせると「自分がベストをつくしたんだから恥ずかしがる必要なんかないさ」となる。
ただ、この「恥かしい」という感情も反発力になるので、どっちが良いとも言えないと思う。

いかに大リーガーでも、やはりイチローは日本人だなと思うこともできるが、イチローの発言は案外別の面もあるかもしれない。しかし、これは私の持論である「他人の言動の原因の予測は百パーセント外れる」の通り、本当のところは分からない。
それでもあえて言えば(言うな?)、イチローは日本人らしく振舞わざるをえなかったのではないか?そもそも、イチローは松井に「俺達が出るわけにはいかないな」と言ったそうな。
WBCに関しては、イチローの一連の発言や記者会見での異常なはしゃぎようは、やはり不自然に感じる。
何か、WBCに賭けざるを得ないイチローの苦しさが見えるように思う。

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2006.02.21

日本人が怖いもの

数年前と思うが、化粧品のCMで「もう見つめられることになれて下さい」というコピーがあった。女性のナルチシズムを刺激する、ややわざとらし過ぎる文句である。
しかし、あなたが日本人なら、間違いなく視線恐怖症のはずだ。電車の中で他人と視線が合い、向こうがなかなか視線を逸らさないとひどく不快なはずである。いわゆる「ガンをつける」というのもこういうことであろう。
「私は美人だから見られて当たり前」なんて、本当の美人でも思わないはずだ。ましてや、女扱いされることに慣れていない乙女や初心な女性ではなおさらである。

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ではなぜ、日本人は他人が怖いのか?それは「絆(きずな)」が命だからだ。
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」で、シンジが綾波(伝説の美少女キャラ)に、「きみはなぜエヴァ(戦闘用巨大ロボット)に乗るの?」と聞かれ、「絆だから」と答えた。改めてシンジに「(シンジの)父さんとの?」と尋ねられると、少し間を置き「みんなとのよ」と言う。あの綾波ですら日本人的であることに驚く。
おそらく、「絆」なんてそのものズバリの英語は無いと思う。辞書では、せいぜいが「接着剤」を示す英語に無理やり当てはめているはずだ。

「絆」を大切にする日本人だから視線恐怖症なのである。日本人は他人が怖いのだ。
それは、自分がどんなに無価値に思う他人でもそうなのだ。
対して、欧米人は神様が怖い。日本人相手に「神をも恐れぬ所業」と言ってもさしてこたえないが、欧米人にはこれが効く。日本人相手には「世間に顔向けできない所業」と言った方が良い。
それではと、西洋人になろうとして、無理にクリスチャンになっても無駄である。神への無意識の恐れは持たないが他人への無意識の恐れの根は深いからだ。下手に神が怖くなると、他人と神の両方が怖くなるのだ(笑)。
ついでだから言っておくと、小さい頃から信心深いクリスチャンに「いうこときかないと地獄に落ちる」と脅すことは、日本人的には、「家族、学校、その他のグループのみんなにシカトされるぞ」ということに等しい。どんなに罪なことか、これで分かるであろう。

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2006.02.20

ジョーと呼んでくれ?

米大リーグ、マリナーズの城島選手が、記者会見で「ケンジ、ジョーのどちらで呼べばいい?ケンジは言いにくいのだが」と言われ、「Call Me Joe(ジョーと呼んでくれ)」と答えて評判を取ったように言われているが、疑問を感じないか?
日本人が米国名で呼ばれて喜んでいる卑屈さはないだろうか?
今はあまりないと思うが、昔は日本人ホステスが特に西洋人相手でもないのに西洋式の名前を名乗り、小学生の女の子が西洋名を愛称にして呼び合っていい気分になることがあったと思う。
中国や韓国の俳優が西洋名を名乗ることには慣れっこになったが、いずれにせよ、これらは西洋コンプレックスから来ているように思う。

ところで、城島になぜ「ケンと呼んでいいか?」と提案しなかったのだろうか?
ジョーの方がカッコいいからか?
ジョーというのは、米国で最も平凡な男性名で、名前が分からない時はジョーと呼ぶのである。「ヤツ」程度の感覚である。また、GI Joeでお馴染みのように、Joeは米兵を指すこともある。
フォスターの有名な歌 Old Black Joeにもあるが、このジョーは多分下層階級(奴隷かどうかは分からないが)であり、あまり良い名前とも思えないのだが。

米国の事情を実際には知らない私の勘違いであれば良いのだが。

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運命に挑むロシアのフィギュア女王

今回のオリンピック女子フィギュアスケートはいろんな運命を感じます。
ソルトレイク銀メダルのイリナ・スルツカヤは26歳の今大会に執念の金メダルを目指し、更に実力アップしてきました。

ソルトレイクでは、優勝した16歳のサラ・ヒューズとの得点差の判定で一悶着あったように思います。SP(ショートプログラム)2位のスルツカヤのフリー演技は素晴らしいものでしたが、SP4位のヒューズに逆転されてしまいます。ロシア・フィギュアスケート連盟は、スルツカヤの演技はヒューズに見劣りせず、判定を不服として、正式に抗議。スルツカヤにも金メダルの授与を要求しましたが却下されます。ヒューズの得点発表に時間がかかっており、合計点ではヒューズ、スルツカヤ同点ながら、フリー1位のヒューズが規定により優勝となったという出来過ぎの採点結果を、米国スポンサーからの圧力による工作とロシアで報道されるほどでした。

スルツカヤは、2003年に自己免疫疾患という重病に懸かり、強い薬の副作用と戦いながら競技を続けています。おまけに母親は重度の腎臓病で経済的負担も大きい。
これほどまでに運命に翻弄されたスルツカヤが、年齢制限で五輪出場が叶わなかった浅田真央に特に同情を示さなかったの分かるように思います。人生とは厳しいものだと分かっているのでしょう。
是非とも金メダルを獲得し、プロ転向後の地位を築きたいスルツカヤ。プロの収入は、金メダルと銀メダルでは大差と言われます。

そこにきて、ミシェル・クワンの怪我による欠場により、サラ・ヒューズの妹、エミリーが出場決定。特にスルツカヤに動揺は無いとは思いますが、何か宿命的なものを感じます。
私は、楽しく見るというよりは、緊張して見てしまいそうです・・・。

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2006.02.18

アンリアリスティック・ワールド

服を着てても緊張してばかりの若い女の子が、ヌードでもぼーっとしていたら、アンリアリスティック(非現実的)な世界ですね。
非現実とは非日常よりさらにありえないことです。
非日常な世界が緊張を破ると笑いを誘いますが、逆に緊張を起させたり、あるいは、非日常でなくなると笑えなくなるようです。笑いとは、非日常な出来事が緊張を破った時に起こるもののようですので(厳格な教師が教壇で転ぶ等)。ただ、非現実が緊張を破ることはないでしょうね。多分・・・(笑)

20060216

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世界的オカルト本

今は売られていないかもしれないが、「ヒマラヤ聖者の生活探求」(霞ヶ関書房)という面白い本がある。
内容を簡単に言うと、19世紀の終わり頃、アメリカの調査隊がヒマラヤ奥地を調査見聞した記録で、そこに住む驚くべき聖者達のことが書かれている。数百歳でありながら50歳くらいの容貌を保つ男の聖者がいれば、その母親はたぐい稀な美少女の外観であるという。
聖者達は流れの速い川の上を歩いて渡り、テレポーテーションで瞬間移動し、イエス同様、食物を空間から出現させる。
はては、イエスとブッダ(釈迦)が同時に出現するという大サービスもある。
著者のスポールディングは、自分達は科学的な訓練を受けた者達であり、ここに書かれたことは信じてもらわなくてもいいが事実であると書いている。
スポールディング達は、聖者達に、あなた達もわけなく自分達と同じことができると言われ、やがて、スポールディング達も奇跡の力を発揮し始める。
・・・そんなことが書かれている。

さて、スポールディングはなぜこのような本を書いたのか推理してみる。
彼は調査隊としてヒマラヤに行き、宗教の教祖のような人には会ったのかもしれない。もしかしたら、彼らにとても上手い奇術を見せられたことも考えられる。本には、エミールという聖者は、コップの水をたちまち凍らせたとある。インドでは、このようなものを見せる大道芸人は多かったらしいが、初めて見たスポールディング達は驚いたと思う。
さらに、エミールさんなどに、いろいろ面白い奇跡の話を聞いたのかもしれない。なんと言っても100年前の話である。現在ですら、アメリカにも日本にも迷信深い人は多いが、一見知的で科学的な人でもあっさり神秘を信じてしまうことは珍しくはない。それに、クリスチャンの聖典である聖書には、イエスの超能力話が満載であり、信者はそれを信じて疑わないのが原則であるから、キリスト教信者であるスポールディングがイエスに敬意を表した上での奇跡の話を信じたとしても何ら不思議ではない。

すっかりエミールさんのオカルト話を信じ、憧れたスポールディングは、自分は見てはいないが、「見たも同然」と思い込み、それを本に書いたと思われる。

スポールディングは自分を「科学的訓練を受けた」と言う。しかし、自分を科学的と思う人間が一番危ないのである。科学も一種の妄想に過ぎず、それが確固とした現実基盤と思い込んでいる人ほど、自分の妄想に気付かないのである。
(少し前は、物質は音速を超えると分子結合が破壊されるとか、1600メートルを5分以内で走ると即死するというのが科学的であった)
さらに、数百歳でも若い聖者達に「あなたもわけなく自分達と同じことができる」と言われたはずのスポールディングが、長命ではあったらしいが、老いて死んでいった。それでは話がおかしい。

この本を本当と信じて有難がる人も多いと聞く。
信じること自体にどうこう言うつもりもない。彼らを馬鹿にする人にしたって、どっちがレベルが低いともいえない程度のことを信じているのは間違いない。
大事なのは、信じても良いが、それを希望としないことである。つまり、生きる支えにしてはならない。それはもろい杖に過ぎず、遅かれ早かれ折れるものであるのだから。

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2006.02.17

何が彼女をそうさせたか?

「何が彼女をそうさせたか?」(別に彼でもいいのだが)といった問いがあり、いろんな人がいろんなことを言うことがある。
しかし、その答はどれも100パーセント間違いであると言って良い。
もちろん、まぐれ当たりはあるかもしれないが、「彼女」の動機の根源はまるで違う理由なので、単に当たっているように見えるだけである。

実は、他人の行動の動機を述べる時、誰もその(対象の)人の動機なんて本当は問題にしないのである。
例をあげる。
男性の上司が、いい年をして結婚しない部下のことを「あいつが結婚しないのは、面倒臭がりだからなんだ」と言う。なぜこの上司はこう言うかと言うと、「結婚しない大した理由なんて存在しない」と思っている、いや、思いたいからである。
(※ここで私は、この上司の行動の意味を予想しているが、本来はこれもハズレである。しかし、ここではあくまで例題として見て欲しい)
この上司は、結婚して良い思いをしておらず、心の奥では後悔している。しかし、結婚するのが当たり前であると思っているので、なんとか耐えているのである。ところが、もし結婚しないもっと正当で合理的、あるいは立派な理由が存在するなら、結婚して苦労している自分が惨めなのだ。
・・・とこれはまだ浅い読みであり、この論なら上司も納得する可能性がある。

では、次に、ハズレでない本当の理由を述べる。

その上司は、人間は結婚するのが当たり前という信念を持っているのである。実はそれは文化的な洗脳に過ぎないのだが、洗脳されている者にとっては真理である。そして、その上司はその他の文化的洗脳にもすっかり染まっている。
しかし、結婚しない正当な理由があれば、上司が信じている文化的洗脳が間違いということになる。それは、上司にとって絶対に認められないことなのだ。なぜなら、上司の自我の統一(アイデンティティ)を支えているのは実に文化的洗脳なのである。それが間違いとなると、上司の自我が崩れてしまうのである。
だから、大したものでない「結婚しない理由」をデッチあげたわけである。

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2006.02.16

天使の人気の秘密

天使って人気者ですよね(笑)。
人はなぜ天使が好きかというと、精神的な存在だということに理由があるように思います。つまり、自由自在で制限がありません。
人間というのは、どんな美人でナイスバディの持ち主でも、身体というものはある程度嫌いなんですね。ほんの1メートルも飛び上がれない。たった数メートルから落ちたらケガする。立ち仕事すると疲れるし、食べたり排泄したりしないといけない。
そんな一切の制約のない天使は、やはり憧れなのかもしれません。

20060215

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2006.02.15

「人を動かす」で人を動かせるか?

いまだデイル・カーネギーやナポレオン・ヒルの書籍が書店にあるのを見て苦笑してしまう。
私の知る範囲では、これらの愛読者は無能を絵にしたようなヘンな人ばかりであるが、私はそうであることを納得できる。

今回はデイル・カーネギーと、代表作「人を動かす」をあげる。
この本の主旨は簡単に言うと、人間の最大の欲求は「自己重要感」であり、自分が価値ある人間だと思いたいという願望は生や性の欲求より強い本能であるというものである(ちなみに、ナポレオン・ヒルは性の欲求を第一としている。巨頭同士の間でも最大のポイントにすらあっさりと矛盾があるわけである)。
つまり、人を動かすには、この最大の欲求である自己重要感を利用すれば良いことになる。
簡単に言うと、「アンタは偉い、アンタは優秀だ、アンタは必要欠くべからざる人間だ」と認める態度をとれば、相手は自分の言いなりというわけである。
そう思わせるには方法は2つ。1つは、へりくだって見せることで相対的に相手の価値を上げる。もう1つは褒めることである。
で、この本に書いてる通りに実践する愚か者も見たことがある。
しかしね、へりくだるとか褒めるとか言っても、相手に敬意を持ってのことでなく、相手を自分の都合のいいように動かそうなんて下心でやるわけだから、醜悪の一言であった。
そのへりくだっている様子は下心のために卑屈にしか見えないし、褒め方もわざとらさしいおよそ的外れなもので、褒められた方が不快感を感じるくらいである。

尚、自己重要感を渇望するという人は、精神的に幼児の段階にとどまり大人の自我を確立できていない人のことである。ちゃんとした大人になれば、他人の評価にそんなに目くじらを立てる必要もないと知っているはずだ。
つまり、「人を動かす」は、人を幼児のように扱えというものであり、なるほど幼稚な人間に対しては効果があるかもしれないが、それが何になるというのだろう。新興宗教の教祖になるには多少は役に立つかもしれないが。

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2006.02.14

混んだ道で携帯を使う意外な理由

込んでいる通路で携帯電話を見ながらノロノロ歩く人、歩きながらタバコを吸う人、電車の中など、隣に人がいるのに大股広げて座る人、周りに人がいるところで足を踏み鳴らしたり、ものを突付いたりして不快な音を出し続ける人・・・。
私は、これらの人を最近まで知的欠陥と見なしていたのだが、どうも違うと分かってきた。
なんと、彼らはあまり自覚はないかもしれないが「人に迷惑をかけたい」のである。

試しに、これらの人に注意してみると良い。程度の差はあっても彼らの方が怒るし、怒りを爆発させる人も珍しくはない(やってみたんだけどね^^;)。
この怒りとは何かというと、「家来に注意された王様」と同じと思う。何をしても良いはずの王様が、その行動を家来に批判されると当然怒るであろう。

彼らは王様なのである。どういうことかというと、赤ん坊を「我が家の王子様」「我が家のお姫様」と言うだろう。
王様の手の動きひとつ、あごの動かし方ひとつで家来は王様の指示を解し、すぐに実現させる。赤ん坊も、泣けば乳が与えられ、オムツを替えてもらえる。本質的に赤ん坊は王様である。少し育てば、ベッドからおもちゃを放り投げ、親に拾わせて喜ぶ。このように、ある時期までは王様であるが、やがてまともな親はいくらかの赤ん坊の要求を拒否する。もっと大きくなると、やってはいけないことをしようとすると、手を叩かれたりし、赤ん坊は自分が王様でないことを理解する。

しかし、赤ん坊の頃の王様の身分の記憶は意外に残り、ある程度大きくなった子供が赤ん坊に戻りたいと思ったり言ったりすることもある。
必要以上の要求がかなえられ、甘やかされて自我の確立が遅れている子供ほど、いつまでも王様のように傲慢に振舞う。自我の確立が遅れているというより、赤ん坊の自我が残っているのである。
こんな人は、無自覚であっても、自分は王様のようなものと思っているが、学校や職場に入るようになると、その思い込みと反することが多く、幼稚な自我が満足できない。
その赤ん坊のような自我を満足させるには、人に迷惑をかけ、自分は王様だから当然それが許されるという態度を取るしか方法がないのである。
彼らは人に迷惑をかけることをしながら、平然としたり、「何が悪いんだよ」という態度を取ることが嬉しくて仕方がないほどの快感なのである。それが彼らの王様の証明なのである。
暴走族など最たる例である。夜中に爆音を響かせ、道路に混乱を起こさせて平気でいることが快感なのである。逆に言えば、そういったことでしか満足が得られないのだ。
彼らに暴走行為の理由を聞くと「スピードに命をかけるのが楽しい」とか言うが、全くの嘘である。暴走族の車はなかなかの高級車が多い。当然、親に買ってもらったものであるが、このように甘やかされ、いつまでも赤ん坊でいることが引き起こしたものなのである。

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2006.02.13

バレンタインデーに思う

明日14日はバレンタインデーであるが、ニュースによるとOLの7割がバレンタインデーが無ければ良いと思っているらしい。
バレンタインデーはチョコレートメーカーの策略であるが、確かに冗談でもチョコレートを買ってくれないと困るであろう。
「今年は高級タイプが売れてます」というのも、毎年デパートが言っている。
どんなに馬鹿げていると言われても、バレンタインデーの習慣は今後も続く。

バレンタインデーに似たものとして社員旅行がある。OLのほとんどは行きたいはずのないものであるが、旅行会社や観光地は、企業には是が非でも継続していただく必要がある。

さらに、高校野球、紅白歌合戦、NHK青年の主張コンクール、24時間テレビ愛は地球を救う・・・というのも全く同じものなのだ。
自分で頭を使える人であれば、これら全部に奇妙さを感じているはずだ。しかし、日本人にこれらの行事を抗うことなくやらせている何者かがある。何者かとは一言で言えば文化というものである。個人に犠牲は強いても、文化が機能を果たすことは全体の平和には貢献するかもしれない。あまり創造的とはいえないが。

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怠け者の夢

世の中には、いつも何かしていないと気がすまない働き者がいて、会社が休みの日には家の掃除をしたり、車を洗ってたりしています。
一方、根本的な怠け者もいて、部屋は散らかしっぱなしだし、休みの日にどこか出かけることもなく、家の中でごろごろするのが好きな人もいます。
これらの極端な人は、反対側の極端な者が人間に見えなかったりします(笑)。
私は極端な怠け者ですね。
夢といったら、下の絵のようなものです。ひろーい岩で出来たホールか何かのような場所で、周りに何にもない、ただ岩の壁が続くその1部分をくり抜いて作ったような椅子に座って、ずーっとぼーっとしていたいですね。目の前に別に何もなくてもいいですよ。ただ、空間的には広い方が良いですね。そして、静かであることです。
来る日も来る日もぼーっとしていたいものです(笑)。

20060212

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2006.02.12

本当らしく見えるライブドア報道にご注意を!

ライブドア報道の中で、事件の影響でライブドアサイトのアクセスが急上昇でも、ライブドア技術者の技術力でWebサービスをダウンさせないという技術者魂を見せているといった報道があった。ライブドア技術者の立派な発言も掲載され、ライブドアに技術があることを世間に猛アピールする。
しかし、これもライブドアお得意の中味のないイメージアップ作戦ではないかと思う。
いずれにしても、テクノロジ専門家以外に本当か嘘か分からないようなものは、宣伝する方も宣伝する方なら、報道する方も報道する方だ。

サイトへのアクセス数に対する許容量というのは、サーバーコンピュータを設置したデータセンターの設備全般や、稼動前に採用したソフトウェアの方式で決まるのであり、それはNECか富士通かIBMかサンかHPかは知らないが、それらのメーカー系のサービス会社が企画・設計・構築したはずだ。
ライブドア社員は、せいぜいが、サーバー稼動状況を管理するソフトウェアでモニタ管理したり、サービスそのものをユーザーの立場で使用して異常がないかを真面目にチェックするくらいで、別に大した技術力などいらない。異常があれば、サービス会社に連絡して、サービス会社が技術対応するのである。
まさかサーバーコンピュータがヒルズの中にあるはずはなく、どこか大手IT企業のデータセンター内にあるのであろう。
ブログの検索方式を変えたとかいっても、開発したのはライブドアであるはずがなく、それの適用も、別の会社の(優秀な)技術者が担当したはずである。

上記が本当か間違っているかは保証はしないが、報道を見る限り、ライブドアに技術があるとはとても思えないのである。
優秀なライブドア技術者の争奪戦があるなど、冗談にもほどがある。
テクノロジを愛さないトップの会社に優秀な技術者がいついたりはしないものである。

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2006.02.11

怒らせる名人

およそ怒るということのない人を妙に怒らせる人がいる。また、怒りっぽい人をさらに破滅的なまでに怒らせる人がいる。あなたがそうではないだろうか?

一見明るく、面倒見のよい「お山の大将」的な人は、ある種の人に腫れ物に触られるように反応し怒る。ひどい場合には病気になる。そして、怒らせた方の人には悪いことをしたという自覚はない。

人が怒るとはどういう時であろうか?
それは間違いなく、「自我を支えている土台」を揺るがされた時である。そして、その土台は妄想に過ぎない。妄想だからこそ、実は頼りない。グラグラの小屋を建てた人は、その小屋の柱1本でも蹴飛ばされると大いに慌てる。それと同じ理由で、貧弱な自我の土台を揺すられると、人は慌て、怒って抵抗する。
お山の大将的な人は、自分の自我の土台にとって脅威とならない人を集めるし、そういう人でいることを回りに強制し、ある程度成功している。よって、普段は明るい良い人だ。
そういう人を怒らせる人は、間違いなく、お山の大将君の暗黙のルールや、コミュニケーションパターンを破っている。すると、お山の大将君は「こんなやり方があるはずがない。他にもこんなやり方をする者が大勢いたら、俺は見捨てられ、孤独になり、無価値になってしまう。そんなやり方は世の中に存在しない。こいつは馬鹿だ、狂人だ、エゴイストだ、悪人だ」と思うのだ。

逆に、自分が特定の誰かを妙に気に入らなかったり、怒りを感じる時も全く同じなのだ。
それがたとえ、不正や凶悪犯罪を犯す者であってもそうなのである。
たくましい自我の土台を持つ者は、子供が殺されたニュースを聞くと、苦渋の表情を浮かべたり、真剣に何かを思考することはあっても実は怒らない。怒りの行動が良い結果になることは絶対にない。
とまあ、私はそう思うのである(笑)。

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2006.02.10

天使と仙人の違い

天使を縛ってみました(マテ)。
人間を超えた存在として、日本の天狗、中国の仙人・導師に比べても天使は強力過ぎ、堕天使でもない限りひどい目に遭うことはないように思います。
幼児タイプはいても老人はいないのも仙人なんかとかなり異なりますね。私にとって、幼児というのは自己中心タイプの典型で、あんなものに強力な力が与えられるというのは、(やはり自己中心主義の代表である)独裁者に破壊兵器を持たせるようなものと思え、かなりの抵抗があります。

20060209

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2006.02.09

人の闘い、狼の闘い

人間以外の動物(魚類、昆虫等も含む)は、食用にする時においてのみ異種族を殺す。同種族で戦うのは、オスがメスを取り合うとか、縄張り争いとか、グループのリーダー(ボス猿など)が、新しいリーダー候補に挑戦された時であるが、これらの戦いの場合は、力の差が確認できた時点で弱い方は降参のサインを出すが、そうすると強い方は相手を見逃し、致命傷を与えることは無い。
ところが、人間は動物を食用以外の目的で虐殺・乱獲し、人間どうしにおいても、降参した無抵抗な相手を殺す。

上記のことは偉い人がいろんなことを書いているので、余計なことは書かないが、これに関連してちょっと面白いことを思い出した。

不世出の空手家、ゴッド・ハンドこと大山増達氏(故人)の伝記漫画「空手バカ一代」の中の話である。
大山氏は、フランスでトラック運転手達に空手指導を始める。ある程度基礎訓練を行い、いよいよ組手(練習試合)に入った。大山氏は特にスジの良い男を選び、自ら模範試合をする。もちろん実力差は明らかで、大山氏の手加減したであろう攻撃を受け、男は「参った」をする。
ところが、大山氏は男にさらに攻撃を加えKOする。男の仲間達がざわめく。そして、「大山先生、彼は降参しました。それなのに攻撃するのはひどいのではないですか?」と抗議した。
しかし、大山氏は言う。「降参すればそれ以上攻撃されないというのはスポーツである。空手はスポーツではなく武道であり、本当の闘いである実戦に使うものである。彼は降参した後、もう安全とばかりに防御を解いた。しかし、実戦では、降参しても相手が攻撃をやめる保証はなく、さらにとどめをさして来る場合に備え、防御を解いてはならない」
(上記セリフは私もあまり憶えてはおらず、創作が入っているが、主旨は合っていると思う)
K-1で角田信朗氏が入場曲にした、原作者梶原一騎氏作詞のアニメ「空手バカ一代」主題歌にも「空手の道は人の道」とあるが、なるほど、サルや狼と違い、降参しても攻撃を続行する可能性のある人間相手の戦闘技術である空手に相応しい。

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2006.02.08

夢はなぜヘンか

「ヘンな夢を見た」
なんてことを言ったことは、誰しも一度はあると思う。しかし、本当は、この言葉自体がヘンである。
なぜなら、夢とはヘンなものであるのが当たり前だからだ。
ヘンでない夢などあり得ない。
いい年の大人が、夢の中で小学生になって小学校に通っても、本人も別におかしいと思わないし、安アパート住まいの人が夢の中で宮殿に住んでいたとしてもびっくりすることもない。UFOが普通に飛んでいても、ミキティーが彼女でも(どのミキティーだ?)夢の中では当たり前のことである。
こう言うと、「夢の中で世紀の大発明をしたり、素晴らしい小説のストーリーが与えられた例がある」と言う人がいるかもしれない。
神秘家の中には、これらの話を根拠に怪しげな教義を説く者もいる。
しかし、ケクレが夢の中でベンゼン環を考案したと言っても、夢の中で見たのはヘビが自分の尻尾をくわえてクルクル回るというものである。それがたまたまケクレに閃きを与えた可能性はあるが、大事な部分はあくまで目覚めた後に考えたのである。
もし、夢にそんな重大な意味があるなら、いつもケクレや湯川英樹やスティーブンソンでなく、もっと膨大な例がありそうなものである。

夢がなぜかくもヘンであるかというと、そこは自分一人の世界であり、孤立した自己中心の世界であることに関係があるという説がある。
面白い洞察である。人間は孤立し、自己中心主義に陥ると、夢の世界のような妄想にとりつかれるものだというのが納得できるからだ。
より多くの場所を訪れ、よりいろいろな多くの人と交流するほど、その人に合理性が高まるというのは、単に見識が広がるというだけではなく、そうすることで精神的に自己中心主義から離れざるをえない可能性が高いからであると思われる。
そういえば、妄想癖のある者は比較的世界が狭いといえるのではないだろうか?
そう考えると、ニートは確かに良い状況とはいえない。また、過保護や箱入り娘というのも問題があるかもしれない。逆に、ある程度頻繁な転職、それも構成員の性質の異なる、企業規模が違うとか、業種が違う職場への転職は実に望ましい。友人も少人数で固定せず、特に自己中心主義をやめざるをえないような優れた人から選ぶのが良いと思う。

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2006.02.07

芸術と猥褻の違い

今回は芸術に関して良い話ができると思う(思うだけかも・・・)。

芸術と猥褻の違いなんて、およそ芸術に興味を持っていれば一度は聞いたようなことと思う。
そして、有名な先生がいろいろ言ったり書いたりしているはずだが、特に世間で通っている論もないだろうし、私もいろいろ読んだり聞いたりしたが、憶えているものは全くない。なぜ憶えていないかというと、説得力がないからであり、なぜ説得力がないかというと矛盾した内容のものばかりだったからだと思う。
しかし無理もない。そもそも「芸術とは何か」「猥褻とは何か」すら、難しいというより曖昧な概念であり、その違いとなるとさらに曖昧で、ほとんど意味はないはずである。

あえて分かりやすく簡単に言うなら、こう言って良いと私は思う。
「芸術とは猥褻である」
別に両者は異なるものではなく、違いのないものの本質的な違いを論じるなんて無理なことである。
しかし、こう聞かれたらどうするだろうか。
「猥褻は芸術か?」
なるほど・・・お若いのになかなかオツムのよろしいことで(笑)。

ここで、さきほど「芸術と猥褻の違いに関する、偉い先生の論で記憶にあるものがない」と言ったが、1つだけ憶えているものがあったことを思い出した(健忘症か?)。
池田満寿夫さんが本の中に書いていたことである。
池田満寿夫さんは自分の作品を猥褻と言われても恥じることも怒ることもなく、むしろ喜び、ある女性に「あなたの作品は猥褻な感じがする」と言われた時、至福を感じさえしたようだ。よって、彼においては、「芸術は猥褻である」ということが成立している。
そして、池田満寿夫さんが「芸術はソフィスティケートされている」と書いていたのを印象深く憶えている。
sophisticate・・・洗練させるという意味である。精巧にするとか凝るという意味もある。しかし、世間慣れするとか、こじつける、気取る、まぜるという、ややマイナスの意味もある。
池田満寿夫さんは、長い海外生活で、一応の英会話は出来たようだが、かなりいい加減で怪しいものだったと思う。しかし、そこは芥川賞作家だ。適切な言葉を選んだものだと思う。

芸術はソフィスティケートされた猥褻なのだと思う。良い意味でも悪い意味でも。あまり精巧な猥褻はマズいが、何かの意味で凝ったり、まぜたり、場合によってはこじつけているし、その芸術家なりの基準で洗練させているのだと思う。
そう考えれば、ソフィスティケートこそ芸術の本質であるとも思える。
逆に、ソフィスティケートされていない猥褻はどんなにリアルでも芸術ではない。
池田満寿夫さんは、自分の芸術を「便所のらくがき」と言ったが、ソフィスティケートされた便所のらくがきであり、言い方を変えると、らくがきも漫画もある種のソフィスティケートが行われると芸術になり得るのだと思う。

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2006.02.06

彼(彼女)に一番言われたい言葉

男が女に、また、女が男に一番言われたいセリフとは何だろう?

昔、アニメ「うる星やつら」で、ラムちゃんと同種族のイケメンのおにーさんが人間の女の子を口説くのに使った唯一の言葉が「俺にメシを作ってくれ」だった。どっかの競輪選手は「俺のパンツを洗ってくれ」だったそうだ。
実は、これらの言葉は本質を突いている。つまるところ、「俺が食わしてやる」と言ってるわけである。その代償として「メシを作れ」「パンツを洗え」という労働を要求しているが、それが現実性を与えると同時に、「長期間食わしてやる」という意味が込められている。なぜなら、結婚時の白雪姫のような美しさはやがて褪せるが、メシを作ったり、パンツを洗ったりは一生できる。
森高千里さんの「私がオバさんになっても」が大ヒットした理由もそこにある。最近も、2枚目中年俳優が出ている保険のCMで、相手役の女性に「30年たっても、今より幸せにしてくれますか?」と聞かれ、素晴らしい表情で彼がうなづくシーンがある。

女性が一番男に言われたいセリフとは、つまるところ「一生面倒見てやる」である。しかし、このままでは露骨なので「一生愛する」とか「死ぬまで守る」となるわけである。

では、男が女に一番言われたいセリフは?
それは、ロジャー・ムーアが主演した007シリーズのタイトルにある。
「ユア・アイズ・オンリー(Your Eyes Only)」である。
このタイトルだけで、私はこの作品は世紀の傑作であると思う。
映画の最後、美しい女性がボンドに「ユア・アイズ・オンリー」とささやいて身にまとっているものをぱさっと落とす。
ユア・アイズ・オンリー・・・「あなただけに見せるのよ」である。ヤボな説明をすると、つまるところ「あなたとしかエッチしない」という意味であるが、もっと正確な言葉にすると「あなたにしかさせない」である。

CLAMPさんが「ちょびっツ」の画集に「Your Eyes Only」のタイトルを付けていたが、まさにちぃはその言葉の権化であり、「究極的に選択される女の子」を示していた。健康的な青年である秀樹は、人でないちぃを選んでしまったのだ。
CLAMPさんは、この作品に恐るべき洞察を込めていた・・・が、この話はまた今度しよう。

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2006.02.05

アイドルの写真集を買ってみた

およそ絵を描く人なら、写真集の人物を参考にしようと思ったことはあると思うし、実際にモデルに使う人もいるかもしれない。写真は平面的でダメという人もいるが、「動かない」「安い」というメリットがあり、池田満寿夫さんなんかも奨めていた。
そして、良くはないのだろうが、有名なアイドルや女優さんの写真ならネット上を探せばいくらでも入手できてしまう。
しかし、印刷された本でじっくり見るのも良いものであるので、ちょっと買ってみることにした。アマゾンで見てみると、数も種類も多いことに驚く。そして、どれも良さそうで選ぶのに苦労する。どうやら、好きなアイドルのは全部買うというのが基本のようだ。
とりあえず、藤本美貴さんと掘北真希さんのを買った。藤本美貴さんはTVで見て可愛いと思ったし、掘北真希さんは美しいと評判だったので選んだ。そして、見てみると、美しいのに驚いた。一頃の、「隣の女の子」的なアイドルとは全然レベルが違うのではないかと思う。1980年代のおにゃんこクラブやその後追いグループは素人集団だったが、モーニング娘をはじめ現在の美少女エンターティナーは訓練されたプロフェッショナル集団と言えるのではないだろうか。
今でも、かつての国民的アイドルの画像を見る機会があるが、現代的感覚で見ると「どこがいいの?」となるかもしれない。ただ、重要なことは、現在のアイドルを美しいと見惚れていても、後の世の人たちがその画像を見たら、やはり「どこがいいの?」となることである。巨匠アングルの絵の中には、稀にだが今の世にいても萌えな女の子もいたりするが、やはりそれは例外か、アングルも「シマッタ!手が滑った!」と思ったものかもしれない(笑)。

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2006.02.04

洗脳は必ずしも害ではない

オウム事件で洗脳ということが注目されたことがある。
しかし、人間というのは洗脳されないと生きていけないものであることは間違いない。
最も強力な洗脳体系は国家によるものであるし、いわゆる強い企業内にも系統立った洗脳パターンが存在する。強いリーダーは洗脳が上手いことが大事である。

昔、竹村健一さんが「日本の常識は世界の非常識」とか言って、自分が国際人であることをアピールしていたが、別に竹村さんに言われなくても当たり前のことである。ついでに言うと、「アメリカの常識は世界の非常識」だし、「フランスの常識は世界の非常識」、「中国の常識は世界の非常識」・・・である。
さらに、竹村健一の常識は私の非常識だし、現在、TV電波を使って大勢の国民を洗脳しまくっている細木数子さんは、自分に都合の良い「常識」を心の弱い者達に押し付けることで洗脳している。もちろん、細木数子さんの常識は私の非常識だ。

この時期は、小学校入学のためのランドセルが売れまくる。私から見れば馬鹿な話であるが、別に悪いというつもりはない。おかげでランドセルメーカーは売り上げ目標が立つし、伯父さんは小学生を持つ弟に恩を売ることもできる。
ただ、ランドセルでないカバンで入学する子供をみんなで奇異な目で見たり、馬鹿にしたり笑うというのは洗脳が効き過ぎといえなくもない。とはいえ、後200年くらいはやむを得ないというべきかもしれない。

洗脳から抜け出したって、別に良いことはない。
学校では仲間外れになり、就職はできず、変わり者扱いされ、下手すると異常者や精神病者である。富豪にでもなれば、環境的には満足するかもしれないが、いわゆるささやかな幸せは得られない。
学校や企業、あるいは国の思想の押し付けにただ反発しても意味はない。グループを作って対抗しても成果はほとんどない。
はてさてどうするか(笑)。続きはまた今度でも(難しいんだ)。

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舞ちゃんが好き

私は浅田真央ちゃんは大好きなのですが、姉の舞ちゃんの方がより好きだったりします。
この度、舞ちゃんは国体少年女子で見事優勝しましたが、最近はついにビールマン・スピンも取り入れてきました。手足の長い舞ちゃんがやると見ごたえありそうですね。
ところで、舞ちゃんは、「(妹と)差が開いてしまって悔しいとは思わない。真央は私の誇りですから」という素晴らしいコメントをしていますが、どうも私は疑ってしまう。舞ちゃんを信じないというより、17歳でここまでなれるものかと疑問があるからです。
しかし、舞ちゃんがフィギュアスケートからの引退を表明したことがありましたが、後に「妹と比較されるのが嫌だった」と素直に認め、やはりスケートが好きだと気付き引退を撤回しました。これで私は信じられるようになりました。
しかし、17歳でこんな境地に至れるとは・・・。やはり挫折は無駄ではないように思います。
ところで、必ずしも舞ちゃんが今後も真央ちゃんに負けたままでは終わらないように思います。何といってもまだ17歳。名前の通り、美しく長い手足を生かした舞いの美しさは無敵ですし、ジャンプもまだまだ向上しそうです。
思い出すのは中野由香里さんです。一時、シングルでは見込みがないとペア転向が現実的になっていましたが、毎朝、初心者がやるような基礎練習をみっちり行い、20歳で大ブレーク。2005年の成績だけなら文句なしのオリンピック代表だったのが、2004年の成績が良くないせいで代表落ち。このことを不合理に思う人は専門家にも多いようです。
ところで・・・バンクーバーでは、舞ちゃんがメダルを獲得しているかもしれません。

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2006.02.02

素人こそ絵を描くべき

名画の鑑賞はもちろん良いことと思いますが、どんなに下手でも自分で描くことにはもっと意味があると思います。
イチローのバッティングを見てばかりいるより、いかにレベルが低くても自分でバッターボックスに入って打ってみることの方が良いですし、格闘技をTVで見るばかりでなく、たとえ選手の訓練の一部でも良いからやってみた方が良いのです。
野球や格闘技に比べ、絵はいつでも気軽に実行でき、また、気軽で良いと思います。
ちなみに、岡本太郎さんによると、「下手でいい、いや、下手な方が良い」ようです。上手く描こうなんて考えてはいけません。で、ちょっと女性ヌードを描いてみました。

20060202

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2006.02.01

成功本の正しい読み方

書店に行けば、啓発書などのコーナーに「成功」や「自己実現」を扱った本が沢山あるのをご存知と思う。
そこに書いてあることを実践すれば、成功したりお金持ちになったりできる秘伝が書かれているものだ。
しかし、現実には、それらの本を読んだ者の中で実際に成功した者の割合は恐ろしいほど低いはずだ。ほとんどの本は、忠実に実践する限り失敗はないような書きっぷりなのだが・・・(笑)。
今回は、これらの本の有用性をくどくど述べるのではなく、役に立つ読み方を紹介する。
実業界や芸術界等で実際に成功した人の書斎や執務室に入ることができた時は、私は書棚に注目してきた。すると、必ず1冊、成功法則やあるいは語録のようなものが見つかる。
統計を取るほどの数ではないので、正当性を主張はしないが、ほぼ確信できることがある。
ハイレベルな成功者(資産数億以上)は1冊しか持たない。そこそこの成功者(年収は1000万~2000万程度と思われるが、いかにも有能そうなタイプ)では数冊を所有する。逆に、成功本を山ほど持ってるようなのは絶対成功しない。

これは理屈で考えても正しいと思う。
例えば、ナポレオン・ヒルの「成功哲学」という世界的ベストセラーがある。しかし、あの分厚い本を読み通すのは大変な上、1回読んだくらいでは内容の3割も掴めないだろう。また、これは理解が足りない場合かもしれないが、1冊の本の中にすら矛盾するように思える部分はどんな本でも必ずある。この1冊でも10回、20回と読まねばならないはずだ。
まして他の著者が書いた本なら、やはり相互に主張が異なる部分があり、それを融合させるような理解に至るのは大変である。
つまり、沢山の数の成功本を読めるのは、役にも立たない読み方をしているか、単に暇なのだ。成功するような人は、成功本を読むような暇はほとんどないのである。

言っては悪いのだが、ネット上で呆れるほどの数の成功本を紹介している人をよく見るが、彼らは成功とは程遠いはずだ。そして、そんな者達のアドヴァイスを聞く者にもほとんど見込みはないだろう。

ついでに言えば、ナポレオン・ヒルは本をどれだけ理解しても成功できないと思う。高価なナポレオン・ヒル・プログラムというのがあり、それを使わないとダメなのだろうが、私はそれを使ってもおそらくダメだと思う(それで成功した人の話など聞いたこともない)。

私がお勧めするのは、

(1)派手な表紙や軽い雰囲気の表紙の本は避ける
(2)分厚い本も避ける
(3)何冊もの成功法則本を書いている著者のものも避ける
(4)ある程度古い(初版から半世紀以上)
(5)別の成功本の解説書的なものも避ける
(6)文章の上手い著者(小説家全般)の本も避けた方が無難
(7)成功法則の専門家の本も避ける
(8)ライン教授の超能力実験等を肯定的に書いてあるものも避ける

の条件に合うものを1冊だけ選び、擦り切れるまで読むことだ。同じ本で飽きるというなら読まなくて良いではないか?志が無いというだけの話と思うからだ。
これで成功した人なら沢山いると思う。

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