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2005.10.31

デッサンのやりかた、学び方

デッサンの教本なんて沢山売られていますが、私が読めたものは全くありません。
アンドリュー・ルーミスの本は印象としては良かったのですが、解剖学だの骨と筋肉の構造を頭に入れ、常に意識して描けだの、私にはとてもとても・・・。もっとも、あくまでプロの商業画家を目指す人のための本ですので、私には合ってなかったかもしれません。
岡本太郎さんになると、そんなことは絶対に言わない。「構わないからどんどん下手にやりなさい。下手なほうがいい。うまく描こうなんて思っちゃいけません」です。
デタラメにやれってことですが、これが一番難しく、非常に突き放した言い方でもありますね。
で、やっと気に入った本を見つけました。「池田満寿夫の人物デッサン」(河出書房新社)です。素晴らしい本でした。何が素晴らしいかというと、自分にもできるという自信や勇気を与えてくれる本だからです。訓練を積んだ先生が自分のやり方を押し付けて生徒に自信もやる気もなくさせる場合が多いのとはかなり違います。

池田満寿夫さんも「こうでないといけないといった描き方は絶対にない」といい、好きなようにやればいいというのは岡本太郎さんと似ているのですが、池田さんは自分のやり方は惜しみなく披露してくれています。「あくまで私のやり方」と断った上で。

池田さんは、あちこちの本でちょっとずつ書いているのですが「描くより消す方が好き」とこの本で改めてはっきり表明したことでなるほどと思いました。
そもそもが、芸大受験のデッサンでも消しまくって真っ黒になった紙を出して落ちたとか。
消すのが好きなんて、彫刻家に向いていたのかもしれません。そういえば、池田満寿夫さんが大好きなイタリアのモディリアーニは彫刻家でもあり、池田さんは彫刻とモディリアーニの絵の関連性も指摘していたことがありました。
ただ、消した後の痕跡を大事にしたいようでした。その偶然できた形を発展させる面白さです。とても面白いと感じました。

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2005.10.29

文章からのイメージ

詩や文章から視覚的シメージが広がることはもちろんあるだろう。当然、同じ詩でも浮かぶものは人によって様々であり、極端に違うこともある。違ってはいても、精神の根源部分から何かを引き出すのが優れた作品だろうか?
アンデルセンの「絵のない絵本」は画家に素晴らしいインスピレーションを与えるものらしく、数多くの「絵のある」「絵のない絵本」が作られた。確かに、読んでいると情景が鮮やかに浮かぶような気がする。
当然、海外文学は翻訳で読むしかない場合が多いので、翻訳者の手腕の重要さも問われるのだと思う。森鴎外が翻訳したアンデルセンの「即興詩人」は名訳の誉れ高いが、私にはさっぱり分からなかったのだが・・・。
個人的には、最も美しいイメージが浮かぶのはアイルランドのW.B.イェイツだ。特に「まだらの鳥」という、イェイツの自伝的小説の、海の上の中空に浮かぶ精霊の少女や、絶世の美少女マーガレットの描写は凄かった。イェイツは父親が肖像画家で、自らも元々は画家を目指していたらしい。だからこそか、かえって直接的な視覚描写を避けているようにも思えるのだが、ある意味、日本の和歌や俳句が、なるべく言わないで読む者に想像させるようなものだろうか?

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2005.10.14

シャロワ

シャロワと言われて、普通、すぐに分かるものだろうか?
現存し、現在も精力的に制作中とはいえ、70歳を過ぎ、数多くの作品が世界で流通している人気画家である。
シャロワの絵のほとんどが美少女画で、彼にしてみればフランスの誇るパリ・ジェンヌである。絵の雰囲気は、よりリアルに近いローランサンという印象を持った。ローランサンの描く少女は淡い色彩のせいで神秘的で美しいのだが、絵自体はかなり簡易化されている。
アイドルの写真やアニメの絵に「萌える」人がローランサンで萌えることはあまりないだろう。
しかし、アイドル写真やアニメ画が好きな人でも、シャロワなら気に入るかもしれない。私もアイドルやアニメは好きだが、シャロワは比較にならないほど好きだし美しいと思う。
しかし、もしかしたら、岡本太郎の言い方をすれば「きれいだけど美しいわけではない」ということかもしれない。私は、シャロワが、ピカソはともかく、ローランサンやモディリアーニ、あるいは、シャガールと同等な巨匠と呼ばれるのかどうかは知らない。
元々がイラストレーターで、それで写実に近い絵になったのかもしれないが、やはりイラストレータとして活躍し、それぞれ「19世紀最大」「20世紀最大」と賞賛されたドレやロックウェルが芸術家として語られないことがあるのと同じことはありうるように思う。
しかし、少なくとも普通の感覚をもった日本人なら、誰でも見とれるとは思う。
モデルの年齢は日本人的感覚ではかなり大人びて見えるが、実際は10代後半、あるいは前半かもしれない。白の軽やかな服を着ている場合が多く、下着姿も少なくはない。ヌードだってある。まさに美しいパリ・ジェンヌのイメージそのままである。露骨なセクシーさを描いたものは皆無であるが、非常にエロチックに感じる場合が多い。
シャロワの絵は日本でも入手しやすい。版画なら10万円以下で買えるものもある。しかし、画集がない。いや、英文のは2冊ほどあるのだが和訳されたものはない。英文のも一般販売はされていないのか、アマゾンなどの洋書コーナーで見つけることはできない。このあたりも知名度に影響しているかもしれない。

ベルナール・シャロワ公式サイト http://fsenn.free.fr/

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2005.10.13

画家になるのに美大は必要か?

画家が美大や芸大を出ている必要があるだろうか?
岡本太郎は、今でいう東京芸大に入ったがすぐに退学。横尾忠則は武蔵野美術大学に入学を希望し受験のため上京したが、高齢の両親の負担を気遣い断念。池田満寿夫は東京芸大受験を3年連続失敗して断念した。
ピカソやシャガールは名門の美術学校に入っているが、まじめに学校に通ってはいないと思う。
竹久夢二は、すでに画家として有名になっていた時、本格的な絵の勉強がしたくて美術学校に入ろうとするが、当時巨匠と呼ばれた画家に、「きみの絵は美術学校でダメになる」と言われてやめている。

音楽演奏家なら超一流はほぼ間違いなく音大を出ているのだろうが、超一流の画家が必ずしも美大を出ているとは限らず、むしろ少ないかもしれない。
画家を音楽演奏家みたいなものと考えるなら、美大に行くのは自然だ。優秀な演奏家とはうまい演奏家のことであり、効果的な練習をすればするほど良いのである。うまい画家を目指すならやはり同様と思う。
しかし、「あの演奏家は下手だけど味がある」とは評価されないが、画家はうまくはなくても良い画家はいる。岡本太郎によると、セザンヌやゴッホは決してうまくはないし、ゴーギャンやアンリ・ルソーは、素人・日曜画家であり、子供の絵に等しいという。そこまでではなくても、うまさなら美大に行けばもっとうまいのがいくらでもいるのだと思う。
ピアニストのホロビッツが高齢になって初めて来日して演奏会を行った時、冷静に聴けばその演奏はやはりひどいものだったらしい。「もう10年早く聴きたかった」という意見が正直なところだろう。
ピカソは本当に恐ろしく上手かったが、わざと下手に描くと言ってたことがあるらしい。
大画家は音楽でいうと、むしろ作曲家に近いかもしれない。演奏は下手でも良い曲を作る作曲家はいるように思う。オーケストラの作曲となると、さすがに専門教育を受けていないと難しいような気がするが、優れた作曲家なら、譜面を読めないとかいろいろなタイプがいる。
また、本当の日曜音楽家が名曲を作ったこともある。あまり知られていないが、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」は素人作曲家が作ったものだ。クリエイティブなことなら、何かのきっかけで恐るべき能力を発揮することもあるのかもしれない。

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2005.10.09

絵はお里が知れる?

アンドリュー・ルーミスの「やさしい人物画」という初級の絵画テキストの中に、

長い日常生活で身に付けた具体的知識を馬鹿にしてはいけない

と書いてあるのを再び読んで、まさに真髄であると思った。
他の画家が、豪華に飾り立てた背景を描けるのと同様、貧しく育った者は荒れ果てた家を美しく描ける。

岡本太郎が、名著「今日の芸術」で、日本の画家が、西洋画によくみられる、ソファーやベッドに横たわる裸婦を描く滑稽さについて「あんたのかーちゃんやねーちゃんが、家で裸でコロコロしてるのか」と書いている。鍵をかければ誰か入ってくる心配がないヨーロッパの家では、とくに夏なんかは本当にかーちゃんもねーちゃんもすっぽんぽんになることがあるのだ。

海外で池田満寿夫の版画が世界的な賞を次々に受賞して成功する中で、同じく海外で作品を出展しても全く認められない画家が池田満寿夫にこう言ったらしい。
「お前が成功した訳が分かった。版画であることよりも、お前の作品が小さいからだ」
確かに池田満寿夫の版画は小さいものが多い。多くの作品が長い方の辺でも40センチ以下。縦横共10センチそこそこのもある。
池田満寿夫は、「小さいから成功した」ということに同意し、その説明をしている。
西洋人と日本人では空間感覚が違う。日本人は西洋人のように雄大なものはうまく描けないかもしれないが、小さなものを精密に作れる。

横尾忠則によると、シャガールの絵の題材は神話や聖書を除けば、やはり故郷の村であるそうだ。いや、神話や聖書も西洋人には幼い頃から馴染んだ世界である。

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2005.10.06

芸術とらくがき

横尾忠則は、「自分の芸術は天国の美を地上に伝えるため」と使命を語っている。また、芸術家には狂気が必要という。
池田満寿夫は、「自分の芸術は便所の落書きのようなもの」と言う。また、自分には狂気なんてないという。
そして、岡本太郎は、芸術は間違いなく呪術であるという。呪術的なメッセージがないといけないのだそうだ。
しかし、つまるところ、どれもよく分かる。便所の落書きにだって天国の美はあるだろうし、メッセージはあるだろう。
それに横尾忠則だって、芸術のモチーフは生活から離れたものではないと言うし、池田満寿夫も同様なことを書いている。岡本太郎の言う「描かねばならぬ衝動」だって、他人からみてご大層なものとは限らず、便所の落書きであっても良いわけである。
ところで、最近は便所の落書きの質が落ちているらしい。猥褻なものが多いのは昔と変わらないが、単純で露骨なものが増えているらしい。これは思考力の低下と考える学者もいるが私も同意見である。単純な言葉を羅列するだけのメールや、反応しているに過ぎないゲームのせいで思考中枢を完全に迂回する習慣ができ、考える力を失っているのである。

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2005.10.05

芸術の誤解

イチローのバッティングを「芸術的」と聞くことがよくある。
このことも芸術に関する誤解を表しているかもしれない。
優れたバッティングを「職人芸」と呼ぶこともあるが、これは正しいと思う。イチローのバッティングも芸術的というより優れた職人芸である。
芸術の価値は、「優れている」「磨き抜かれている」とは根本的には無関係である。
例えば、打率が低く、プロで通用しないバッターのバッティングの中にも芸術的なものがあるかもしれない。
歴史的な画家の中にも、決して上手くはない画家も少なからずいる。岡本太郎が絶賛した縄文式土器や古代の壁画も、決して長く厳しい修行をした者が作ったわけではないだろう。
写真のように実物そっくりな絵は職人芸であり、芸術技ではない。

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