コメントを下さる方へ
コメントは歓迎いたしますが、以下に該当するコメントは、予告無く削除します。
●投稿者名が無記名
●投稿者名が「名無し」「通りすがり」および類似のもの
●記事に関係のない内容
●1行コメント
●最低限のマナーから逸脱したもの
●暇つぶしのお気楽コメント
●その他、当ブログ管理者が不適当と判断したもの
ほとんどのコメントにはご返事しておりますが、ご返事を約束するものではありません。
コメントは歓迎いたしますが、以下に該当するコメントは、予告無く削除します。
●投稿者名が無記名
●投稿者名が「名無し」「通りすがり」および類似のもの
●記事に関係のない内容
●1行コメント
●最低限のマナーから逸脱したもの
●暇つぶしのお気楽コメント
●その他、当ブログ管理者が不適当と判断したもの
ほとんどのコメントにはご返事しておりますが、ご返事を約束するものではありません。
私も子供の頃からよく聞いたことに、「食事を抜くとかえって太る(脂肪が付く)」というものがある。これを根拠まで付けて、まことしやかに語った人も多く、私はすっかり信じてしまっていた。
そりゃ、食事を抜いた分、お腹が空くので、間食が増えたり、食事の時に多量に食べればそれは太るだろう。ダイエットに良いと言われる食べ物を大量に食べて太るようなものである。
細かく言うと、それまで、1日3食で合計2000キロカロリー食べていた人が、朝を抜き、1日2食で合計1700キロカロリーになったとしたら、300キロカロリー分は必ず痩せる。
しかし、朝を抜き、マイナス300キロカロリーとしたはずが、余分な間食をプラス200キロカロリー、夕食が増えてプラス300キロカロリーであれば、2000-300+200+300で、従来より200キロカロリー多く、その分太る。
つまり、食事を抜けば太るというのは、本当であるとも、そうでないとも言えるが、他の食事条件が変わらなければ確実に痩せる。
しかし、一般に言われる「食事を抜けば太る」とは、食事を抜いただけで、他の条件が同じでも太るというものであり、それは絶対に嘘である。
さらに、食事を抜けば体調は確実に良くなる。それは、誰でもやってみれば分る。ただ、最初は思い込みや、習慣の変化のせいもあり、一時的に体調が悪化したと感じるのが普通であるようだが、慣れれば体調がぐっと良くなる。
また、食事を抜けば、消化吸収のための神経活動が休息できる。消化吸収は決して胃腸の筋肉的な、あるいは化学的な活動だけでなく、脳を中心とした精妙で高度な神経活動だ。よって、大食して胃腸を鍛えれば胃腸が強くなるというわけではない。
神経活動は電気的活動であり、消費エネルギーは大きくはないが疲労は大きい。よって、大食すると、非常にだるく感じるのである。
痩せたければ、そして、元気になりたければ、迷うことなく食事を抜けば良い。
朝は食べる必要がない。日本人は、元々が朝は食べない1日2食であった。いや、1説では、アメリカ人もそうであったが、トースターが発明された時に、それを売るために、トースターメーカーが朝食を普及させたと言われる。ありえる話で、もし、誰かが、アメリカ人にうまく1日4食を流行らせたら、あっという間に普及するはずだ。実際、3時のおやつはアメリカではかなり沢山食べるので、事実上、1日4食と言えるかもしれない。
朝を食べないから、子供が朝礼で倒れるなんて大嘘もいいところだ。
戦時中や戦後、ほとんど誰も朝食を食べてこなかった時代に、朝礼で倒れる子供なんていなかったそうだ。現代の子供がひ弱な原因が全く別のところにあるのは明白であろう。
最近、私はよく話題にしているが、朝礼で倒れる子供は、脳幹が鍛えられていないので生命力がないのである。これに関しては、また別に述べる。
日本人の若い(主に10代から20歳前後)男は、見ていて非常に気持ちが悪いと思っていた。
それがなぜなのかは、ずっと大きな疑問だった。
最近では、韓国や中国でも同じような気がしてきた。
もっとも、テレビで見られる韓国、中国の若者は富裕層が多い。
だが、どこの国であれ、生命の危険を感じる状況にある若者は、日本の若年男子と違い、精悍で絵になる。
戸塚宏さんの「本能の力」を読んで気付いた。
つまり、かなり以前から、日本人は、快適、安全な環境の中に置かれ、脳幹が鍛えられていないのだろう。
脳幹が鍛えられておらず、本能の力が弱いので、いつも与えられるのを待って物欲しげにしている姿が気味悪いのだろうと思う。
人間は、他の動物と違い、男の方が狩猟向きに出来ている。だから、本能の力の弱い男は、狩猟型であるべき自然な状態とのギャップが大きく、奇異に映るのである。
こういった男は、流行の言葉で言えば、草食系男子と言うらしい。
幼い時から何でも与えられ、快適な環境で育ち、生命の危機を感じたこともなく、我慢を知らないマザコンのガキ。
ところが、女というのは、同じ環境で育っても、男よりは脳幹が鍛えられるものである。
男より小さくて弱いので、常に危険は感じるし、事実上男尊女卑の世の中で我慢も強いられる。
もっとも、男より多少割合は少なくても、放っておいても魅力を放つ年頃の女の子に魅力がなくなってきた。やはり、甘やかされ、あまりに我慢を知らないせいと思う。
脳幹を鍛える鍵は、生命の危機感と共に我慢である。
思い込みの力の恐ろしさについて聞いたことがあるかもしれない。
心から出来ると信じれば、平素の実力をはるかに超えることをやってしまうことがある。
悪い方に働けば悲惨なことが起こる場合もある。例えば、自分は心臓麻痺で死ぬと思い込めば、本当にそうなることになる。
人間の力なんて神秘なものだ。
窓から落ちかけた我が子を救うために、平凡な主婦がオリンピックの短距離ランナーでさえ不可能な速さで走ったり、トラックの下敷きになった息子を救うために、やはり小柄な女性が、大の男数人がかりでも持ち上がるはずのないそのトラックを持ち上げたなどという記録は少なくはない。
あるいは、催眠術を使って、怪力を発揮させるようなことも可能だろう。
江戸時代、病気になった農民や町人が、少しの白砂糖を与えられたらすぐに治ってしまったり、白米を振る音を聞かせるだけで具合が良くなったという話がある。
当時、庶民には、白砂糖も白米も、手の届かないものであったのだ。
しかし、ただ思い込めば良いというわけではない。
例えば、精神病院には、自分が神様だと信じ込んでいるような者もいるが、さっぱり神様らしくない。
以前、自分は最強の格闘家だと信じているらしい中学生をテレビで見たことがあるが、実際に戦わせると、やはりプロのK-1選手に指1本触れることすら出来なかった。
この2つの思い込みの違いは何だろう?
私は長い間、ずっと考えてきた。
そして、理解した。だが、説明ができない(笑)。
言葉で言えば、その人間を支配しているのが、自我かエスかの違いということになる。もちろん、こんな説明では説明になっていない。そもそも、自我とかエスは説明できない。ためしに、自我やエスを専門書で調べれば分かるが、訳の分からない説明が書いてある。Wikipediaでも同じだ。難しいからではなく、誰もはっきりとは分かっていないのだ。
あえて分かりやすく言うならこうだ。
普通の、つまり、日常の心で思い込んだところで無駄だ。むしろ逆効果になる。
だが、我々の知りえない、神秘な心で信じ込めば全て可能だ。この神秘な心を、潜在意識だとか言う者もいるが、潜在意識なんてのも、本当は分からないものなのだ。
この神秘な心は、通常の心からみれば、無である。
つまり、無心、無我になれば、何でもできるというわけである。
成功哲学なんてのは、あの手この手で、無心の心に願いを伝えようとするものであるが、上手くいったためしはほとんどない。
政木和三さんが、このあたりを実にシンプルに語ってくれた。欲望を捨てれば、不可能はない。即ち、思いのままであると。
それを真言にしたものが、内海康満氏の著書で公開されている。最初に本に書かれたのは、竹内満朋(たけうちまんぽう)氏の「ローム太霊講話集」である。
後は、自分で考え、試し、工夫するしかないと思う。それができる者だけが超人になるのである。そして、超人は少ないのである。
私は普段は飲酒はほとんどしないのですが、洋酒を中心に30本程度は家に置いています。
来客の際に振舞うという理由もあるのですが、最近では、来客は焼酎や梅酒を好む場合が多く、その目的では洋酒はあまり必要ないかもしれません(焼酎も梅酒も、各種良いものを用意しています)。
洋酒を置いてあるのは、ボトルが美しかったり雰囲気があるからです。一種のコレクション感覚かもしれません。
また、洋酒の香りには特別な思い入れがあります。
洋酒には、実に香りの良いものがあります。この点は、我が国の日本酒や焼酎にはないものと思います。
ところで、香りというのは記憶に強く残るものであるらしいです。
例えば、子供の頃によく遊びに行った家に常に漂っていた香りと似た匂いを感じると、その頃の記憶が鮮明に蘇るということがよくあるもののようです。
当然、悪い思い出と共にある香りの場合は、あまり楽しくない場合もあるでしょうが、時が経てば、よほどの悪い出来事でない限り、それなりに懐かしくて良いものに変わる可能性もあります。過去というのは解釈の問題でもあります。ずっと悪い思い出だと思っていたのが、解釈を変えて良い思い出になることも必ずあります。文字通り「過去を変える」のです。
私は、最初にジン(オランダを起源とする蒸留酒)の香りを嗅いだ時、杜松(ねず)の実(ジェニバーベリー)の独特な香りにあまり良い印象を持ちませんでしたが、やがて大好きになりました。
長く苦しいニートや辛く厳しい仕事をしていた時代を経て、能力が認められ、調子に乗ってセミナー講演も行い(最高で70人程度までですが)、収入も大幅アップした頃、たまたまスーパーで英国のゴードン・ドライ・ジンを買って帰り、その香りを味わったのでした。
今でも、このジンの香りを嗅ぐと、当時の希望に満ちた心が蘇り、実に気分が良くなります。
また、フランスのブルゴーニュワインのボジョレーヴィラージュの香りは最初から実に気に入りました。いわゆる、「何とも言えない」良い香りというわけです。
ジンはそのまま飲むよりも、カクテルの材料にする場合が多いかもしれませんが、昔は専らストレートで飲まれていました。
私は、あらゆる酒はストレートで飲んでこそ、その良さが分ると思います。ストレートで飲むと言うと、驚いて「お強いですね」とか言われますが、少しの量を味わって飲むのが私のスタイルです。私にとって、いかなる酒も水で割って飲む意味は全くありません。

英国のゴードン・ドライ・ジン。最も有名なジンだ。ラベルのサイド部に杜松の実の絵が描かれている。
酒の歴史には、いろいろ興味深いお話があります。
ジンは、もともと庶民の安酒で、これを好んで飲んでいたために爵位を次ぎそこなった貴族がいたりしました。
このジンは、最初は薬として薬屋で売られていたそうで、薬草も含まれており、今でもオランダでは風邪の特効薬です。ロシアでは当然ウォッカがその役ですね。
ジンやウォッカは、日本の焼酎と同じ蒸留酒の仲間で、スピリッツと呼ばれます。ウイスキーやブランデーなどのように樽で熟成させません。蒸留酒は、いわゆる身体に残らず、健康に良いと言われます。
しかし、ウイスキーもまた、もともとは薬で、アイルランド語の「生命の水」を意味するウシュク・ベーハーが語源と言われます。さらに、現在、フランスでブランデーを意味するオードヴィーも「命の水」の意味です。
酒が身体に良いというのは、1つには血行の促進作用があり、また、思考能力を麻痺させることで、余計なことを考えてクヨクヨすることがなくなるということが考えられます。ただ、あくまで限度を守ってのことですね。
酒は百薬の長とはよく言ったものです。
また、「聖なる量子力学9つの旅」(フレッド・アラン・ウルフ。徳間書店)の著者で、世界的量子物理学者F.A.ウルフは子供の頃の神秘体験から量子物理学の研究者になったのですが、シャーマニズムに深い興味を持ち、自ら実践する中で、優れた何人かのシャーマンに出逢います。シャーマンは、アヤワスカ等の植物から作る幻覚剤を用い、変性意識状態に導くことで異世界と交流するのですが、効果に大差があるとはいえ、アルコールにも幻覚剤としての効果があり、非常に有益であると語ったシャーマンもいるようです。
酒には、興味をもって調べていると、ロマンに満ちた話が沢山あります。
どうせなら、優雅かつ風流に味わって飲みたいものと思います。
6月末あたりから、天気予報では「今日は真夏日で暑く・・・」と言われるようになったが、私は、今でも、今年の夏はさっぱり暑くないなと思っていた。
当然、家でクーラーを付けたことはないし、扇風機は出したが、単に風にあたるのが気持ちいいという理由で、たまにつけるくらいだ。
家の中でもきっちり着る。
昨年までは、ややだらしない格好をしていたものである。
外出時も、今でも上着を着ることが多い。シャツだけだと、クーラーの効いた電車では寒いのだ。
会社では、すでにクーラーを入れているので、かなり寒い。羽織るものが必要だ。
昨年8月7日から、1日1食の菜食とし、間食もやめたので、脂肪がすっかりなくなり、体重も94kgから63kgまで減ったせいである。
冬はやはり寒く感じたが、夏は大変に快適だ。
プロサッカー選手の三浦知良さんは、真夏でもスーツ・ネクタイ姿が好きだという。彼の場合はお洒落であるというのが大きいが、それが快適でもあるらしい。それに、暑い中でビシっとした格好をするのは気分の良いものだと言うが、私にもそれは分かる。彼は177cm、69kgで、大変に筋肉質なこともあり、かなり細身に見える。食事も大変に節制しているようで、おはぎが好物だが、それも滅多に食べず、食べても半分だけとかであるらしい。
外でだけでなく、家の中で1人できちんとした格好でいても、やはり良いものだ。その場合、身体を締め付けない和服が良いと思う。
少食を実践できるのは、人生に崇高な目的を持つ者だけである。
つまり、人生に崇高な目的を持たない者に、少食を薦めても意味がないだろう。
人生に崇高な目的を持たない者は、たとえ健康のためとかダイエットのためであっても、よほど危機的な状況にでもならない限り、少食を実践することはない。彼らは、お腹一杯食べて、健康増進やダイエットをしたいと思うだろう。その結果、取り返しが付かないくらい、身体にダメージを与えることになる。
しかし、彼らを救う方法はない。
逆に、こんなことは確実に言える。
もし、少食を実践できるなら、自分では気付かなくても、人生に崇高な目的を持っているのだ。
逆に、立派な人に見えても、少食を実践できないなら俗物である。もちろん、俗物でも良い人はいるが、賞賛されるような成功者ではあっても、所詮は先祖の徳などでエネルギーが大きいだけの、理屈と自己満足優先の人間なのである。
さて、少食の基準であるが、1日、1食か2食で、間食をほとんど、あるいは、全くしないこと。そして、食後でも、その気になれば、もう一度同じ食事を美味しく食べられるくらいであれば良いのではないだろうか?
私は、誰もが今、少食を実践しないと、そろそろ手遅れになると思う。そして、確かに、少食を実践する人が確実に増えてきている。
食事の量や内容で、人類の選別は始まっている。
今後は、1日1食の人間は、驚くほど増えていくと思う。これまでは、そのような者は笑われたり、馬鹿にされることが多かったが、今後は大食、美食の者が苦しむ世の中になるだろう。
大食者は哀れではあるが、人生に崇高な目的が無い者は、どうやっても食を慎むことができないのだ。彼らは、「食べることを楽しまずに生きている意味があるのか」「美味しいものをいっぱい食べてこその人生だ」と常に主張する。彼らを変える術は無い。説得しようとするだけ無駄である。
もう、彼らを見捨てるしかない時期に来てしまっている。
取り立てて彼らを攻撃することもなく、穏やかに接し、なるたけ好きなようにさせてやるしかない。家族にそのような者が居る場合は辛い面もあるだろうが、残り少ない時間を、出来るだけ幸福に過ごさせてあげようと思う。それで、彼らがあまり恨みの気持ちを持っていないなら、事故やなるべく苦しまない病気で、短い時間で死ぬものであると思う。
我々に出来る最大限がそれである。
新約聖書は分かりやすいだろうか?
解釈に関する多くの議論や、際限もなく解説が次々出てくるところを見ると、決してそうではないと思う。
しかし、イエス自身は、本当は大変に分かりやすく話したはずなのだ。
ましてや、お釈迦様が、仏典のような難解至極なことを語ったはずがない。
いずれも、長い年月の間に、歪められ、難解に改変され、いまでは何の役にも立たないものになったに違いない。
それは、宗教団体や学者が権威を持つのに必要なことと思えるので、そうなった理由は推測できると思う。
だが、神話や伝説、あるいは、もともとが象徴として書かれた聖典は、歪められないまま残っているものだ。
日本で言えば、「古事記」である。
そして、世界各地には、必ず代表的な神話がある。
古代の賢者達は、神話の中に真理を封じ込めた。
でないと、表面的にはただのお伽噺であるこれらのお話が、これほどまでに根強く残るはずがない。
より面白い神話のようなものなら、いくらでも作れたはずなのだから。
中国の「老子」や「荘子」すら、かなり改変されていると思う。
特に、やたら重々しく書いてしまった「老子」はそうで、比較的軽い調子の「荘子」はまだ被害が少ないと思う。
「神仙伝」「列仙伝」「列子」のような、学者には評価され難いが、庶民に愛されるお話の方に真理がある。
我が日本には、沢山の素晴らしい昔話がある。そして、なんと言っても「古事記」がある。
これらこそ、至高の真理の書なのだ。
昨日の日曜日。
私は、朝10時過ぎに歩いて出かけた。歩く以外に、特に目的はない。
ブルーのスリムなジーンズに白のポロシャツ姿。小さなショルダーバッグの中には、携帯と財布と短刀型木刀(笑)。
どの道を歩いても、人とすれ違うことはほとんどないが、やたらに車が多く、車が近くを通るたびに、慌てて避けなければならず、自分が邪魔者であるように感じる。
車に乗っている連中を見ると、断言するが、車に乗らなければならない必然性はないはずだ。
いや、実は私も、つい最近まで、外出する時は常に車であったから分るのである。そんなのが当たり前になっている日本。そうでなければ、自動車産業の発達と、それが圧倒的な影響力を持つ経済の強力さが維持できない日本。
自動車産業は苦境と言われるが、今のところ、以前と何の違いもない。それを、さらに自動車産業を盛り返そうとしているのである。
レストランや百貨店や電気店等には、広大な駐車場がある。皆、車で来ることが前提であるかのようだ。
こういった店が沢山ある賑やかなところに来ても、本当に歩行者が少ない。
かつて、私も車で来ていた処なのだが、車で来るほどの距離でないことが分る。余計なものまで買ってしまうのも車で来ていたからだ。まあ、それも店の狙いではあるだろう。しかし、歩いて来てみれば分るが、本当に必要な商品なんてほとんどないのだ。
しばらく歩いて、歩行者ではないが、自転車で連れ添った5人くらいの中学生くらいの女の子達が私を追い越した。すらりとした身体つきの子が多い。自転車の走らせ方がサマになっているようなので、いつもこんな感じなのだろう。
一方、駐車場で、車から出てくる大人はもちろん、子供達や若者も肥満体形が多い。車で来て、脂肪たっぷりの美味しいものでも食べていくのであろう。
私は、既に5kmは歩いているが、夜まで何も食べないのである。
日照りが強くなってきた。
だが、私は、いわゆる、汗一つかいていない。以前の私は、かなりの汗かきだった。
汗は、汗が蒸発する際の気化熱により身体を冷やすために出る。実に精妙な天然クーラーだ。私はあまり暑いと感じておらず、風を感じれば涼しいと思った。
水分の補給なんてものも必要なかった。汗が出ないのだから当然かもしれない。
歩行者といえば、ネギが見えている買い物籠を持った年配の女性と、後は、シルバーカーと呼ばれる手押し車を押す老人の女性を何人か見た。しかし、歩道ですら、横からたびたび車が出てきて、見ていて危なくて仕方が無い。ましてや、歩道、車道の区別のない道は、お年寄りが安心して歩けるシロモノではない。お年寄りなら、多少は車も良いと思うが、多くのお年よりは車を所有しておらず、誰も乗せてあげない。
そして、子供から壮年までは車ばかり。日本がどんな国かを、よく表しているではないか?
ちょっと電気店に寄った。
インクジェットプリンタのインクカートリッジを買っておこうと思ったのだ。
浴衣を着た可愛い女の子達(間違いなくバイトだ)が出迎える店内。しかし、客は少ない。客の数に比べ、店員がやたら多い。たまたま客が少ない時間に来た訳ではないと思う。以前に何度か来た時もそうだったからだ。今や電気店は安売りが宿命である。ごった返すほど客が来てこそ採算が合うのであるが、そのための店員も必要なので、客が少ない時には(今ではいつもそうだろうが)、こんな妙なことになるのである。
私の欲しいインクカートリッジは「お取り寄せになります」とあった。そりゃ、少々古い機種ではあるが、何の不足もないので、新しいプリンタを買う気はない。
インクカートリッジの値段もAmazonの方が安い。ちなみに、日本人がいくらAmazonで買い物をしても、Amazonは日本に税金を全く納めていないことをご存知だろうか?全てアメリカに納税しているのである。
試しに、大型百貨店にも寄ってみた。
こちらは、いくらか客がいる。しかし、店員はやる気がなさそうだ。日曜なのだ。いくら別の日が休みになっているとはいえ、休みたいはずだ。
売れない電気店は、スペースが非常に縮小されているようだ。そもそも、プリンタのインク自体が見当たらなかった。
高校生までの女の子は、すらりとした子が多いが、男の子は肥満が多いように思う。
今の10代の男の子のジーンズのはき方は、相変わらず下にずり下ろした、どう見てもみっともないとしか思えないものが多いが、その他でも、ゆるめのものを履いていることが多い。
女の子は、すっきりしたものを履いている。流行のスキニータイプがよく似合っている子も何人か見た。やはり、脚がすらりとした子はこれがベストと思う。
単に男の子はスタイルが悪いのではないかと思う。脚がすらりとしている限りは、男だろうが女だろうが、ぴしっとしたジーンズがカッコいいのは当然のはずである。
午後1時過ぎに家に帰った。
たった3時間歩いただけで疲れる私は体力がないと思う。
こんなことでは、インドやペルーやエジプト、ましてや、アマゾンは放浪できない。
まずは、四国八十八箇所の巡礼をしようかと思う。誰か一緒に如何?(笑)
午後4時を過ぎたら、近所の大きな池に行き、その周囲をひたすら歩いた。
他にやることが何もないというのも幸いである^^;
本当に幸福になりたければ、政府や大企業の宣伝やテレビ放送全般を決して信じず、以下のことを行うように。
・食を慎め。
・歩け。できるだけ多く。
・車を使うな。
・どうしても必要でないなら何も買うな。そして、欲しがるな。
不幸になりたいなら、この真逆、つまり、大多数の日本人のやる通りにやれば良い。
我々は「ロマン」なんて言葉をよく使う。
私は、あるビッグビジネスマンから、長年に渡って多くの話を聞いたが、結局、彼の話の中で私が憶えているのは、「ビジネスはロマンだよ」というものだけである。
音楽家にとっては音楽はロマンだろうし、格闘家にとっては格闘技がロマンなのだろう。
おそらく、ロマンとは、ロマンチシズム(ロマン主義)のことで、ある種の芸術の精神的傾向のことである。
元はと言えば、通俗ラテン語にロマンス語というものがあり、ロマンス語で書かれた中世の騎士物語をロマンスと言ったらしい。
しかし、一般的に、ロマンとは、精神に情熱、高揚、憧憬を起こさせる何かと言って良いと思う。
一般的には人は損得で動くと言うし、ディール・カーネギーは、人が最も求め、行動の最大要因となるものは自己重要感であると著書「人を動かす」に書いている。ナポレオン・ヒルは、いや、性エネルギーだとしていると思う。
アメリカ的自己啓発では、目標設定の力が、人を行動させるのに最も効果的であると言うものもある。
しかし、私は、人を人らしく動かすのは憧憬だけであると思う。
いかなる自発的な動機の中にも憧憬があるのだ。
だからこそ、何かにエネルギーを注いできた人たちは、自分のやっていることをロマンと言うのだと思う。
情熱や元気、勇気も、憧憬を根源として生まれるものであることは間違いない。
そして、10代の時の憧憬というものは一生を左右するものであろう。
画家の横尾忠則さんもそのことを指摘し、自分の芸術の源泉が、少年時代に夢中になった冒険小説やターザンであるということを本に書かれていたと思う。
死後半世紀が過ぎても、多くの巡礼者の絶えない、南インドの聖者ラマナ・マハリシは16歳の時、たまたま家にやってきた親類の男に聞いたアルナチャラという場所に憧憬を持ち、ついには家を捨ててそこに行き、一生をそこで過ごすことになる。
作家のよしもとばななさんは、横尾忠則さんとの対談で、やはり自分の想像力の源が子供の頃に見た特撮ドラマ「河童の三平」(原作は水木しげるさん)だと言われていたようである。
子供の頃に「ルパン三世」を夢中で見た人なら、ワルサーP38の精巧なエアガンは生命力を高めてくれるお守りになるに違いない。そういえば、初代仮面ライダーの変身ベルトは、やはり当時のファンであるおじさん達に売れているようである。
多少高価でも安い投資である。それで生きる力を得られるなら。
もっとも、人の中にある最も深い憧憬は神話や伝説の中にある。
そこには、古代の聖者によって究極の真理が埋め込まれている。
畏敬を感じるものの中に深く分け入った時に光に触れる瞬間がある。
生命である我々がそれに憧憬を抱かないはずがない。
我々にとって、「古事記」や日本の昔話の貴重さは、いくら強調してもし過ぎることはない。かぐや姫が、いかに地上で精神的にも大きく成長し、ひときわ憧憬に足る存在になったことを我々は見逃している。
古典の熟読をお薦めする次第である。
水野南北は、道中差しを肌身離さなかったようだ。
道中差しというのは、日本刀の一種である。刃渡りが2尺(約60cm)以上の刀の帯刀は町人や農民には許可されなかったので、それよりも短いものを道中差しと呼んだのである。
水野南北が持っていた道中差しは1尺2寸7部、約48cmである。
水野南北は、生涯、よく旅をした。江戸や大阪といった都市は、取締りが厳しく、牢屋敷にでもいれられたら生きて出られないことも珍しくなかったせいか治安は良かったのだが、やはり都市を離れると、危ない場所もあったのであろう。それに南北は、元々はハンパ者とはいえヤクザである。人間の危なさをよく知っていたはずだ。
ただ、水野南北が、その道中差し以外のものを何か持っていたという話も聞かない。
天下に鳴り響く観相家で、大金持ちであったが、厳しく食を節し、あらゆることに質素であった南北に必要だったのは、この1本の道中差しだけだったのかもしれない。
あるマタギの首領が、コヨリと呼ばれる小刀を、肌身離さず身に付けていたという話を聞いたことがある。やはり護身の目的が強い。
宮本武蔵もまた護身のために、いかなる時も木刀を手元から離さなかった。
彼らも、モノには執着しなかったと思う。
1つの武器は、モノへの執着を絶ったことを示す証にも思える。
不思議なことに、私は水野南北の教えに傾倒し始めた頃から、南北を想像でイメージすると、腰に短い刀(道中差しであろう)を付けている様子が浮かんだ。そして、最近、上に書いたように水野南北が、道中差しを常に身に付けていたことを知り驚いた。
水野南北の道中差しの名は池田鬼丸国重。
この道中差しは、南北の死後、八助という男の手に渡っていた。
八助は、元武士である。それが、ヤクザ時代の南北の弟分で、南北が観相家になった時もヤクザ者を続けていた男の手下になっていた。
南北は、この元弟分に足を洗うよう薦め、死相が出ていることを告げるが、元弟分は聞き入れず、南北にすらすごんでみせる始末であった。元弟分は殺された。
ところが、その遺体をわざわざ寺まで運んだ八助の人の良さに惚れこみ、南北は八助を弟子にしたのだ。
しかし、八助は、観相の才能は全くなかった。
それでも、南北は、「南北相法手引き」の序文を八助に書かせ、八助を感激させた。
時が過ぎ、南北の弟子が増えていく中で、才のない八助は肩身が狭かった。
そんな中、南北は、汁屋1件に家財道具を付けて買い整え、おまけに可愛い女中まで付けて、八助に渡す。八助は、観相は下手でも料理は上手かったのだ。その女中は、最初から八助の女房にさせるつもりだったのだろう。そして、実際に八助はそうした。八助の店は繁盛し、幸福な一生を送ったようだ。
~以上、神坂次郎著「だまってすわれば 観相家・水野南北一代」より~
水野南北の人柄を知る良い話と思う。
私は、ますます、南北の教えを貴び、食を慎もうと思った。
今日、スーパーに買い物に行ったら、スーパー内に、自由に七夕の短冊を書いて、その場でかけられるようにしたものが設置されていた。
高さ1.8メートルくらいの、笹の木に見立てたものには、ぎっしりと短冊がかけられていた。
文字の様子から見て、ほとんどが、子供か、せいぜいが高校生くらいまでが書いたものと思われる。
内容は、あれが欲しいこれが欲しいとか、CMに出たいとか、試験の順位向上といった、渦巻く欲望で、その場の気がすっかり汚されていたように感じ、近付くのも嫌だった。
先月放送された、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の新作作品「笹の葉ラプソディ」で、SOS団団員達が、ハルヒに命令されて急遽書いたものだが、私は、長門有希と朝比奈みくると古泉一樹が書いたものを見て楽しく思ったものだ。ただし、25年後か16年後に叶えて欲しい夢である。これは、織姫、彦星にあたるベガとアルタイルまでの距離が、それぞれ、25光年と16光年であるからだ。ちなみに、それなら往復時間で考えなければいけないのではという指摘は、ハルヒの「神様なんだから、それくらいなんとかしてくれるでしょ」という見解で一掃された。
SOS団団員の願いは以下の通りだ。
◆朝比奈みくる
お裁縫がうまくなりますように
お料理が上手になりますように
◆長門有希
調和
変革
◆古泉一樹
世界平和
家内安全
である。恥じ入れ!欲深なガキ共!
ちなみに、主人公2人は、
◆涼宮ハルヒ
世界があたしを中心に回るようにせよ
地球の自転を逆回転にして欲しい
◆キョン
金くれ
犬を洗えそうな庭付きの一戸建てをよこせ
である。
ちなみに、私の理想は、長門有希が書いたものと同じだ。
しかし、今はまだ、個人的な夢もなくはない。長門までの距離は遠い。
私は、喉が弱いこともあり、また、仕事がら目と頭脳を酷使するので、ブルーベリーエキス入りと、低カロリーのココア味のキャンディを摂っていたが、やはり1日1食の常に空腹な身には、あまりに美味しすぎて快感なので、どんどん量が増えてきた。煙草や酒も、このようなものかと思った。1日にそれぞれ3~4個ずつでは、体重が増えることもなかったのだが、先々週に、これらを摂るのをピタリと止めることにした。そして、簡単に止められたので満足できた。こういう経験をするためなら、時には余計なものを食べてみても良いかもしれないと思った。
今年98歳のはずだが、相変わらずご活躍と思う医師の日野原重明さんは、夕食だけの1日1食であるが、昼にビスケット1~2枚を食べるらしい。ただ、ビスケットをたかだか1、2枚食べても栄養を摂るというほどではないので、おそらく、単なる気分転換や、ちょっとした楽しみみたいな感覚ではないかと思う。
また、水野南北は、大金持ちでありながら、常に麦飯で、野菜は市場に落ちているものを集めて汁を作ったというくらいの粗食で少食であったが、酒は1日1合(約180CC)は飲んだと言う。
このように、食を厳しく慎んではいても、ちょっとした楽しみはあっても良いと思う。
ただ、私の場合、上に書いた通り、どんどん量が増えるようなので、やはり食事以外は何も摂らないことにした。意思の弱い者の哀しさである。
我々は、単に作りものの権威を盲目的に信じていることに気付いていないこともある。
例えば、プロボクシングの世界王者にはWBC王者とWBA王者があることをご存知かもしれないが(他にもIBF王者があるがここでは省く)、これは、「WBCという団体の認定する世界王者」、「WBAという団体の認定する世界王者」といった意味である。では、そのWBCとかWBAとは何かというと、実際のところは、単にお金持ちのプロモーターが設立した団体に過ぎない。
いや、オリンピックを管理するIOCだって、単に規模の大きな私的団体である。
ボクシングの世界王者にしろ、オリンピックのメダリストにしろ、それをどのように評価するかは全く個人の自由である。何の評価にも値しないと考えたって、その価値観に何の欠点もないのである。
あなたがボクシングの世界王者を認定する団体を作り、そこで世界王者を認定しても良いのである。自分を世界王者に認定すれば、あなたもボクシング世界王者である。
プロレスリングでは、そんな雰囲気のことがよく行われ、世界王者という者が非常に沢山いたりするのである。ただ、その団体の営業力が大きいほど権威があるように見せられるに過ぎない。
さらに言えば、国家なんてものも、富や軍事力の運営団体に過ぎないとも考えられる。
ただ、国家に精神的な何かが存在することで、次元の異なる権威を持つことになるのかもしれない。とはいえ、その場合も、その権威が単なる幻想であると言えるかもしれないのである。いや、幻想と言い切っても良いのであるが、幻想が必ずしも悪いわけではない。幻想とは美しいものでもある。
日本のように、皇室の起源が、ほとんど国家の成立と共に始まるというのは、海外に例がない。しかも、歴史の中で、皇室に大きな財力や軍事力がなかった時期も少なくなかったにも関わらず、全く途絶えることがなかった。
さらに、実権のある将軍も、天皇には必ず平伏した。権力よりも権威を重んじる美徳がいかなる時にもしっかりとあったのだ。これを見ても、日本が、非常に精神性を重んじた国であることは間違いないと思われる。
だが、近年では、精神性よりも物質性を明らかに重んじ、精神を非常に軽く見なすようになった。
物質次元を超える幻想こそ芸術であり、そこに高貴な秩序を備えたものが本来の宗教であった。
物質を過剰に追い求めることが、日本という国の滅びに結びつくのである。逆に、日本が、本来持っていた高い精神性を発揮するようになれば、世界の精神的な主になるのであるが、現在のところ、それは有り得ないことであると言うしかない。
嬉しい本が先月出版された。
「新修 南北相法・修身録(全)―開運の善導とその極意」(水野南北著。水沢有訳。東洋書院)

この本は、水野南北の「南北相法」と、「相法修身録」を同時に収録した貴重なものである。
私は、あらゆる書物の中で、これほど重要と思うものは他に知らない。
それぞれについて、簡単に説明する。
●南北相法
相法とは、顔をはじめ、身体全体の様子から、運命を鑑定する占術である。
学問のなかった水野南北は、水野海常に相法を3日3晩にわたって口頭で教わり、後はひたすら実践で磨く。その実践は半端ではなく、髪結い、銭湯の三助(背中流し等のサービスマン)、埋葬屋などで10年以上に渡り、人間の相の観察と鑑定を行った。加えて、南北は、天来の才能と、ヤクザ家業で磨いた人間に対するカンや話術も大いに活かし、やがて、「黙って座ればぴたりと当たる」とまで言われる、天下に鳴り響く観相家となる。
南北の鑑定料は高額であるにかかわらず、鑑定希望者は押し寄せ、南北は大金持ちとなるが、家屋敷などは後援者も喜んで提供していた。
尚、お気付きと思うが、水野南北は本名ではなく、相法の師匠である水野海常にもらった名前である。
水野南北が完成させた南北相法のテキストの第一部は、南北の高弟達が著したが、第二部は南北自身が10年以上をかけて著し、最初の千部は無料で配布されたという。
南北相法は分りやすい図入りであり、さらに、この東洋書院の本は、実に分りやすく記述されている。
何と言っても、「ぴたりと当たる」南北相法がそっくり入手できるのは凄い。
●相法修身録
南北相法は完璧であり、欠点はない。
だが、実際の鑑定においては、百発百中とはいかない。
しかし、南北は、鑑定に「食」を取り入れることで万に一つの外れもなくなったと言う。
相法的には幸運であっても、飽食、美食であれば悪運であり、逆に、相が悪いはずの者でも、食を慎むなら幸運である。
そもそも、水野南北自身が、最悪と言えるほどの貧窮短命の相であり、実際、16歳の時にはチンピラヤクザの兄貴分を気取っていたが、捕えられ、牢に入れられる。当時の牢屋敷は、今の刑務所とは全く異なり、生きて出られる保証など全くなかった。それでも気力を振り絞って刑期を務め、牢から出た後、水野海常に出会うも、後半年の命と言われる。しかし、麦と白豆しか食しないなら助かると言われ、その通りにして命拾いをする。その後、水野海常の弟子になったのは上に書いた通りである。
私は、この「相法修身録」さえあれば、極論すれば相法の方はいらないと思う。そして、実に水野南北自身もそう言っているのだ。水野南北は「食が全て」と言う。食を慎みさえすれば幸運となり健康でいられる。逆に、食の慎みがなければ、相法的にはいかに幸運長寿の相であっても、貧窮短命である。
水野南北自身、相法的には最悪の相であるに関らず、大長者となり、当時では異例の78歳まで生きた。
「相法修身録」は、別の著者による翻訳が、私の知る範囲で3度ほど出ているが、そのどれもが絶版となっている。このような素晴らしいものが入手できないとは世も末と思っていたが、完全版が今回出た。
3990円とやや高いが、購入、熟読をお薦めする次第である。
余談である。
ソクラテス、孔子は、天下に鳴り響く賢者ではあるが、悪妻に悩まされた。
水野南北は、これら学問の人とは全く異なるが、賢者と言って良い。
その水野南北はどうだったかというと、やはり最悪であった。
実に18人もの妻を娶るも、ことごとにひどい悪癖(淫乱、浪費等)に苦しめられた。
弟子達は、「南北先生ともあろう人が、自分の嫁の鑑定を誤るとは・・・」と呆れたが、好きな女とは鑑定外のものなのであろう。もちろん、自分のそのようなことを著書に書くはずもないが、著書の中に「男は小人物であっても理を解するものだが、女はそうではない」とか、「志あるものは妻をもらってはならない」と実感のこもった箴言を忘れない。
だが、南北の立派なところは、18人もの妻を全て正妻として迎え、妾などではなかったことである。
少食を行うには、精神的な楽しさのようなものが励みになるのではないかと思う。
高貴で美しいことをしているというすがすがしさ。
神秘なことをしているという喜び。
徳を積んでいるという満足といったことを感じても良いと思う。
そして、これらは、全くその通りなのだ。
食を慎むこと以上の高貴なことはないし、食を慎んでいる者以上の美しい存在もない。
食を自らの意思で慎むことは神秘であるし、食を慎むことに優る徳はない。
よって、食を厳しく慎む者には、あらゆる福寿が与えられるし、天もこれを守護するのである。
また、食を慎むと、苦しみと同時に不思議な感動が沸いてくる。
時には、大きな力が与えられることもあるが、それはない方が幸福であると思う。
与えられた力に応じた魔も降りかかるからである。
魔に対抗するには、さらに大きな力が必要であるが、それには、食の慎みに加え、更に自らに制限を加える必要がある。
食の慎みもそうであるが、人の力というのは、自己に加えた制約(掟)に応じて顕れるものなのである。
力となる制約を加えるべきものは、まずは食、そして、その他のあらゆる欲望である。
力ある者は、あらゆる欲を捨てなければ破滅するのである。
秘密裏に存在する、強力な術者の集団に厳しい掟があるのは当然のことなのである。
参考程度に述べるが、仙人という者の中には、美味しいものを食べ、美しい乙女を抱き、心地よい住居を得、幽玄な音楽を聴き、素晴らしい自然を堪能するという、個人的満足に撤する者もいる。だが、それらとて修行の成果であり、ごちそうや酒を存分に楽しんでいるかと思うと、何年も食を絶って過ごしたりもするのである。
御殿のようなところに住んでいるかと思うと、次の日には乞食になっている。
風流なプレイボーイとして、毎夜、乙女の吐息を聞いているかと思えば、禁欲的な僧侶になることもある。
そのような自由自在な存在でなければ、最下級の仙人である氷解仙にすらなれない。
いずれにしても、まずは食の慎みであり、同時に特別な心の修養を重ねることで仙人になれることもあると思う。
尚、仙人そのものにならずとも、仙人の術を授けられるという例は時たまあることを述べておく。
NLP(神経言語プログラミング)の気楽な話をする。
NLPは、アメリカで生まれた能力開発技術だ。
良きにしろ悪しきにしろ、私には随分と縁があるようだ。
NLPを作ったのは、リチャード・パンドラーだ。
リチャード・パンドラーは、元々が数学者で、コンピュータの研究をしていた。
それが、何らかの理由で精神療法や心理学を学ぶようになったのが、NLPを作るきっかけになった。
パンドラーは、世界的な催眠療法家である精神科医、心理学者のミルトン・エリクソンを崇拝し、その技法をNLPに取り入れている。さらに、パンドラーは専門である数学やコンピュータ理論を効果的に活用している。
ところで、私がNLPという言葉を知ったのは、いまや自己啓発の世界的カリスマである、アンソニー・ロビンズによってである。
ロビンズは、元々、パンドラーの弟子であった。
それが、どういう経緯かは知らないが、独自に能力開発セミナーを行うようになった。最初の頃は、NLPを前面に押し出していたと思う。
ロビンズは、空手の板割りや煉瓦割りを披露したりもしたが、何といっても、ロビンズを有名にしたのは火渡りだ。燃えている炭火の上を裸足で歩き、また、セミナー受講者を誰でも歩かせるのである。
ロビンズの活動を、師匠のパンドラーがどう思っているのかは知らなかったが、パンドラーの本に、誰のこととは書いていなかったが、明らかにロビンズの火渡りを批判することを書いていた。あんなことは簡単に出来ることであり、NLPとは関係ないといったようなことだったと思う。
かつての師弟は良い関係にないことが感じられた。
では、師匠のパンドラーと弟子のロビンズのどちらが優れており、また、どちらが成功しているかというと、何とも言えない。
一般向けに派手な宣伝が上手いこともあり、ロビンズの方がはるかに売れている印象はあり、書籍のベストセラーも多いが、パンドラーのNLPやエリクソン療法に関する書籍もロングセラーとして着実な支持があるように思う。
さて、先程も書いた、パンドラーがロビンズの火渡りは簡単なことと本に書いていることであるが、本当に火渡りは簡単なのであろうか?
実際、ロビンズの火渡りについて、多くの人が意見を出しているようである。
ここで、物理学者(専門は量子物理学)である、フレッド・アラン・ウルフの著書「聖なる量子力学 9つの旅」を取り上げたい。
フレッド・アラン・ウルフによる、一般向けの量子物理学の入門書である「量子の謎をとく」は全米書籍賞“The American Book Award”を受賞しているが、他にも多くの書籍がある世界的な量子物理学者だ。
フレッド・アラン・ウルフは、実際にロビンズの火渡りを体験しているのだ。
熱さは感じなかったが、足に火ぶくれは出来ており、間違いなく高温であったと言う。
そして、論理的には、この火渡りがなぜ可能かは不明だと言う。
フレッド・アラン・ウルフは、ロビンズを評価している。ただし、それは、例えロビンズの火渡りが、パンドラーの言うとおり、簡単な子供騙しであったとしてもだ。
優れたシャーマンの中にも、明らかにトリックを使う者もいるらしい。
しかし、そのパフォーマンスにより、人々に意識変革を起こさせることこそが、シャーマンの目的なのであり、その意味でも、ロビンズの火渡りには大きな価値があると言えるかもしれない。
日本でも、セミナーで、名刺による割り箸切りや、スプーン曲げ、電話帳裂きなどを取り入れている人がよくいる。
あるいは、風船を割らずに針や、そればかりか、割り箸を突き刺すようなパフォーマンスをしたりする。
これらこそ、ある意味、子供騙しと言えるほど簡単なことで、私にだって全部簡単にやれる。
しかし、初めて見る人はやはり驚くし、演出によっては、程度の大小はあっても、意識変革を起こさせることが可能かもしれず、決して馬鹿にしたものでもない。
尚、私は、NLPのテクニックを使って、かなりの飲酒癖のある女性を、酒が飲めないようにしてしまったことがある。
考えようによっては、これもシャーマンの技のように感じるが、NLPの効果は大したものである。
古代マヤ暦は、2012年12月22日にあたる日に終わっているという。
その日に、現在の人類は終焉すると予測されるが、私には、それは当然と思える。
その根拠を尋ねる人を私はむしろ疑う。
私だって、「分かってしまうんだから仕方ない」とまでは言わないが、ごく自然なことに思えるのだ。
人々を、社会を、日本を、そして、おぼろげながら世界で起こっていることの情報を得ると、それは純粋にして明晰なことだ。
2012年12月22日に、現在の地球文明は終わる。それまでに破滅が訪れるように思うが、詳細までは分からない。
ただ、最近、エハン・デラヴィの「地球巡礼者」(ランダムハウス講談社)という本を読んだが、デラヴィは「恐れることはない」と言う。私もそう思う。
もちろん、意識を変革できない人は、恐れるも何もない。新しい地球があるとしても、そんな者はその新しい地球に適合しないだろうし、実際に消え去ることになる。だが、全く消滅するわけでもないように思える。かなり過酷なことになるかもしれないが、進化のチャンスが奪われることはないように思うが・・・私には何とも言えない。そもそも、私がアセンションできるか今のところ全く不明だ。別に謙虚になった訳でも何でもない。イエスの言うように、私財全てを捨てる必要があるように思う。私は持ち過ぎている。
ただ、お金もすぐに不要になる。お店に行っても、食べ物なんか置いていない世の中になる。とりあえずは、カップラーメンが1つ5千円とか、もっと高くなる。そして、それすら無くなる。お金なんかいくら持ってても何の役にも立たなくなる。
私は一応、食料の備蓄はしているが、そんなに大量ではないし、多分、近所の人なんかに一瞬で全部あげることになるとは思う。そうしたら、公然と餓死できるのである。だが、そうなったらなったで、ブリザリアン(食べずに生きられる生物)になるような気もする。別にどちらでも良いが。
新しい地球・・・見れるなら見てみたい気もする。
マイケル・ジャクソンもかなりの少食であったようだ。
1日1食のベジタリアンだと聞いた覚えがあるが、本当はどうだったかは知らない。しかし、極端な少食であったのは確かなようだ。
ニュースによると、死亡した彼の体重は51kgだったというが、身長は178cmであったと思うので、これはあまりに少ない。以前の公式プロフィールでは55kgであり、こちらですら相当に軽い。
マイケルが裸身に近い格好をしたことは案外に無いと思うが、有名なスーパーモデルのナオミ・キャンベルと共演したミュージック・クリップ(マイケルはショート・ムービーと呼ぶ)「イン・ザ・クローゼット」では、ぴっちりとしたタンクトップ姿のマイケルが見られる。細身で不要な筋肉は付いていないが、バレエ・ダンサーを思わせるような身体は非常に美しかった。マイケルは33歳か34歳だったと思う。
一部のニュースで、マイケルが体形維持のために無理な少食をしているかのような記述もあったが、これは正しくない。
1日1食の菜食、少食は、肉体および精神に最上のものであるはずだ。彼の健康に問題があったとすれば、やはり、我々庶民には想像も付かないストレスと事故の後遺症であろう。
尚、彼はスナック菓子は好きで、よく食べていたらしいが、予定されていたロンドンでのコンサートに備え、それも絶っていたらしい。立派なことだと思う。
実は、私の1日1食の菜食主義には、マイケルの影響も大きかった。
私は、元々が、プロレスリングのジュニア・ヘビー級の体格を理想と考え、特に、ジュニア・ヘビーでは史上最高の選手と思うダニー・ホッジの肉体(182cm、102kg)が最上と思っていた。
私は180cmなので、肉食で大食し、ウエイトトレーニングをして100kgを目指したが、なかなか90kgにも達しなかった。余談だが、三島由紀夫もそんな時期があったらしい。
なんとか90kgを超えたが、ヘビー級が相手でも無敗のグレイシー柔術のヒクソン・グレイシーが178cmで84kgなので、無理に100kgに持っていく必要もないと思い始めた。
そんな中で、水野南北の「相法修身録」にある食の慎みに共鳴したが、マッチョな体格への未練を捨てられたのは、マイケルの美しいボディの記憶のおかげであった。
現在、マイケル・ジャクソンのDVDは、注文が殺到しているせいか、Amazonでは納期がかなりかかるようになっている。
しかし、私は、マイケルのほとんどの曲が入ったCDや、やはりほとんどのミュージック・クリップ作品の入ったDVDは既に所有している。「デンジャラス・ツアー」としては、ルーマニアのブカレストのコンサートがDVD化されており、私も所有しているが、本当は、テレビ放送で見た、イギリスのウェンブリー(ロンドン)のものの方が好きだ。
やはり、マイケルが33歳か34歳の、最も洗練されてきた頃だったと思う。
マイケルがこれほど苦しまねばならなかった世界は、やはりひどく歪んでいるのだと思う。
最近、私はなるべく話さないことにしている。
電車の中で、大学生と思える2人の男子が、大きな声で話をしていた。
ひどく下らない内容で、以前なら、私はひどく不快に思ったはずだが、長く種観霊という行をしているせいで、さほどの感情は出てこない。種観霊とは、自分が作り出している外部世界の意味を感じる行である。
その時思ったものだ。
言葉というものは、我々が思っているどころではない重要なものだ。
悪い言葉を使うと、どれほどの害があるのかは予想もつかない。
最近は、若者の言葉が乱れているとよく言われるが、乱れているなんてものではない。それがどんな影響を生み出しているか、考えるのも恐ろしい。
しかし、私だって、人と話せば、決して良い言葉を使わず、むしろ、後で後悔するような言葉を多く使っているものだ。それなら、必要がない限り、話さない方が良い。
そして。心が整ってくると、話す必要もなくなってくる。
「話せば分る」という有名なセリフがあるが、人間は話しても分らないのだ。なぜなら、人が理解できるのは、自分が持っている概念の中、言い換えれば、個人や集団の偏見、あるいは、幻想だけであるからだ。
普通の言葉は、偏見や幻想を強化するために働く。
それは、心の中の言葉でも同じではあるが、話された言葉の効果は大きいのだ。
それならば、私はなるべく話すのをやめようと思う。
ラマナ・マハリシは、相互理解は、一緒にいる時に沈黙の中で訪れると言った。
アニメ「ちょびっツ」で、秀樹は「幸せってのが分った。それは一緒にいるってことだ」と言った。
イツァク・ベントフの「ベントフ氏の超意識の物理学入門」に、一緒にいることで、波動的共鳴が起こり、一体化するという話がある。
そして、一度、波動的関係を持つと、離れても相手に影響を及ぼす。その通信速度は、いかに不思議でも光よりも速いのである(特殊相対性理論により、光速より速いものは存在しないはずである)。
言葉は注意深く、慎重に使わないといけない。
自然に聞こえ、美しい言葉を使うのが良い。
醜い言葉、無駄な話、不要な褒め言葉(良からぬ意図があるのが普通だ)を言う者は不幸である。
シャープという会社の液晶テレビのCMで、吉永小百合さんが「アクオスしましょう」と言う。あんな素晴らしい人に、こんな言葉を使わせることが、日本をいかに汚しているかと思うと、私は悲しみに耐えない。
戸塚ヨットスクールに入学する少年達は、ほぼ全員、無理矢理に連れてこられたのだろうが、指導員の言うことを全く聞かないようだ。
彼らは、「自分には権利がある」「私の尊厳は守られるべきだ」と主張するらしい。
では、この私に権利があったりするのだろうか?
犯罪歴はなく、きちんと税金を納め、経済的にも政府の援助を受けていない私に。
さらに、定額給付金の申請手続きをする気もない私に(単に面倒なだけだが・・・)。
結論から言って、私は、自分に、国によって保証されるべき権利など全くないと思っている。
権利があるから、毎日食べられ、安全に過ごせるのではない。単に、たまたまである。
現実的にそうなのである。別に不満はないが、国家が私の生活や安全を保証するはずがないのは当たり前である。
戸塚ヨットスクールでも、昔であれば、権利を主張する小賢しい甘えたガキには、一発バーンと張り倒して言うことを聞かせ、短期間で更生させることができたそうだ。今はスクールも大変で、更生に必要な期間が余分に必要な分、費用も高くなり、親御さんも大変と思う。
現在は、犯罪者の権利も声高に主張され、刑務所は居心地の良い場所となり、犯罪者は何度でも半永久的に戻ってくる。
江戸時代なんて、実は治安は抜群だった。
当時の牢屋敷の恐ろしさは凄いもので、犯罪をやろうなんて者は、余程の政治力がある大物か、余程の馬鹿かのどちらかに決まっていた。
当時の牢屋敷の実情は公式の記録にはほとんど無いと思うが、そこに入った者が後に文章にしたものが時々ある。その内容は、私も、とても書く気になれない。どんな恐ろしいホラー小説だって平和に感じるほどなのだ。
しかし、そんな牢屋敷の在り様が、確かに犯罪の抑止力にはなっていたのではあるまいか?
自分に何らかの権利があるなんて決して思ってはならない。それが現実と思う。
その現実を受け入れた時に、我々は強くなるのである。
ニートが2歳児なみに弱いのは、自分に権利があると妄想しているからだ。彼らには、自分に権利など無いことを思い知らせるのが一番なのである。
ニートには、自分の愚かな考えを主張する権利も当然ないのである。昔であれば、「一人前になってからモノを言え」が常識であったのだが、そんな常識が通用しないなら、日本は終わりである。いや、既に終っていると思う。
Recent Comments