美という幻想
美的感覚において、親子兄弟や同級生、あるいは、同世代の日本人同士といったところでは、あまり劇的な相違は見られないかもしれないが、(世界的な意味での)地域、時代が異なると、同じ人間とは思えないくらいそれが異なる場合も珍しくはない。
現在でも、ある未開民族では首の長い女性が美人と認識され、幼い頃から首を伸ばす首枷をして生活したり、昔の中国では足が小さいことが美人の条件であった。
また、顔の形にしても、ある時代や地域で美人と定められているものが、それとは別の時代や地域では大方の者が醜いと感じることもいくらでもある。
現在では、特に文明圏では世界的に美人と認定される基準が近いようにも思われるが、それは情報通信やマス・メディアの発達による世界の均質化傾向と思われるが、やはり顕著な違いは容易に見つけられる。
では、自分が美しいと信じている美人が本当に美しいかとなると、やはりそんなことは絶対になく、単なる好みの問題であると言わざるをえないはずだ。
そして、美醜の問題のみならず、善悪、正邪、優劣、その他あらゆる問題に関してもやはりそうであるのではないか?
B'zの昔のヒット曲「Love Fantom」で、歌が終わった後、女性の声で「いつも幻を愛している、何も分からずに・・・」という朗読が流れるが、なんとそれが人間の真実である。
ただ、重要なことは、大方の場合、人間は固定された幻を愛するのである。1つの幻から別の幻に移ることはあまりない。その幻の多くは学校教育が作るが、それ自体が悪いかどうかはなんとも言えない。人間は幻想なしに生きることはできないのである。
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