強い個性は果たして良いものか?
小学校の教室の後ろの壁に子供たちの描いた絵が並べて貼られるのは昔も今も変わらない。
そして、それらの絵がほとんど無個性であることも同じだ。サンタクロースにしろ、こいのぼりの絵にしろ、ほとんど同じで不気味なほどだ。もちろん、よく見れば個性は認められるが、本当の意味で個性的な絵は「逸脱」とみなされ、矯正を受ける可能性が高いし、どんな絵が褒められる、もしくは、「怒られない」絵であるかの基準はあるので、子供の方でもそれに合わせるのであろう。
学校教育とは、「前になれ」が基本である。すなわち、「前に倣え」であり、前の子と同じにやるよう強制されるのであるから上記のことは当然である。
私は、以前はこういったことを批判がましく考えていたが、いまになって、果たしてそれが本当に悪いのだろうかと考えるに至った。
学校の中で本来の意味で個性的な子供というのは、極めて優秀という場合もあるだろうが、多くの場合は、極めてエゴイストな親であるとか、おかしな宗教的信念を持つ親がいるなど、家庭環境の影響である場合が多いと思う。そして、個性的な子供は学校生活で苦労するのが普通だ。学校での苦労とは、勉強ができないとかより、教師やクラスの他の子供達との関係がうまくいかないことである。そして、こういった問題には教師は全く無能である。当然であろう。教師は子供を没個性にすることで安定した平和なクラスを作るのであり、没個性化を拒む子供には手の施しようがあるはずがない。
個性的な子供であっても、何かの点で天才的であったり、規格外れに巨体で力があったり、際立った美男美女ででもあれば、楽しい学校時代を送れる可能性も少しはあるが、ほとんどの場合は学校生活の中で最後まで苦しみ抜く。
そんな子供が社会に出て成功でもすれば、「やはり個性は良いものだ」という証拠となり、竹村健一あたりが「異才時代」なんて本を出したりする(本当に出している)。しかし、実際のところは、そんな子供達は社会に出れば多少の低減はあるが、やはり同じ苦しみを続けるだけで、成功する見込みもあまりない。成功とは、仮に個人的能力が重要な分野であっても、所詮は多くの同胞を必要とするからである。また、彼らもなんとか他人とうまくやっていこうと努力する場合もあるが、事実だけを述べるとそれはかなり難しいのである。
それなら、最初から没個性であっても周りの者達と仲良くなれる方が安楽な生涯を送れる可能性が高いと思われる。不幸にして、おかしな親を持ち、学校での無個性化教育が効を奏しない場合は厳しいが、そうでないなら、おかしな個性を身に付けず、平凡ながら充実した生涯を送る方が幸せかもしれない。もちろん、それに加え、特殊な才能に恵まれ、おまけに、親が裕福であるなどの条件が揃えば、傑出した人物になる可能性は高い。
思えば、社会現象にもなったアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」では、TV版と劇場版では全く別の結末があった。
TV版では、シンジは世間との妥協に成功し、いわゆる社会的自我を確立し、みんなから「おめでとう!」と祝福を受け、拍手されて終わる。シンジもうれしそうに「ありがとう」と笑う。
こちらは、シンジは無個性な凡人となり、普通の楽しい人生が用意されるだろう。
一方、劇場版では、シンジは歪んだ個性のまま、滅びた世界の中でアスカの首を絞めて殺そうとするが、それもできず、ただ泣くしかないが、顔を包帯で巻かれたアスカの片方だけ開かれた目はそんなシンジを冷たく見つめ、アスカの「気持ち悪・・・」の声で終わる。
幼い頃から歪んだ環境で育った偏執的な個性化人間シンジの哀れな結末である。
庵野監督は黙して語らずを貫いたそうだが、若者達に普通の人間になることを推奨したことは間違いあるまい。シンジに自らの姿を重ねたファンは、その意味がもし分かったらさぞパニックになったであろう。それを避けるために庵野監督は沈黙したのかもしれない。
エヴァンゲリオン終了からかなりの年月が経つにも関わらず、相変わらずヒロインのレイとアスカの人気は衰えず、ガイナックスを経済的に潤していると思うが、ファンは、健康的な可愛い少女としての彼女達が好きなのであろうか?そうとは思えない。心の中に巨大な闇を秘めた美しい外見を持つ二人のキャラクターに惹かれているのであり、もしかしたら、ガラスのように繊細な(そしてトラウマを抱えた)シンジに自分を重ねて、シンジの視点で彼女達を見ているのかもしれない。
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