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2005.11.30

私が芸術に求めるもの

私には、美大や芸大に浪人してでも進学し、学生として時間とお金をかけながら美術を志すというのは、あまりに浮世離れしているように感じる。
とはいえ、彼らには彼らの求める世界があるのだろう。それが何かはいまのところ私には全く関心はないのだが。

私が芸術に求め、また、世界に対して芸術が果たして欲しいと思うことは、岡本太郎さんや英国の作家コリン・ウィルソンが考えたことと根本において違いはないように思う。
岡本太郎さんは芸術家としての経験によって、かなり若い時期にそれを掴んだのだと思う。
コリン・ウィルソンは芸術の意義について文学を通して、やはりかなり若い頃にある程度の手ごたえを掴んでいたとは思うが、それを知的に把握し、論理化するために大変な苦労をしたように思う。彼は理屈で納得しないと満足しない性分なのだろう。
ただ、岡本太郎さんは論理化したわけではないが、やり方は十分に伝えてくれたと思う。

で、それが何かということになると、岡本太郎さんの言葉で言うと「生命を開ききること」という、なんともワケの分からない言葉になる。そして、その実践法としての芸術制作の原則が「うまくあってはならない」「きれいであってはならない」「心地良くあってはならない」である。また、行動の一般原理としては、「常に危険な方に自分を賭ける」であった。これを聞くと、ダスキンの社訓である「得な道と損な道があれば迷わず損な方を選ぶ」を思い出す。

そして、理屈化することに(かなり)成功したウィルソンの方を考えると、これを理屈だけで理解しようとしたら、とんでもない労力が必要なばかりか、現実には不可能であると思う。ウィルソンは、工場労働者やレストランの皿洗いといった肉体労働を行いながら図書館で勉強に励み、文学を味わう中で手ごたえを掴み、その成果は若くして彼を世界的作家にした。そして、その後も著名な心理学者エイブラハム・マスローをはじめ、様々な知識人との交流や、買い集めた2万冊の書物の大半を読み、個人的にも有益な経験を積み、思索を深めた。
それらを全て飛ばして結論だけ言うと、「人間性の回復」という、岡本太郎にも負けないワケの分からなさになる(笑)。

ただ、ニュートンは落下するリンゴの喩えで万有引力の法則を、アインシュタインは相対論を美女と過ごす時間とストーブの上に座っている時間の違いとして説明したように、ウィルソンも喩えを使って語っている。それは、「くたくたに疲れている時でも、好みのタイプの美女が全裸で現れると力の充実を実感するようなもの」である。

私が芸術に求めることも同様である・・・って、全然分からないですね(笑)。面白いですから(?)徐々に説明しますが。

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2005.11.27

可愛い顔の描き方

西洋人は、目と眉の位置が近いらしいですね。ほとんどくっついている場合もあります。
で、目と眉を離せば和顔(というか東洋人顔)になるようです。
ところで、少女漫画で顔を可愛く描くには、目と眉をなるべく離すようです。少女漫画家の立川恵さん(代表作は「怪盗セイント・テール」)の描くヒロインなんて、眉が額の中程という極端な描き方をしていますが、とても可愛いです。
そして、目の位置は下げれば下げるほど若く(幼く)見えます。口の位置は上げるとやはり若くなりますので、眉以外は縦に圧縮すると可愛い顔になるのかもしれません。
そんな感じで、ピアノを弾く女の子を描いてみました。
ある裕福なご家庭で、茶色の珍しいピアノを見たことがあります。ドイツ製の年代ものらしいです。

piano

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2005.11.26

絵のテーマをどう探すか

素人画家なら分かるが、絵を志すような人でも「何を描けば良いのか」で悩むことがあるものらしい。

このことに関し、いろいろな画家について調べたが、つまるところは横尾忠則さんが言われた、「10代で経験したことをどう使うかが鍵」だということと思う。
特に10代でなくても、もっと以前でも良いのかもしれないが、あまり偏見を持たない頃、強烈な感覚を一瞬に受けたか、あるいは、適度な刺激を継続して受けたかはいろいろであろうが、本能的な部分に深く刻み込まれたものや、その応用をテーマにするのが1つの良い方法と思う。
また、これは画家に限らず、芸術家全般や、芸術以外の分野でもあてはまることは大変に多いと思う。
偉大な芸術家、企業家、スポーツ選手などが、その道を志した理由を知ると、意外に平凡である場合が多い。
こう考えると、少年少女時代に、ことさら特別なことでなくても、いろいろなものを見たりしたりできるようにすることは大事なことであると思う。
また、大人になっても、方向性を定める際には、少年少女時代に根を持つ根源的な嗜好に気をつけてみることも価値があると思える。

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2005.11.25

学校での美術教育は必要か

学校での美術教育はない方が望ましいかもしれない。その合理的な1つの理由を述べる。
それは、学校で美術教育があったとして、良い美術教育を受けられるかどうかは生徒の運次第であるという動かしがたい事実があるからである。
確かに良い美術教育サービスを行える優れた教師もいるかもしれない。しかし、そんな教師に当たる保障は全くない。逆に、悪しき美術教育を受け、美術に対する致命的な悪影響を刻み込まれる可能性を免れることすら運次第で、運が悪ければ諦めるしかないのである(美術教育に限らないのだが)。

このことは、公教育の根本的な欠陥と思える。
教育とはサービスである。そして、正しいサービスとは、どこで誰にサービスを受けても同等の品質のサービスを受けられることである。医療サービスであれば、どの病院で受けても、水準以上の適切な治療が受けられる。自動車の修理でも、どのトヨタ店でも同じサービスが受けられる。
公教育にはこれが全くないように思える。しかし、優良な学習塾ではこれを当然として達成に近付いているように思う。そして、父兄の学習指導に対する信頼は、塾が学校を大きく上回るという調査結果を新聞で見たが、当然と思う。また、あくまで学習塾の業界団体の調査であるらしいが、子供の評価も塾が学校に対して圧倒的である。
・・・と、ここまで書いておいて、気になったので「塾 公教育」でサーチしてみた。すると、 リソー教育の岩佐実次会長が「教育とはサービス業である」と言ったらしい。しかし、これが当たり前の発想であろう。
リソー教育の成長は驚異的である。塾は教育サービスが悪いと生徒は来ない。ここが黙っていても目の前に生徒がいると思っている学校との違いであり、学校が塾にかなうはずがない理由である。
また、優れた塾で、受験指導・学習指導とは別に、人間教育を行うところも現れ始め、すでに高い評価を得ている塾もある。美術教育も学習塾に期待したいと思う。そして、学校への予算を塾に回し、生徒の負担減となれば理想的と思う。

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輝く肖像画の秘密

マジックショーや催眠術ショーって人気がありますよね。
本当のところは、みんなどうしてあんなものを見たがるのでしょうか?
実をいうと、好奇心というのとも少し違うのですよ。といいますか、むしろ好奇心旺盛とは反対の場合が多いかもしれません。
答えを言いますと、退屈だからです。日常に面白いものがないのですね。

よく「サプライズ(ビックリ)体験」「感動体験」をしないといけないとか言いますが、驚異の世界を味わうために、わざわざ宇宙船USSエンタープライズ号に乗って太陽系の外に旅立つ必要もないのです。

驚異の世界は目の前に常にあります。
これは旅や冒険をしなくていいという意味ではありません。旅や冒険は、驚異の世界はどこにでもあることを認識するためにとても役に立ちます。なぜそうなるかというと、旅や冒険をすると、注意力や観察力が高まるからです。身の周りの驚異に気付くには注意力や観察力の元である集中力が必要です。

芸術家は身の回りの驚異に気付くことのできる人達です。イェイツやブレイクの詩がなぜ良いかといいますと、身の回りの驚異について語っているからです。
名画もそうだと思います。単に肖像画を描いているようでも、優れた画家に見えている人物は普通の人が見ているのとは違うように思うことがあります。

以前、岡山県の林原生物化学研究所にM博士を訪ねた時、M博士の研究室の壁に飾られていた横尾忠則さんによるM博士の肖像画を見た時、そう思いました。まさに、横尾さんにはM博士はこう見えていたと思える、輝くような肖像画でした。

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2005.11.23

人魚姫の最後をご存知?

私が一番好きな絵は、偕成社の絵本「にんぎょひめ」の最終ページの、天に昇る人魚姫の絵です。いわさきちひろさんの絵です。子供向けの絵本なので、原作にある複雑なお話は省いてありますが、曽野綾子さんは、人魚姫が「かなしみではなく、ひとをあいしたよろこびにつつまれながら」天に昇っていったと書いています。
この名文とあいまって、淡い色の空に人魚の姿の人魚姫が両手をひろげて昇っていく後姿が胸突きました。
原作では、人魚姫は空気の娘(風の精)の仲間になり、300年間修行をすることになります。
で、全く違う構図ですが、私もちょっと描いてみました。

shoten

Corel Painter 9, WACOM intuos2 i-620使用

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芸術家の条件

ZARDの「こんなにそばに居るのに」という歌の中で、「出会った頃のように熱く激しく」というフレーズが強く記憶に残っている。詩は坂井泉水さんが自分で書いているのだが、つまるところ、ZARDの全ての歌を貫くものがこれであるように思える。
「スタートレック」で、ミスタースポックが決闘に勝って欲しい女を手に入れたバルカン星人の男にこう言うのもよく憶えている。
「どんなに欲したものでも、手に入れてしまえばさほどでもなくなる」

およそ大人といえる年齢の人間であれば実感として感じることができるのではないだろうか?
寝ても醒めても夢に見ていたものを手に入れたのに、やがてそれは色あせてしまう。そんなものだと思う。そして、知らない間に人生さえ色褪せる。
しかし、「なぜそうなる」と問う者がどれだけいるだろう!?
実をいうと、そう問い続けた者が芸術家なのだと思う。

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2005.11.22

分かりやすい絵と心の関係

子供の絵を見ると、顔や身体の特定の部分が奇妙に誇張されたようなものがある。画家の絵にも、あり得ないくらい首が長いとか、顔が長いものがある。画家の場合は意図的なのだと思うが、案外そうでもないのではと思うことがある。

人間の感覚なんてあてにならないと思った経験がある。
大手の企業に入社すると、やたら研修に行かされたりする。で、上司も参加するという珍しい研修があった。人間教育の研修で、講師の指示で、紙に1円玉の外周を描かされた。円だけなのだから、ほとんど同じものができあがるはずである。ところが、直系1ミリの円とか、逆に五百円硬貨以上の大きさの円を描く者も珍しくなかった。
講師の説明では、その大きさは1円の価値をどう感じているかを表しているという。お金の苦労を知らない新入社員はおしなべて小さく、貧しく育った年配の幹部は小さく描く傾向があったように思う。ところが、描いている本人は、まともな大きさの1円玉を描いているつもりなのだ。

絵には個人的な感じ方や、考え方の傾向などが驚くほど顕著に表れるように思う(手書き文字でもかなり表れると思うが)。ただ、それは変化する場合もあると思う。私など、数ヶ月前に自分で描いた絵を見てかなり驚くことがある。
そう考えると、真に高貴な精神を持つ者の絵にはそんなものが表れているのかもしれない。絵とそれを描く者の心の関係は思いの外大きいかもしれない。

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2005.11.21

芸術家と成功

ゴッホは生存中、1枚も絵が売れなかったことをご存知の方も多いと思う。
ただ、当時は宣伝の方法も少なく、ましてや一般大衆向けに個人が宣伝する手段などなかったと思う。画商に売り込み、画商が気に入ってくれたら店に陳列してもらえる程度だったのではなかろうか?
セザンヌはサロンに応募したが、ことごとく落選し、コネでただ1度受かったことがあったらしい(ただし、合格させた知り合いはひどい目にあったらしい)。ただ、サロンの審査員は伝統的な絵画の権威であり、その筋の人たちに良いと思われなかっただけのことである。

もし、セザンヌやゴッホの時代にインターネットがあれば、もっと早く彼らの絵は人気を得たかもしれない。まあ、こんな仮定にあまり意味はないが・・・。

ところで、シャーリーンの「愛はかげろうのように」(I've Never Been To Me)という歌は、そのタイトルは知らなくても、メロディを聴けば知らない人は無いのではと思うほどの歴史的なヒット曲だが、1976年頃にそのレコード(当時はCDなんてものはなかった)が出た時は全く見向きもされず、売れ始めたのは1982年になってからだった。

成功するというのは、複雑な要因があるようである。巷には成功法則の本が溢れかえっているが、ほとんどの本が子供だましで失笑せざるをえないものばかりだ。しかし、そんな本で人生を棒に振る者も少なからずいる。成功する方法とは、一般の人が大喜びするような類のものでは決してないだろう。

ただ、時代が進むほどに良いものは認められやすくなっている。権威側も必死になって権益を守ろうとするだろうし、連中に迷惑をかけられる優れた才能の持ち主もいるだろう。
しかし、ゴッホの悲劇は繰り返したくないものである。

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2005.11.20

人魚姫

アンデルセンが人魚姫に自己を投影したことは間違いありませんが、もし、繊細な心を持ちながら世間で数限りなく悔し涙を流した経験があれば、この作品に込められた意味がより伝わってくるに違いありません。
そして、アンデルセンの自伝を読めば、さらに多くのことに気付くかもしれません。

ningyo
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アンデルセンの作品を描いた画家

アンデルセンほど、多くの画家に絵のモチーフを与えた作家は少ないのではないかと思います。そして、アンデルセンの作品を絵にした画家には、深くアンデルセンの作品を理解し、共鳴した人が多くいます。そのため、その絵はさらに深く情感溢れるものとなり、アンデルセンの読者はさらに深くアンデルセンの世界を感じることになります。
日本の画家では、いわさきちひろさんが間違いなくその一人です。いわさきちひろさんは、アンデルセンの童話の挿絵を沢山描きました。同じ作品であっても何度も描きました。
ところで、いわさきちひろさんは1933年生まれで、1974年に亡くなられています。少し昔の画家です。しかし、今見てもその新しい感覚に驚きます。古臭さが全く無く、知らない人は、現代の画家だと思うかもしれません。

いわさきちひろさんのアンデルセン童話の絵の特徴の1つは、たとえ「マッチうりの少女」のような悲しいお話でも、必ず少女の可憐さを表現することです。ちひろさんの「マッチうりの少女」の主人公はとても可愛いです。当然、人魚姫やおやゆび姫も可憐です。
このあたりは、アンデルセンと同じデンマークの画家で、やはりアンデルセン童話の挿絵で有名なスベン・オットーとやや異なります。どちらが良いとは言えませんが、ちひろさんのこの描き方は私は好きです。どんな哀れなもの、みすぼらしいもの、あるいは呪われたものにも、その中に必ず美しいものを秘めていることを思わせます。そしてそれは、どんな悲惨な人たちの中にもキリストを見たマザー・テレサを思い出します。
そして、つくづく、絵に情感を込めるものは、その画家の人生経験ではないかと思います。ちひろさんは第二次大戦後、疎開先から東京に出て戦災孤児をスケッチしました。新聞社で働きながら、絵の勉強に励みました。結婚するも夫は自殺。そのような、苦労、努力、悲しみを乗り越えて精神を磨き上げてこそ、素晴らしい絵が描けるように思います。

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2005.11.19

絵を描く勇気

私は星野富弘さんの画集と本を何冊か持っています。
花の絵に肉筆の詩が書かれていますが、花やブドウの絵は生命感に溢れ、リアル以上のリアルを感じます。
ご存知の方も多いと思いますが、星野さんは首から下が動きません。中学教師をしておられた24歳の時、クラブ活動の指導中に頚椎を損傷し、それまで身体に絶対の自信を持っていたスポーツマンの青年が一瞬で身体の自由を失くしたわけです。
星野さんは絵や字は口に筆をくわえて描きます。

ある死刑囚は星野さんの本に感激し、中学生の時以来初めて絵を描きはじめたのですが、こちらも見事な絵でした。彼はもう死刑が執行されているかもしれません。私は、この話を知り、私も中学生以来初めて描きはじめた絵を少しはちゃんと描こうと思ったものです。
岡本太郎さんは、「絵を描くことは疑いなく人間の本能的な衝動である」と言い、「表現欲というのは一種の生命力で思いのほか激しい」と言いましたが、極限の状況で描かれた絵を見ると勇気を与えられるように思います。
これは励ましでもあるのですが、昨今は癒しブームとかで安らぎを求める人が多いように思います。しかし、生きている人間に必要なのは癒しではなく勇気のようなものと思います。死の直前にも安らぎを激しく拒否したイェイツが、没する1週間前に書いた「黒い塔」という詩から感じる精神の強い生命力を想うと、安易に癒しを求めることの愚かしさを感じるように思います。

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2005.11.18

輝く世界を見せる「内なる画家」

どんな名画も、それ自体で名画であることは絶対にない。見る者とペアになって初めて名画に「なる」のである。
サルトルは「小説を読むということは、その小説をもう一度書くことである」と言った。絵画も同じなのだ。絵画を「鑑賞」するということは、その絵を一瞬に自分で描くことである。

この世のあらゆるものは、絶対的で固定されたものではない。我々は自分の内部にある何かをそれぞれのものに投影して形を作り上げている。我々の内部にあって、世界に何かを投影し形を作っているものを、「内なる画家」とか「内なる魔術師」と呼んだ者もあるが、良い表現だと思う。同じ車が、ある者には「ただの数十年前のポンコツ」に見えるが、別の者には「究極の価値を持つ絶対的な美」と映る。

この世にあるものの真の意味は、普通に思われているよりもはるかに大きなものである。この「存在の真の意味」を感受する度合いは、内なる画家がどれだけ強い投影を行なうかに関係すると思われる。
何かのきっかけで「内なる画家」が強い投影を行なえば、その反映である意味の知覚に我々は圧倒される。その時、我々は世界の美しさや星空の荘厳さを知る。

しかし、それは珍しいことではなく、誰でも無数に体験していることである。「明日から夏休みだ」とか「今日はクリスマスだ」という時、見慣れた景色や家の中のものが輝いて見えるといったものである。そんな時、この世は生きる価値のあるものになる。
また、何かの拍子に、この世の真の意味を垣間見て人生を変えた例は数知れない。

名画を前にした瞬間、我々の内なる画家が何を描くかが問題である。
そして、我々の内なる画家は、我々の意思と無関係ではない。その名画を輝かせるだけのものを投影するかどうかを決定するのは、やはり我々の意思なのである。
もし望むままに、内なる画家に強い投影を起こさせ、意味知覚を感受する能力を得たなら、世界は驚きに満ち溢れたた驚嘆すべきものであり、名画達は自分に荘厳な言葉を語りかけてくるであろう。いや、確かにイェイツが言った。「そんな時は、壁にかけた絵が語りかけてくる」と。

しかし、こう言うと、それがLSD等の覚醒剤を使用した様子と似ていることに気付いた人もいるはずだ。それは事実の場合もある。ビートルズも池田満寿夫もスティーブ・ジョブズもLSDに凝っていたことは確かにある。覚醒剤は確かに内なる画家を「抑えているもの」を眠らせ、その結果、やはり普段は世界の内側に隠されたものを感じることがある。しかし、表の意識との協調が無いので、内なる画家は何を作るか分かったものではない。
サルトルはメスカリンを使ったとき、大ダコと巨大伊勢海老に追い回される幻覚を見たらしい。くれぐれも覚醒剤に頼らずに、内なる画家と協力し、世界に秘められた真の意味を知覚できるようになりたいものである。

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2005.11.17

芸術家と至高体験-芸術は爆発だ-

コリン・ウィルソンの「フランケンシュタインの城」(平河出版社)に

ゴッホの知覚はまるで、緊張と自虐から生じた一種のまぐれ知覚だったように思えてくるのだ

とある。
ところで、ウィルソンは、ここでの「知覚」を「意味知覚」という意味で使っている。
意味知覚とは、単に感覚器官から得られた情報を認識するだけではなく、その存在の本質までをも掴み取ることで、これこそが芸術家のみが持つ感覚である。
つまり、花や鳥を単に認識するのではなく、それらの存在の荘厳さまでも感じることで、詩人はそれを詩に、画家は絵に描く。岡本太郎が「ただ存在するというその荘厳さ」と言ったものである。夏目漱石が「天賓」と呼んだものもこれかもしれない。

そして、ゴッホは意味知覚を自発的ではなく、単に偶然に得ていたとウィルソンは言っている。ウィルソンはゴッホの絵と、有名な彼の「手紙」を見てそう感じたらしい。

意味知覚を得る瞬間とは、エイブラハム・マスローの至高体験(絶頂体験)のことのようである。
そして、マスローは至高体験は偶然に訪れるものであると考えていた。
ではなぜウィルソンはわざわざこのことをゴッホに限って言ったのかというと、ウィルソンは至高体験は自発的に起こすことも可能であり、優れた芸術家であれば、かなり意のままにそれを起こすことも可能と考えていたからと思う。
こう考えてみると、人が芸術家になるという意味がいくらか分かってきたように思う。岡本太郎は「私より自由な精神を持っているなら岡本太郎を超えることは何でもない」と言ったが、これだけだとどんな意味か分からない。また、有名な爆発の意味も「宇宙に向かって生命がぱーっと開く」などと言われても正直分からない。
後は、意味知覚をもたらす至高体験の起こし方さえわかれば良い。これには多くのヒントをすでに集めた。イェイツが、ドストエフスキーが、ロレンスが、エリオットが重要な示唆を与えてくれているのだ。

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ハッカーが語る美術と教育

「ハッカーと画家」(オーム社)という本がある。
ハッカーとは独創的で優秀なコンピュータプログラマのことで、ネットワークからの不法侵入やそれに加えて破壊活動や不正情報入手を行うのはクラッカーと呼ぶのが正しい。
この本の著者ポール・グレアムは真正のハッカーで、本人いわく「オタク」である。
ポールは、大学院でコンピュータサイエンスを修めた後、美術学校に入って絵を学ぶ。そして、コンピュータプログラムと絵を描くことは根本的に似ていると考える。

ところで、この本ほど教育問題を鋭く正確に考察した本を私は読んだことがない。
アメリカの学校も日本と似たような事情である。
学校関係者は是非一読をお奨めする。学校や教師にとってあまり良いことは書いていないと思うが、何事も現状の問題点を認識してこそ進歩があるのだ。思うに、学校というものが100年以上ちっとも進歩せず、かえって劣悪化している原因はそこにある。たとえば、教師による教育問題のブログやBBSもよく見かけるが、そこでは教師どうしが褒めあっているのである(笑)。これでは駄目である。

また、著者自身も身にしみたらしいが、オタクがなぜモテないかも的確に分析してくれている。自分のことすら冷静に分析できる人間は賢いものだ。(ただ、写真では彼自身はハンサムでモテないタイプとは見えないが。)
合理精神と論理性の権化である彼の思索は知的でぐいぐい惹きつけられる。その明晰さで、彼はITベンチャーを成功させ、その企業を売却し巨大な利益を上げた。つまり、彼の知性は実際的であったという証拠である。そして彼のこの美術と教育に関する考察も実際的である。

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2005.11.16

芸術の嘘

芸術に関する権威筋からの情報は、いったん全て捨ててしまった方が良いだろう。
「モナ・リザ」が優れた芸術だと思う必要もない。あんなマユなしの太ったオバさんのどこが神秘の微笑みだ・・・くらいから始めれば良いのである。
しかし、何かのきっかけでダ・ヴィンチに興味を持つうちに、ダ・ヴィンチの人となりや「モナ・リザ」を描いた背景、あるいは、モナ・リザという人物そのものについて知るうちに絵の見方も変わるし、そこでいろいろ考えたり、興味をもっていろいろな人のモナ・リザ評を見るうちに共感できるものを見つけるかもしれない。
芸術を理解するということは、必ずしも無垢で純粋な心だけで可能なことではない。

認識ということからいうと、同じものを見ているつもりでも、人によって見るものは全然違う可能性がある。目で見たものは脳の中で再構成が行われているようで、その再構成の仕組みは複雑で、分からないことも多い。これは音楽でも同様であるらしい。
自分にとっての赤が、別の人には青に見えているかもしれない。
催眠術を使えば、人間の認識なんて本当に曖昧で個人的なものだと理解することができるが、人間なんて常に催眠術にかかっているようなものだ。

他人の言うことは十分に参考にして良いが、それが正しいかどうかは確認をしてから受け入れる必要がある。重要なのは個人としての自立した認識である。権威筋からの情報は大概デタラメと決めてかかった方が安全かもしれない。
そして、自立した認識を持つためには自ら考えないといけないが、そのためにはいろいろ必要な行動がある。それは厳しいが楽しいものであるに違いない。
特に昔は、洗脳する特権は支配者層のみにあり、被支配者層である庶民にいろいろ嘘を信じさせる必要があった。そして、その嘘が見破られないよう、庶民が自分で頭を使って考えることがないよう管理した。その傾向が極端な国家が現在もあるかもしれないが、現在の我国が完全にそうでないとは思い難いし、ことに芸術に関していうなら、かなり顕著に思えるのだが。

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絵画の価値とは

絵画を含めた芸術品に絶対的価値というものは絶対にない。
「モナ・リザ」であろうが「ゲルニカ」であろうが、価値を全く認めない人もいるが、かといってそれらの者がおかしいわけでも美的感覚が劣るわけでもない。
こう書いていて、ふと「荘子」を思い出す。人間の中では絶世の美女と呼ばれる者でも、魚はその顔を見れば逃げ出す。生き物によって好んで食べるものは全く違う。しかし、それらの美的感覚や嗜好に優劣がつけられようか・・・とある。もちろん比喩的に書いてあるが、言わんとすることは分かる。

いや、ひょっとしたら、「モナ・リザ」が名画だというのは、地球人の思想をコントロールすることを目的とする宇宙人による洗脳かもしれない。実際、私は「モナ・リザ」が良いと思ったことは全くない。

私は池田満寿夫さんが好きだが、彼の受賞歴には何の興味もない。なんせ、私は彼の絵が良いと思ったことはない。
池田さんは気に入った言葉らしいが、「陰毛のような」線で描かれたあの絵のどこが良いというのか?
しかし、池田満寿夫さんの本を読んでいて、彼自身が好きになった。よって、彼の絵を見ても楽しいということはあるし、実際、池田満寿夫さんの豪華な画集を沢山持っている。
そういうわけで、どんな賞を取った絵だとか画家であるとかいったことは私の価値観に何の意味も持たない。
だが、こういった感覚は案外良いかもしれない。ピカソも「絵が重要なんじゃなくて、画家が何者であるかが重要なんだ」と言っていたらしい。

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2005.11.14

巫女さん

数日前に描いたデッサンを塗りました。
英語で巫女さんのことをどういうのかと思ってgoo辞書で調べたら“a shrine maiden”とありました。神社の乙女・・・ですね(笑)。大掛かりな神事の時はアルバイト巫女が多いのだと思いますが、それでも清々しい神社で巫女服に身を包むとちょっと荘厳な気分になって背筋が伸びると聞いたことがあります。良いものですね。
miko

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絵画の役割

イラストレーションという言葉は、ラテン語の「輝かせるもの」「明るみに出す」という言葉が語源になっているらしいが、なかなか興味深い。小説の挿絵として小説を輝かせたり、広告として商品やサービス、あるいは企業を輝かせるのがその役割と思えば解りやすい。イルミネーションも同じ語源だそうだが、これも面白い。

では、芸術的な絵画の役割とはなんであろう?
池田満寿夫さんの「私のピカソ 私のゴッホ」で、池田さんは「本質において壁にかけて飾るもの」と書いておられたが、絵画とは日常に溶け込むものであるというような意味だったと思う。
かのゴッホも、自分の絵を家庭の壁に飾ってくれることを強く望んでいたらしい。だが、もしそうなら、ゴッホの願いは、彼が生きている間は全く叶わなかった。彼の絵はただの1枚も、彼の生存中には売れなかった。
もっとも、今でこそ、世界の至宝として美しさを認められているゴッホだが、岡本太郎さんによると、当時の人にとってゴッホは非常にいやったらしく、激しく訴えてくるものがあり、とてもではないが、のんびり見ていられるものではなかったという。池田満寿夫さんと岡本太郎さんの両方が正しいとすれば、ゴッホは時代に先んじ過ぎたということだろうか?

では、アニメや漫画の絵はどうであろう?素晴らしい腕前で描かれたこれらのポスターやカレンダーは芸術品ではないのだろうか?つまり、壁に飾って日常に溶け込まないのだろうか?
これらの絵は、地域性や流行色が強く、普遍性が少ないとはいえるかもしれない。絵画にだってやはり時代の流行というものがあり、それから外れると、芸術としての価値はどうか分からないが、やはり日常に馴染まないことはあるだろう。
ピカソの抽象画は何が描いてあるかは分からないが、時代や地域を超えた普遍性は高いものらしい。

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2005.11.13

修正した絵は良くなるか?

油絵となると、その絵がどのくらいの修正の後に完成したものかを知るのは難しい。
しかし、版画であれば、一応完成した時点で刷ってみるし、制作中の試し刷りもあり、刷ったものが残っていれば修正の様子を知ることができる。
ピカソの版画の修正履歴はすごいものだったらしい。修正しているうちに全然違う絵になったり、修正結果、かえって悪くなった(と思われる)ものがあったりと、天才とはいえ、このあたりは我々のやることと案外似ている。

音楽家も譜面の修正は当然あるだろう。ベートーヴェンはある一音を何十回となく修正し、結局最初の音を採用したということがあったという有名な話がある(もっとも、修正後の音を採用したケースと実際にはどっちが多いのかは分からないが)。

美術史上最高の傑作は何かとなると、そんなこと分かるはずもないが、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を上げる人も多いと思う。
ダ・ヴィンチは「モナ・リザ」を生涯手元に置き、そして、その絵の左手を生涯に渡って修正した。しかし、私の感想だが、その左手が実にヘンなのだ。
後でいろいろ考えたものより、最初に閃いたものが一番良いということも多いが、「モナ・リザ」も一番最初に描かれた左手が一番良かったりするのではないかと勝手に想像してみたりする。

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2005.11.12

シュールレアリズム

シュールレアリズム(超現実主義)といえば、私はダリくらいしか知らなかったが、ダリの変人振りはいろんな分野の本で読んだ。シュールレアリストは変人なのだろうか?
シャガールにもシューレリスムの絵はあるし、横尾忠則のにもそう言ってよいのがあると思う。
最近、マグリットを知った。とにかくまともな絵なんて1枚もないような画家だ。
ただ、池田満寿夫がマグリットの絵の中に描かれた空を非常に気に入っていたようだ。たしかに、あまり複雑な塗り方でない(多くの場合は単純に塗ってある)、広い空間を占有したマグリットの空は心を引きつけられるように思う。
マグリットの絵を見ていると、オスカー・ワイルドの「人はあり得ないものは簡単に信じるが、あり得そうにないものは決して信じない」という言葉を思い出す。マグリットの絵は「決してあり得ないもの」である。
マグリットの「ピレネーの城」という絵は、海の上の大空に巨大な岩が浮かび、その上部に城がある。「天空の城ラピュタ」を思い出さざるをえないが、このアニメ映画が「ピレネーの城」を参考にしたという話は聞いたことがない(実際はどうか知らないが)。
「風の声」という、やはり大空に巨大なものと思われる3つの球体が浮かんだ絵は、まるでSFに出てくる宇宙人の宇宙船のようだし、「新世紀エヴァンゲリオン」に出てくる使徒のようでもある。
私はダリよりマグリットの方が好きである。ところで、横尾忠則さんの自伝に書かれていたが、横尾さんがダリに会った時、ダリに「僕の絵が好きかね?」と聞かれ、「はい、好きです」と「心にも無い返事をした」とあったのを面白く思い出す。ダリは横尾さんに「僕は君の絵が嫌いだね」と答えたそうだ。

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初めて描く角度

back
デッサン、素描って、色を塗ってないものらしい(?)。
しかし、「池田満寿夫の人物デッサン」には「パステル・デッサン」「アクリル・デッサン」として、しっかり彩色したものもあった。もっとも、著者本人も「これがデッサンに分類されるかどうかは分からないが」と書いている。どうでも良いのである。おかげで大変に勉強になったので。
もともとがお絵描きブログというのは本筋ではないのだが、これまで一度も描いたことのない角度を描いてみた。何か参考にしたかったが、勘だけで素早く描いた。後で何かで確認したら悪いクセが見つかるかもしれない。

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デッサンをやってみる

「池田満寿夫の人物デッサン」(河出出版)を読み、いよいよデッサンの練習をしてみる。
素早く描くことに意味があるようである。その訳は、頭に浮かんだイメージを確実に画面に固定させるためで、細部はどうでも良い。当然、何も見ずに描いた。
だが、素人の悲しさ。これだけで20分もかかってしまった。
ところで、私は、クロッキー、デッサン、素描の違いが分かっていない(笑)。素人はそんな言葉は使わないのである。
hair

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2005.11.11

絵を描くことの効用

子供の絵に家庭問題などが強く現れるものであることはよく知られている。
特に美術教育を受けていない子供でもそのようである。
つまり、絵は比較的簡単に自己を表現する優れた手段でもあるということである。
これを歌や楽器の演奏、あるいはダンスなどを使って子供の内面的なものを読み取ろうとしたら大変に難しいことになる。
さらに、積極的に絵で自己表現を行うことも、歌やダンスに比べて随分有利なものであると思う。そもそも、歌や楽器演奏やダンスはある程度の訓練を行わなければ個性を表現するのは難しい。さらに、歌や楽器演奏は周りを騒がせることになるし、踊りはある程度の場所を必要とする。では、文章、たとえば詩で表現するということはどうかというと、やはりややハードルが高いものと思う。
しかし、根本的に絵は幼児でも描ける。そして、自己を表現することの効用は大きい。自己の発見もあるし、カタルシスの効果がある場合もある。想像力、創造力を高めるし、右脳を訓練することにもなる。
私は1年半ほど前に絵を描きはじめたのだが、その当時の絵を見ると、人の顔も身体も信じられないくらいに歪んでいることに驚く。当時はそれをなかなかうまく描けたと思っていたのである。今でもそうだが、だいたい、描いてから数ヶ月もしたら、描いた時はまずまずと思ったその絵が救いがたいものに思えてくる。上達した楽しさと考えることも可能だが、絵を通して精神や感覚の歪みを矯正しているのだとも思われる。

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美術教育の矛盾

なんのために美術教育をするのかというと、絵を描くことが「自分にもできる」という自信と勇気を与えるためのものでなければならないのではないだろうか?
ところが、ほとんどの人が美術教育により、かえって絵を描くことへの自信も勇気も失くし、強い苦手意識を持つことになる。
仮にボウリングやお菓子作りを学校の正式科目で教えるとしても、これらについて苦手意識を植え付けるとしたら問題である。もし、絵を描くということが、人間にとって重要な意味を持つ行為であるとしたら、当然はるかに大問題である。

これは、相対評価(集団の中での順位)か絶対評価(設定した目標への到達度)かにしろ、評価が非常に難しい美術というものが学校教育の中に存在する矛盾かもしれない。つまり、集団の中で何番か、あるいは、目標とするレベルの何パーセントまで到達しているかを評価するのは教師の主観でしかないわけである。
変な話だが、望ましい評価とは、その生徒が、絵を描くということに対し、どのくらい自信と勇気を持てたかであり、試験は心理学者に行ってもらうか、嘘発見器でも使うしかない。
美術教育が重要であるなら、学校まかせにしておいて良いものかは疑問である。

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2005.11.10

ピカソはどこがいい?

「ピカソって、いったいどこがいいの?」と思ったことのない人はあまりいないと思う。
絵の先生だって、納得いく説明をしてくれたことはないと思う。
もちろん、私にだって分からないし、別に分かる必要もない。実際に絵を見て、個人的に何かを感じれば良いだけのことである。どういう風に感じないといけないということはない。
ただ、ピカソのバックグラウンドを知っているか、また、絵を見る者がどんなバックグラウンドを持っているかということも、絵から何を感じるかに大きな影響を与えると思う。
ところで、ピカソについてよく出る次の質問の答は知っていても良いと思う。

(1)ピカソって、本当に絵が上手いの?
(2)ピカソのような絵って、誰にでも描けるんじゃない?

答は両方Yesである。
別に、ピカソは上手いから偉いのではないが、ピカソは恐ろしく上手い。天才である。彼の十代前半の技能に追いつくことすら至難の業である。
ピカソの抽象画は、技能という点からいえば見てのとおり難しくはない。岡本太郎さんがそう書いていたから間違いないと思うが(笑)、私もそう思う(ただ、あまり信じないように・・・)。

ピカソに関しては、岡本太郎さんが「青春ピカソ」(新潮文庫)に詳しく書いてくれている。やや叙情的過ぎるような気もしたが・・・。また、池田満寿夫さんの「私のピカソ 私のゴッホ」(中公文庫)も池田さんの個人的な手記の雰囲気が濃いが、その個人的視点が実に面白かった。

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最高の美術教育の場

私は半年程前まで、ある有名な漫画家さんのサイトに設置されたお絵かき掲示板で、小・中学生と一緒に自分の描いた絵を出し合っていましたが、みんな自由に楽しく描いてました。あきらかにみんな私より上手かったですね(笑)。
上手くない子もいましたが、みんなはその子の絵の良いところを誉めてあげますので、その子も勇気付けられて描き続け、やがては上手くなりました。そして、上手い子はさらに上手くなっていきました。
ベティ・エドワーズの「脳の右側で描け」にも書かれていましたが、得てして、教育現場や家庭で絵を描くと、その絵に対して教師やその他の大人から批判を受けて自信を失くしてしまう場合も多いらしいのですが、そこでは全くそんなことはありませんでした。上手くない子も、他の子のアドヴァイスを素直に受け入れていました。
何よりも、敬愛する漫画家の先生に絵を見てもらえることが、子供達の大きな励みだったことはいうまでもありません。
コリン・ウィルソンが「至高体験」で「いかなる才能、能力といえども、動機、欲求、衝動なのである」と書いていましたが、こういうのは、もしかしたら最高の美術教育の場かもしれませんね。
virgin


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2005.11.09

美術教育と右脳開発

絵を描くというのは右脳が司る能力であり、絵がうまく描けないのは右脳をうまく使うコツが分からないことによるらしい。
絵は右脳で描くものであるということを実感するには、夢中になって絵を描いてみることができれば良い。夢中になって絵を描いていると1時間や2時間、あるいは、それ以上の時間があっという間に過ぎていることに驚く。右脳には時間感覚が無いからである。

右脳はまた、ものごとを鳥瞰的(鳥が上空から見るように全体を広く)に見る能力にも関係し、その能力がないとあらゆることで「なぜお前はものごとの全体が見れないのだ」ということになり、仕事の効率が悪かったり、良いアイディアも出ないということになる。
もちろん、左脳を軽視して良いわけではない。いかに右脳が発達していても、優れた業績を上げるには意思の力や目標意識、そして論理性が必要であり、それには左脳を鍛え上げるしかない。

世界的に著名な美術教育家ベティ・エドワーズの「脳の右脳で描け」(エルテ出版)に、一流大学の博士課程を修了した優秀な若者に絵を描けせても、9歳か10歳の子供のような絵しか描けない場合が多いことを取り上げ、美術教育の問題点としていたが、このあたりは日本もアメリカも同様であるらしい。美術教育の軽視とは、右脳機能の軽視ともつながるかもしれない。現代の教育は試験で測りやすい左脳機能の向上に偏重し、結局はこのことが人間としての資質の向上を妨げている。
かくいう私も、1年半ほど絵を熱心に描くうち、以前は難しかったような仕事が大変に楽になってしまった。
ただ、美術教育は重要であるが、美術教育なら何でも良いわけではもちろんない。美術教育が間違っているから、多くの人が絵を描けないし、絵を描くことに強い苦手意識を持っているといえる。ベティ・エドワーズの研究成果は上記の本によって公開されてから20年以上経つが、日米の教育界がどれだけその成果を取り入れているだろうか。

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2005.11.08

絵のモデル

皆さんは、モデルを使って描くのが好きだろうか?
私はそもそも、モデルを使ったことがほとんどない。
版画家の池田満寿夫さんは、さぞや綺麗な女性を脱がせまくったろうと思っていたが、なんとモデルを使うことはほぼ無かったらしい。その理由は彼がシャイであるからだと思われる。
モデルはモノではなく、ちゃんと思考する人間である。池田満寿夫さんは、描いている時、モデルが何を考えているか気になるし、目と目が合おうものならドギマギしてしまってもうダメなんだそうだ。
池田満寿夫さんは写真を使うことは勧めている。確かにいまは、美しいタレントさんやアイドルの写真集はいくらでもあるし、好ましいタイプのモデルの写真集は簡単に見つかると思う。
しかし、私は写真を見て描くのも全くダメだ。いかに目で見た場合に近い自然なパースペクティブ(視野)で捕らえていたとしても、多少望遠がかった場合には遠近が圧縮されているし、広角系ではデフォルメがある。いや、そもそも平面であることがかえって難しいのだ。
ではどうするかというと、日常の中で目にした人物を記憶して参考にしている。電車の中で美しい人を見ると、その目の形、髪型、アゴや口の様子を観察している。細かく憶えていないくても、多少でもイメージが残ればそれでいいし、かえって憶えていない方が良いと思う。
で、見も知らぬ女性をしげしげ見て大丈夫かというと、不思議と(?)悪い反応にあったことはない。むしろ微笑み返される場合がよくあり、かえって困ることがある。やはり見ている目的な純粋なせいであろうか?(笑)

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2005.11.07

美術教育への最大の貢献

現在の日本の美術教育に最大の貢献をした最近のヒーローは誰か?
それは横尾忠則さんであると思います。その理由を以下に示します。

なんでも、学校の美術の時間が削減されそうだということです。
それが良いか悪いかは、私にはあまり分かりませんが、もしそうなったとしても、それどころではないひどいことは、岡本太郎さんの「今日の芸術」が長く廃版になっていたことです。芸術の真の意味を、博識な歴史観と卓越した芸術観で誰にでも分かるように、自然な理を重んじて易しく語った日本にとって最も重要な本の1つが読めなくなっていたわけです。
美術界の権威や教育界にはなるほど都合が悪い本ではありますが、我々一般人が自分でこの本を見つけることは難しく、専門家が責任を持って普及させるべきであったと思うのですが。
1954年に出版されたこの本は今日でも決して古くはありません。いや、知らずに渡されると、現在書かれた本であると思ってしまうほどです。

横尾忠則さんは、岡本太郎さんが亡くなった時、この本をもう一度読みたくなったが、見つからなかったので、自分の本を出していた光文社にお願いして再版してもらったことを、新版の前書きで書かれています。
そして、横尾さんほどの方でなければ、このようなことは実現しなかったでしょうし、横尾さんが古い本を失くされていたことも含め、日本の美術教育にも美術界にも、そして私にもなんとも幸運だったわけです。

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2005.11.06

顔の描き方

顔を描く時、どんな描き始め方をするだろうか?
いろんな画法の本を見たが、大抵、著者は一流の画家やイラストレーターなのだが、書いてあることは全然違う。卵型を最初に描く方法、球を描く方法、立方体を描く方法・・・。
こうなると、我々初心者は全く混乱する。全部試して自分に合ったのを採用すれば良いのだと思うが、実はどの方法でも複雑過ぎたり、正確なところが分からず、役に立ったためしがない。「この線を3分割し、2つ目の先端が鼻で・・・」とか言われても、角度が違えば3分割のそれぞれの比は異なるので、純粋に3分割すればあきらかにおかしくなる・・・なんて場合だらけだった。
あるいは、目から描きはじめるという人がいて、その人はなかなか上手かったりするのだが、私には難しい。鼻から描くという優れた画家がいて、人にも薦めるのだが、これは相当な練習を覚悟する人向けと思う。
プロのやり方をアマチュアが真似して一般に失敗しているというものは意外に多く、例えばゴルフがそうであるという話を聞いたことがある。この話をしてくれた人は50歳を過ぎてゴルフをはじめ、関西ニシア優秀、エージシュート2回、飛距離370ヤードという凄い人だったが、「ジャック・ニクラウス式のショットを普通の人がやってもダメ」と断言していた。
で、顔の描き方だが、一般には顔の輪郭からはじめる場合が多いと思う。私の場合は、頭のてっぺんとアゴを描くことを最近からはじめたが、これが良い感じであった。
自分にあってたら何でも良いと思う。きっと優れたプロだってやり方は大変な種類があると思うし、とんでもない変則派もいるに違いない。
こうでないといけないという描き方はないと思う。

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2005.11.05

これからの芸術

今後ますます、ある時期まで芸術と無縁で生きてきた者によって制作された芸術作品が評価されるようになると思う。
中年過ぎてから画家に転向して優れた作品を残したといえば、ゴーギャンやアンリ・ルソーが有名だが、他にも沢山いる。岡本太郎は、自分のところに取材に来た記者が有名な画家になった例を話しているが、べつに不思議な話ではないという。
本当は、芸術的才能を有し、実社会で鍛えられて精神を発達させ、画家になれば良い作品を残したかもしれない人は沢山いるが、これまでは彼らが絵を始める敷居が高かった。
画材そのものは、ピンキリまであるとしても、購入そのものは問題ないであろう。そして、余裕ある経済力も精神性を培ったひとつの証であろう。
しかし、家庭の中に画材を持ち込むことは意外に困難である。特に日本では、キャンバスを広げる面積そのものが確保しにくいかもしれないし、イーゼルも普段は邪魔になる。そして、パレットを洗ったり、絵の具を常に補充する煩わしさもある。
しかし、いまやパソコンで絵が描けるようになったが、これが画材として、紙や筆に劣ることは全くなく、むしろ優る面が多い。デジタルのキャンバスや絵の具も無限である。当面は正統派の画家からは、筆や紙や鉛筆でないと真の技能は身に付かないという意見も聞くだろうが、後の世ではそんな意見がかえって滑稽となるかもしれない(確定ではないが)。
後は、実社会で様々な経験を積んだ者が絵に取り組んでくれるようになれば良い。その際、決して画家に絵を教わってはいけないと思う。その理由はこれまでにも書いたし、今後も書くつもりだ。
才能がなくても本人にとってのメリットは実に大きいし、才能があれば絵一筋できた画家に技能では劣っても優れた作品を作るだろうと思う。

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