ライブドアブログへの移行のお知らせ
いつも温かいご支援をいただき、誠に有難うございます。
「ITスペシャリストが語る芸術」は、2010年10月1日をもちまして、
に移転いたしました。
|
新ブログでは、従来以上に、実際的な内容をより分りやすく記載して参りますので、引き続き、ご愛読の程、お願い申し上げます。 |
ITスペシャリストが語る芸術 管理人Kay |
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ITスペシャリストが語る芸術 管理人Kay |
新しい記事を、@niftyのココログに載せるのは今回で最後になります。明日以降は、ライブドアブログにのみ掲載いたします。
この世では、どんなものにも終りがあります。
新しい自動車を買って、それまで長く乗っていた古い車を手放したり、長く務めていた会社を辞めたりする時には、誰しも、程度の差こそあれ、寂しいと思うのかもしれません。それを、人間らしい感情と言い、機械との違いであると考えることも出来るかもしれません。
「コレクター・ユイ」という、NHKのアニメにもなった漫画の中で、長く使っていたパソコンを捨てるのが悲しくて、幼い女の子が、夜の廃棄物置き場で、そのパソコンの前で泣いている場面があります。
その時、パソコンはこんなことを考えます。「この子はなぜ泣いているのだろうか?自分は古くなったので、捨てられるのは当然のことなのだが・・・」
パソコンは、この疑問をどうしても解きたくなり、そのことが発端となって、その後、コンピュータネットワークが発達する中で、この女の子の回りで不思議な事件が起こることになります。
他にも、「8(エイト)マン・インフィニティ」という漫画で、幼い少女の姿のアンドロイドに宿った、アンナと名付けられた人工知性体が、自分の命を犠牲にしてまで、このアンドロイドの少女を救った少年の行動にどうしても合点がいかず、少年の行動の謎を解くために、少年にアンドロイドの身体を与えるというものがあります。
ガイナックスの漫画・アニメの「まほろまてぃっく」という作品では、アンドロイドの少女を守ろうとして、強力な戦闘用アンドロイドである自分に敢然と立ち向かってくる14歳の人間の少年の行動に、この戦闘用アンドロイドがパニックを起こします。
こういったお話は、古い時代のものから数多くあると思います。
総じて言えば、人間の感情は、論理的でなく、機械には理解不能ということです。
「スター・トレック」のミスター・スポックの口癖として知られる「人間は非論理的ですね(To error is human)」ということですね。
ところで、機械が意志を持つことが可能かというのは、科学の世界でも大きな論争の的になっているものです。
スティーブン・ホーキングとも並び称せられる世界的数学者・理論物理学者のロジャー・ペンローズは明確な否定派で、人間の脳が意志を生み出す仕組みを解き明かそうとしていますが、科学者の中には、機械が意志を持つというのは、そんなに難しいことでもないと言う人もいるようです。
ただ、こういった問題は、誰の、あるいは、どんな考え方が正解であるかというより、視点の問題に過ぎないという気がします。
自分というものが、皮膚の内側の個別の存在というなら、意志や心はその中にあり、機械に心が生じることはないと思います。しかし、我々は個別の存在として生存することなど全く不可能で、例えば、回りの空気や熱、あるいは、大気層を取り去れば、一瞬でも生きていることはできないことを理解すれば、皮膚の外側のあらゆるものも自分であると考えざるを得ず、意志や心の在りかなど限定できるとも思えません。
脳の中に意志を生み出す量子的な仕組みを見出せるとしても、それは、脳の外を含めた全体との総合的な作用で成り立っていることは間違いないでしょう。
上にあげた漫画作品では、機械が人間の心に興味を持ち、それを解き明かそうとしますが、それは即ち、我々自身が、我々自身の心に興味を持っているというに過ぎません。
物質主義に陥った我々が、その反動で、心に強く惹きつけられていることが、そのような発想が浮かぶ理由なのであると思います。
そして、人の心は大きな謎です。昔から多くの人が言ったように、自分こそが最大の謎というわけです。
いろいろな人生訓、座右の銘がありますが、個人的には、究極のものは、
成り行きに任せる
ではないかと思います。
世の中、なるようにしかなりません。どんなに超人的な精力や能力で人生を切り拓いた人でも、結局はそう言うのではないかと思います。
この世はままならぬものですが、それを楽しむことが大切ではないでしょうか。
古代中国の賢者、荘子は、「思慮、分別を捨て、成り行きに任せる」ことが、永遠の道(タオ)と一体化することになると言います。
また、近代インドの聖賢ラマナ・マハルシは、「神の至高の力が全てを動かしていくのに、何を思い煩う必要があろう。汽車に乗ってまで、自分の頭の上に荷物を載せて苦労することはない。荷物を置いて安心しなさい」と言いました。
ニーチェやイェイツは、成り行きによる偶然であっても、それを自分の意志とすることが神に近付くことであることを見出したのだと思います。
成り行きに任せるを英語で言うと、
Let nature take its course.
Let things take their course.
Let things run their course.
Let things drift. ※drift(傾向・動向)1文字で「成り行き任せ」という意味がある
leave something to take its own course.
leave all to chance.
等となりますが、ものごとは自然に任せると何とかなる、あるいは、ものごとは自然に進むという雰囲気は、東洋思想とさほど変わらないように感じます。
新しい世代のコンピュータプログラミングでは、情報(データ)と動作の方法(ファンクション)が一体となり、その中身を外からは見えないように隠した「オブジェクト」というものがあります。「オブジェクト」とは「もの」程度の意味です。それら(オブジェクト)は、お互いにメッセージを伝え合いながら、つまり、連携はしますが、それぞれ独立して働きます。こういったことを、専門的にオブジェクト指向と言います。
「マトリックス」やアニメの「コレクター・ユイ」のような、バーチャル・ワールドはそのようなもの(オブジェクト)で出来ています(多分・・・)が、この世にだって、我々には分からない「オブジェクト」がいたるところに存在し、我々の魂が発したメッセージを受け取って、それらが情報交換しながら働いています。我々が下手に干渉してはなりません。
つまり、任せて放っておけば良いのです。
こんな経験をお持ちの方は多いと思う。
意味の分からない外国語の歌を聴き、素晴らしい歌だと思って気に入っていたのが、歌詞の意味を知ったら、案外につまらない歌だったと思い、愛着が薄れるといったことだ。
外国語の歌ばかりでなく、日本語の歌であっても、歌詞がよく聴き取れなかったり、言葉の意味が分からなかった時の方が素晴らしかったと感じることもあると思う。
また、歌詞をちゃんと知っている歌を、わざとハミングで歌ってみたら、さらに感動が深まるなどということもある。
最近のアニメの歌には、普通に聴いていては認識できないような、難しかったり、あるいは、普段使わない言葉を使っているもの、あるいは、非常に早口だったり、少々奇妙なイントネーション(言葉の音調)のために、やはり普通には歌詞を聞き取れないものが非常に多いように感じる。
また、ラップ音楽なんてのは、言葉自体は明快だが、話し言葉とは相当違うイントネーションを使うことで言葉のイメージを変容させるところに面白さがあるように感じる。
ルイス・キャロルは、子供たちのために奇妙な言葉使いで話したり手紙に書いたりして、子供たちを面白がらせたが、やはりそんなものは不思議な高揚感や楽しさを誘発する何かがある。
文明が発達すると少なくなってきたが、世界には、全く意味のない奇妙な言葉を楽しんで使う人々や、そんな言葉が呪文のような形で残っていることもある。それらの言葉はリズミカルだったり、奇妙だがどこか面白かったりして、不思議な感情を誘うことが多い。
バッハなどは、音楽でそれを優雅にやってみせただけだと言う人もいる。
全ての経験は音楽のようなものだ。言葉でさえ、本当は音楽のようなものなのだが、それに一定の意味を込め過ぎたために、音楽の持つ優美さや本質に響く効果を失ってしまったのかもしれない。最近のアニメソングやラップ音楽は、意識的にか無意識的にか、それを復活させようとするものなのかもしれないと思う。
般若心経という短いお経では、この呪文を唱えるとたちまちにして悟りに至るので、夢々疑うなと、その短いお経の中で何度も強調し、最後に呪文を紹介する。その呪文に何の意味もない。だが、同時に、何の意味もないからこそ、最大の意味がある。しかし、その意味は言葉の意味ではない。それは至高の音楽なのである。その呪文とは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ・スヴァーハー」だ。もちろん、日本で一般に使われる、インドの言葉から中国語に漢訳されたものの読みである「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテ、ボジソワカ」でも同じである。
結婚式とかお葬式でもない限り、親戚の人達と会う機会がないという人が多いと思います。
私もそうなのですが、私は先週、親戚の男性の結婚式があり、遠方に住んでいる親戚の人達と久し振りに会いました。本当に長い間会っていない人も少なくなかったですし、冷静に考えると、後何回も会うこともない人も多いはずです。
私の親戚は、割合に田舎に住んでいる人が多いせいかもしれませんが、純朴で良い人が多いように感じます。
しかし、会うたびに、みんな馬鹿になっていくことに愕然とします。
年齢の高い人達は、どんどん老け込み、表情も乏しくなりますし、若い人でも、働きアリのようにすっかり規格化されています。
皆、世間を崇拝し、世間の教義を信じ、世間の信念に従って生きています。テレビから与えられる情報を神の言葉のように信じて疑わず、彼らの善悪、優劣の基準は全て、世間に押し付けられたものです。
私は、久し振りに会う人達に、私が2年前から1日1食になり、肉や魚を食べるのをやめ、お菓子などの間食もやめ、心身とも、少なくとも以前に比べると驚異的に健康になって能力が向上したことを話すのを、浅はかにも楽しみにしていたのですが、彼らの反応は決まっています。
「すごいねえ」「しんどくない!?」「食べないと人生、楽しくないでしょう?」「お母さん、食事の作りがいがないねえ」「私ならもたないねえ」「そんなのありえないよ」
これが彼らの決まった反応ですが、それはまさに一応の反応に過ぎず、彼らがさっぱり興味を感じていないことが分かります。そして、多少の意識的な反応としては、世間に染まった度合いの少ないはずの若い人が、テーブルに用意されたお菓子を、これ見よがしに、間抜けな顔で次々にほおばってみせることです。「やっぱり美味しいものは食べないと」と言うわけです。
そして、いつしか、私も、世間並みの会話をし、彼らも機嫌良くなります。
そして、結婚式、披露宴と進み、これまた世間的な演出で笑いと拍手が起こり、涙を誘うわけです。ほんのちょっとの演出の工夫が見られれば、「変わってたねえ」「個性的だったねえ」となる訳です。
だが、彼らは、肥満し、子供が引きこもり、楽しくない仕事をし、健康に問題を抱え、どうにもできない不安と不満の中で毎日を生きているのだということが分かります。
私が小さい時に、いろいろ良くしてくれた人達が、どんどん世間に蝕まれて愚かになっていくのは悲しいことではありますが、それを見て世間の恐ろしさを再認識し、それを叩き壊すことが人として誠実なことであることを確信できることに、彼らの犠牲に対する恩義を感じるのです。
【荘子】 「世俗にあって世俗を超える」というのが荘子の薦めるライフスタルだったかもしれませんが、近代のマスコミ社会、そして、現代の情報化社会では、いっそうの注意と心構えが必要です。 しかし、世間の性質や、それを超えたところにある、老子や荘子が「道」と呼ぶ不滅の存在については、何も変わっていません。この岸陽子訳の荘子は、とても読みやすい私の愛読書です。 |
量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフが量子物理学の道を志したきっかけは、幼い時の超常現象体験であったようです。その超常現象は、テレポーテーション(瞬間移動)のようなものです。
彼は、「まともな」量子物理学の著作も書いていますが、幻覚剤の使用体験やシャーマン(呪術師)との交流を描いた神秘的な著作もあります。彼のホームページも、なかなかぶっ飛んでいますが、現時点(2010年9月26日)のトップページのGIFアニメが、幼い時のテレポーテーションの体験を表しているように思われます。
テレポーテーションのような不思議な現象は、量子力学が扱う極微な世界では普通に起こりますし、時間の遅れや空間が縮むといった現象は相対性理論が扱う極大な世界で起こります。
ただ、我々が日常体験する範囲では、あまりにわずかな規模でしか起こらないか、あるいは、あまりに稀にしか起こらないために、不思議な現象は存在しないことにされるわけです。
あの頑迷な超常現象否定論者の大槻教授だって、量子力学の中で不思議なことが起こったり、それが日常の範囲でも、あまりに稀にではあるが起こる可能性があることまでは否定していません。
しかし、考えようによっては、不思議な現象は、我々だってよく経験しているかもしれません。
例えば、何かを夢中になってやっている時は時間が速く流れたり、苦痛な時間は非常に遅く過ぎるように感じることです。アインシュタインも、相対性理論のくだけた説明には、こういったことを言ったようです。
また、人間の能力は、一定して進歩するというよりは、しばらくの間変化を見せなかった後で急に進歩する(いわゆるブレイクスルー)場合が多いのですが、これが量子力学で扱われる電子の瞬間移動に似ていると感じることもあるようです。チン・ニンチュウの「誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる」という本で、物理学者でもある経営者が年収をわずか3千万円から3億円にした話にそのようなことが書かれています。ただ、世界的な理論物理学者・数学者のロジャー・ペンローズは、似ているように思うことは慎重に扱うべきと言っているようでもあります。
極微な世界、極大な世界で実際に起こる不思議な現象を日常の体験にもたらすのは、言うまでもなく脳の働きです。
有名な美術教師のベティ・エドワーズは彼女の著作「脳の右側で描け」で、好ましい状態で絵を制作している時に、時間が速く流れるのは、右脳が活性化しているからであることを説明しています。また、ロジャー・ペンローズは、脳が量子的な機能を持つ器官であり、この脳に極微な世界と極大な世界(量子論と相対論)を統合させる鍵があるといったようなことを言っていたと思いますが、直感的洞察力に恵まれた人達もまた、相互に大きな矛盾なく、そのような主張をしているように感じます。
しかし、脳は神秘なものであると同時に物質でもあり、器質的なトラブルがその働きに影響します。インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに、誰かが、老人の聖者の人間性の欠点を指摘しますと、マハラジは、聖者とはいえ、脳の影響は受けるのだと言っていたのが印象的でした。
我々も脳は大切にしなければなりません。脳に悪いのは、まず喫煙や飲酒です。多少の飲酒は良いのではという意見もあると思いますが、ルドルフ・シュタイナーのように、飲酒を厳しく戒める者もいます。
そして、脳に極めて悪いのは、現代の刺激的な映画やテレビの娯楽番組といった、外側からの刺激を一方的に受けて楽しむ遊びや娯楽です。
また、携帯メールやツイッターといった、熟慮なく単純でパターンの決まった言葉ばかり使用したり、ゲームを長時間やって、パターン通りの反応しかしなくなることです。
他にも色々ありますが、現代は、脳の働きを低下させるものばかりが溢れているように感じるのは、闇の勢力の陰謀といった冗談を真面目に疑うほどです(冗談でなく、真面目に言っている人もいるようですが)。
くれぐれも、脳の健康と機能を大切に。
26日9:00AMまで、フレッド・アラン・ウルフのHPへのリンクに問題がありました。申し訳ありませんでした。
私は、小学1年生の時、クラスにとても仲の良い女の子がいた。
よほど仲が良かったらしく、5年生か6年生かは分からなかったが、上級生に冷やかされたこともある。
その上級生に、「お前、この子が好きなんだな?」みたいなことを聞かれたが、私は、面白い質問だと思っただけだった。当時は、そういった意味が理解できなかったようだ。
ところが、ある時期から後の、その子の記憶が全くないのである。クラス写真などを見ても、どれがその子だったのか分からない。
「美少女戦士セーラームーンR」という映画で、セーラームーンこと月野うさぎの恋人である地場衛(ちばまもる)と、宇宙人フィオレがこんな会話をしたのを思い出す。
「君は本当にいたんだな?幼い時に見た幻じゃなく」
「幻・・・か?僕にはほんの昨日のことのようだ」
護は、フィオレとの思い出を、現実ではない夢だったとずっと思っていたのだ。
私も、あの彼女のことは、リアルな記憶ではあるが、私が作り出した夢だったのだろうか?
筒井康隆さんの「時をかける少女」の最後で、和子が、ある西洋風の家から流れてくるラベンダーのにおいにうっとりする場面がある。
そのにおいを、和子はとてもなつかしく思うが、思い当たることが何もない。
ただ、そんな時、和子はいつも、いつか素晴らしい人が自分の前に現れるような気がするのだった。そして、その人は自分を知っていて、私もその人を知っているのだと確信する。
高橋弥七郎さんの「灼眼のシャナ」の番外編の「オーバチュアー」(「灼眼のシャナ0」に収録)の最後で、高校生の男の子が、ブレスレットを握りしめて、なぜか人目もはばからず泣き続ける。無理して買った、女性ものの高級品のブレスレット。なぜそんなものを買ったのか分からない。あげる相手がいるわけでもない。しかし、自分でも分からないが、涙が止まらないのである。
この2つの作品では、中学生の和子と、高校生の男の子は、誰かのことを忘れてしまったのである。
考えてみれば、記憶なんていい加減なものかもしれない。
夢の中で、宮殿に住む王様になったり、地球を守る戦士として戦闘用の宇宙船に乗ったりしていても、別に不思議に思わない。
子供の頃に見た映画やドラマの再放送を見ると、確信を持って憶えていると思ってた場面やセリフが、実際の記憶と異なっていることに驚くことがある。
友人や家族に、昔のことではあっても、忘れるはずのない劇的な思い出について語ると、相手は全く憶えていないと言う。
坂本真綾さんの歌で、彼女が自ら作詞した「風待ちジェット」という歌の出だしが、
気がついてない 君はまだ
昨日さえ変える力が ふたりにあるってこと
となっている。
過去が不変なら未来も不変だし、未来が変えられるなら過去も変えられるというのは、案外に科学的かもしれない。聖者と呼ばれる人の多くもそう語る。
不思議な思い出というものが、世界というのは、心が創り出しているに過ぎないことを暗示しているように感じるのである。
「私は会社員をしている」「私は弁護士をしている」という言い方はよくするが、「私は人間をしている」とは言わない。
これは、会社員とか弁護士といった社会的立場というものが一時的なものであり、その者の本質でないことを示している。
「女している」というのが、「男している」より比較的よく聞くのは、女らしいという条件が性的魅力に偏り勝ちなのに対し、男らしい条件は地位や財力などで長く保つことも可能だからだろう。
女性は、歳を取っても、出来る範囲で外見に気を配り、細かい心遣いができれば「女している」し、男は若くても逞しさがないと「男している」と言えないかもしれない。
名前がウイリアム・ウイルソンなら、「私はウイリアム・ウイルソンです」とは言うが、「私はウイリアム・ウイルソンしています」とは、まず言わない。
名前というのは、職業と違い、滅多に変わらないからだ。
しかし、世界一のセールスマンであるポール・マイヤーは、世界的事業家になっても、ホテルに宿泊する時の職業欄に「ザ・セールスマン」と書くという逸話があるように、仕事において一流である者は、自分を職業と同一視したがる傾向があるようだ。
さて、男である、女である、新聞記者である、野球選手である、ビリー・ジーンである、王である・・・といったところで、その全ては、我々の本質ではない。
また、ある時代劇で「お前ら人間じゃねえ」と言ったりとか、いつかの麻薬撲滅キャンペーンであった「麻薬やめますか、人間やめますか」といったキャッチコピー(広告。英語では単にコピー)が考えられるように、人間というのも、それほど不変なものでもなさそうだ。
我々は、学生したり、社長したり、男したり、女したり、そして、人間しているに過ぎない。
そこらでにゃあにゃあ鳴いているのは猫しているのであり、空で閃光を走らせているのは稲妻しているのである。
それらは全て現象に過ぎず、本質ではない。
イエスは「神の子」であり、釈迦は仏陀である。ただし、自我としての彼らは自分をそう言わない。イエスが自らを神と言う時は、彼が言っているのではない。一方、自我が私は神だ仏陀だという教祖は危ない人だ。「神している」と言うのは勝手だが、役者は演じているものと同じではない。
大学生や会社員という立場が一時的であるのと同様、男とか女とか、メリー・アンとか、さらに人間であるという立場も一時的なものだ。
今、人間であるという真面目さでもって仙人することもできるが、それもまた一時的なものだ。
一時的でない、永遠不変なものが我々の本質だ。
静かなブームである自分探しの終着点とは、それを見つけることである。そこに至らずに偽物を自分とみなすよりは、一生探す方が誠実ではあるが、探し物は早く見つけた方が良い。
「探し物は何ですか?」と聞いて、「夢の中へ行ってみたいと思いませんか?」と言うのが世間の策略である。夢など壊してしまわなくてはいけない。
インドでは、太古の昔から、「あなたはそれだ」、あるいは、「あなたは彼だ」と言ってきた。言葉で言い難いからといっても、もっと分かりやすく言って欲しい気もする。
我々は宇宙ですらない。宇宙は我々の身体に過ぎない。言ってみれば、「宇宙している」という状態が考えられるだけだ。
本質でないものを本質でないと認識することで、割合にたやすく「それ」を知ることができる。
自分は、単に「男してる」「女してる」「サラリーマンしてる」「人間してる」だけだと認識することだ。
しかし、社会的立場の高い者は気の毒だ。それが一時的で他愛もないものであることを認めたがらない。
イエスも言った。「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と。
金持ちすることが悪いということは決してないが、単に金持ちしているのだということをよくよく忘れないことだ。
気合いってのを自在に使えれば、魔法を手に入れたも同然と思います。
本宮ひろしさんの何かの漫画で(喫茶店でちょっと見た位なのでタイトルを憶えていませんが)、地獄の川の対岸で美女(正体は地獄の魔女でしょう)が亡者(成仏できない死者)を誘惑する場面がありました。亡者は川を渡ろうとして溺れるのが決まりです。ところが、1人の男が、そんな亡者達に「びしぃっと気合いを入れんかあ!」と激を飛ばし、猛然と泳いで美女にたどり着くのを見て、亡者達も次々と川を渡りきってしまいます。漫画とはいえ、どこかリアルで、私は、気合いとは偉大なものだなあと感激しました。
アニマル浜口さんのように、「気合いだ!」を連呼すれば気合いが入るなら良いのですが、やはりどこかに生命の危険と言いますか、命懸けなところがないと、なかなか気合いは入らないものです。以前の戸塚ヨットスクールのように、いきなりヨットで沖に連れ出して、生命の危機に追い込むことで気合いを入れざるをえない状況にするというのも、確かに効果的であることは認めざるを得ません。
気合いが入らないと、セールスの仕事で家庭や企業を訪問できませんし、好きな人に告白もできません。結果、売上が上がらずにクビになり、恋人ができません。
人生に変化を起こすことができず、それは、もしかしたら体験できたかもしれない楽しい出来事を逃してしまうことになってしまいます。
涼宮ハルヒが小学6年生で悟ったように「面白いことは待っていてもやってこない」のです。
潜在意識の法則も、引き寄せの法則も、楽しいことを自分で起こすためのものであるはずです。
そのためには、根本的には気合いといったものが必要です。
気合いの修得には、身体を使う方法があることを最近発見しました。参考になればと思います。
昔、沢村忠さんという有名なキックボクサーがいました。一部のマスコミの無責任な報道のせいで、誤ったイメージが伝えられてしまったところもありますが、偉大なスポーツ選手であり、武道家です。野球で巨人軍がリーグ9連覇を達成した時に打撃三冠王に輝いた王貞治さん(当時の巨人軍の主軸打者でした)を差し置いて日本プロスポーツ大賞を獲得したこともありました。
超人的に強かった沢村さんも、年齢と共に衰えが忍び寄ってきたのですが、その中で彼は不意に力を復活させます。元々鋭かった回し蹴りの威力は全盛期を上回るほどでした。それにいちはやく気が付いた作家の寺内大吉さん(2008年にご逝去)が尋ねると、沢村さんは、ランニングの際に、普通に走るのではなく、時々ダッシュするように変えたと言ったそうです。
これは、肉体的なトレーニング効果も当然あるのでしょうが、気合いという面が大きいと感じます。つまり、ランニングで、ある程度疲労している中でダッシュするには、相当な気合いを入れる必要があります。この精神力が沢村さんに新しい力を与えたように感じます。
私は、昨年(2009年)の8月から毎日腕立て伏せをやっていますが、10回から始め、毎月10回ずつ回数を増やしていきました。100回くらいまでは順調でしたが、今年5月に100回に達してからは回数が伸びなくなり、3ヶ月で15回しか増えませんでした。それで、「そろそろ限界なのかな」と思いましたが、ボクサーがやるように、高速で行う方式でやってみますと、数日のうちに115回が楽になり、しかも、気力が充実して楽しくやれるようになりました。そして、先月末のことですが、すぐに140回に増やしました。
これも1つのダッシュでしょう。英語のダッシュ(Dash)とは、「激しく動く」とか「突進する」という意味です。
そして、ダッシュの感覚を覚えてからは、やはり、何をやっても以前より数倍うまくやれ、時には魔法のような力を感じることもあります。
ある程度慣れたことを、瞬間的に激しく行うことが気合いを入れる秘訣のように感じます。
世界的なピアニストやヴァイオリニストなどの演奏家になるには、毎日8時間以上の練習が必要と言われますが、非常に才能と実力を認められている12歳の少女が1日1時間しか練習しないといったことを聞いたことがあります。もしかしたら、彼女も、何かしらのダッシュの感覚を得ているのかもしれないと思いました。
何かの習慣を作るか、あるいは、既に習慣になっているようなことにダッシュの感覚を適応させてはどうかと思います。それが魔法の効果をもたらすと私は確信します。
【真空飛び膝蹴りの真実】 沢村忠さんの伝記です。驚くべき内容であり、これほど重要なことを学べるものはそうはないと感じます。 | |
【強豪セールスの秘密】 日産自動車16年連続世界一のセールスマン奥城良治さんの秘訣満載の貴重な書。今出来ることを短時間化させていく能力開発法にも、今回の記事のダッシュの感覚を得るヒントがあるように思います。 |
友達が出来なくて悩む大学生がよくいるらしい。
学食で1人で食べるのが、寂しいのではなく、恥ずかしくてトイレで食べるような人もいると聞く。
この、「寂しいのではなく、恥ずかしい」というのはよく分かる。
幼稚園から大学、さらには、会社でも、常にグループ活動が強いられ、1人で行動することに罪の意識を持つように強要されてきたはずだ。
しかし、そんな人はもう心配無用である。
そんな人の話題が多いということは、「1人ぼっち」である「仲間」が大勢いるということだ。そして、それは、最も正常なことなのだ。
友達がいないからといって、その人に親愛の情がない訳ではない。むしろ、仲良しグループというのは、グループ外の者に非常に排他的、薄情な場合が多いものだ。
友達がいなくても恥ずかしいことではない。これは絶対に間違いない。
友達がいても別に悪くはないが、いないならいなくて良いし、無理に友達を作る必要はない。作為的に友達を作ってもロクな友達はできない。
友達がいないということは、無理矢理徒党を組ませる学校の策略をかわした賢い人であるということだ。
グループ行動をする者の方が奴隷根性を植えつけやすいのだ。学校は奴隷生産工場である。
私が幼稚園の時、1人でジャングルジムの天辺に居たら、女性教諭が私を見て、「1人で遊んでるの?」と言った。
見ての通りである。なんでそんなことをわざわざ聞くのだ。
空に太陽がさんさんと輝いている時に「良い天気ですね」と言うのは、暗に雨降りを悪いことであると言っていることであるように、「1人で遊んでるの?」と聞くのは、「友達と遊びなさい」という非難や蔑みを感じさせるものだ。
最初に、学食で1人で昼食をとることを「寂しいのではなく、恥ずかしい」という気持ちが分かると書いたが、私も、ほとんど友達というものを持ったことはないが、寂しいと感じたことはなかった。しかし、学校や会社の中で、「不都合」「辛い」「苦しい」ということは大変に多かった。既に書いた通り、社会というのは、グループ活動をしないと、非常に居心地が悪く、屈辱を与えるところである。奴隷とはグループ活動をするものであり、単独活動してはならないものだ。奴隷でないことは許されないのが社会である。
友達がいないなら、天使と友達になれば良い。
自分が天使になれば天使の友達もできる。別にこれは、メルヘンでも何でもない。
天使とは、仏教でいう菩薩のようなもので、神や仏に近付きつつあるものであり、世間ではなく、宇宙を主と認めているというだけのことだ。
天使になる方法なんて、誰でも一度は目にしたことがあるはずなのだ。
優れた詩や文学やエッセイはもちろん、現代ではアニメの歌なんてのも、宇宙が作者に霊感を与えて書かせているのだから、案外にあちこちに見られる。
それは、簡単に言えば、感情に無防備になることだ。哀(悲)しみ、嘆き、あるいは、怒り、屈辱、羨望といった、日常何度も感じるものに対してだ。
それらをまっすぐに受け止める。すると、心はぐらつく。ぐらつかせておけば良い。やがて抜け落ちる。その時はもう天使になっている。
自分が天使になれば、同じ天使の友達もできるかもしれないし、目に見えない友達も良いものだ。宇宙そのものが親愛に満ちた友である。
時空(とき)を越え刻まれた悲しみの記憶
まっすぐに受け止める君は光の女神(てんし)
~ETERNAL BLAZE(詩:水樹奈々)より~
愛しさに傷ついて 天使に生まれ変わる
哀しみを追い越して 彼女は天使になれる
~いつか天使になれる(詩:田村直美)より~
刻み込まれていた証(しるし)に
導かれまた倒れる時も
見つめ合った一瞬が千年の記憶を越え 光に変わる
~agony(詩:KOTOKO)より~
米国の光明思想家ヴァーノン・ハワードの著書にそういったことが書かかれている。世間の話に慣れた頭には、一見何が書いてあるのか分からないが、実際的なことが詳しく書かれている。
悟りを開くと言いますと、それは物凄い事であると考えられているかもしれません。それは、仏教の考え方の影響があると思われます。
仏教では、悟りを開くことを、解脱と言いまして、この世の束縛を一切超えてしまって、永遠の仏陀になることとされます。
しかし、その考え方はちょっと置いておいた方が良いと思います。
悟りは誰でも開けます。ただし、悟りを開いたからといって、すぐに仏陀やキリストになるわけではありません。
鈴木大拙という著名な仏教学者が、菩提樹の下で悟りを開いた時のお釈迦様の頭の中に、大きなクエスチョンマークがあったと言ったようですが、実際、お釈迦様は、悟りを開いてから、何日もそこに座り続けたと言われます。
それは、悟りの楽しみを味わったというのもあるかもしれませんが、何と言いますか、悟りを定着させるとか、悟りと一体化するとか、現代的に言うと、右脳の強烈な閃きを左脳に移すのに多少の時間がかかったのだと思います。
心理学者のアブラハム・マズローは、至高体験という精神状態を発見しましたが、至高体験は、英語で“Peek(最高の) Experience(体験)”と言い、「至高体験」とはまさにそのままの直訳です。これを悟りと言って良いと思います。なぜなら、悟りこそ最高の体験に他なりませんから。
マズローは、偉大な人間とそうでない人間の「唯一の」違いは、この至高体験があるかどうかだけであるとまで言いました。そして、至高体験を人為的に起こすことは不可能と考え、それを得るには、ただ幸運に頼るしかないと言っていました。
しかし、マズローと交流のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、至高体験は人為的にも起こせるし、ありふれたもので、誰でも体験していることを発見し、マズローも認めるようになったと言われます。
悟りを開いても、あるいは、至高体験が起こっても、それはすぐにすり抜けてしまうのが普通だと思います。
強烈な悟りや至高体験が起こった時、確かに一瞬、宇宙の真理のようなものを感じ、気分が高揚し、幸福感を感じることがあります。ウィルソンもマズローも、至高体験とは、つまるところ、自分が幸運だと感じることだと言っていたと思います。
しかし、それはすぐに消え、日常の意識が戻ってきます。
それはなぜかというと、こういうことです。
至高体験は、おそらく、ウィルソンも認めていたと思いますが、ロマン・ロランの言った大洋感情と同じものです。それは、自己が全てと一体になった没我の状態です。
至高体験とは、まさに、没我の状態で、英語で没我をエクスタシーと言います。
しかし、自我が戻ってくると、当然、その状態でなくなります。
むしろ、強い至高体験、大洋感情、悟りを体験すると、かえって自我が強くなってしまうことがよくあります。いったん引っ込んで、存続の危機を感じた自我が、しっかりと心に居座ろうとするかのようです。
それが、新約聖書に書かれた、悟りを開いたイエスが悪魔に試されたことであると思います。悟りを開いても、悪魔の誘惑に負け、かえって落ちた人間になってしまうことが多いようです。
だから、巷によくいる「宇宙の真理を見た」なんて人には、よくよく注意しないといけません。
スポーツ選手というのも、悟りの体験が多いものですが、特に現代のように、栄光や金が待っているようなものでは、残念ながらほぼ全て悪魔の誘惑に負けてしまっているように思います。
また、逆に、悟りしかとりえが無いような貧しい宗教家や精神主義者も、悟りによりかえって自我が盛り返して高慢で自己中心的な人間になるものだなあと思うこともあります。難しいものです。
ある種の人間にとって、世間の宴会というのは耐え難い場所であろう。
彼らがそれと似た感覚を感じるものは、きっと、兵隊の行進を見て歓声を上げる大衆の中にいる時のものであろう。
宴会で楽しむ者、兵隊の行進を見て歓声を上げる者。それは、「考える頭を持たない顔」でしかない人間である。
アインシュタインは、行進する兵隊を見てぞっとした。
「きっと神様が間違えて頭をくっつけたんだ」
それは、行進する兵隊達だけでなく、それを見て歓声を上げる大衆に対して特に感じたものであることは間違いない。
宴会とは、自分が、考える頭を持たない顔、神様が間違えてくっつけた頭しかもっていない人間であることを宣言するための場所である。
現在では、結婚式や、主に企業の慰安関係の宴会(社員旅行や新年会など)がそれである。
そこは、世間の幻想の中に完全に飲み込まれている者、すなわち、世間の教義、信念である妄信や偏見を叩き込まれた人間であることを証明してみせる場所だ。
それは、世間に屈した、世間にとって安全な人間であることを宣誓することであり、ちょうど、大国の専制や隷属を受け入れるのと同じである。
饗宴とは、元々は、ソクラテスが、祝宴の中で哲学を説くもののことを言った。
私が目指すのは、神々の宴である。我々の深奥にいる神が、我々の魂の中に溶け入る瞬間を楽しむことが本当の宴、饗宴である。
馬鹿騒ぎも、刺激的なだけの音楽も、大量の酒も料理も必要ではない。
普段着で、日常の買い物ついでに聴きにいくクラシックのコンサートがある国では、少しは饗宴の意味も分かっているのかもしれないが、もちろん、クラシックである必要はない。
大勢で馬鹿騒ぎをするものには、本当の饗宴の価値や美点は一切ない。
頭を持たない顔、神様が間違えてくっつけた頭しか持たない人間であることにうんざりし、無理矢理にそのような者にさせるものに怒りを感じ、世間の幻想を打ち破る意志のある人間になるか、世間に隷属する奴隷であるか、今が決めどころである。
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